親魏倭王のお部屋

noteで活動中の元学芸員・親魏倭王の雑記帳。広報も兼ねています。

新年の挨拶&私の好きな映画

新年の挨拶

あけましておめでとうございます。内容が多岐にわたるため、なかなか本質をつかみにくいブログだと思いますが、本年もよろしくお願いします。

この2年ほど、適応障害から派生したらしい自律神経失調症に悩まされ、社会復帰も見通しが立たない状態ですが、このままズルズルと過ごしているのもよくないので、何らかのアクションは起こしたいところです。何より、体力を回復させないと。

現状、気ばかりが焦って「思い」と「体調」の間に乖離があり、それで逆に泥沼へはまってしまったところもあって、気長にやるしかないなと思っています。これまではあえて避けていましたが、頼れるものは積極的に頼ろう。

私の好きな映画

以下はTwitter(X)読書垢へ投稿したものの転載です。

ジョンストン・マッカレーの代表作『快傑ゾロ』は反体制派の義賊であるゾロが在地貴族の権益を守るために植民地総督と戦う物語だが、キャラクターの魅力ゆえ、原作の枠を超えて繰り返し映像化されてきた(驚いたことに、原作は単行本一冊で完結している)。

その数あるゾロの中でいちばん好きなのが『マスク・オブ・ゾロ』で、アンソニー・ホプキンスが初代ゾロを、アントニオ・バンデラスが2代目ゾロを演じている。

物語は植民地時代末期のカリフォルニア。義賊ゾロとして二重生活を送っていた在地領主のディエゴ・デ・ラ・ベガは、植民地総督ラファエル・モンテロに正体を暴かれ収監される。彼には一人娘がいたが、彼女はモンテロの娘として育てられる。

それから長年月が経ち、脱獄したディエゴはアレハンドロという青年を拾う。彼の才能を見込んだディエゴは、彼を自らの後継者にしようと考え、アレハンドロはゾロだけでなくディエゴの地位も継ぐことになる。

1998年頃の作品だったと思うが、テレビ放送時、2時間(CM抜きだと90分)に収めるためにだいぶカットされていたのが残念。

この映画の続編『レジェンド・オブ・ゾロ』も観たが、すでに19世紀に入っており、鉄道も敷設されているので、だいぶ違和感があった。ピンカートン探偵社まで出ていたしな。

今回はこの辺で。

昭和40年代「画期」論

ブログ開設から約半年、体調次第で快調に更新していたかと思えば、長期間滞ったりしていました。小説の書評を中核にしつつも、いろいろなものを取り上げるので、全体にまとまりがないブログですが、こんな感じの運用を続けていこうと思います。

最近読んでいた堀一郎先生の『聖と俗の葛藤』は、堀先生の晩年の論考を収めた一冊ですが、いろいろと考えさせられる記述がありました。今回はその中から、「紆余曲折」というエッセイの記述をベースに考えたことを披露したいと思います。

昭和40年代はひとつの「画期」だった?

堀一郎先生の『聖と俗の葛藤』の中に「紆余曲折」というエッセイが収録されている。先生の経歴と研究テーマ、スタンスなどが語られているが、その中で注目したいのが「村自体がいま解体過程にある」という一文である。このエッセイは、初出一覧によると昭和44年の発表で、僕が漠然と考えていた「昭和30年代と40年代の境目あたりに画期があるのではないか」という推測が裏付けられたようなかたちになっている。

これは宮本常一先生の『忘れられた日本人』や『庶民の発見』、赤松啓介先生の『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』などを読んで「もしかしたら」と思ったものだが、同時に母と話していて、母の回想からも先述した時期に画期があるのではないかと思ったのである。

昭和40年代は高度経済成長の後半にあたり、いわゆる「いざなぎ景気」の時期である。その後、オイルショックによって経済は暗転するが、生活文化の面では家電が大衆にも手が届くようになり始めた時期らしく、都市文化が田舎のほうにも波及して、生活文化が徐々に均一化し始めたと見てよい(このあたりは秋葉原電気街振興会ホームページの記述に基づく)。

