内田百閒「まあだかい」

 

相変わらずこの人の文章が好きなわけだが、この本は還暦を迎えてからの、いわゆる誕生会と新年会の話がずらずらと書かれているので、この1冊をずっと読みつづけていると、くどいなあ、と思ってしまう。たぶん、1年に1回、新年とかこの人の誕生日に一区切りぶん読むのがちょうどいいかもしれない。自分が同い年になったときに読むと、よりいっそう面白味を感じる気がする。

 

この人のように生きてみたいなあ、と思いつつも、私には錬金術をする力もないし、面白みもないし、文章力もない。かといって、こういう人が近くにいたら仲良くしたいか、というと、それとこれとは話は別だ、とも思う。

「山頭火句集」種田山頭火、「尾形亀之助詩集」尾形亀之助、「誠実な詐欺師」トーベ・ヤンソン

 

学生のとき、俳句や短歌を授業で読んでも、特に何も感じない自分だったのに、何故かこの人の「分け入っても分け入っても青い山」という句だけ、鮮明に記憶していた。そうして、山を見るたびに、私はいつも呟いていた。それなのに、どうしてもっと早く句集を読まなかったのだろうか。めちゃくちゃしっくりくる句が沢山ある。でもそれは、今だからこそ、読むべきだったのかもしれない。私が悩むこと、つらいこと、苦しいことが、もう既にこの人の句に書かれている。この人のような真っ直ぐさで、私は詩や小説を書けているだろうか。この人のように、私にも死に場所は見つかるだろうか。

 

この人が作った本をすべて網羅しているのかしら、たぶん。今まで読んだことのある本ももう一度まとめて読むことで、この人が詩人として生きたことを、また考えさせられる。現実的に、社会的に見たら、どう考えてもこの人は、ダメな人間、なのだと思うのだけれど、じゃあ詩人としてはどうなのか、と問われると、別に悪くはない、と答えてしまうかもしれない。所詮、文学なんて、そんなものなのだろう。詩人として生きた、と言えばたしかに聞こえはいいけれど、それで関わりのあった人たち、何より本人は幸せだったのだろうか。この人の詩を読める今を生きている私は、幸せと言わざるを得ない。

 

ムーミン以外の話を、ようやくはじめて読んだ。始終、冬の灰色の雲に覆われたような、暗いどんよりとした雰囲気の本だった。じっとりとしたまま進み、残り30ページくらいになったら、どう考えても悪いことが起きる予感しかしない、という気持ちになって、なかなか読み進められなかった。まあ、でも、冬が過ぎれば、否が応でも春が来るのだ。明るくはなくても、悪すぎる終わり方ではなくて、ちょっとほっとした。誰か一人に対して誠実であろうとすると、人ってその人以外には簡単に悪になれる。それは、本当に誠実と呼べるのだろうか。万人に誠実である、という姿勢は果たして可能なのだろうか。

ハン・ガン「すべての白いものたちの」、能町みね子「ショッピン・イン・アオモリ」

ずっと、読もうかなあ、と迷っていたら、あの賞のおかげか、本屋に平積みされていたので、手に取ってみた。珍しく時流に乗ってしまった。翻訳された本って、訳されている文章が苦手なのか、元々の文章が苦手なのか、判断がつかない。とどのつまり、この本の文章がなかなか呑みこめなくて、私はこの人の文章と相性が悪いのだろうか、と思ってしまった。まあ、この1冊ではわからないけれど。どちらかというと、詩のようで、そのせいもあって、意味を理解しようとしすぎてしまったところはあるかもしれない。

 

私はまあまあ青森に行く方だと思う。何をしに、と問われると、何だろうなあ、と考えてしまうこともあるのだけれど、遺跡に行ったり、知り合いに会いにいったり。この本を読むと、そうか私も買い物に行っているのか、とハッとする。

