親魏倭王のお部屋

noteで活動中の元学芸員・親魏倭王の雑記帳。広報も兼ねています。

読書記録:死が二人をわかつまで

『死が二人をわかつまで』ジョン・ディクスン・カー

「彼女の本名はジョーダン。毒殺犯なのだ」

“古きよき時代”ののどかな探偵物語

 どこかロマンチックなタイトルに魅かれて買ったといえる。密室の巨匠J・D・カーの作品では大体中期のものになるが、相変わらず密室にこだわっている。この頃になると、カーは完全にイギリス人化していたようで、登場人物がアガサ・クリスティーのそれに近くなってくる。最も、描き方はカーのほうが荒削りなのだが、殺人事件をも遊び道具にしてしまう茶目っ気は共通しているのではないだろうか。クリスティーは上品でカーは下品(褒め言葉として受け取って欲しい)という、その違いだけだろう。

 ただ、カー持ち前の怪奇趣味が、この頃になると類型化しておもしろくなくなってくるのである。本書もその例に漏れず、初期作品の『魔女の隠れ家』に比べるとおどろおどろしい雰囲気はまったくない。ただ、全体的に重い雰囲気が漂っているというだけなのだ。しかし、カーの密室好きはまったく変わっておらず、本書もまた密室モノである。本書の密室トリックはとりわけ機械的で、あまりにも複雑なためいまだに理解できていない。実行可能なトリックとは思えないが、ひとつの劇として本書を読むなら気にならないだろう。

 話は変わるが、推理小説には「劇」のイメージが濃厚だ。それは、黄金時代の作品や近年の本格ミステリーに顕著だが、舞台を現実から切り離し、ある枠の中で物語を構成するのである。推理小説は小説の中でもとりわけ起承転結が整っているのだが、これも劇の構成と共通している。劇を意識した作品にエラリー・クイーンの『Yの悲劇』があるが、本書もまた劇のイメージが強い。作品世界を舞台、登場人物全員を役者として捉えるなら、リアリティがどうのこうのという批判は一切当たらなくなる。推理小説はあくまでも論理パズルであり、登場人物は読者のためにそれぞれの役を演じているに過ぎないのである。作者の多くもそれを意識していたに違いない。無論、これは本格ミステリーの世界だけの話だが。

 本書は、初期のカーの作品からすると地味なものだろう。だが、カーも円熟期に入ったらしく、登場人物の相関関係に筆を割くようになっている。しかし、解説で指摘されている通りカーは人物描写が下手で、どこからどう見ても全員が役者なのである。本書の場合、存在感があるのは探偵役のフェル博士しか居らず、初期に比べると登場人物の類型化がひどくなっている気もする。しかし、本格ミステリーの高尚化と前衛化が進む現在にあって、カーのような娯楽的推理小説は貴重である。ひとつの劇として、古き良きイギリスを楽しむのもまた一興ではないだろうか。