我々は高齢化を甘く見すぎていないだろうか
少子高齢化がのっぴきならない話題になって久しいが、話題になる割にはどうにも危機感らしい危機感がなく、世代間対立の煽動や社会保障費といった金の話に終始しがちである。表面的な話に囚われ、お気持ちに駆られて騒ぐだけ騒ぐ様子は日本人らしいと言えば日本人らしいのだけど、どうせ将来を悲観して騒ぐのであれば、もう少し自身を取り巻く環境の未来というものについて目を向けながら、冷静に刻一刻と迫る未来について思慮してはどうかと思わなくない。
今年に入り、空き家に関わったり、地域活動に関わったりと、これまで余り関わりを持っていなかったというか、いっそ避けていた身近な世界との接点を増やしている。もっともその結果得られたものと言えば徒労感や金銭的・時間的な損失といった負ばかりであるけれど、そういうものかと思いはするし、関わらなければ身を以て知られなかった内容なので、ある種、この損失規模くらいで学べたのだから、それはそれで好かったかもしれないと思いもする。
さて、そんな日々を送る中、度々抱いた感想は、「年寄りしかいない」だ。何処に行っても、誰から話を聴いても、何を依頼しても、そこで出会うのは60代、70代、80代の高齢者たちである。現役世代は日中仕事に出ているのだから、それは当然であり、サンプルバイアスのようなものだと思われるかもしれないけれど、ちらりと触れた通り、依頼してやって来た業者の人々も、その多くが高齢者なのだ。
高齢者数や高齢化率などに鑑みれば、東京都内とて高齢者は非常に多く、何なら地方よりも高齢化の影響は大きく受ける地域が少なくないのだけど、さりとて東京都内であれば、依頼して現れる業者の人々が高齢者ばかりとはならないだろう。この点は、若年者が著しく少なく、働き手を高齢者に依存するよりなくなっている地方ならではでないかと思われる。
見方によっては、地方にはそれだけ元気な高齢者が多いと言えるし、年金に依存しない高齢者が多いとも言えるのだけど、目線を未来に向けるとぞっとする状況である。何せ、運送や電気・水道・ガス、土木・建築、小売といった人々の生活に密接に関わっている仕事の多く、というよりほとんどが高齢者のお陰で成り立っているのである。これが意味するのは、10年後、20年後には、滅びが待っているということだ。
どれだけテクノロジーが発展しようと、肉体労働を完全に代替してくれない限り、人間の仕事が事業を維持するのに必要となる(もっともテクノロジーは安価に利用できるものでないため、いくら発展しようと使われない、あるいは使えない可能性は高い)。つまり、人間が居なければ事業そのものが消失してしまう。需要があれば誰かがやる、と言いたくなる気持ちはあるけれど、そもそもやる人間が居ないのだから、消滅以外の選択肢がない。
昨今、自治体の財源の問題で生活インフラの維持が困難になってきているという話題がある。これについては、住民が意識して、現在の好き勝手辺鄙な場所に住んでいる状態を改めて一所に固まって住むようになっていけば、少なくとも維持費用を抑えられるようになるため、ある程度困難度は下がるわけだけど、肝心の生活インフラを支える人間が居ないのは、どうにもならない。
何せ先述したように、運送や電気・水道・ガス、土木・建築を担っている業者で働く人々の大半が高齢者なのだ。10年後、20年後の世界で、現役な人々は恐らくそう多くない。労畜が見た中だと、特に大工の数が厳しい。建築士は腐る程いるのに、大工がほとんどいない。建築士は若者も少なくない数が見られるけれど、大工は大半が50代以上。50代でさえ若い方である。10年後に家を建てられる職人は、一体どれだけ存在しているのだろうか。
似たような状況が、土木にも存在しているし、電気・水道・ガスといった設備、そして運送にも言える。大工に比べればいくらかマシというだけで、危機的状況にあるのは何ら変わらない。もちろん、高齢化だけがこうした問題を生んでいるわけでないのは間違いないだろう。「コンクリートから人へ」などと血迷った脳無し政策を打ち出した旧・民主党がもたらした災厄の帰結とも言えるのは想像に難くない。肉体労働を蔑む社会のインテリ化も、こうした悲惨な状況を生み出した要因の一つだろう。
いずれにせよ、人々の生活を支える生活インフラと呼ぶべき仕事に従事しているのが高齢者ばかりになっており、10年後、20年後の世界で生活を成り立たせられるかが極めて疑わしい状況にあるのは疑いようもない。もちろん、医療とて多分に漏れず、高齢化が著しい。医師はもちろん、看護師の確保もままならなくなっている。60代・70代の看護師が現役だ。
地域との接点を増やしたこの半年、接点が増えれば増えるほど、高齢化の恐ろしさを感じる。高齢化とは絶滅の道を歩むことだと実感するのだ。承継がままならずに途絶えていった伝統芸能のように、今後は生活インフラが絶滅の道を辿っていく。そんな馬鹿な話があるかと言いたくなる気持ちは察するし、労畜とてそう言いたいが、さりとて生活インフラを支えてくれる業者の人々が消えていくのだから、決して非現実的な話ではない。
こうした状況は、これから子供が増えたところで、どうすることもできないことではある。むしろ一気に子供が増えたところで、今度は子供を育むインフラの整備が問題になるだろう。どちらかと言えば、辺鄙な場所に住んでいる人々を中心市街地に集めて、支え合いやすい街にしていくなど、様々なものをシュリンクさせ、あらゆる負荷を下げていくことを優先した方が良い。何せ、高齢化によって様々なものが絶滅していくのは確定路線だ。生まれるかどうか分からない子供の存在は不確定に過ぎる。
少子高齢化と警告音が鳴り響く割に、我々はそれによって迫っている未来に対する危機感が薄いように感じる。政治にも危機感が余りにも足りていない。世代間対立を叫びながら自己満足のままごとをしている場合ではない。今まさに、我々の生活が成り立たなくなっていっている。生存権の確保が侵されていっているのだ。
高齢化によって、我々を取り巻く環境が現実にどのように変化し、どれだけ生活が成り立たなくなっていくのか、そうした確実に迫っている危機をイメージしなければならないと感じる。政治もそうした危機的な未来を共有し、今ある地域や国民の暮らしを具体的にどのように変えていかなければならないのか、くだらない政治ごっこでも利己的な主張でもなく、適切に現実を語り、国民に行動や思考を促すべきだろう。
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2050 老人大国の現実―超高齢化・人口減少社会での社会システムデザインを考える
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