本の初っ端から、このお店はあのお店ですね!とにわか青森好きの私は1人で盛り上がる。元卓球部としても、あわ!とテンションが上がる。勿論、知らなかったものも沢山載っていて、それを探しに早くもまた青森に行きたくなる。

青森に住んでいる人は、知っているところが出てくれば嬉しくなるだろうし、青森に行ったことのない人は、青森っていいところなのでは、と青森に行きたくなること間違いなしの本。みんなこの本を読んで、青森に行ってほしい。私はこの本を買うために青森に行くくらい、青森はいいところだと思っている。

森絵都「カザアナ」、小津夜景「いつかたこぶねになる日」、「変愛小説集Ⅱ」

久々に本を読んだ。正確に言うと、読んでいたのだけど、ようやく読み終わった。半年もかかっている。

 

この夏、暑すぎて本を読むことさえままならない(といういいわけ)状態のときに、ぼんやりとしていても読めそうなものを探そう、と思ったら、結局子供の頃から読んでいるこの人の本にしていた。大変読みやすい。読み慣れている、ということかもしれない。読んでいるとドキドキしたり、不安になったりする本がある一方で、この人の本はそういうことが一切なく、展開に安心感もある。この人が書くものに対する、私の信頼感といえる。今まで読んできたこの人の児童小説(YA)、SF、大人向けの小説を積み重ねて、かけあわせて、混ぜあわせたら、たしかにこんな話ができあがる気もする。登場する人物の誰が一番自分に近いかによって、この本の感じ方は変わるのではないかな、と思う。

 

なんだか久しぶりにこんなに美しい文章を読んだ。美しい、という感情はとても個人的なもので、私の主観の美しいが具現化したら、たぶんこういう文章になるのだろう、と変に感動してしまった。言葉の選び方、並べ方、その言葉によって表現するもの、この人が見えているもの、それらすべてが美しく思える。私を通して見えているものと、この人が見ているものが同じでも、見ている部分、感じるものが変わることを、まざまざと感じる。とてつもなく視点がクリアだな、と思う。漢詩にまったく興味を示してこなかった私ではあるけれど、ちょっとここはひとつ、何か読んでみようかしら、なんて思ってしまう。

 

相変わらず変(すごい褒めている)。最初の変愛小説集を読んだときも、変な話がいっぱいあるなあ、と思ったものだけれど、世の中にはまだまだ変な話が溢れている。これからももっと、ちょっともう受け入れがたい(現実には既に受け入れられない話もあるけど)、というような話が生まれてくるとしたら、人間ってやっぱり変な生き物だよなあ、と思う。変な人がいっぱいいることにちょっと安心するし、そういう変な話を書いてもいいんだ、と思うと、気持ちが楽になるなあ。しかし、こういう変な話を作る想像力を持つことって、相当難しい。想像力の限界はどこまであるのか、変な小説を探してみたい。

 

下2つの本は青森に旅行に行ったときに買ったもので、青森はやはり変な出会いを沢山与えてくれる、変な場所なのだなあ、と改めて思う。これはとてつもなく褒めている。

尾崎翠「第七官界彷徨」

 

とあるところで紹介されて、興味をひかれたので読んでみた。

 

少女まんがのような感じ、と言われていたけれど、なるほど、今だったら映画化とかドラマ化とかされそうな気がする。登場人物たちを正常な心理じゃない人たちにしたかったらしいのだが、今ではこういう人がありふれているような気がして(昔よりは許容されるようになったからかもしれない)、だからこそ今、単発ドラマで見たら面白そうだなあ、と思うのかもしれない。

 

小説そのものよりも、最後に載っている、自らでの解説っぽい文章の方を興味深く読んでしまった。この話の書いた方法なんかも書かれていて、それでこんなふうに、1つ1つの場面の個性が強く、ぶつりぶつりと繋ぎあわせたような読後感だったのだなあ、と納得した。場面1つずつが1つの短編小説としても読めるくらい、濃いと思う。