晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

いわてのやま⑦  菅江真澄テキスト

四日 夜や明なん、とりの鳴づるころ雨のいたくふれり。
きのふ聞しなる神は、かゝる雨もよにてなど、相やどりのたび人の語れば、やのあるじも寝ざめして、はたけのくさ/″\に又なきくすりの雨や、ありがたのなもあみだぶととなへ、あくびうちせり。
はや女の起出て、麻機をる音のしたり。

 

「かけて織る賤が麻はたあましやまとをにだにも君が来まさぬ」

 

とずんじて、この宿をたちて黄金橋(コガネバシ)をうちわたる。
むかし長者どのといふがありて、こがねあまたもてかけたりしかば、しか名におへり。
その末いまもありとか。
三戸を放れて浅水(三戸郡五戸町)のうまやあり。
遠きむかしは家二三ありて、よべ宿しつる旅人を、うむすといひ人しらずころして、その人をあさ見ざる名なりなどいへれど、こと処にも浅水の橋などいふ名どころも聞えたり。
過来つる村はいづくならんと、古町、小向、清浄寺(正寿寺)、宮沢(以上南部町)、この浅水にて侍ると人のいらふ。
前なる水の細くながれたるを、

 

   里の子が汲ほすばかりあさ水のながれつきせぬものにぞありける

 

五戸に来けり。
八幡坂のしたより西に別れて、種原村(十和田市)にかゝりて十和田山に行の路あり。
一本松(以下十和田市)、伝法寺村、藤島に来て、以地川といふに木の皮の綱をひきはへて、くり舟の渡りしたり。
この水上は、十湾(トワタ)のぬまとていと大なる湖のありて、盛岡なる奈良崎といへる処の永福寺の僧侶南層といふが、弥勒ぶち(仏)のいでませるを見奉らまくほりして、ふかくいのりて夢のをしへにまかせて、たうばりたるわら沓さしふんで、此、やりたらんところをもとめありくに、十曲(トワタ)(十和田)の水海にいたりて沓のやりはててければ、こは、わがねがひこゝにいたれりと、あめにむかひ、つちにふしてぞよろこぼひ、こゝにすみつる八郎太郎といふ、みづちをおひやらひて、われあるじとなりしといふ物語をせり。
しかはあれど、いつの世のことならん、みかしほの幡摩(播磨)かた、書写の山かげに難蔵といへるすけ(出家)ありて、あけくれ、ほくゑきやう(法華経)をとなへ、うちには経典をずんじて露のいとなう、外には権現をいのることのおこたらずして、さうじん(精進)のとこあり。
みずきやうのいさおし、つもり/\て三千部にみち、神まうでの日数三十度になりぬ。
しかるに難蔵おもへらく、わがいのち世にながくいきたらましかば、猶みずきやうし、弥勒のほとけをもをろがみたいまつりてんと、熊野に三とせばかり山ごもりしてひたぶるにいのり、浦のはまゆふ、もも重に日数のかさなりて、すでに千日にあたれるの夜半うち過るのころ、夢となううつゝにもあらで、みあらかのうちより白髪の翁のいでおはして、いかに、いましが願のいとかたけれど、あがいふについてあづまにくだりて、陸奥の国と出羽の国とのさかひに言両(コトワケ)といふ山のあんなり。
そこにわけ入てすまば、みろくほとけのいでらんその暁にもいたらんと、みさかありつることのうれしう、いでとて旅だちはる/″\といたり、八重山遠くわけ入て見れば、大なる池のほとりにたてる、としふる松のもとに、窟のあるをたよりに草ひきむすび、木の菓をとりくひ水をむすびて、みどきやうのみして、やま人にことならず。
かゝるに、かほかたちきよげなる女のいづこよりか来て、みのりをきくこと日久しかりき。
難蔵あやしみながら、さらにことなう猶ほくゑきやうをよみてけるに、この女の云、われ希有に得がたき妙典にあひ奉りて、五障の雲みのりの風にたちまちに晴て、心の月いとすゞしくすめり。
あふぎ願はくば、あが棲に来てみどきやうして、群類をも化導し給ひてよ。
難蔵、われ神の告によてこそかゝる山おくに入たれ、女がもとにいたらんこと、かなふまじきよしをいへれば、女、わがすめるかたとて遠からじ、この池のこゝろなりといふ。
難藏がおもふ、これも神のをしへにて、千仏の世に値ふのたつきならんか。
女のふたゝび、われといもとせのかたらひをしてながくこゝにましませ。
難蔵、わが此女におちて菩提心のうしなひて、などか悪趣の底にしづまんゆめ/\とおもへれど、はた、これも神のみちびき給ふことならん。
かくて、慈尊の出ませる世に会ふことの山口にやと、女のいふについて、いざなはれて、はかりもしらぬ太池の面にうち入ぬとぞ。
そのをりしも女、かの僧にむかひていふ、この山の西に、奴可(ヌカ)の嶽(タケ)とて、いと高き山の麓に又池あり。
この、ことわけの嶽より、みちはつか三里ばかり、かの池に八頭の大蛇ありて吾れを妻として、月ごとの上の十日あまり五日は、ぬかの池にすみ、月のなからより下は、このことわけの池に来りてすめり。
いますでに来らん、こゝろへたまへお僧、といふ。難蔵さらに怖れたるいろなう、八まきのきやうをかうべにふりかざせば、かしら九のたつとくゑしたり。
とく風ふき雨のふりしきりて、八かしらの竜のさと飛来りて、このふたつ竜七日くひあふ。
といきの音は、なる神のごとくなりひかり、雨かぜいよゝはげしう、つゐに八竜のくはれおはれて、もとの池に皈りいなんとせしかど、大松の生ひ出たるにへだてられて、しほ海のかたへにげうせてけるといふもの語りは『三国伝記』にも見えたれど、此ふみにはみちのくと、ひたちとをかいあやまれり。
かゝる物話は、みちのおく、出羽にてまち/\にいへり。
言両(ことわけ)は十曲の湖にてやあらん、奴可は、糠部(ヌカノブ)など郡の名に、むかしこのあたりをいひしかば、いまいふ八ツ耕田の嶽をやいふらん。此たけのなからに大なる湖のあり。
春雪氷たるを通路として、そのたけのそがひのかたにあるいで湯浴に、此あたりよりも津刈(軽)郡よりも、きさらぎ、やよひには、人あまた行といへり。
かくゆきゆきて、相坂(十和田市)といふさゝやかの村に泊りてと、ゆきずりに人のいへば、その名たよりに、霧にこめて、屋根のみはつかばかりみゆるを、しるべにたどる。
河にそひたるこなたかなたは、みな六戸の郡なりけりとか。
川霧に猶くらくその村にいたる。

 

   里遠みそこともしらぬ霧のうちにみちとひまどふタぐれの空

 

 

せんだびつ(千駄櫃)やうのものをおひ行翁あり。
かゝる五七の戸の山里のあたりに、嫁入のとき、かく、木匱てふものを女のなにくれと調度入とし、その女の身まかれば、この木匱にむくろををさめ、わがへのそのに埋むとなん。

 

 

 

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国勢調査2025 犬・猫・熊にも国勢調査が必要? 