そうした中、高取正男先生の『民俗のこころ』によると、田舎では私生活の部分では長らく不便な状態が維持されていたようで、ハレとケの曖昧化を避けようとしたのではないかと先生は見ておられたようだ。

ちょうどこの時期を境に、坪井洋文先生(稲作文化中心の研究姿勢への異議)や宮田登先生(都市民俗学の開拓)らが民俗学の新潮流を確立されていくのが興味深い。

考古学では開発に伴う発掘調査ラッシュで、埋蔵文化財行政の画期と言えるか。

今回はこの辺で。皆様、よいお年をお迎えください。

読書記録:骸の爪

『骸の爪』道尾秀介

「僕はどうしても、この仏像が見たくなってきたよ」

血を流す仏像の怪

日本ホラー小説大賞を受賞してデビューした道尾秀介だが、その作風は純粋にミステリーと考えていいのではないかと思う。僕にとって、本書は『ソロモンの犬』に次いで2冊目となるが、ホラー要素が強いにもかかわらず、謎解きのプロセスを順守していて、ミステリー(特にパズラー)色が強い。純粋にホラーミステリーとして書かれていてもいい題材なのだが、作者はこれを定石通りのミステリーに仕上げているのだ。ミステリー書きは謎で引っ張る作家と徹底してロジックにこだわる作家がいる。前者の代表が折原一、後者の代表が法月綸太郎だが、道尾の本作を分類してみると、意外なことに後者となる。それほど精緻にロジックを組み立てているわけではないが、手掛かりの描写が逐一書かれているので、論理的な印象を受ける。日本の量産型ミステリーには成り行きで謎が解けていくような作品も多いので、本書のようにきちんとプロセスを経て謎解きが行われる作品を読むと、独特のカタルシスを味わえる。

舞台は滋賀の山奥にある瑞祥房という仏所。隣接する瑞祥寺専属の工房だったが、今は広く仕事を請け負っている。ホラー小説家の道尾秀介は、仏像をネタにした作品の構想を練るために、取材に訪れる。ところが、工房に忘れ物を取りに行った道尾が見たものは、笑う仏に血を流す仏であった。気になった道尾は友人の霊現象研究家・真備に調査を依頼する。ところが、仏所にいた仏師2人が相次いで失踪してしまう。その背景には20年前の失踪事件が……。

本書の謎の中核にあるのは20年前の失踪事件と、血を流す仏である。2件の失踪事件はその余波にすぎない。血を流す仏というのはホラー的なギミックだが、それに絡む失踪事件はミステリー的なギミックである(超自然的な要素が加わって失踪したわけではないからだ)。ミステリーを中核に据えていても、ホラー要素を前面に出していけばホラーミステリーと言えるわけだが(貴志祐介の一連の作品など)、作者はそれを行わず、ホラー色を極力排している。これが僕にとって意外だった。

僕自身が仏像好きだったこともあり、本書の根底となる仏像の由来・造像法などについてはおおよその知識を持っていた。だから、すんなりと読み進めることができたのだが、本書のトリックには気づかなかった。ただ、仏像の髭に施された視覚効果については初耳だった。

徐々に狭義のミステリーから遠ざかりつつある気もする道尾秀介だが、また本書のような作品も書いてほしい。

【有料記事】和魂漢才・和魂洋才 ~脱「西洋コンプレックス」のすすめ~

久々に有料記事を投稿します。基本的にnoteをメインに使っているため、有料記事の販売もnoteが中心で、こちらの方はなかなか記事数が充実しない(こちらで販売する記事はnoteの倍程度の文字数を標準としていることが理由)のですが、ここしばらくTwitter(X)の挙動不審に気を取られてしまっていまして、そうなると頭も働かなくなってしまうようです。

