禮奇亭備忘録

戦後教育の歩みと授業づくりをめぐる手控え

三州仕立ての小蕪汁と、子どもの学び

北大路魯山人の小文に「三州仕立ての小蕪汁」という一節があります。

出汁を強くしすぎず、火を入れすぎず、蕪が自ら甘みを開く瞬間を待つ──
その姿勢は、魯山人の料理観そのものです。

彼は、素材の持ち味を最大限に生かすことを料理の本道としました。
一言でいえば、“素材の声を聞く料理”です。

子どももまた、小蕪と同じように、
自分で甘みを開く力を持っています。

しかし、その力が引き出されるかどうかは、
こちらの火加減、味加減にかかっています。

強すぎれば焦げ、弱すぎれば味が出ない。
ちょうどよい火加減・だし加減で、そっと見守る──

そこに教育の核心があります。

ピアジェヴィゴツキーが流れる“加減”の世界

この「加減」を支える裏側には、
ピアジェヴィゴツキーの理論が静かに流れています。

ピアジェは、子どもが環境と能動的に関わりながら、
自ら認知の枠組みをつくり変えていくと考えました。
小蕪が自分で甘みを開くように、
学びは本来、自律的な構成の営みです。

一方ヴィゴツキーは、
子どもが一人ではまだできないが、
大人や仲間の支えがあればできるようになる領域――
発達の最近接領域(ZPD)を示しました。
小蕪の味を引き出すには、
ギリギリのところに出汁を効かせる必要がある。
その“足場”の絶妙さが、子どもの成長を決めます。

教えすぎれば煮崩れ、
手を離しすぎれば味が出ない。

教育とは、この微妙な境界線を読む仕事です。

料理人と教師の仕事はよく似ている

料理人は、素材の声を聴き、
その素材がもっとも美しく立ち上がる環境を整えます。

教師の仕事も同じです。
子どもの声を聴き、
その子が本来持っている味を花開かせるために、
環境を整える。
それが教師の静かな職能です。

昔の板前は、技を経験で盗みました。
しかし今は、理論的な合理性をもとに美味を追求します。

教育も同じで、理論は実践の味を支える“見えない出汁”です。

理論を知らなくても味噌汁はつくれます。
しかし、知れば、もっと深い味を求めることができる。

現場で積み重ねてきた経験を、
もう一度理論の光で照らし直すことで、
子どもの味わいはさらに豊かに立ち上がります。

素材の声を聞くことこそ、教育の本道

新しい技を追い求めることが教育の本質ではありません。

大切なのは、目の前の子どもが発する微かな声を聞き取り、
その子が自分の甘みを開く瞬間に立ち会うことです。

素材の声を聞くことこそが、教育の本道です。

その静かな確信を、もう一度胸に置き直してほしいと思います。

不機嫌は伝染する――和顔愛語という生き方

アランの『幸福論』(1925)に、こんな一節があります。

不機嫌は伝染する。
そして、上機嫌もまた伝染する。

アランは「不機嫌は社会を壊す最初の火種になる」とも述べています。

これは学校現場でも同じです。
生徒も教師も、互いの表情や声の調子に敏感です。
だからこそ、仏教の言葉でいう 「和顔愛語(わげんあいご)」──穏やかな笑顔と思いやりのある言葉──は、教育の根本にあるのだと思います。

さらにこの言葉には続きがあります。
先意承問(せんいじょうもん)」。
相手の気持ちを先に察し、その望みを受け取り、自分が満たしてあげるという意味です。

とはいえ、現場でこれを実践するのは簡単ではありません。
気分が悪いときに笑顔はつくれませんし、頭に血がのぼっているときは、どうしても言葉が荒くなります。

怒る・叱る・諭す──その違いはどこにあるのか

例えば、あなたが書類を出し忘れて上司に呼ばれたとします。

  • 「△〇××□!!!(自主規制)」→ これは完全に 怒っている
  • 「書類は提出しなければダメでしょ!!」→ 叱っている ように見える
  • 「書類は提出すべきものだけど、事情があるなら早めに報告してね。次回は気をつけよう」→ これは 諭している

この三つの違いは、
「自分のため」か「相手のため」か
にあります。

  • 怒る=100%「自分のため」。自分のイライラを発散しているだけで、相手の成長は願っていない。
  • 叱る=「相手のため」だが、途中で「怒る」に変質しやすい。相手が「そこまで言う?」と思った瞬間、それはもう怒り。
  • 諭す=100%「相手のため」。そして相手も100%受け取る準備があるときに成立する。

生徒も同じです。

同じ言葉でも「叱られた」と感じる子もいれば、「怒られた」と感じる子もいる。
だからこそ 先意承問 が必要なのです。

石田勝紀氏の「5つの原則」

教育書の中で、石田勝紀氏は「怒る・叱る・諭す」を次のように整理しています。(出典:石田勝紀『子どもを叱り続ける人が知らない「5つの原則」』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年)第5原則「まず『諭す』。『叱る』『怒る』は非常時のみ」より。)