今年は、国勢調査の年だった。

10月ころに、担当者が調査用紙入りの封筒を自宅に届けてくれた。

前回の調査は、2020年だったらしいので、5年ごとにやってるらしい。

調査用紙にパラパラと目を通していたのだが、そういえば前回はネットで提出したことを思い出した。

今回もネットで回答しようと、入力をしてみた。

調査項目は、世帯の実態についてで、17項目ある。

前回の調査と変更はあるのだろうか。

改めて、調査内容について目を通してみる。

 

氏名 男女の別 出生の年月 世帯主との続き柄

配偶の関係 国籍 現在の住居における居住期間

5年前の住居の所在地 就業状態

所属の事業所の名称及び事業の種類 仕事の種類

従業上の地位 従業地又は通学地

 

ここまでが、世帯員についての調査である。

ここで、「国籍」というところで、引っかかった。

たしかに、多くの外国籍の住民が存在する現在の社会の状況において、「国籍」は重要な情報だろう。

今回の国勢調査は第22回目で、第1回の調査は大正9年だったという。

この「国籍」という項目は、そのころからあったのだろうか。

それとも、どこかの時代に追加されたものだろうか。

 

そして、次の4項目は、世帯、住宅についての調査である。

世帯の種類 世帯員の数

住居の種類 住宅の建て方

 

入力自体は、たぶん20分くらいで終わった。

最後に、送信して国勢調査は終了した。

 

ネットで回答したので、調査用紙の回収のために担当者が訪れることはなかった。

ということは、全員がネット回答すれば、回収作業は無くなる。

いったいどれくらいの人が、ネットで回答したのだろうか。

あの担当者は、どれくらいの数の世帯を担当していたのだろう。

さらに考えると、もしも、全員がネット処理が可能ならば、調査用紙の配布さえも必要ではない。

調査実施についてのハガキ1枚送付すれば、それで済む。

印刷してあるQRコードを読みこんで、指示に従って処理していけば済むことである。

そうすれば、膨大な調査用紙の印刷や、配布回収担当者は不要となる。

でも、そういうわけにはいかない。

誰でもネット環境があって、それを使いこなしているわけではない。

調査を正確なものにするには、アナログしか使えない人も、カバーしなければならないということだ。

今後この調査も、もっと効率的な方法が採用されるようになるかもしれない。

 

国勢調査は、あくまでも人間についての調査である。

国勢調査について考えていて、思いついたことがある。

今の社会では、人間はいろんな動物・植物とともに生きている。

特に、ペットといわれる犬や猫などの愛玩動物がいる。

散歩していると、必ずのように、犬を散歩させている方に出会う。

車で走っていると、なんと多くの動物病院があることか。

「動物健康保険証」というものもあるらしい。

もちろん、公費負担のない保険会社発行のものである。

どれだけ多くの犬や猫が、国民の世帯にいるということかだろうか。

それを考えると、国勢調査の項目にあってもよいのではないかと思う。

犬や猫について国は、どの程度把握しているのだろうか。

犬猫が、この日本にいったいどれくらいいるものなのか。

大震災の際の避難所などは、人間のためのものなので、現在のところペットについては対応していないだろう。

無人になってしまった被災地に、放置された動物が、野生化したというようなニュースを見たような気がする。

でも、ほとんど取り上げられることは、無いようだ。

今後、この問題も考えざるを得なくなるのではないかな。

 

私自身は、犬や猫などのペットを飼っていないし、飼いたいとも思わない。

水槽に、メダカとエビが泳いでいるが、これは息子が手に入れて、面倒を見ている。

私は、農村育ちなので、子供の頃は犬も猫も飼っていた。

同じ屋根の下に、牛も住んでいた。

同じ村の父実家には、馬が三頭もいた。

もちろん、田畑の農耕用である。

農村では、犬も猫もペットではなく、ちゃんと役割があったな。

犬は番犬だったし、猫はネズミを捕る仕事があった。

ネズミを捕った猫が、家族の前に誇らしげにそれを見せに来た記憶がある。

田舎を離れて思うのは、犬や猫にとっても、農村と違って、街の狭い範囲で生きるのは大変だろうな、と思ってしまう。

だから、こんな環境で飼いたいとは思わない。

 

今年は、毎日のようにクマについてのテレビニュースを見たような気がする。

それも、目撃情報ではなく、クマに襲われてケガしたとか、亡くなったというニュースである。

この夏、同級会ということで、郷里の秋田に帰った。

かつては、郷里の山である「田代岳」に登ろうか、と思ったものである。

でも今は、恐くて山に登ろうという気がしなくなった。

北海道や東北の山を、ひとりでとことこ歩いていた若い頃が噓のようである。

郷里の幼馴染がどうしているかなと考えていて、クマのことが心配になった。

ネットで検索していたら、こんなサイトが見つかった。

 

ツキノワグマ等情報マップシステム「クマダス」である。

kumadas.net

基本的に、投稿によって成り立っているサイトのようである。

情報種別は、目撃、人身被害、痕跡(食害)、痕跡(その他)となっている。

対象の獣種も、ツキノワグマ、イノシシ、ニホンジカである。

郷里の大館市について、調べてみた。

驚いたことに、2025年のツキノワグマの情報が、1317 件もあった。

内訳は、目撃1200 件、人身被害7 件、痕跡(食害)44 件、痕跡(その他)66 件である。

なんと、私が生まれ育った集落でも、水稲の食害があったとなっていて、「足跡等から親子2頭によるものと思われる」、ということだ。

参考までに、イノシシの情報31 件、二ホンジカの情報6 件である。

ツキノワグマの情報が、1317 件もあるけれど、この地域に実際のところどれくらいの頭数のツキノワグマが生息しているのだろうか。

 

日本政府からの情報によると、ツキノワグマは本州と四国に、48,000頭と推計されている。

ヒグマは、北海道に12,000頭いるということで、九州にはクマはいない。

九州に、古代に熊襲があって、今は熊本県があり、「くまモン」はいるけれど、クマはいないということになる。

九州に確実にツキノワグマが生息していた記録は1953年で、その後は生息確認がなく、2112年に環境省が絶滅種として認定したということだ。

ところで、今年友人たちと信州へ旅行した。

いろんな山岳道路を走って、目についたのはシカの食害を避けるための柵やフェンスが至る所に設置されていたことである。

どうも、シカやイノシシの生息数は、クマの比ではないらしい。

政府発のデータによると、ニホンジカの個体数は、約246万頭、イノシシの個体数は、約78万頭である。

これは、3年前の推定値なので、現在はもっと多いことだろう。

野生動物といえば、オオカミは絶滅したらしいが、キツネやタヌキ、サルはまだいる。

日本は、国土の7割が森林地帯なのだから、他にも様々な動物がいるのだろうな。

 

動物つながりで、思いつくことをつらつらと書いてしまった。

ところで、2か月前くらいになるが、豚熱が国内で発生したというニュースを見た。

豚などは、集団飼育されているので、その豚舎の豚は殺処分となるらしい。

何百頭とか、何千頭とかという、信じられないような頭数である。

食用となるものなので、そうせざるをえないのだろうが、なんとかならないものなのかと思う。

鳥インフルエンザの際の、ニワトリの殺処分の単位は、何万羽だったな。

なにか、やるせなくなる。

 

日本列島は、人間をはじめとしたさまざまな動物と、さまざまな植物で成り立っている。

植物はともかくとして、動物については、今までとは違った視点から考えてみる必要があるんじゃないかな。

 

 

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いわてのやま⑥  菅江真澄テキスト

ふん月の朔 つとめて、霧こめたるばかり小雨そぼふりて、やをらはれゆけば、

 

   ゆく/\は身にこそしまめ涼しさよ薄きたもとに通ふはつ風

 

巻堀(玉山村)のやかたなる金勢明神のほくらは、むかしもぬさとりしあたり、芋田、川口などの村(岩手町)をくれば、むさしより、くに見めぐらせ給ふのえだち、日あらず至り給ふとのゝしり、そのもふけにとて石ほり、くさ刈り、木こり、枝うち、路造りけるあらおら(荒夫等)、すき、鍬、かつさび、手ごとにとり、ゑぶといふものに土かいいれてひきありくを見れば、それらがぬかにしな/″\の文字をかいて、人あらためのしるしとせりけるも、あせにながれて、いよ、つらぐろに、あつげなり。

 

「吾君のあまねき御代の道作りくぼめる身をも哀とは見よ」

 

といふ信実のながめ給ひしを、ふとおもひ出られたり。
沼久(宮)内(岩手町)、かいらげ(川原木)、ふがね、御堂村(岩手町)になりて日はくれて、御堂もりのうばそく正覚院の宿に、一夜をとこひ、いねたり。
よんべより、かやりたかねば、ましてこのあたりは、蚊帳などたえてあらじ。
かゝる山里めけるほとりなどは、科野(信濃)路の山里にひとしう柾とて、そぎたをさゝやかにし、あるは、いたどりの太く生ひかれたるをくだいて、ちいさき箱に入てかわやのくまにつりて、これを、くぞまるごとにものしてけるは、もろこし人のふりにひとし。
その名を籌木(チウギ)といひ、化巾(クワキン)とぞいふめる、いにしへぶりや残たらんかし。
かゝる御堂のゆへあれど、《けふのせばのゝ》の日記にしたれば、かいもらしぬ。

 