今回は和魂漢才・和魂洋才について少し考えてみようと思います。タイトルに『脱「西洋コンプレックス」のすすめ』と入れていますが、これは「西洋の文物を無批判に受け入れず、吟味せよ」という意味で、「西洋との関係を絶て」という意味ではありません。

はじめに

乱読気味にいろいろな本を読んでいるが、そうすると意外な本の間に繋がりが見いだせることがある。最近、noteを中心に投稿している論説の多くは、そうした繋がりをベースにできあがったものである。

今回は、「和魂漢才」と「和魂洋才」をキーワードに、日本の特異性と知恵、そして西洋コンプレックスからの脱却について考えてみる。念のために書いておくが、私が言う「西洋コンプレックスからの脱却」は「西洋は素晴らしいという先入観を捨て、西洋の文物を受け入れる際に少し吟味してみよ」という意味で、反グローバリズム国粋主義などに与するものではない。

さらに、山本幸司先生の『狡知の文化史』を読んでいると、元来の「大和心・大和魂」の意味が一般的に用いられているものと異なることが判明したため、それについても触れている。

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「不条理」の違和感

21世紀に入ってからの一時期、主に純文学界隈(特に新人賞)でやたら「不条理」という言葉が飛び交っていたように記憶している。バブル崩壊の後、リーマンショックで追加の打撃があり、他にも様々な要因から、この四半世紀は混迷を極めた。したがって現実世界の不条理さが浮き彫りになったとも言えそうだが、個人的にはそうした中で「不条理」という言葉に違和感があったのである。

元々ミステリー・SF・歴史小説あたりばかり読んでいるので、純文学を批評することはできないのだが、これらの分野にも不条理さは描かれており(歴史などそもそも不条理の連続)、僕自身、意識はしていなかったが、今になって振り返ると「不条理に慣れ親しんできたために、『不条理』という言葉が繰り返されることに違和感があった」のかもしれない。

推理小説は「謎の論理的解明」をメインとし、すべてが整然と解き明かされる点で極めて人工的な小説だが、犯罪には必ず動機があるわけで、そこから「不条理さ」が浮かび上がってくる場合も多い(特に松本清張以後の社会派ミステリーは顕著)。SFでもディストピアものや戦記ものにはそれが強く見られ、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』も、考えてみれば不条理極まりない。

当時、話題となった作品群を未読なのであれこれと言えないが、当時の報道で紹介された作品概要などをカフカの『変身』やカミュの『異邦人』と比較すると、少し違和感があったのも事実である。

ちなみにJ・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』を途中で放置しているのだが、この作品群も一種の不条理文学と呼んでいい気はする。ただ、どうしてもページが進まない理由として、どうも「ストーリーの欠如」があるらしい。短編という性格もあるが、きちんとした起承転結が見られず「わけのわからなさ」が勝ってしまうのである。

時代は異なるが、エドガー・アラン・ポーの作品にも不条理は見られる。しかし、ポーの作品は起承転結がはっきりしていて、結末の衝撃もその構成の妙によって担保されていると言えそうである。
このあたりは同じアメリカ文学だと、スタインベックの『ハツカネズミと人間』が同傾向で、これもなかなか不条理だが、結末に至るプロセスが明瞭なため、不条理さが腑に落ちるのである。

以上はあくまで僕個人の感想にすぎない。

【記事紹介】SNSを情報源にする問題点とスマホの使い方について

婦人公論』に少し気になる記事が出ている。

現代の若年者層はほとんどがネットニュースを情報源にしており、SNS経由で情報を得ている場合も多い。僕は若年者とは言えない年齢になりつつあるが、ニュースはほぼインターネットで得ている。そうすると、気になるニュースしか見なくなるのは必定だが、その結果、過去の事件の反省が生かされず、似たようなことが繰り返されるという。バイトテロと呼ばれる不適切行為が典型である。

