古代史好きなサラリーマンのブログ

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中国の歴史書から紐解く弥生時代の始まり

「日本人は旧石器時代から日本列島に暮らす縄文人と稲作を持ってやってきた弥生人の混血である」というのはよく聞く話です。

 

では、稲作はいつ日本列島にもたらされたのでしょうか?

 

 

 

中国の歴史書にある日本人の記録

1万年前から日本列島には人が住んでいたわけですが、残念ながら文字としての記録は残されていません。

 

一方で中国人は文字で歴史を残す民族であったので日本の縄文時代にあたる時代の記録が残されています。

 

日本列島に関する最古の記録と思われるのが、『尚書』(書経)に「島夷(とうい)皮服(ひふく)す」があります。

 

「島夷」とは、島にいる東の化外(けがい:統治の及ばない地域)の民という意味ですから、日本列島を含んでいると思われます。

 

中国の歴史書に登場する「島夷」に注目していきましょう。

帝堯に派遣されて縄文時代にやってきた渡来人?

中国の歴史書には縄文時代の日本に関する記載があります。

それが、『尚書』という書物で、五経の一つである『書経」の古名で、中国の伝説の聖人である・舜から夏・殷・周王朝までの天子や諸侯のことが書かれてある書物です。

尚書』の堯典篇には「分けて義仲に隅夷に宅るを命じて日く、腸谷に出日を寅賓し、東作を平秩せよ」とあります。

 

つまり、堯(ぎょう)は家来の義仲を隅夷へ派遣して、暦と農業を教えて来なさいと言っているのです。

「嵎」とは隅っこ、「夷」は異民族の意味なので、「隅夷」とは「端っこにいる異民族」となり、「腸谷」とは、日が昇る東の端のことで、日本列島のように思えます。異民族の中でも特に日本列島の人々のことを「嵎夷」としていたようです。

堯がいた頃と言えば、紀元前2100年頃(4100年前)ですから、日本列島は縄文時代後期。4300年前にピークを迎えた人口が寒冷化により徐々に減少していく時代です。

すなわち、「東夷」とは「縄文人」の意味があります。Y染色体ハプログループはDもしくはCであったでしょう。

熊本県本渡市大矢遺跡からは、紀元前2000年頃(4000年前)の縄文土器から稲籾(いねもみ)の圧痕が発見されています。

河姆渡遺跡(かぼといせき)を代表とする長江下流は紀元前4500年(6500年前)以来の稲作地帯であり、そこに堯や義仲がいたとするならば、熊本県東シナ海を挟んで対岸に位置しており、海流に乗って熊本県にたどり着いたと考えられるのではないでしょうか。

 

稲作を教えるために義仲がやって来たわけですが、4100年前の縄文人達の間には、広く普及することがなかったようです。

夏王朝の頃の日本列島

五帝の舜が治水工事で功績を治めた禹(う)に皇位継承したことから始まったとされる夏王朝の時代、約紀元前2000年頃(4000年前)以降に、夷人に関するこんな記述があります。

 

後漢書東夷列伝』「夏后氏太康徳を失い夷人初めて畔く 少康より巳後 世に王化に服す遂に王門に賓せられ その楽舞を献す」

 

太康とは夏王朝の第3代帝のことで、徳を失った結果、夷人が初めて反乱を起こしたとあります。その後時が流れて、第6代帝の少康の時になると、帝に従うこととなり、宮殿に招待されて舞を献上したとあります。

 

この夷人は義仲が稲作を伝えた隅夷とは異なる表記であることから、日本列島の人々ではなく、大陸にいた異民族であることがわかります。

 

では、夷人は大陸のどの地域に住んでいた民族なのでしょうか。

 

夏王朝の末裔が夷人の領主となる

夷を臣下とした夏王朝第6代少康の子はなんと、夷人の国に赴任して領主となります。

魏志倭人伝』「夏后少康の子會稽に封ぜられ斷髪文身 以て蛟竜の害を避く いまの水人好んで沈没し魚蛤を 捕らえ 文身また以て大魚水禽を厭う」

 

この記事は魏志三国志)の著者陳寿が『尚書』の記事を引用したものであろうと思われます。

會稽といえば、後の春秋時代の長江河口の越が成立した場所であり、 越の王は夏后少康を祖とすると自負しており、一致していますね。

 

封ぜられたとはいえ、圧倒的多数を占める庶民は夷人ですので、君主も夷人の風習(斷髪文身)を尊重せざるを得なかったということが書かれているのです。

 

このように、夷人は長江流域に住んでいたということがわかりました。

 

周の時代に登場した倭人

周の時代になるといよいよ倭人が登場します。周王朝の初期であれば紀元前 1000年頃(3000年前)で、日本列島では縄文時代晩期に当たります。

 

『論衡』(卷八、儒增篇) 「周の時天下太平 越裳(えつじょう)白雉(はくち)を献じ…倭人 鬯艸(ちょうそう)を貢す 」

 

『論衡』は後漢の充(1世紀の人物)の著作で、『尚書』などの貸料から引用したのではないかと思われますが、「倭人」という概念が周の時代には既にあったということがわかります。

 

後漢の時代の『説文解字』によると、倭人が周の帝に献上した、鬯艸とは鬱林郡(うつりんぐん)の植物、ウコン、もしくはジャワウコンの事です。現代ではインド起源のターメリックとしてカレールーに使われます。

 

鬱林郡(うつりんぐん)は現在のチワン族自治区です。

日本列島からはウコンは取れませんし、この頃の倭人は日本列島人ではないようです。

 

鬱林郡が中華の支配下となるのは漢の時代のことですので、周の時代には異民族の国です。南方の海南島に住んでいた民族といえば百越か、先ほどの夷人あたりが想像されます。

 

ひょっとすると、倭人は夷人の転化なのかもしれません。

周の2代目成王の時代には、摂政の周公がこのような言葉を述べています。

 

尚書』(書経)「海隅日を出だす率俾せざるは罔し」

 

「左治天下」で有名な周公の言葉ですが、鬯艸の件からすると中華帝国の版図は東シナ海沿岸までつつがなく及んだという意味でしょう。

 

徳を失った夏王朝の第3代本康の時には、反乱が起きていましたが、今は広く天子の徳が行き渡ったということをアピールしているわけです。

 

これらのことから夷人=倭人は長江流域から東シナ海の沿岸部に住んでいた人々であり、後に日本列島に渡来したと考えられます。

長江流域の水稲稲作は紀元前930年頃(2930年前)

佐賀県唐津市菜畑遺跡に伝わります。この頃から長江流域の倭人が新天地を求めて日本列島へやってきたということです。

 

その証拠に長江河口と北部九州の弥生時代の人骨から背椎カリエス(結核性脊椎炎)の痕跡が見つかっています。

 

また、稲のゲノム解析によると稲は朝鮮半島経由ではなく直接中国からもたらされたこともわかっています。

 

紀元前770年(2770年前)には周が弱体化し、春秋時代となっていきますので、この不安定な時代には大陸から大勢の人が日本列島にやってきて弥生文化を形成していったと予想されます。

 

Y染色体ハプログループでいうとO1bであり、いわゆる天孫降臨神話の天津神と呼ばれる民族であり、天皇家の祖先ではないでしょうか。

 

まとめ

・4100年前の縄文時代後期、堯に派遣された義仲が日本列島へやって来て稲作を伝えた。

夏王朝の時代に反乱を起こして夷人は長江流域に住んでいた

・周の時代には夷人が倭人と呼ばれるようになった

・福岡県唐津市の菜畑遺跡は周が滅亡する時代に一致する。