二日 朝たつ空のくもりたり。雨ならんといひもて中山村に来にけり。
こゝにすむくゞつのやうのもの、小蝶の飛来るをとりて、このわらし、かつかべちごめるぞ、といひてやる。
わらは、あやまちてはなちやりて、なきのゝしりけるを母なん来て、ごぼうほるやつかな、いづこへも、いなくなれ/\といひつゝ入ぬ。
姨のさしのぞき、あのめらし、かつかべとりてやれと声いとあららかにいへば女聞て、どす、おほばか、又、くうるうとて猶蝶をひゆく。
かつかべは蝶をいひ、ちごめるはあづけおく、たのむ也。
ごぼうほるは、童の、なきいさちたるをいひ、どすとは癩の病をいひ、くうるうとは、つくるとも、じらをいふともいひて、はらぐろにいひのゝしるをいひ、はた、しぼるこゝろも聞えたりとなん。
火行(ヒギヤウ)(以下一戸町)、小?、笹目子に至れば、さとふりたる雨も、午ばかりならんはれたり。

 

   むら雨の零ほどもなくたび人のさゝめこみのゝひるま来にけり

 

山鳴り谷どよむまで、たぎち流る水の音に、暑もしらでわく。
ときもいま、小麦ふとむぎ、はつきよりおろし、まとりとて、またぶりしてうちたゝく女あり。
苧生に麻刈る男は、科あめる前だれとて、むねより腰にみのゝごとくまとひ、雪袴を着て、かしらは布につゝみて、笠着たるも沓ふみたるもまれに、いとなう見えたり。
小鳥谷(コジヤ)といふ村にものくひ、ひるねしてくれば故将堂(小姓堂)といふあり。
ことどころにも聞えたれど、こゝには秀衡を祀たるとか。
猪の袋、女鹿ロ(メガクチ)、白子坂、関屋、洲輪の村に来り、母屋山、鳥越(トコエ)山など遠かたに見つつたゝずめば、ぬまくないのこなたに、ひとつ屋のあり、そこは馬羽松(マハマツ)(御堂の北一キロ余)といへり。
いにしへ義家のきみ、こゝにおもむき給ふの頃、はたごうまの料にとて?もたまへるが、ながぢにくちはてて、つゆ馬のくはざれば、そこの名を馬はまずともといひし。
その?捨たる処を腐?(スエヌカ)となんいひきなど、きつれかたる友のあり。
かくて磐手を放て一戸の里になれば、なべて二戸郡とよべり。
わけゆかば、波うち峠(ここまで一戸町)の坂中に日やくれなんといへば、こゝに宿る。

 

三日 一戸をたつ。
つち(土用)は、きのふにあきて、朝戸出いと涼しく浪うち坂になりぬ。
盛岡に松が坂といふ処あり。
そこの本の松、きのふ過来し中山はなかの松にて、こゝなん末の松山といふがうべなりと、人のもはらいへり。
宮城の郡に在りしとはいづら。

 

「波に移るいろにや秋の越ぬらん宮城が原の末の松山」

 

といふ、俊成女の歌ありけり。
むかしみしところながら、いとおかしう、

 

「をのがつま浪越しつとや恨らん末の松山をじか嗚也」

 

とずんじ、やすらひて、

 

   わけ来ればあつさも波のこゆといふすゑの松やま秋風ぞふく

 

峠になれば、れいの山よりいづる?貝、松の皮貝、はまかづらなどのくだけたる(化石)を、人々ひろひもて、つとにぞしける。
うべ、波のうちよりしあとあり。
さりければ山坂の名におへり。
はた、末の松とは、もはらにはいはじなど語つれて、村松(二戸郡福岡町)といふ処におり来て、福岡にぞなりぬ。
呑香稲荷といふ額の鶏栖あり。
此みやどころのほとりは、天正のころ、九戸政実のほろびたる館の址ありけり。
なべて此あたりを九戸郡といへり。
南部路の十郡といふは、喜多郡二戸郡三戸郡九戸郡鹿角郡、閉伊郡、岩手郡、志和郡、稗貫郡、和賀郡とぞ聞えける。
いにしへ、みちのくの郡たりしとは、いまはいさゝかことなれり。
此あたりの人のくちぐせとて、かきねかいだまといふことをいへば、そのころ、みやこぢよりも軍いだして、人さはに入来るをりしも里の翁が、しか、かきねかい玉といひたるを聞て、このいくさの、はとうち笑ふを、翁、兵どもにうちむかひ、いかに、そこたちは


「蛛の巣におく籬根かいだま」


てふ歌ありともしらざりけりなど、都人をわらひ返したる物話あり。
こゝに■(木+黨)綱(カイタマ)の塚とてありと聞て、尋てもしれざりけるは、いづこならんか。
八戸の海におつといふ白鳥川の橋に立て、ゆんでをのぞめば、竜巌寺に行にかけはしありて、巌をほりうがちてみほとけをすへて、こうしさせり。
松島の雄嶋に見しにひとし。
めてにも橋ありて、これも、観世音の堂を岩のうつぼに作ぶて、いとおかしきところなれば、行かふ旅人はまづとゞまり、あせのごひて休らひ、ながめやるところ也。
山ひとつ越れば、長沢といふ処の橋落たりとて、ことどころなる土橋の大なるを渡りて前(米)沢村にかゝりて過る。
このあたりの山岨みなはたけにて、粟、稗のみを作りて、あげ田、くぼ田はひとしろもなく、うるしの梢しげりあひて、みちも畑もいとくらし。
まとりふりもて、うちたゝく麦秋に女うたひ、あるよ男女集ひて斧ふりあげてむぎ穂うつ里もあり。
そのあたりを遠う見やれば、夕日のさしかげろひ光りて、いなづまにことならず。
金田市(金田一)といふ里に金田山長寿寺あり。
小野、川口、釜の沢をくれば杉のむらだてるあり。
田村将軍の、こゝに月よみのみことをいはひ祀り給ふのいはれ、大同の物語あり。
かくて此くれつかた、三戸(青森県三戸郡三戸町)といふ処に宿かる。

 

 

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米価格の大暴落はほんとに起こるのか?

米価格の高騰が始まって、もう2年になるだろうか。

私が、定年退職して主夫になってから、10年になる。

家族の主食である米を毎月スーパーマーケットで買っている。

考えてみると、この間にいったいどれくらいの米を買ったのだろう。

だいたい5キロのビニール袋である。

私は、ブランド米などのこだわりはないので、適当に選んでいる。

妻からは、複数産地米ではなく、単数産地米にするように言われている。

私が徒歩で行ける買物範囲には、スーパーは6ヶ所ある。

歩いて、近くて5分、遠くても15分か20分というところである。

さらに、車で足を伸ばせば、商業モールや道の駅、農産物直売所などもあり、かなりの数になる。

 

この数ヶ月の米売り場を見ていると、ほとんどが5キロで4000円代というところである。

時々、3000円台のものがあるが、売り切れ状態である。

4000円台のものは、在庫が多く積まれている。

先日、テレビのニュース番組で、「お米券」の話題をやっていた。

私などは、「お米券」なんかよりも、適正な米価格をコントロールするのが、政府のやることだと思うが、どうもピントをはずれている。

この番組の中で、米流通業界で、いつ米の暴落があるかが、注目されているとのことだった。

来年の米作付け面積がはっきりする頃に、米が過剰になることが予想される時点で、暴落するだろうということである。

米の流通過程には、高価で買い入れた米が在庫になっているので、損失を出さないために高値を維持しなければならない。

しかし、その高値を維持できなくなれば、できるだけ損失を小さくするために、売値を下げるだろうにということである。

それが、暴落という程度なのか、大暴落なのか、ほんとに暴落があるのか。

 

米価格の高騰が始まった頃、政府は米の供給量は充分にあるので、新米が出れば米価格は落ち着くと言っていた。

ところが、新米が出ても米価格は下がるどころか、むしろ上がっている。

政府が、米の流通量は充分あると考えているということは、高価格の米が流通過程にダブついているのではないか。

米売り場の状況を見ていると、高価格米は消費者から避けられているのだと思う。

これで、「おこめ券」を配ると、結局高い米を買わせることになる。

消費者を救済しようとする「おこめ券」は、高い米を抱えている業者を救済することになる。

もしも、「おこめ券」が米価格の暴落を防ぐことになったら、その後ずっと高値を維持してしまうのである。

しかも、税金を使っているのに、米価格を適正なものにする役には立たない。

 

それにしても、この米価格の高騰は、何が原因だったのだろうか。

不透明な流通過程が、問題を見えなくしている確かだろう。

以前に調べた時には、三重構造となっていたような気がするが、再度調べて驚いた。

生産農家から消費者までの流れを抜き出したら、こんなことになった。

 