僕自身、見るニュースの選り好みはしているが、どうやら世間を騒がせたニュースでも「知らない」ケースが生じているのは、間にSNSというクッションが挟まっているためらしい。基本的にSNSで流れてくる情報はアルゴリズムによって偏るので、SNSで幅広い情報を得るのは難しい。さらに、SNS上では有象無象の「真偽不明な情報」が混ざるので、より精度が落ちる(内容の正確さより注目度が優先されるため)。

記事によると、闇バイトなど人生にかかわるニュースもシェアされていないようで、これらの「知っておくべきニュース」は家族間で口頭にてシェアすることを勧めている。
記事後半はテーマが変わって、スマホの使い方に触れている。今やスマホは通話やメール送受信よりインターネットやアプリの使用がメインになっている。そうすると様々なトラブルに巻き込まれやすくもなるし、依存症の問題もある。そこで、記事ではルールづくりを勧めていて、ペナルティを科すことも有効としている。

ただ、ルールを作ったからといって、それをただ適用するだけではダメで、違反した場合に話し合いの機会を持つよう指摘されている。ルールに欠陥がある場合もあり得るからである。また、状況次第では家庭内暴力などに発展する可能性もあるという。

記事後半の話し合いの大切さについては、木村敏先生の『異常の構造』を読んでから痛感しているところである。規範の重視が規範の押し付けになると、軋轢も生じやすくなるようなので。

記事紹介も久々にやった気がします。しばらく、体調やTwitterの不具合などでネタが思い浮かばず、更新も滞っていて申し訳なかったです。

今回はこの辺で。

【記事紹介】SNSを情報源にする問題点とスマホの使い方について

婦人公論』に少し気になる記事が出ている。

現代の若年者層はほとんどがネットニュースを情報源にしており、SNS経由で情報を得ている場合も多い。僕は若年者とは言えない年齢になりつつあるが、ニュースはほぼインターネットで得ている。そうすると、気になるニュースしか見なくなるのは必定だが、その結果、過去の事件の反省が生かされず、似たようなことが繰り返されるという。バイトテロと呼ばれる不適切行為が典型である。

僕自身、見るニュースの選り好みはしているが、どうやら世間を騒がせたニュースでも「知らない」ケースが生じているのは、間にSNSというクッションが挟まっているためらしい。基本的にSNSで流れてくる情報はアルゴリズムによって偏るので、SNSで幅広い情報を得るのは難しい。さらに、SNS上では有象無象の「真偽不明な情報」が混ざるので、より精度が落ちる(内容の正確さより注目度が優先されるため)。

記事によると、闇バイトなど人生にかかわるニュースもシェアされていないようで、これらの「知っておくべきニュース」は家族間で口頭にてシェアすることを勧めている。
記事後半はテーマが変わって、スマホの使い方に触れている。今やスマホは通話やメール送受信よりインターネットやアプリの使用がメインになっている。そうすると様々なトラブルに巻き込まれやすくもなるし、依存症の問題もある。そこで、記事ではルールづくりを勧めていて、ペナルティを科すことも有効としている。

ただ、ルールを作ったからといって、それをただ適用するだけではダメで、違反した場合に話し合いの機会を持つよう指摘されている。ルールに欠陥がある場合もあり得るからである。また、状況次第では家庭内暴力などに発展する可能性もあるという。

記事後半の話し合いの大切さについては、木村敏先生の『異常の構造』を読んでから痛感しているところである。規範の重視が規範の押し付けになると、軋轢も生じやすくなるようなので。

記事紹介も久々にやった気がします。しばらく、体調やTwitterの不具合などでネタが思い浮かばず、更新も滞っていて申し訳なかったです。

今回はこの辺で。

読書記録:そして五人がいなくなる

『そして五人がいなくなる』はやみねかおる

「あの人が伯爵?」

大人も子供も楽しめる最上の推理小説

僕にとって、はやみねかおるの作品は、手に入れたくても手に入れられないものだった。物心ついたときは学研や集英社の歴史漫画ばかり読んでいて、いわゆるジュヴナイルはほとんど読んでいない。はやみねというミステリー作家の存在を知ったのは中学生になってからで、いまさら講談社青い鳥文庫に手を出すわけにはいかない……と思いあきらめていた。すると、思いがけず講談社文庫から再刊されたのである。これによって知らぬうちに子供を卒業してしまった大人読者もはやみねミステリーに親しめるようになったのだ。

