Sakak's Gadget Blog

写真をきっかけに、人生や仕事、書くことについて考えたことを書いています。名古屋。

文章が溢れる時代に、最後は人に戻っていく

2022年に ChatGPT が登場してから、誰もが、文章を簡単に生成できる時代になりました。私が最初に考えたのは、「これって個人ブログの終わりの始まりなのではないのか」という不安でした。

今のところ、変化が起きているのは、まだ限られた場所だけなのかもしれません。ただ、ブログを読んでもらい、そこにお金が動く仕組みがある場所から順番に、機械が書いた記事が増えていく様子を見ると、「ああ、やっぱりそうなるよね」と、半ば諦めにも似た納得をしてしまいます。資本主義の原則からすれば、あまりにも自然な流れだからです。

今まで、なぜそうならなかったのか。

それは、文章を考えたり、写真を撮ったりする――成果物としてのテキストや写真データを生み出すことを、機械に任せるには、あまりにもコストが高すぎたからです。それが、実質無料でできてしまうようになれば、そりゃ、そうなりますよね。

正直なところ、少しだけ、寂しい方向だなと感じています。

個人が、純粋に個人として記事を書き、仲間内で交流することは、おそらくこれからもできるとは思います。ただ、それを「大きな場所」でやるのは、だんだん難しくなっていくかもしれない。

例えが下手かもしれませんが、インターネットの最大の良さというのは、その「広さ」にもあると思っていました。たとえば、自分で書いた文章が、地球の裏側に住んでいる誰かに読まれるかもしれない(あくまで可能性の話ですが)。この感覚こそが、実は魅力の根底にあるのではないか、と。それがないのであれば、自分の手元の日記で書けばいい、という話にもなってしまいます。

全世界を覆うような広さの場所での文化交流から、地元のコミュニティセンターくらいの広さでしかできなくなるとしたら、どうだろう。それはそれで温かいけれど、かつてのインターネットが持っていた、どこまでも繋がれる解放感とは別のものになってしまう。

とくに、私のように、これといった取り柄があるわけでもない人間にとって、かすかなチャンスがあったとしたら、それは、とてつもなくインターネットが広大だった、という恩恵を受けてきたからこそ、ここまで楽しめた、という面はあると思っています。

ここで、少しだけ、場所の話をしたいと思います。

私は、はてなブログと note の両方を使っています。どちらが良い、という話ではありません。あくまで、使っていて自然に感じる違いの話です。

はてなブログでは、時間の流れがゆっくりです。数年前に書いた記事が、ふとしたきっかけで読まれることがある。フォローしているのは「記事」よりも「人」で、この人は最近、何を考えているのだろう、という感覚で記事を読むことが多い。

一方、note は流れが速い。新着、おすすめ、ランキングといった「今」が、強く前に出てきます。記事は、どこか「流通」していくもののように感じられます

書くときの気持ちも、少し違います。

はてなブログで書くとき、私はあまり「届くかどうか」を気にしていません。書き終えたかどうか。考えていたことを、ちゃんと外に出せたか。それだけを気にして、書いている気がします。

note で書くときは、知らず知らずのうちに、タイトルや構成、反応を意識してしまう。お金を得る仕組みが最初から組み込まれていることもあって、少しだけ、肩に力が入ります(私自身はお金を得る仕組みは利用していませんが)。

こうした違いを自分なりに整理してみると、noteは情報の「流通」を最適化する場所として優れており、一方で、はてなブログは情報の「蓄積」や「移ろい」を許容してくれる場所である、と感じます。これは良し悪しではなく、それぞれの場所が持つ性質の違いなのだと思います。

機械が作る文章が増えていく時代に、どんな場所が、どんな文章と相性がいいのか。

ここで少し補足しておきたいことがあります。

機械が文章を作り出す、という話を書いたので、もしかすると、私が AI に否定的な印象を持っているように感じた方がいるかもしれません。でも、そういうことではありません。

むしろ私は、よく使う側の人間です。

AI は、ある目的――例えば、記事を書きたい、写真を撮りたい、絵を描きたい、そうした行為の一部の工程を担う存在として、もう抗えないところまで来ていますし、実際、とても便利です。

今は、使える人と使えない人の差が見えやすい時期ですが、いずれそれは、「誰でも、いつのまにか使っている」状態に変わっていくでしょう。

AI を一部の工程に使っているか、あるいは、ほとんどを AI に任せているか。そうした議論自体も、いずれ整地され、溶けていくと思っています。社会は、だいたいいつも、そういうふうに流れていきます。

ただ、それはそれとして。

私がここで言いたいのは、誰がその AI を動かしたのか、という主体は、最後まで人間であるはずだ、ということです。どの人が、どんな意図で、どんな距離感で AI を使っているのか。そうした違いは、これからも消えないだろうと思っています。

その点だけ、誤解のないように受け取っていただけたら嬉しいです。

note は、文章を「整える」場所として、とても優秀です。構造化され、最適化され、量産される文章とも、相性がいい。

一方で、はてなブログは、文体の癖や、言い切れなさ、揺らぎを、そのまま置いておける場所のように感じています。完成度が高くなくても、成立してしまう。

機械の吐き出す文章や記事にまみれていく先で、個人がひっそりとブログを続けていくためには、これからどうすればいいのか。少しずつ、考え始める時期に来ているのかもしれません。

なんとなくですが、キーになるだろうと思っていることがひとつあります。

それは、成果物――テキストや写真そのものではなく、「誰が」という、人――アカウント――が、これからはもっと重要なキーになっていくのではないか、ということです。

今日たまたま見つけたこのデータ、ということではなく、
「この人が書くテキスト」
「この人が撮る写真」
「この人が描く絵」

そうした「この人」をしっかりフォローし、それ以外とは区別していく。そんな世界が、より明確になっていくのかもしれません。

ただ、こういう流れは、歴史的に見ると何度も繰り返されています。FacebookGoogle+ でも、承認制にしたり、がっつり囲い込んで楽しむ、という流れが一瞬流行りましたが、結局続きませんでした。サービスとしてもそうですし、使う側のモチベーションも。

ユーザーが望むことと、サービス提供側が収益構造の理由から取り入れたい仕様とが、どうしても相反してしまう。その現実も、よく分かります。

それでも、適度な解放感がありつつ、それでいて「人」を重要視する。そんなサービス設計が、またどこかで生まれてくることを、少し期待しています。

はてなブログが、どのような制御をしているのかは分かりません。ただ、個人をフォローし続けやすいこの場所で、できればこのまま、静かに続いてほしいな、と思っています。

note のほうは、機械が作成したものが溢れていて、「やっぱり、こうなるよね」と日々感じています。お金を得る仕組みが初期からある以上、自然な流れなのでしょう。

おわりに

  • 気持ちよく言葉を紡ぎたい。
  • 多くを望まない。
  • わかる人にだけ伝わればいい。

そういう人の居場所が、これからは、より求められる時代になっていくのではないかと感じています。

文章が溢れる時代だからこそ、私は、「人の気配」が残る場所に、少し長く居たくなる最後は、「何を」ではなく、「誰が」という人に、戻っていくのではないか。そんなことを、漠然と考えています。

とりとめのない話になりましたが、今日はここまで。

 

ケイスケ