① 生産農家

② JA集荷センター(一次集荷業者)

③ 産地一次問屋(経済連・大卸)

消費地一次問屋(大手消費地卸)

⑤ 二次問屋(中卸)

⑥ 三次問屋(小卸)

⑦ 四次問屋(マイクロ卸)

⑧ 五次問屋(末端ブローカー)

⑨ 小売店・飲食店 → 消費者

 

それぞれの問屋が、役割を持っているというのだが、あまりにも複雑である。

市場競争不在のブラックボックスであり、果たして政府が把握できているのか。

 

我が家は、数十年間ある生協を利用している。

そして、かなりの食料を購入している。

宅配コースなので、週に一度品物が届く。

でも、お米は購入していなかった。

生協の米は、品質は良さそうだったが、価格が割高に思えたからだ。

それが、米価格が高騰して、生協の価格と逆転したので、生協で買ってみた。

数回利用したら、品切れにになってしまった。

生協は、生産農家と直接に契約しているので、扱い量が限られている。

買いたくても、なかなか買えない。

このほかに、生産農家から直接買う方法もありそうだ。

こんな時代なので、ネット販売している農家はけっこうありそうである。

その場合は、かなり多い量を玄米で、ということになるのかな。

我が家の近くにも、玄米用の精米機械を有料で使えるところがある。

郷里の親戚が送ってくれた玄米を、精米したことがある。

お米の購入について、もっと選択肢が増えることも必要かもしれない。

 

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いはてのやま⑤ 菅江真澄テキスト


廿八日 朝戸出に見れば、軒をつらねたる屋の上に、わらをくみて、月の輪のやうにわがねて、ふたつみつあげたるは何の料にてかと人にとへば、むつきの氷餅(シミモチ)を、みな月の朔のあした歯固の祝にくひて、つゝみわらを屋根になげあげて、火よけとぞしけるとなん。

ゆく/\小川あり、名をとへば多具那(滝名)河とこたふ。

又河あり、とへば、たぐな河といらふ。

うべ此川は、志和の稲荷の神籬のほとりをへて、こゝにてふたつにわかれたり。

しは(紫波)のいなりのおましこそ、まことの志賀理和気の神(式内社)のふるきみあとになれとは、かねてきゝつ。

河の流に、人あまた足あらふを、

 

   おなじ瀬をあ昱のたくなはくり返しいくたびぬれてかち渡りせん

 

村ふたつみつ来れば、つゞみうち、貝、かねをならして人さはにむれて、

「なにむしぼふよ、嶽からふりくだった、こせ虫ぼふよ、こさいむしばふよ、ばら/\にまつられて、たけのぼりせうものを」

 

と、あまたの声にうちはやし、小田のくろみち、ふみしだきありく。

桜町村(紫波町)に来て赤石明神をふたゝびをがみ奉りて、みちしばらくへて、郡山にさし入るべうあたりとおぼえて、人のかうべきりてさらされたり。

こは十六文すまふとて、すまひ(相撲)とりありきしわかものながら、寺のきぬわたなどぬすみて、きのふ、この河原にてきられたりと、見る人のかたる。

人のいふ、此五郎沼は、比爪の五郎俊衡、宮古浜(宮古市)にやきたる塩をもてはこばせ、人をなみたゝせて筑たる塘なり。

こゝに、はなちかふ牛のたかはぎに、うるしのいたくつきて来りしを、いづこともしらざりし。

はた、

 

「旭さす夕陽かゞやくそのもとに、うるしまんばい、こがねおくおく」

 

など、平泉に聞し物語のこゝにもせりけり。

走湯山高水寺(紫波町)、むかしは郡山にありたりし。

そのころ称徳天皇の建させ給ひしは、そのたけ一丈に高き観世音也。

伊豆の国走湯山権現を、清衡こゝにうつし祀られたり。

そのころほひは、もとも大なる仏閣たらんかし。

金堂の壁の、その板十二枚をはなちたる。

糺明せられしかば、そのもの、宇佐美の平治実政がつぶねたりしなど、しるし残たるふみ(吾妻鏡、文治五年九月九日)見てもしりき。

此寺は今、盛岡にうつしてけるとなん。

盛岡にいたるに、上川のふなはしかけかふるとて、はたあまりなる小舟をひきみだし岸べによりたるを、つがり(鎖)してつなぎ、くろがねのつなを、きしよりきしに引延(ハ)へ、駒ふみの板ならべたれば、ひし/\と人のおし渡るにまじり、めしゐの男女ふたり、たづさへて行は、びはほうしならんか。

この女は盲巫女(イタコ)といふものなり。

里の子の句に、

 

「ふなはしの板子夫婦や秋の風」

 

と聞しは、いとおかしかりし。

いたこてふことを、いかにと、誰にとへど、しれるはなう。此ものや神おろしをし、いのりかぢ、すゞのうらとひをし、あるは、なきたまよばひし、みさかをしらするは、神の移託(イタク)てふことをや、しか、いたことはいへらんかし。

けふはくもりて、岩提(手)山の尾上斗見えみ見えずみ、やをら晴たるを見たゝずむに、よそまり(四十余り)の法師ひとり、みじかき衣をまくりでに菅笠ふかくきて、ゆくりなう、しりより、こや旅人、松前の島渡りしてけるよしみちにて聞つれば、ともなひてよと名のりしけるは、浪速なる袁邇奇治とて、わざおぎ(俳優)やうのかたりしてける人なりとか。

ひとりのみ、おくのなかみちを分いかんよりはとて引連て、こよひは検断の宿にとまる。

 

廿九日 つとめて出たつ。

もはらこゝのつちけとて、夏引の糸あまたくり返しもて、つむぎ、しまをりをし、黄精を蒸してぞ沽(う)る宿の、軒をつらねたれど、偏精(日本産)やいと多く、正精(唐種)や、まれならんかし。

この市中にながれたる中津河を橋よりわたれば、鹿角郡へわかれたる巷ありて、西にわかれては猶黄精(アマトコロ)をぞうるめる。

黄精膏もあり、つとにせよなどよばふ。

さゆりの根は、大なる人の掌ふたつにのせつべう、あまたとりつかね、鶉は、名だたるふかくさの野辺にまさりて、引(ヒキ)声、ふくみ、こは明仄、尾花、袖籬など名づけて、とりこを軒のはしらごとにかけならべて、人にもうり、あがものと聞つつ、あきなひものしてける宿のいと多かる。

こゝに近きあだたらやまは、いま踏鞴(たたら)山ともいふとか。

きけば、此山に鹿(シゝ)の宮といふがありと人の話る。

うべ、あだたらの根にふすしかの、こゝろあらんとおもはれたり。

なべて此あたりは、《狭布のせば布》につばらにしるして、こゝにはことそぎたり。

岩提山の雪の、いまはたけち残りたるをうち見れば、翁ひとり、わらは.への手をとり木のもとにたち、あのおいわしの雪といへり。

嵩(頂上)に鷲のすがたしたる岩の在れば岩鷲山(ガンジュサン)ととなへ、おいはわしといふべきを、もはら語路あしく、はぶきていへり。

いはては岩手(シュ)の文字なれば、岩鷲(ガンジュ)のこゑに、いまし世の誰かいひたがひけん。

人のいふ、岩城判官のきんだち、津志王丸のみたまを神とこの山にいはひ、津刈路に在る岩樹(木)山の頂には安寿の姫のみたまを安珠比哮(ヤスタマヒメ)と祀り、岩木山大権現とあがめ奉る。

又いふ、此野鷲山のいたゞきの霧が嶽といふには、いまも鬼のすめり。

はた、あやしのもの、むかし埋しところ也。

こなたさまには見えねども、いはでの森とて、ひがさふせたらんやうなるやまありなど話りて、此翁、いはで山の句やあらん、たうびてと、こゝろありげに聞えしかば、否とこたへて、たゝう紙のはしに、

 

   こゝろにはそれとおもへどおもふことことの葉にえもいはでやまなん

 

とかいてとらすれば、こは歌なりけりなどて、くりかえし/\見もて去ぬ。

 

「おもへどもいはてのやまにとしをへて朽やはてなん谷の埋木」

 

とずんじて過ればいまはた時鳥の鳴たるを、

 

「思ふこと磐手の杜の霍公鳥終には声も色に出にけり」

 