本書は小学生を中心に爆発的な人気を博した夢水清志郎シリーズの第1作にあたる。視点人物は三つ子の三姉妹(中学生)で、彼女たちが進行役兼ワトソン役兼守り役となる。探偵の夢水清志郎は元大学教授(専攻は論理学)で、本と家賃を溜めこみ過ぎて追い出され、三姉妹の家の隣にある荒れた洋館に引っ越してきた。基本的に生活力ゼロで、だらだらと暮らしており、よく三姉妹に尻をひっぱたかれている愛すべき怪人物である。本書には第1部として長めのプロローグが付されているが、この部分だけで独立したミステリーとなっているのがおもしろい。本格ミステリーマニア・はやみねの面目躍如である。

夏休み、伯爵と名乗る怪人がマジックショーの舞台上で一人の少女を消して見せた。伯爵はさらに4人の人間を消して見せると宣言、本当に彼自身を含む5人の人間が消えてしまった。三姉妹によって担ぎ出された夢水は「謎は解けた」と宣言するが、そのまま沈黙してしまう。彼が口にする“夏休み”は何を意味しているのか? ――元々ジュヴナイルであるせいか、はやみねは一貫して殺人事件を扱っていない。ジュヴナイルであれば当然だが、僕は常々、殺人事件だけがミステリーの“謎”ではないと思っている。魅力的な謎であれば、別に殺人事件で無くても長編ミステリー1冊に仕立て上げられるような気がしてならないのである。ちなみにはやみねの本格ミステリー観は「名探偵が出て来ること、とても不思議な謎が出て来ること、本格の二文字が付いていること、ハッピーエンドで終わること」だが、最後のハッピーエンドはミステリーにおいては非常に難しい。犯罪を扱うことが多いミステリーは、えてして後味の悪い終わり方をするからである。彼が殺人事件をことさら排除するのは、ハッピーエンドを成立させるためであろう。

本書を読み終えて、僕が本当に読みたかったのは本書のような作品だ、と思い至った。

読書記録:813

『813』モーリス・ルブラン

「四分間だけ余計ですな、総理閣下」

ルパンシリーズ最大の長編

高校から大学にかけて、ルパンシリーズのうち文庫化されているものはだいたい読み切った。今回本書を読んだことで、残りは『バーネット探偵社』『バール・イ・ヴァ荘』『ルパン最後の恋』だけになっている。

 本書は数あるルパンシリーズの中でも最大のボリュームを誇る長編で、長いため分冊された。続編と合本すると700ページに及ぶ大作であり、作者が最も脂の乗った時期に書いたシリーズ屈指の名作である。作中年代では『奇巌城』の4年後に設定されており、その間ルパンは息をひそめていたことになる(この間はラウールと名乗って探偵をしており、派手な盗みはしていない)。なお、ネタバレを防ぐため、続編については本稿では触れない。

最初に感じたのはルパンの性格である。4年越しに活動を再開したルパンは、登場早々手荒な真似に出る。縛り上げた大富豪を脅迫するのである。これまでのルパンには義賊的なやさしさがあったのだが、本作でそれらは影を潜め、一大悪党になっている。そのため、これまでのルパンのイメージが壊れてしまい、少し読みにくかった。この一件の後、ルパンは姿を消してしまうが、中盤あたりで登場するロシア貴族、セルニーヌ公爵が実はルパンであることが明かされる。その後はルパンとドイツ人アルテンハイム男爵、2人を追うパリ警視庁のルノルマンの三つ巴の戦いとなる。その一方、ルパンが脅して秘密を盗み取った大富豪ケッセルバック氏はその後何者かに殺害され、彼と仲の良かったスタインウェッグ爺さんは拉致される。一連の事件の背後にはL・Mというイニシャルの怪人がいた。本作は一長編の前半部であるため、ちょうどいいところで物語が終わっている。したがって、L・Mの正体と「813」の謎は続編のほうに持ち越されている。

