先日火傷(ヤケド)をした。アイロンをかけていたときに、アイロンをのせて置く金具にうっかり手首の内側が触れてしまったのだ。
触れた瞬間に皮膚の表面がパリパリと光沢を帯びていたので、100℃はゆうに超えていたはずだ。
咄嗟に頭に思い浮かんだのは、「火傷をしたら冷やさずにお湯に浸けるとよい」という話である。これは現代の古武術研究家である甲野善紀氏の説である。
どこで読んだかは思い出せないが、検索したらweb上にやはり記事が出てきた。もともとの出典は中国の古い医学書にあるようだ。
常識では火傷はまず冷やすことになっている。氷でも流水でもよいが、とにかく熱いものに触れたのだから冷たいものに触れさせれば双方の刺激によって相殺できる(はずだ)、という理屈だろう。治療学的にはいわゆる逆療法であるアロパシーに属する。
実際火傷をした直後は患部を冷やすと気持ちいい。当面の苦痛から逃れるために冷やすのは自然の生理とも言えそうである。
今回負った火傷もジンジンというあの特有の痛みが出てきたので、たまりかねて思わず水道の水で冷却したが、注意して観察していると流水に浸けた患部がみるみるミミズ腫れのように盛り上がってきた。そのうえ火傷の周辺までピンクに変色し、水から離すととたんに痛みが増すでなないか。
これは何かおかしいと感じ、今度は熱めの蒸しタオルを絞って患部に当てることにした。実際に火傷を温めたのはこれが初めてだったが、やってみると予想以上の痛みである。タオルを当てている間は感覚的に5~10倍くらいの痛みになるが、タオルが冷めたら再び熱湯で絞って当てることを数分間繰り返すと、だんだんと痛みが弱くなってきたのだ。のみならず、あれほどくっきりと隆起していた腫れが再び平らになっている。
大げさでもなんでもなく、「なんじゃこりゃ!!!!????」という感覚である。自分のアタマの中もやはり「常識」に支配されていたのだ。結局その日の午後になっても、翌日になってもまったく痛みがなかった。それから半月たち火傷は冷やすより温めるほうが経過がずっといいことが判明した。
ちょっとしたこと、といえば確かにそうなのだが、この「常識」というものは甚だ厄介なのである。誰もが無意識に「そうだ」と、思い込んでいるもの、この常識のために時には人命までもが危険にさらされる。
昨今のワクチン被害の例を出すまでもないが、今頃になってあれはひどい詐欺だったとか騒いでいる。4、5年前はワクチンを打つのが善で、打たないのは悪という「常識」を構築され、結果ある人たちは不安と恐怖を背景に踊らされ、また別の人々は同調圧力に屈してしぶしぶ踊りに参加させられた。その踊りが死の舞であることを当時嗅ぎ分けた人は全体の1%にも満たなかったと思われる。
私はというと、整体法という非・常識的な死生観によって生活している「異教徒」であるために、ワクチンが善だ悪だという議論を外から冷ややかな目で見ていた。コロナ禍の当事者でありながら、どこか虚構のような感覚もあり自分にとっては外吹く風であったのだ。不便だったことといえば、異教徒であることが不用意に暴露しないよう、ワクチンの是非を問われたときにお茶を濁すのに気を使ったことくらいである。
こと医療の歴史においては常識という暴君の前に築かれた屍の山は累々たるものである。ある程度判断力の具わった(?)成人が自分の意志で選択する医療なら何があっても「自己責任」で済まされるが、幼い子どもたちが親権者の「常識的判断のもと」にくだされた医療で健康を害し、命を脅かされる現実を前にすると、憐れみと共に憤りが込み上げてくる。
例えば、整体を実践している者なら風邪で発熱している子どもに対して、頭部や脇の下を氷で冷やすことがどれだけ危ないことかは知っている。しかし公的機関においては依然として発熱した体は冷やすことが正しい処置として適用されている。
多くの子どもは体力に恵まれ、心身の弾力、回復力に満ちているためにどのような刺激を与えても最終的には良い方に向かうことが多い。だがそうした子どもの力にいつまでも依存して無茶苦茶を続けていたらやがては生命の自然の相を過剰に歪め、破綻に至るのは必定である。
常識という海に遍満する異常に気づかせるものは個人に内在する純粋な「勘」である。この勘というものが一定以上に鈍ってしまった個体や集団は早晩この世界から姿を消すことになるのだ。
しかし世間を見渡すと、家庭の育児からはじまり子どもの教育・医療と称して行われる行為の多くは子どもの勘を鈍くするものばかりである。勘の塊として生まれてきた赤ん坊を日夜せっせと鈍くしておきながら「苦労してやっと育てた」などと言っているのだから考えものである。その姿はさながら地上に増えすぎた人間がネズミの地走り現象のように人口削減に向かって突っ走っているように見えなくもない。
現今の日本は子どもが生まれないということばかりが強調されるが、その陰で、生まれてきた子どもに対する養育力の低下も見逃せないのだ。
しかしどんなに鈍った人の中にもやはり勘は働いているのである。厚い雲の下にいると陽は閉ざされて暗いが、飛行機に乗って空の上までいくとやはり太陽は出ている。
鈍った鈍ったと言っている成人のアタマや体にも自然の摂理は常に働いているのだ。
繰り返すが歪んだ常識の異変に気づかせるセンサーは生命にリンクする純粋な勘なのである。野口整体の本質はこの生命の勘というものを曇った意識の上層を破って曝露させ、さらに磨きをかけるものである、というのが現在の自論である。
その方法が瞑想、…というとすでに手垢にまみれた感があるこの単語もあまり使いたくはないのだが、他に適語が見当たらないので瞑想と言わざるを得ない。
野口晴哉は意識が閊えたら意識を閉じて無意識に聞く(もしくはゆだねる)ことを奨励している。濁った思考に行動を支配された生き物の最後の砦、それが無意識の発露としての勘なのである。この話を読んでどう受け取るかもその人の勘によるだろう。
ただいつの世も本当のことは社会に受け入れられにくい。心理療法家の河合隼雄氏は生前に「真実は劇薬、嘘は常備薬」という言葉を残しているが、この世はどういうわけか真実よりも「○○だろう」という思い込みの方が支配しやすいのだ。何故だろうか。自分にとっては常識にまつわる不思議である。