と、いにしへ人のこゝろばへも、かつ、あらはれたるはおかしかりけり。

ゆく/\片岨の梢より、あら鷹の、つばさをならしてとぶに、林の鳥は、うちひそみたり。

げにや、このあたりには島渡りの鷹ありて、すがたもいとよげ也。

其むかし、

 

「みちのく、いはて(岩手)の郡よりたてまつれる御鷹、世になくかしこければ、になうおぼして御手にし給ふてけり。

名をば、いはてとなんつけ給へりけるを、それを、みちにこゝろありて、あづかりつかふまつり給ける大納言に、あづけ給へりける。

夜るひるこれをあづかりて、とりかひ給ふほどに、いかゞし給ひけん、そらし給ふてけり」

 

など、『大和物語』にも見えたりとぞ。

おもひ出られたる。

 

   むら鳥の声うちたえてならし羽にいはでのたかの行衛をぞしる

 

このくれつかた渋民の村(岩手郡玉山村)につく。

 

こゝを、むかしは枯杉とかいひしと。

麻の葉をきりにきりても、とずんじて、

 

   いくばくの旅にしつもるうきことをけふのみそぎにいざはらはなん

 

 

 

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歴史の点と線

歴史について調べていると、いろんなことに出会う。

それは、出来事だったり、人物だったり、場所だったりする。

それらは、それぞれが、点として独立して存在している。

それが、ある時に、点と点が線でつながったりする。

重なったり、交差したり、密接に関係していることが、明らかになることがある。

 

先日のブログで、3人の思想家を取り上げた。

安藤昌益、佐藤信淵平田篤胤という秋田生まれの人たちである。

このうちの、佐藤信淵平田篤胤は、生前すでに高名だった人物である。

ともに、江戸で多くの著作を発表し、評価されていた。

佐藤信弘は、著作は300部8,000巻に及ぶとされていて、いくつかの藩に招聘されたりしている。

平田篤胤もまた、多くの著作を残していて、名著出版から刊行された「平田篤胤全集」は全21巻に及ぶものであり、門弟は500人を越え、没後の門人を称するものは1330人にのぼったという。

これに対して、安藤昌益は違った存在である。

出羽国大館に生まれ育ち、その生涯のかなりの期間を陸奥国八戸で過ごした昌益は、晩年の何年かを郷里の大館に戻っている。

八戸では、多くの門弟に囲まれていたようだし、大館に戻ってからも村人から尊敬されていたようである。

しかし、それはあくまでも限られた地域でのことで、ほとんどの地方ではまったく知られてなかったと思われる。

 

明治31年(1899年)、第一高等学校校長在任中だった狩野亨吉が、安藤昌益の著書「自然真営道」の写本を見出した。

しかし、『岩波講座 世界思潮』に「安藤昌益」を発表し紹介したのは、昭和3年(1928年)のことであり、昌益の死後、150年以上が経過していた。

狩野亨吉は秋田藩大館城の城代家老である父の子として、大館で育っている。

維新後、内務省に出仕する父に伴って、幼くして上京している。

安藤昌益の墓が発見されて、彼の生誕逝去の地が大館であることがわかったのが、昭和49年(1974年)のことである。

安藤昌益を発見した狩野亨吉は、昌益がまさか自分と同じ大館の地で生まれ育った人間だったとは思いもしなかっただろう。

安藤昌益と狩野亨吉という大館にルーツのある二人の人間が、江戸・東京で出会ったと言える。

 

 狩野亨吉は東京帝国大学哲学科に在学中に、英文科在学中の夏目漱石と親しくなり、後に第五高等学校、第一高等学校に在職中に同僚となっている。

京都帝国大学文科大学初代学長として在職中に、内藤湖南幸田露伴西田幾多郎、富岡謙蔵、桑原隲蔵らなどの少壮有為な人々を教授陣に招いた。

この人たちの中で、内藤湖南は秋田師範学校卒業という学歴ゆえに、採用にあたっては反対があったが、押し切って採用している。

内藤湖南は、慶応年間(1866年)陸奥国鹿角郡毛馬内村に、南部藩士の子として生まれた。

秋田県内で小学校訓導を務めたあと、上京しジャーナリストになった。

狩野亨吉と内藤湖南は、たぶん東京で出会い、京都で同僚となった。

 

明治時代、大館のある北秋田鹿角郡は、ともに秋田県となっている。

江戸時代には、大館は出羽国秋田郡であり秋田藩であり、鹿角郡陸奥国鹿角郡南部藩であった。

さらに、戦国時代まで遡ると、大館のあるあたりは陸奥国比内郡であり、鹿角郡と同様に陸奥国だったのである。

豊臣秀吉が、それまでずっと陸奥国だった比内郡を出羽国秋田郡編入したのだ。

ところで、狩野亨吉と内藤湖南について調べていて、共通点を見つけた。

狩野亨吉の父狩野良知は大館城代家老であって、尊王開国論者であり「三策」を執筆しているが、東北旅行をしていた吉田松陰がこれを持ち帰り、松下村塾から出版している。

内藤湖南の父内藤十湾もまた勤皇派であり、吉田松陰に強い影響を受けていたが、東北旅行中の松陰に実際に面会している。

戊辰戦争中に、陸奥国出羽国越後国の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成した。

これは、会津藩庄内藩が朝敵とされたことに対して、赦免嘆願を目的としたものだったが、嘆願が拒絶されてからは、新政府に対抗する軍事同盟となった。

列藩同盟は、歴史の流れとして明治政府への対抗組織になってしまったが、発足の目的は違ったものだった。

各藩の内部には、多くの勤皇派を抱えていて、内情は微妙だった。

秋田藩は、すぐに尊王攘夷派が藩政を握り同盟を破棄し、新政府軍に参加した。

これに対し、南部藩が大館城を攻略した際に、自ら火を放ち、撤退している。しかし、新政府軍側の兵が応援に駆けつけると形勢は逆転し、戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押しもどした。

この大館城攻城戦に、南部藩士だった内藤湖南の父内藤十湾が参戦して、私の郷里岩瀬川のあたりまで進軍し、そこで親友が戦死している。

大館城大家老だった狩野亨吉の父狩野良知は、明徳館詰役支配に任じられて庄内藩との戦闘に出陣し、由利郡の本荘藩領へ進軍している。

大館城落城の際に、幼少の亨吉は姉に背負われて弘前藩領まで避難している。

奥羽越列藩同盟から脱落した秋田藩は、四方を同盟藩に囲まれていて攻撃されたのである。

 

狩野亨吉と夏目漱石は、学生時代に知り合い親友となったが、その親交は生涯続いた。

漱石は狩野を「学長や教授や博士などよりも種類の違ちごふたエライ人に候」と尊敬していたし、漱石の葬儀の時、友人を代表して弔辞を読んだ。

漱石の「吾輩は猫である」に登場する苦沙弥先生は、狩野亨吉と自身をダブらせて描いたといわれている。

私は、小学生の時に「吾輩は猫である」を読んだ。

お年玉で初めて買った数冊の旺文社文庫の中の一冊だった。

吾輩という猫が、飼い主一家の有様を語るという設定の面白さもあり、けっこう気に入って読んでいた。

その後、漱石の代表作といわれるような作品は、文庫本で読んだのだが、あまり面白くなかった。

私の好みではなかったのだ。

 

苦沙弥先生の自宅には、さまざまな友人や知人が出入りする。

そのなかの水島寒月という元教え子である理学士が、寺田寅彦がモデルらしいということを、ずいぶんと後になって知った。

寺田寅彦という名前はよく知られている。

でも、いったいどんな人だろうというと、地球物理学者なのだそうだ。

一時期、青空文庫のある寺田寅彦の随筆を、よく読んでいた。

彼は、明治11年1878年)生まれで、昭和10年(1935年)に、57歳で亡くなっている。

作品は、100年も前のものなのに、文章はとても読みやすい。

内容は、音楽についてだったり、映画についてである。

音楽もクラシック音楽についてなので、蓄音機でレコードを聴いていたようだ。

ラジオについての随筆もあるし、コーヒーについても書いている。

ゴルフ、相撲、チューインガムなんてのもあり、「写真電送の新法」というタイトルを見て、やはり科学者だと思った。

これは、ファックス送信のことなのだろう。

青空文庫の作品リストには、作品番号が304まである。

57歳で亡くなったのを知って、若かったなと思った。

でも、漱石は50歳で亡くなっている。

宮沢賢治37歳、石川啄木26歳という享年を考えると、なんと短命だったことか。

 

