日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

漆黒のガラス瓶

一度は飲んでみたいと思っていた。しかしそれは如何にも古めかしく、それを飲んでしまったら古い価値観を受け入れたことになる、そんな風に思っていた。

父親は昭和一桁代の生まれだった。戦争が終わった時には十五歳だから戦争の中を過ごしたことになる。彼からその当時の話を聞いたことはない。香川県中部という比較的長閑な場所に住んでいたのだから戦火にあまり会わなかったかもしれない。一方で、戦時下の教育を受けているのだから、あるいは自分も潔くお国の為に身を捧げるのだとでも思っていたのかもしれない。

自分は父親が三十三歳の時に生まれた。そんな昭和三十八年と言えばどんな時代だったのだろう。ネットを見れば情報は幾つもある。それは自分の色あせた記憶を裏付けるものでもあった。戦後の混沌は過去のものとなり経済が急速に伸びていく。テレビを始めとする家電製品が普及した。空には広告を描いた飛行船が浮かび、アドバルーンが百貨店の屋上から上がっていた。子供たちはどこにでもある原っぱで遊んでいた。サラリーマンという単語が生まれたのもこの時期だろうか。茶色い重たそうな電車に誰もが乗って東京へ通っていたのだろう。父もそんな一人だった。朝起きたら彼はもう居なく夜遅くに帰ってきた。家の近くがバスの停留所の終点であり、バスの向きを変えるために車掌が笛を吹いて誘導する。その音が聞えたら僕は姉と家を飛び出し、父を迎えに行った。太って背が低い彼は傍目にも直ぐにわかった。しかも多くの場合、彼は千鳥足で手には寿司折をぶら下げていた。まるでダルマさんが今すぐにでも転がりそうにこちらに向かってくるのだった。

父は電機メーカーで発電機用の機械を電力会社に売り込む営業をしていた。仕事柄彼は毎晩の如く接待があり、寿司折はその宴席の余りを箱にでも詰めてもらったものだった。戦時中のもったいない精神のせいか、果て無く続く宴席か、彼がダルマ様のような体形になった理由は今思えば納得もつく。そんな彼は自分が十二歳の時に狭心症で駅構内で倒れた。ハイライトを一日二箱吸うような喫煙者だった。糖尿病と狭心症がその後の彼の友達となってしまった。

父親とは息子にとって面倒臭い存在と言うが、彼は殆ど自分に注文を付けなかった。ただ、勉強をさせるように、と母に申し付けていた。しかし自分が大学生の頃になると変化があった。僕は彼を「滑稽な生き物」と思うようになった。朝から晩まで仕事で、やりたくもない接待ゴルフに文句を言う。おまけに彼の短気が傍目に見て不愉快だった。ダルマの様なくせに何をやっているのだ、全くダサいなと。時に喧嘩もした。怒りで僕を蹴ろうとしたのだろう、その足は空を切り壁にぶち当たった。骨折をした彼は数か月ギブスと松葉杖で会社に行っていた。

息子の父に対する感情は変化する。好きだったはずなのにやがて面倒くさい、うるさい、軽蔑。がそれも変わった。社会人になり結婚して我が子を持った。もう社会から身を退いていた彼は柔和なお爺さんだった。そしてまた自分も父と同様に短気なダルマだった。勤勉さと几帳面、負けず嫌いを除いて容姿・性格は丸写しだった。孫を初めて見た日に、彼は僕が付けた娘の名前を半紙に筆を使い記してくれた。鯛のお供え物の横にそれを置いた。その時に感謝が湧いた。

家ではめったに酒を飲まない父だったが何故だか家にはウィスキーボトルがあった。黒くて丸い瓶だった。それは通称「だるま」と呼ばれるウィスキーだった。だるまは自分にとり激烈サラリーマンを想像させる酒となった。学生になり自分も酒を飲むようになってしばらくはウィスキーは美味しく思えなかった。しかし今ではチビリチビリと楽しむ。千円を切るようなバーボンやスコッチだ。ウィスキーはある年齢まではその美味さがわからないのかもしれない。

糖尿病がもととなり彼は老人施設に入り帰らぬ人となった。三回忌が来年だった。後悔が湧いた。いつか夢見ていた。駅前の焼き鳥屋あたりで二人で飲んでみたいと。果たせなかった。

自分に初孫が生まれたのは先月だった。あと数年長生きしていたら彼にひ孫の顔を見せられたのに、と悔しかった。買い物に行った酒屋で僕は何故だろう「だるま」を手にしていた。漆黒の丸いガラス瓶。ずしりと重いと期待したが意外に軽かった。それを口にしたときに初めて僕は心から思った。ああ、これが親父の好きな味だったのか。ようやく僕にもそれがわかるようになった。僕もとうとうオジイチャンになったよ。

…何故だろう、黒い瓶は滲んでしまった。

黒い丸瓶は通称「ダルマ」と呼ばれている。1950年発売という。父親の記憶とそれはつながっていた。