
マジギレ龍勝院ちゃん
かつて大名は複数の妻を持ち、たくさんの子供を残すことで家の存続を図った。妻たちは子を産むだけでなく、外交的・政治的役割も担っていた。
しかし、時代は変わった。現代において浮気は重罪。圧倒的正ヒロイン龍勝院ちゃんの浮気調査が始まる...
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目次
では、始めますわ♪

今回は「愛知県史資料編11織豊1」[1]を調査し、そこに収録されていた武田勝頼の書状を取り上げる。
天正3年5月21日、東三河の長篠で武田勝頼こと四郎様は織田信長・徳川家康連合軍と激突した。織田信長の養子の娘として武田勝頼と結婚した龍勝院が”もし”生きていたら...この戦いは起きなかったかもしれないが、長篠の戦いの3年前に龍勝院は死去している。
...止められませんでしたわ。

さて、長篠の戦いにおいて大敗を喫してしまった武田勝頼こと四郎様なのだが、

あっぱれ四郎様
実は決戦前夜に長篠の陣から甲斐にいる女性に向けて手紙を送っていたことが知られている。
...そんなことしているからですわ。

今回はその書状について紹介しよう。
甘々ラブレター!?
まずは肝心の手紙の中身だが、
返々、ちかき此、御きけんいかゝ候御いり候や、
あさ夕めん〱、かならす〱、
ゆたんなくくすりをもちい候てもつともにて候
くハしく申たく候へ共、とりみたし大かたならす候あひた、
さう〱、以上、まいり候、
此ほとハ御をとつれも候ハす候、きけんいかゝ候や、
これのミこゝろもとなかふおもひ候へく候、
うんきの事に候あひた、ゆたんなくようしやうもつともにて候、
さひわいほういん、そこもとまいり候間、
うちをかすくすり御もちひ候へく候、
又こゝほといつかたもそんふんのまゝに候、
なかしのもほんいのほとあるましく候、こゝろやすかるへく候、
なおこのほとのきけんいかゝ〱きかまほしく候、
くハしく返事まち入申候へく候、
三かハなかしのより かいにて かつ頼
こうへ まいる
愛知県史より[1]
まとめると、「最近会いにいけていないですが、ご機嫌いかがですか?長篠のことはうまくいっているから心配いらないので、医者(ほういん)が出す薬をちゃんとつかって養生(ようしやう)してください。具合について詳しく聞かせてください。お返事お待ちしております」といった感じだ。
(イライラ)

気遣いのできる「モテ男」ムーブをかましているのである。
「必ず必ず」と繰り返してるのがムカつきますわ。

確かに念入りである...。
「こう」についての考察
さて、この手紙の宛先の人物「こう」について少し考察してみる。まず勝頼と龍勝院の間には長男信勝がいる。勝頼にはほかにも何人か子供がいるが、正室の子はこの信勝のみとされている(後妻の北条夫人との間には子供がいなかったとされている)。「こう」は天正3年時点で体調を崩しているのがこの書状からわかるため、これより数年前には勝頼と「関係を持っていた」可能性および、他の子どもたちを生んだ可能性が高い。つまり、龍勝院が生きている間に側室になった、あるいは「関係をもっていた」可能性が最も高い人物と考えることができる。今後とも調査が必要である。
要注意人物ですわ。

まとめ
今回は長篠決戦前夜に掛かれたと推測される勝頼のラブレターを紹介した。今後も「浮気調査」と銘打って武田勝頼について調査をしていく
本企画では「浮気調査」と銘打っているが、あくまでも現代人の価値観を適用したに過ぎないことはご了承いただきたい。この当時として側室を持つのは自然なことであり、また、正室が側室を許可するのが通例であるから、現代の浮気とは全く性質の異なるものである。
その上で、勝頼の優しい気遣いのできる一面を知っていただけたら幸いである。
ただし龍勝院ちゃんがブチギレなかったかと言えば、そうとも言い切れないのである。

参考文献
[1]愛知県史編さん委員会 編. 愛知県史 資料編 11(織豊 1), 愛知県, 2003.3. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004141166