歴史上の点は、他の様々な点とつながる。

そんなことをやっていると、きりがなく続いていく。

 

 

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無投票当選

こんなポスターを見た。

無投票

私の住む街の市長選の候補者掲示板である。

もう、投票券が自宅に届いていたのに。

「無投票当選」なんて、私の人生で記憶がない。

「無投票当選」というのがあるのは、知っていた。

でもそれは、よっぽど人口の少ない村や町でのことだろうと、思っていた。

私の住む柏市は、人口43万人であり、中核市の規模の市でこんなことがあるとは思わなかった。

多党化しているこの時代に、市長の立候補者が一人しかいないということがあるのか。

立候補者1名

現職市長の太田和美さんは、四年前に42歳で初の女性柏市長に当選した。

この時の選挙には、立候補者が4人いた。

この四年間、柏市政はどんな状況なのか、新聞を購読してないこともあって、よくわからない。

よほど、懸案事項もなく無風状態なのだろうか。

太田さんは、立憲民主党などの推薦を受けているが、その前職だった秋山市長は、2009年に当時の民主党などの推薦を受けて当選し、3期務めた。

無投票当選の記事を検索していたら、就任後に「柏駅東口周辺の再整備に向け、16年に閉店した旧そごう柏店の跡地購入も決めた。」とあった。

そういえば、東口近くにあった常陽銀行の跡地に、柏市立図書館本館を移転するという計画があった。

それが、財源などの問題があったらしく、いつの間にか立ち消えにになってしまった。

もしかすると、柏市立図書館本館の移転もこれに絡んでいるのだろうか。

 

私が選挙権を得てから、50年以上になるわけだが、これまでにどれだけ投票したのだろうか。

2015年の公職選挙法の改正によって18歳以上に変更された。

もちろん、私が選挙権を得たのは20歳で学生の頃である。

横浜に住んでいたのだが、そこで投票所に行った記憶がない。

それどころか、22歳で就職して、我孫子市に1年半、柏市に1年半、独り暮らししていたが、そこでも投票していない気がする。

その後、松戸市で両親と5年位暮らした。

選挙の投票所は、たいてい公共の施設である。

市役所支所や小学校、中学校などだろう。

ところが、そんなところへ出かけて、投票したという記憶が全然ないのである。

結婚して住んでいた高層の公団住宅のすぐ前に、小学校があって、そこに行ったことは覚えているが、それが初めての投票所だったかもしれない。

私は、政治に関心がないわけではなく、むしろ関心は強いほうだと思う。

いったい、10年くらいの間、私は何をしていたのだろうか。

その後、柏市の現住所に40年近く住んでいる。

自宅から歩いて2分ほどの近隣センターが投票所であるので、わざわざ出かけるということもなく、恵まれている。

期日前投票を利用することもあるが、その場合は車で10分くらいのクリーンセンターまで行く。

 

ところで、選挙ってどれくらいあるだろうと、考えてみた。

国、都道府県、市町村のそれぞれの選挙がある。

国は、衆議院議員参議院議員があり、それぞれ任期が4年、6年であるが、参議院議員の半数は3年ごとに半数を改選する。

ということは、これを選挙の年当たりの回数を計算すると、

1÷4+1÷3≒0.25+0.33=0.58

都道府県は、知事、都道県議会議員があり、それぞれ任期4年である。

同様に、計算すると、

1÷4+1÷4=0.25+0.25=0.5

市町村も、市町村長、市町村議会議員があり、それぞれ任期4年である。

同様に、計算すると、

1÷4+1÷4=0.25+0.25=0.5

これを合計すると、

0.58+0.5+0.5=1.58

となり、単純に考えると、平均して、選挙は1年に1回か2回はあることになる。

議会の解散や知事、市町村長の辞職・失職もあるので、これよりも多いはずである。

 

公職選挙法の改正によって選挙権は満18歳以上と引き下げられたが、被選挙権に変更はなかった。

被選挙権、つまり選挙を経て公職に就任する資格または地位の要件となる年齢は、基本的には25歳である。

しかし、参議院議員都道府県知事については、30歳となっている。

つまり、市町村長については25歳が要件である。

柏市長の太田和美さんは、25歳6か月で千葉県議会議員に当選し、当時千葉県議会史上最年少だった。

選挙で選ばれれば、選挙後1年間はリコールできない。

しかし、無投票当選の場合は、選挙翌日からリコールが可能である。

この数年、都道府県知事、市町村長が、パワハラやらセクハラやらスキャンダルやらによる失職、そして再選挙が多くみられる。

選挙というものは、選挙公報、ポスター掲示板、投票券、投票場要員、開票所要員、など、考えてみるととんでもなく金がかかっている。

通常の場合はともかく、なんとかならなかったのかというようなことも多い。

無駄に公金は使ってほしくないものだ。

 

 

 

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いわてのやま④  菅江真澄テキスト

南にはるかに見やられたるはおどけが杜にて、栗原(宮城県)の三の迫に在り。
この艮に近きは明神山といふ、こは柧木田(ハンノキタ)村(北上市)に在り。
又、躑躅が比良とて口内(クチナイ)邑(北上市)に在り。
はた、まとらのかたに人首(ヒトカベ)(江刺市)の物見山、卯のくまには伊手村(江刺市)の河原山(阿原山)、横瀬(江刺市)なる女国嶋、おくにしまやま、小田代山、巽に見えたるは太田代山、黒石山、長部山、独活の森、こは舞草に在りて、いにしへ(藤原)時平のをとゞを祀りたりしところにて、そのをとゞのもたまひしといふ、観世音をおきて、いま、をとゞの森ともしかいふ。
うどのもりとは、しかすがにみなよこなまりて、うとの観音とはいへり。
いなせの渡りはいづこ、あしこの男岡のかなたを、むかしはわたいたれど、いまは相去リのうまやぢに通ふ岩城(シロ)川といふ。

 

「道奥の門岡山のほとゝぎす稲瀬のわたりかけて鳴也」

 

とは、円位(西行)上人の歌と、もはらこの国にさた(沙汰)せりなど、つばらにかたり聞えてけり。
此ながめおしけれど、日もやゝ西にかたぶけば、翁にいとま申せば、黒川郡(宮城県)の七森、岩(磐)井の郡なる霧山絶頂の、あくろ(悪路)王がすみつるあたりは、秋ならでは見ゆまじきに、又ものぼり来ませとわかれて、楼をくだりてあないのいふ、こたびは左に落んとて、さいたつ。
老法師あせおしぬぐひて、ことなうなど、極楽寺の軒にまくだりに門岡村(北上市)に出て、あない去ぬ。このあたりに、雀の宮といふさゝやかなる社のありと、かねて聞しかば、とひたづねても、いづことしらず。このすゞめてふ名の、しづめおかの神(式内社鎮岡神社)の御名にいさゝか相似たり。
かくいひはぶき、いひあやまれるたぐひいと多し。
いま陣が岡に祀れど、まことしからざるよしをいふ人あり。
鎮、陣、こゑの似たればしかいふにや。
もとも陣が岡もいとふりたるところ、右大将頼朝も、そこに旅寝しおましませしことなどありきと、おもひ出たり。江刺郡の一座鎮岡神社は、埴安の神をあがめ祀ると伝へ聞し。

 

   かしこしなあらぶるとてもぬさとらばこゝろしづめの岡の神籬

 

こゝより手酬奉る。柧木田(北上市)の村をさ及川胤修がもとに、くれて宿つきたり。
あるじの翁、こゝろある人にて一夜を語る。

 

廿五日 空のいとよけん。さりけれど、きのふの水いとふかく、いまだ北上のふなわたりあらざれば、おなじ翁と、ひねもす話りてこゝにくれたり。

 

