ジャーナリスト・メディアライターは、クリエイターであってはならない
半年以上前に自分をクリエイターを称するのは畏れ多いみたいな話を書いた。
商業ライターであるにもかかわらず、クリエイターを称するのが畏れ多いとは何事か、ライターならばクリエイターだろうみたいな指摘を現実に頂いたわけではないけれど、現実問題として、この辺りの感覚に纏わり付く違和感と言おうか、ある種クリエイターとしての矜恃はないのか? などといった胡乱な見方と言おうか、そんな”うまくなさ”が生じる点について、自身想う所がないわけでない。
急に、或いは半年以上経って今更、何故こんな話をし始めたのかというと、最近現実の生活において考えさせられるというか、嗚呼、外様から見るとその辺が理解ができない故にそんな考え方が生じるのかと想わされる場面に出くわしたからである。決してネタ切れではない。もっとも月に一度更新されるかどうか程度の楽書きを記すブログにあって、ネタ切れなんてしようもない。もう少し真面目に更新したらどうかといった課題はあろうけれども。
労畜、商業ライターとして過去ウェブメディアの記事制作を中心に行っており、近年は専らオウンドメディアの一環として地域の情報を記事にしたためている。そうした中、直近にとある地域の活動を行う中で、企業情報(ニュース等ではない)の記事化を検討していたところ、第三者(記事化の対象となる企業は一切関係ない)から労畜が記事を作る意義、つまるところ労畜が作成するからこそ企業にもたらされるメリットは何か、それを新聞社が行うのは理解できるが労畜が行うのは理解できないといった類いの話をされた。
労畜からすれば、寧ろその指摘の意味こそ理解し難く、寧ろ一般的には新聞社が行うことの方が理解できないと想わなくなかったが、さりとてそうした類いの指摘を行う人間側の思想、背景があるのだろうと想い直し、暫し考えていた。結論を言ってしまえば、その第三者の言い分は、いわばクリエイターの考えであり、メディアの考えを理解していないことによる指摘であると理解した。つまり、指摘した第三者は、創作と記録・情報提供の違いを解しておらず、一緒くたにしたからこそ、そうした指摘を行ったのである。
ジャーナリズムの本質は事実確認の規律である。読者や視聴者を誤信させてはならないし、操ろうとしてはならない
上記の書籍の中にある一文である。いわゆるマス・コミュニケーション、メディアの考え方として極めて真っ当であり、本来在るべき形と言えよう。労畜がとある地域の活動の中で計画した記事化は、まさにこの観点によるものである。つまり事実を伝えることを念頭に、そこに労畜という雑音を可能な限り取り入れない形だ。労畜は、メディアに掲載する記事を作成する上で、これまでもその点を意識していた。だからこそ、現在取り組んでいるオウンドメディアの記事において、その仕様上労畜の感性や言葉が含まれざるを得なくなっている点に強烈な不快感と忸怩たる想いを感じている(もちろん、主観を書き殴る前提で運営している本ブログの話ではない)。
一方で、件の指摘を行った第三者は、記事とは筆者の色を出すものという認識を前提としていた。だからこその指摘であった。だが、その考え方は創作の考え方であり、メディアの考え方ではない。いっそメディアでは禁忌と言っても良い、間違った考え方である。第三者はクリエイターであったことから、クリエイターの考えでその指摘を行ったのだろう。確かにクリエイターとしては正しい。だが、その考え方の適用が許されるのは創作物だ。労畜が行おうとしていたメディア--企業の情報を伝える記事--が創作物であってはならない。その第三者は、残念ながら、その思考に至れていなかったのである。

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もちろん、その第三者の話はクリエイターとしてならば正しい。奇しくも今期放送されているアニメ「推しの子」においてクリエイターが描写されているが、クリエイターとしてならば、自分の色を作品に載せ、染め上げるのは、ある種在るべき形である。それこそが創作とさえ言っても良いだろう。だが、メディアとしては駄目なのだ。メディアにおいて筆者の色は雑音でしかないし、筆者の顔などという異物が入ってしまってはならない。
メディアとはどうあるべきなのか。それ自体には様々な意見があろうし、中には筆者の色を出すべきだとする意見もあるかもしれない。だが、”現実に存在する情報を伝える”という本質を念頭に置くのであれば、筆者の色を出すのは適切でなく、未熟と言わざるを得ない。また、情報を求めて記事に触れる人々が求めているのは情報であって、筆者の人格や思想ではない。読み手に求められていない形で、読み手に求められていない情報を読ませるのは、プロの仕事でない。素人と言うのも烏滸がましい程、稚拙と言って良い筈だ。
もちろんメディアを運営している側が、顧客として筆者に筆者の色や思想を求めるケースはあるだろう。顧客に応えるのがプロである以上、そのケースは筆者の色を出さざるを得ない。メディアを運営している側の稚拙によって筆者が稚拙な物を出さなければならなくなるのは悲劇と言える。あってはならないと考えるが、残念ながらそれが罷り通っているのが昨今であり、筆者は自分を落としてでもそれに付き合う必要がある。それは筆者として素人以下かもしれないが、受注者としてはプロであろう。この儘ならさが消える社会が訪れる日を願ってやまない。
少し話を戻すが、今回の労畜と第三者のような認識の齟齬は往々にして起こるし、各々の背景や思想、考えの過不足などによって、理解の溝を埋められないケースは少なくない。今回のケースでは、第三者が何故妙な指摘をしてしまうのか、その背景をすぐには理解できなかったが(付加価値の意味合いで語っていたのは察したが、そもそもの前提がおかしくて、その意味合いであっても筋が通っていなかった)、今後同様の事象が発生したときに即時対応するための気付きを得られた点では、とても良い経験だった。

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