親魏倭王のお部屋

noteで活動中の元学芸員・親魏倭王の雑記帳。広報も兼ねています。

昭和40年代「画期」論

ブログ開設から約半年、体調次第で快調に更新していたかと思えば、長期間滞ったりしていました。小説の書評を中核にしつつも、いろいろなものを取り上げるので、全体にまとまりがないブログですが、こんな感じの運用を続けていこうと思います。

最近読んでいた堀一郎先生の『聖と俗の葛藤』は、堀先生の晩年の論考を収めた一冊ですが、いろいろと考えさせられる記述がありました。今回はその中から、「紆余曲折」というエッセイの記述をベースに考えたことを披露したいと思います。

昭和40年代はひとつの「画期」だった?

堀一郎先生の『聖と俗の葛藤』の中に「紆余曲折」というエッセイが収録されている。先生の経歴と研究テーマ、スタンスなどが語られているが、その中で注目したいのが「村自体がいま解体過程にある」という一文である。このエッセイは、初出一覧によると昭和44年の発表で、僕が漠然と考えていた「昭和30年代と40年代の境目あたりに画期があるのではないか」という推測が裏付けられたようなかたちになっている。

これは宮本常一先生の『忘れられた日本人』や『庶民の発見』、赤松啓介先生の『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』などを読んで「もしかしたら」と思ったものだが、同時に母と話していて、母の回想からも先述した時期に画期があるのではないかと思ったのである。

昭和40年代は高度経済成長の後半にあたり、いわゆる「いざなぎ景気」の時期である。その後、オイルショックによって経済は暗転するが、生活文化の面では家電が大衆にも手が届くようになり始めた時期らしく、都市文化が田舎のほうにも波及して、生活文化が徐々に均一化し始めたと見てよい(このあたりは秋葉原電気街振興会ホームページの記述に基づく)。

そうした中、高取正男先生の『民俗のこころ』によると、田舎では私生活の部分では長らく不便な状態が維持されていたようで、ハレとケの曖昧化を避けようとしたのではないかと先生は見ておられたようだ。

ちょうどこの時期を境に、坪井洋文先生(稲作文化中心の研究姿勢への異議)や宮田登先生(都市民俗学の開拓)らが民俗学の新潮流を確立されていくのが興味深い。

考古学では開発に伴う発掘調査ラッシュで、埋蔵文化財行政の画期と言えるか。

今回はこの辺で。皆様、よいお年をお迎えください。