廿六日 あるじ、つぶねを呼て山路のあないにつけとて、此男の行にまかせ、しりにしたがひて出たつ。
村のうなひめ夏?(ナツゴ)かふとて、このとゞこの中には、かねご多かるなど桑の葉こきかくる。
とゞこは尊しといふこころにや。
科野(信濃)の路にては、たふとさまなどいへり。
かねごは死たるをいへり。
いくほどもなう南部のさかひに入て、黒岩(北上市)といへる村に入くれば、家ごとの門の柱の左右にわらのかたしろを作りて、弓箭、つるぎをとらせて、それがくびより、しとぎやうのものを、すゞのごとくかけたり。
風などをひし/\と人のやめば、かゝる人のかたしろをつくり、もち、だんごにても、家/\にすめる人の数ものして、人ごとに身のうちを撫で、糸につらぬきかけて門にゆひ立ておけるとか。
はた、里などにては阿叫(おたけび)の鬼とて、紙に面のみかいて、にぬり、串にさしはさみて軒にさしてけるも、ふりことならずと、あないのいふ。
このあないにわかれて、かみ川のわたりをし、二子(北上市)といふ村をへて、はいま(早馬)のつかひの行かふは、うまやぢ(北上市宿)になりぬ。
花巻の里近うなりて、頼朝の、槻の木のもとに上箭ふたすぢを射立て、これを神に奉りて、いのりし給ふたるはこゝにて、植槻といふ、今いふ筆塚ならんか。
相しれる伊藤なにがしといふくすしは、三とせのむかしもかたらひてける人なれば、こゝに、うまのつゞみうつころ(正午)つきて、あなひさ(久し)とて、かたりてくれたり。

 

廿七日 あすのためよからんとて、日はしたながら、ひるよりこゝを出たつ。
みち行友の云、かたはあしこと手をさして、晴山(和賀郡東和町)とて、女の乳子を負たるすがたの岩の立たる。
此山にいつのぼりても、午より申かけて、かならずなへ(地震)ふりぬ。
いかなるゆへならん、われ、こころみにのぼりしこと、ふたゝびに及ぶなど。
晴山は負(バレ)山ならん、子などをおふことを負(バ)れるとはいふ也。
宮の目といふ村(花巻市)のこなたに渡りたりしは小瀬川、又の名を瀬河といふは戀瀬河となん。

 

   誰れとなくふるさと遠く恋迫川おもひわたれば袖ぬれにけり

 

八幡の神のおましある村(稗貫郡石鳥谷町八幡)をへて、久曾万留(葛丸)川といふを橋よりわたりぬ。
たが、いかにつけし名ならん。
しかはあれど、ふりたる言葉の、こゝろにくし。はた、そのかみの歌に、くそかづらなどよめり、はた葛の葉を、くぞの葉といへるのたぐひいと多しとひとりおもひて、かつ戯歌をつくる。

 

   行水の神ともならでいつの世にくそまる河の名にながれたる

 

此水上は大瀬川といひ、まほなる名には遇瀬河也けりとか。
旅人ふたり、あせに沾れたるたのごひをひたし、
かれひこをあらひ水をむすひたり。

 

   旅人のまた来ぬ秋にあふせ河あつさもなみのゆふ涼して

 

日くれはてて石鳥屋(谷)に宿つきたり。

 

 

 

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まだ咲いてる夏の花

今日は、朝から陽射しもあって少し暖かかった。

雲がかなりあるので、これくらいなら秋晴れなのだろうか。

この数週間、ぐっと冷え込んで、肌寒い日が続いていた。

我が家のベランダのハイビスカスが、今日も咲いている。

今は、大きな花が二輪である。

ハイビスカスの花期を調べたことがあるが、5月から10月だった。

5月から10月ということは、単純に考えれば半年になる。

だいたい、夏の花の言われているようなものは、5月から10月とか6月から10月まで、となってるのが多かった気がする。

まだまだ、小さなつぼみがいっぱいついいているので、このままいけば11月中旬にも花が見られそうである。

もう花弁が見えていて咲くのを待ってるのもあるし、まだ緑のがくに包まれていているものもある。

今年は、「咲き終わった花を早く摘み取ってしまったほうが、次の花が咲きやすくなる」ということを、妻が花に詳しい人に聞いたということで、それを実行していた

摘み取ることで、株の体力を消耗しないということらしく、次々と新しい花が咲いていた。

摘んだ花は、器にさしたり、浮かべたりして部屋に飾っている。

たった一本のハイビスカスなのに、なんと30を越える花を咲かせてるのだ。

なんという生命力なのだろう、と思う。

 

このように、肌寒くなっても咲いているいるハイビスカスだが、あまりにも気温の低い朝だと、充分に開ききれず、半開きで咲くことがある。

これが、気温が上がってくる昼頃に、完全に開く。

半開きのハイビスカス

そういえば、サボテンの花も、数週間前の寒い朝に、半開きで咲いて、昼頃に満開になっていた。

半開きのサボテン

昼になって満開

我が家のハイビスカスは、オレンジ?だけれど、ほかにも赤、ピンク、黄色、さらに青、紫もあるらしい。

ハイビスカスは、植物の分類上は、アオイ目アオイ科の下位分類フヨウ属 Hibiscus ということになるらしい。

なるほど、フヨウの仲間なのである。

フヨウなら、我が家のある集合団地にもある。

これも夏の花ということになるだろうが、まだ咲いている。

正確には、集合団地に隣接の消防署の建物のそばにある。

暑いころには、何十、もしかすると百を越える花が樹木の全体を覆っていたが、最近はさすがに花がだいぶ少なくなっている。

よく見ると、つぼみはまだたくさんついているのだが、葉っぱが元気がなくなっている。

つぼみも生気がなくなってるものも多い。

この一本のフヨウの木で、この夏いったいいくつの花を咲かせたのだろうか。

今年も、たぶん何百もの花を咲かせただろう。

その花の数だけ、種をつくっているのだろうと考えると、すごい生命力である。

といっても、どんな種なのか、見たことがない。

そういえば、フヨウの大きな木のそばに、小さなフヨウの木が伸びていた。

二、三年くらいになるだろうか。

まったく、手入れする人もなく、雑草がいっぱいのなかに、その一本だけ生まれたのだ。

はたして、これからどのように成長するのだろう。

 

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日本旅行記、訪問記、滞在記の類いについて ⑤ 100年前の世界一周 その一

久しぶりに、近所の図書館別館に行ってみた。

市役所支所のある近隣センターの中にある。

一階の市役所支所の窓口を通り過ぎて進むと、図書館別館がある。

図書館別館といっても、学校の図書室程度のものである。

なので所蔵の書籍数も、それほど多くはない。

とはいっても、自宅から2分くらいのところにあるのは、なんと恵まれていることだろう。

買い物の後に、買い物袋を持って入るのは嫌なので、買い物前に寄ることが多い。

入り口を入ると、新刊書のためのスタンドがある。

反対側に、返却・貸し出しのカウンターである。

さらに進むと、突き当たりの窓の前に閲覧テーブルである。

そこテーブルが、私の定位置のテーブルである。

テーブルの近くの書棚は、千葉県や柏市といった関係の書籍があり、なぜか宗教関係も並んでいる。

 

今日は歴史関係の本をみようと、歴史の書棚に行ってみた。

そうしたら、この本が目についた。

「100年前の世界一周」である。

手にとって、ぱらぱら見ると、写真を主にした旅行記だった。

100年前の旅行記なのに、写真が中心である。

今まで、何回もこの歴史関係の書棚を見たはずなのに、この本に気が付かなかった。

10年以上前に発行されていて、光が丘分館の蔵書スタンプが押されてるので、確かにずっとそこにあったのだろうと思う。

私は、旅行記のようなものが好きで、いろいろと読んでいる。

このブログにも、今回のようなタイトルで4回書いていた。

やはり、写真家が書いた、日本訪問記のようにものについても、何冊か書いた気がする。

「100年前の世界一周」というこの書籍の奥付を見る。

写真・回想録 ワルデマール・アベグ

文 ボリス・マルタン

訳 岡崎秀

となっていて、

発行 日経ナショナル ジオグラフィック社

発売 日経BP出版センター 

2009年11月40日 第1版1刷

である。

表紙カバーにある著者についての説明文には、次のように書かれていた。

ワルデマール・アベグ (Waldemar Abegg)

1873年、ドイツ、ベルリンの裕福な家庭に生まれる。10代の頃から写真を趣味とする。大学で法律を学び、卒業後公務員となる。1905年に休暇をとって世界旅行にでかけ、その時の経験を80歳を過ぎてから回想録にまとめた、ナチズムに反感を抱いていたアベグは、第二次世界大戦後、ドイツ国籍を放棄した。1961年没。



体裁としては、20cm×23cmで238ページである。

その内に、117点の写真を含んでいる。

写真は、1点で、1ページを占めていて、ものによっては2ページに及んでいる。

残りが、文章であるが、ボリス・マルタン氏による解説補足が中心であり、その文の中にワルデマールによる回想録を挟んでいる。

 