従来のルパンと異なる“大悪ぶり”が感じられるのは冒頭だけではない。作中、ある人物の替玉を用意しようとするのだが、それがまたあくどい。僕がイメージするルパンとは相当かけ離れたことをしているのだ。ルパンはある貧乏詩人を自殺に追い込み(その詩人は元々自殺願望があった)、間一髪のところで救出、ある人物と入れ替わるよう強要する。こうした策略はあくどすぎて、ルパンのイメージに合わない。壮年期に入って、ルパンのどこかが変化したのだろうか。

とはいえ、スケールの大きさや展開の速さなど、シリーズ代表作と呼ぶにふさわしい。

読書記録:一休暗夜行

『一休暗夜行』朝松健

「魔は、なべて我が心中にこそあり。人界に仇なす魔は、これ、妄念の産物にすぎず!」

渋くてかっこいい一休さん

 自信作、という触れ込みだけあって、ほとんど一気読みに近い読了だった。僕は普段、小説は通学時や休み時間にしか読まない(それ以外は新書などを読んでいる)ため、3日くらいかかったが、普通に読めばおそらく1日で読みきっただろう。

 物語は、魔王と呼ばれた足利義満の死から始まる。義満の臨終を看取るのは、義満を嫌う息子の義持と、北山第を埋め尽くす蝦蟇の群れ。僕は今まで、読書の過程で数多くの臨終に立ち会ってきたが、これほどおぞましい臨終のシーンはほかにない。近づきつつある大波乱の幕開けにふさわしいプロローグだ。

 主人公は28歳の一休宗純。アニメでおなじみの“頓知の一休さん”ではなく、杖術の達人というなんとも勇ましい一休さんである。史実においては志怪と一切関わりのない一休さんだが、作者の巧みなストーリーテリングで、いっぱしのゴーストバスターになっている。最も、一般的な陰陽師モノと違って、一休自身が魔の存在を否定している(元来、仏教では魑魅魍魎の存在を認めない)ためか、一休を襲う怪異も伝奇小説ではおなじみの妖(あやかし)ではなく、術によるものが大半である。ちなみに、伝奇小説の多くが平安時代を舞台にしているため、室町時代が舞台の本書は目新しい存在だ。

 惜しむらくはほしみるの正体で、これはやや拍子抜けするものだ。しかし、その裏に隠されている事実は、もしそれが本当だとすると恐ろしいものだ。まさしく、天下が「逆しま」になってしまう。これはおそらくフィクションだろうが、歴史は常に勝者によって作られるため、日本の通史も、もう一度眉につばをつけて見直す必要があるかもしれない。

 常陸海尊が物語に絡む理由が今ひとつわからないのだが、邪教立川流の存在や天下を狙う守護大名たちなど、伝奇小説のお膳立てはしっかりしている。つまり、平安時代でなくても伝奇小説は書けるのだ。怨霊や魑魅魍魎は武家の世には似合わないものだが、実は武家の世にこそ多くの怪事が伝えられている。今知られているほとんどの妖怪は、武家の世に生まれたのである。

 作中には禅語や禅の境地を詠んだ歌が数多く登場する。作者も生半可な気持で取り組んでいない証しだろう。一休といえば反骨の人であったが、それは彼自身の思想から来ているのだろう。そうした一休の禅風が、そこかしこから沸きあがってくる一冊でもある。

久々の書評更新です。しばらく滞っていましたが、手元に原稿がなかったためで、実家滞在中は今まで滞っていた分、集中して書評の更新をしようと思います。