首里手には以下のような口伝があります。
・地面は蹴るな
・腰は回すな/振るな
・頭は上下させるな
・突きは手が先
これらは全て以下のような理由によると考えられます。
・地面は蹴るな
地面を蹴ると自身の持つ位置エネルギーを殺してしまい、相手に伝えることができません。
また、蹴ると不安定になりバランスを取るために反対の脚に体重を載せて居着いてしまいます。
重力落下の活用とそのための居着きの回避と解釈することができるでしょう。
・腰は回すな/振るな
これも上記と同様の理由によります。
腰を回したり振ってしまうと、身体の中に軸ができてしまい、居着いてしまいます。即ち、軸が身体を悪い意味で安定させて落ちる(=重力落下の活用)事ができないのです。
また、腰を回す/振った場合、身体の半分の質量はあらぬ方向に作用し技のエネルギーを減衰させます。
更に回転することで作ったエネルギーは回転の方向に逃げてしまいます。
・頭は上下させるな
これも同様です。
頭を上下させるということは、どこかで地面を蹴ってしまった結果と解釈することができます。
もちろん、動きが悟られにくいなどあろうと思いますが、他の家電との整合性を考えると、主に地面を蹴らない(=重力落下の活用)を指摘しているのではないかと思います。
・突きは手が先
これも実は同様の理由によります。
脚が突きよりも先に着地してしまうと脚が邪魔で重力落下が起こせないのです。
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全てが重力落下の活用(=位置エネルギーの活用)を意味していると言えます。
そして、これらの内容は少し武術に興味がある方ならば聞いたことのある内容でしょう。
25年前に新垣会長が記した「沖縄武道空手の極意」により、重力落下や位置エネルギーの活用というワードは空手界に広く普及しました。
この重力落下の活用の概念は、新垣会長の極意、ではなく、沖縄空手の極意であるというのが分かります。
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また下記のような口伝もあります。
・力はクシ(後と書いてクシ、沖縄方言。腰や背中の意味、無想会では大腰筋と広背筋と解する)から
・呼吸は自然に
・身体は固めるな
・蹴りは内から外へ
これらは以下のように解釈できます。
・力はクシから
「クシ」とは、「腰」の意だけでなく、「後」をも指します。実際に沖縄には「後原」と書いて「クシバル」と読む名字や地名が存します。
無想会では、筋肉・骨格、新垣会長の感覚から、これは大腰筋・広背筋のことを指すと解釈しています。
脚を引きあげる際に最も重要な筋肉は大腰筋です。陸上のスプリンターは一般人より2倍から3倍も大腰筋が太くなるようです。
また、腕を速く振る投球などの動作には広背筋が強く関わります。これは、そのような動作は腕を前に押し出すのではなく、広背筋で腕を身体中心に引きつけることでなされます。
・呼吸は自然に
呼吸は呼吸のために存在し、体を動かすためには存在しないからです。呼吸で動こうとすれば呼吸の速さ以上に速く動くことはできず、またタイミングを相手に伝えることになります。
・身体は固めるな
これは体を必要以上に固めてしまうと身体が居着いてしまうからです。
重心を身体の中に呼び込み居着く、または、技の前で筋肉が収縮してしまい動けない、という事態を避けるためと解釈できます。
ただし、相手に衝撃を与える一瞬は、自分の身体がエネルギーを吸収してしまわないように身体を固める必要はあるかと思います。
実際に、優秀なボクサーの筋電図を測ったデータでは、始動とインパクトの瞬間に筋収縮が起こっていることが計測されていました。
このデータはまた、反対解釈として、身体を固め続けるのは誤りであることを示すでしょう。
上記2つ「呼吸は自然に」「身体は固めるな」は、個人的には、東恩納寛量/宮城長順/上地完文・師の中国滞在後に生まれた口伝ではないかと考えています。
これらの身体操作は那覇手の息吹やサンチンや一部流派でのセイサンでなされるものです。
上記の理由などにより、また、那覇手と異なって首里手は日本剣術をバックボーンとして持っていたこともあり(松村宗棍などは武士階級で、その階層は日本剣術を教養としていました)、首里手の人間達には受け入れ難いものだったのでしょう。
・蹴りは内から外へ
これは、大腰筋・腸骨筋・大腿筋膜張筋などの作用により、正しく脚を動かすと蹴りは内から外に向かいます。
歩行の際の脚の軌道、サッカーのキックの脚の軌道はこれら全て内から外へと向かっています。
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さて上記の口伝は以下のように2つに分類できます。
■重力落下の活用:「地面は蹴るな・腰は回すな/振るな・頭は上下させるな・突きは手が先」
■生来的な身体操作の活用:「力はクシから・呼吸は自然に・身体は固めるな・蹴りは内から外へ」
そしてこの2つの分類をさらに統合することができます。武術であるから殊更にエネルギーを創出する必要があるので、重力落下の点が強調されているだけであって、重力落下の活用も「生来的な身体操作」と言うことができるからです。
例えば、歩行は膝を抜くことで前に落ち(重力落下の活)、大腰筋(クシ)で脚を引きあげて歩きます。
また、広背筋は投球という有史以前から人間が得意とした運動に使われ、その筋繊維の方向は、下部中部は重力落下の方向と同じ方向に向かっています。これも重力落下の作用に広背筋の作用を合わせる、という点で都合が良いのでしょう。更に言えば、投球の際に腰を突き出したりするのは、重力落下によるエネルギーの創出です。
考えてみれば、空手の技も人間の身体を使って出さざるを得ないのですから、その技は人体が想定した動きに包含されなければなりません。人体の想定しない動きとは、非効率な運動か怪我に至るかの他ありません。
人体は重力の作用する空間に適用し、そして人間は二本足で歩くが故に、最もその存在を強く認識・活用したのでしょう、重力落下の活用が巧妙な身体であると感じます。
「武は歩み足」という言葉があったはずです。対偶は「歩みに非ざれば武に非ず」です。歩みと異なる原理の動作は、流派や個人の個性ではなく誤った動作と基準を設けることができます。
無想会では、人体の身体操作を原理原則、本質として「業」、突きや肘打ち蹴り投げなどはその原理原則の枝葉、派生、現象として「技」と表記します。
この本質たる「業」という視座を以て見れば、様々な技や秘伝等が所詮はこの業の一現象に過ぎないと理解できます。よく言われる膝の抜きなどその代表例でしょう、そして理解が進めば膝の抜きなど初心者向けの説明にしかならないことも分かります。
武術云々というのも、気や何やらではなく、全て理論立って説明できるはずです。
更に、不可思議な技や稽古を見て「この技術はここで間違えられたのだな」という思考も可能になってきます。例えば、「身体を固めるな」の筋電図云々でのインパクトにおける筋収縮は、「極め」と説明され、それがただ拳を握り込む動作と誤解されたのでしょう。
「業」の視座は最も価値があるものだと感じます。
この「業」の与える知的興奮や統一的な納得というのが、トーナメントやエクササイズ的要素がないにも関わらず、一般的な教養のある成人をして空手を稽古せしむるのだと思います。