この書籍の原本は、いつ発行されたのだろうと、調べてみたら次の書籍が見つかった。

www.amazon.fr

書籍名が、

“Chronique d'un monde disparu 1905-1906: Waldemar Abegg, voyageur et photographe”

となっていて、どう見てもドイツ語ではなくて、フランス語ぽい。

考えてみたら、解説のボリス・マルタン氏がフランス人なので、フランス語の書籍として発行したものらしい。

翻訳すると、「消えた世界の年代記」となった。

発行年が2008年で、体裁も30cm×23cmと日本語版よりも大きく、ページ数は191ページと少ない。

 

この本の目次は、次のようになっている。

グランドツアー

大西洋 広がる水平線

新世界 いくつかの冒険

太平洋 宙に浮いた時間

極東 不思議に満ちた世界

インド洋 憂鬱な帰国

その後の世界

 

最初の「グランドツアー」がワルデマールの生い立ちについてであり、「序章」、最後の「その後の世界」が、彼が世界旅行から帰ってからの人生についてで、「終章」といったところである。

 

ワルデマールは、1903年新しく樹立されたドイツ帝国のベルリンで、生まれた。

兄リヒァルト、姉マルガレーテ、弟ヴィルヘルム、コンラートの五人兄弟である。

法学者の父は、企業と海軍で顧問を務めたあと、銀行の頭取となった。

兄リヒァルトは科学者となったが、ワルデマールは22歳で法学の博士号を取得し、ベルリン裁判所の判事に任命され、ここで3年、次にザクセン州マグデブルクで3年を過ごす。

さらに、シュレージエン地方のヴァルデルブルクへ転勤となる。

そこで4年たったところで、1年間の休暇を申し出て、世界一周の旅に出かけるのである。

表向きの目的は、「非行少年の更生に関する情報収集のための研修旅行」である。

今の感覚だと、1年間の休暇というのは、ずいぶんと豪勢であるが、この頃のヨーロッパでは、驚くようなものではなかったらしい。

兄リヒァルトもすでに、セイロン、インド、ジャワへの大旅行をしていた。

イギリスの上流階級の若者は教育の締めくくりとして、ヨーロッパを旅行していた。

今で言えば、卒業旅行のようなものだろうか。

それが、「グランドツアー」と呼ばれていたようだ。

時代とともに、アメリカ人、フランス人、ドイツ人も同じような旅をする様になっていたのである。

旅行先を、彼はヨーロッパから遠いアメリカ、そして極東を選んだ。

日露戦争で負けて不安定なロシアを避けて、東回りコースではなく、西回りのコースを選ぶ。

旅の友は、16歳からの趣味である写真機を2台用意した。

かつての重いガラス板を使うかさばるものではなく、フィルムが使われるようになっていた。

 

1905年4月、ワルデマールは客船バルバロッサ号一等客室で、ブレーマーハーフェン港を新大陸へ向けて出発した。

バルバロッサ号の乗客は、観光旅行に出かける特権階級の一等客であり、そしてロシアやポーランドの迫害や貧困から逃れて来た人々が、二等三等客室の多くを占めていた。

特権階級の観光客

迫害や貧困から逃れる移民


霧の発生や氷山の一群がすれ違うこともあったが、航海はつつがなく進んだ。

十数日の航海のあと、ついに新大陸に到着する。

1905年4月26日、ニューヨークで、自由の女神の出迎えを受ける。

自由の女神像 1905年4月26日

バルバロッサ号を迎えてくれた自由の女神像は、アメリカ合衆国の独立を記念して、独立を支援したフランス人の募金によって贈呈され1886年に完成した。
ということは、独立から120年経っていたことになるが、ワルデマールが残したニューヨークの写真を見ると、当時の最も先端を行く都市だったのではないか、という気がする。

この後に訪れるアジアの国々と比べると、別世界である。

彼は、ニューヨークに4か月滞在し、ここを起点に近隣の都市や観光地を訪問している。

摩天楼を望む

写真機にとって必需品であるフィルムが、簡単に手に入ることがわかって、一安心している。

そして、ニューヨークの街を歩き回っている。一般的な乗り物はまだ馬車だったが、大通りでは電気で走る路面電車高架鉄道が増えていて、自動車はまだ少なかった。

1905年は、日本では明治38年である。

ニューヨークの街並み

町を歩く人々

彼は、旅の本来の目的である「非行少年の更生に関する情報収集のための研修旅行」についても、調査している。

非行少年が温情をもって扱われ、寛大な刑を受け、感化院においても、鍵をかけて閉じ込めるわけでなく、自由な生活をさせているやり方に、ヨーロッパとの違いを感じ、驚いている。

彼は、ホワイトハウスを見学したり、ナイアガラの滝の見物にも出かけている。

ナイアガラ滝

4か月のニューヨーク滞在後、西に向かった。

ピッツバーグインディアナポリスミルウォーキー、デイトン、セントルイスセントポール

デイトンでは、レジを製造する会社、ナショナル・キャッシュレジスター社の工場を見学している。

このあたりは、ずっと汽車の旅である。

そういえば、大陸横断鉄道というのが、アメリカにはあったなあ、と思ったので調べてみた。

アメリカには、国有鉄道というのはなくて、民間鉄道だったということだ。

1971年になって、航空や自動車輸送に圧迫されて、存続が危うい鉄道を維持するために、連邦政府が介入して、全米鉄道旅客公社 通称アムトラックAmtrak)という公共企業体をつくった。

国鉄を民営化した日本と反対だなと思ったけれど、よく考えたら、日本も日本中にできた民間鉄道を政府が纏めて国有鉄道を作ったんだった。

正確には、1906年鉄道国有法によって大手私鉄17社の国有化し、それまでの官鉄の総営業距離は2,459 kmに加えて、買収して国有化した路線の総営業距離は4,806 kmである。

いろいろな地名が出てくると、頭が混乱してしまう。

州名や大きな都市名は、聞いたことはあるが、位置関係がまったくわからない。

二年ほど前に買った地図帳を引っ張り出す。

昭文社の「世界&日本地図帳」で、昔中学や高校で使っていた地図帳を、もうちょっと詳しくした程度のものである。

こうやって、アメリカの地図をじっくり見てると、今までこんなことをしたことがないのに気づく。

ボストンはこんな所にあったのか、マサチューセッツ工科大学マサチューセッツ州ってここなのか、という感じである。

黒の実線が鉄道で、オレンジ色の実線は道路だろう。

二重線が国道で、単線は州道?だろうか。

黒の実線が鉄道だとすると、国内を縦横無尽に繋がってるように思えるが、これで鉄道のすべてだとすると、国土の広さを考えると、空白地帯は車が不可欠ということになるのか。

たしか、カリフォルニア州だけで、日本くらいの広さだった気がするし。



アイダホ州では、灌漑のために建設されたツインフォールズ滝上流のダムを見学するために、四頭のラバが引く馬車?に何時間も乗っている。

イエローストーン国立公園では、有名な間欠泉オールド・フェイスフルを見物する。

このあたりで、六人の若くて快活なアメリカ女性たちと知り合う。

ポートランドで西海岸に到着し、ここから北上して、シアトル、カナダに入ってバンクーバーを巡り、ロッキー山脈を訪れ、素晴らしい景色を堪能する。

さらに、グレイシャー公園で、約束どおり六人のアメリカ女性と落ち合うというのだが、グレイシャー公園ってどこだろう?

地図を探したら、なんとアラスカとの境のあたりである。

この広い国土を鉄道で移動していたことを考えると、彼の行動力に関心してしまう。

この後も、ロサンゼルス、サンタバーバラ、そしてアリゾナ州のグランドキャニオン

で、その巨大なスケールと豊かな色彩に驚く。

ニューメキシコ準州サンタフェコロラド州デンバー、ここでは、飛行青少年の構成について知るために、判事に面会する。

1905年11月2日、サンフランシスコに到着、高層建築のホテル・サンフランシスコの10階の部屋に宿泊する。

この時代に、10階の部屋ということは、これが最上階だろうか、もっと高い建物だったのだろうか。

ヨセミテ公園にも足を延ばし、ヨセミテ渓谷の巨大な木々、湖、山などを堪能する。

アメリカに着いて半年が経ったところで、アジアに向かうことになる。

ワルデマールがサンフランシスコを去って5か月後、大地震が襲い街は壊滅状態になった。

 

 

 

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