  • 通常モード → 諭す
  • 非常モード → 叱る(人の道に反したとき)
  • 緊急事態モード → 怒る(今止めないと後悔する場合)

これは、先ほどの三分法とほぼ重なります。

結局のところ、私たちが日常で使うべきは 「諭す」 であり、
「叱る」「怒る」は本当に限られた場面だけなのだと思います。

■ 和顔愛語は“技術”ではなく“選択”である

和顔愛語は、笑顔の技術でも、話し方のテクニックでもありません。
「どう生きるか」「どう人と向き合うか」という選択 です。

もちろん、私自身も完璧にできるわけではありません。
むしろ、できない日のほうが多いくらいです。
でも、

  • 不機嫌をばらまくのか
  • 上機嫌を伝染させるのか
  • 怒るのか
  • 叱るのか
  • 諭すのか

その選択は、いつも自分の手の中にあります。

そしてその選択が、
生徒の一日を、教室の空気を、学校の文化を、
少しずつ変えていくのだと思います。

 

和顔愛語。
先意承問。
怒る・叱る・諭す。
そして、上機嫌の伝染。

どれも難しいけれど、どれも大切な“人としての技法”です。

もうすぐ3学期。

忙しい日々の中で、ふと立ち止まり、
自分の表情や言葉を見つめ直すきっかけになれば幸いです。

生産性=(質+量)×やり方/時間──忙しい学校現場を数式で読み解く

いよいよ新学期。また忙しい毎日が始まります。

少子高齢化、人口減少の時代に突入し、労働生産人口が減少……教員のなり手不足が深刻となり、ただでさえブラックと言われる学校の職場は「忙しい」という言葉では言い表せない状態なのではないでしょうか。

この、働き手が少なくなり多忙化が言われる中、「生産性の向上」という言葉が言われて久しいです。これは、より少ない時間でより良い仕事ができるように工夫し(時間の効率化)、仕事の無駄を減らすために仕組みを改善し(無駄の削減)、その上で成果の価値を高めましょう(成果の質的向上)、ということです。

私たちの仕事がまさにその通りです。人口減に伴う教職員数の削減もあり、仕事の量は私が教職に就いた頃とは比べものにならないくらい増えています。

では「生産性」って何でしょう。労働時間に対して成果がどれだけ得られたのかということです。これは、1時間あたりの投入(インプット)に対する産出(アウトプット)の割合として表すことができます。(※生産性の定義は、日本生産性本部や経済学の基本式(アウトプット÷インプット)に基づきます。)

  私たちの場合、「労働力」と言っても投入し消費するのは「時間」だけです。授業の準備も生徒指導も、すべて「時間」に置き換えることができます。(指導のテクニックなどの、私たちが持っている「資本」を投入(消費)することはありませんから……。ここがポイントです。)

  つまり、このような数式に表すことができます。

  生産性 = 産出量/投入量

      = 付加価値/労働力

      = 付加価値/時間  ……①

ここでいう「付加価値」とは、教育効果のことで、仕事の「結果」と言い換えることができます。
どれだけの学習の範囲に対して、どれだけのクオリティのものを(質)、どれだけ(量)生徒に身につけさせたかが問題なのですね。

そしてそれにはテクニック(やり方)が欠かせません。

  付加価値 = 結果

       = 範囲 × やり方

       =(質+量)× やり方 ……②
ここでは説明のために“質+量”と表現していますが、実際には質と量のバランスをどう取るか――これは、授業者の哲学そのものです。

  ①と②をあわせると、次の式が成り立ちます。

  生産性 = 結果/時間

      =((質+量)×やり方)/時間
  
  これをもとに、私たちの「生産性の向上」を考えてみましょう。
  
「ブラック職場」と言われる一つに、分母が大きくなっていることが挙げられています。しかし分母(時間)は、本来”定数”のはずです。この”定数”を守るために、様々な施策がおこなわれているようですが、実際には残業時間は減っても、持ち帰りが増えている、という実態のようです。

では分子を小さくすることを考えてみましょう。

「量」は、学習指導要領や教科書などで示されるので、これも一応”定数”と考えてもよいと思います。ただし探究的学習をおこなうには、膨大な量的な増加が予想されます。

次に「質」ですが、プロの教師ほど、必要以上に完成度を求めていないでしょうか。「質」を追求することは自分で工夫できる楽しさもあります。レオナルド・ダ・ビンチや左甚五郎の世界ですね。それはそれで素晴らしいけれど、私たちは大村はまではありません。限られた時間の中で自分にできることを見極め、ゴール設定を見直しましょう。特に探究的学習では、これが大切だと思います。

教師の仕事は授業だけではない……そうです。「量」についてもう一度見直してみましょう。それは本当に必要な仕事でしょうか。「みんなやっているから」「とりあえず」ということはないでしょうか。そんなことがあれば、仕事の見直しをしましょう。そのためには、他の先生と調整する必要もあると思います。まわりの先生をまきこんで、学校を変えていきましょう。

「やり方」ですが、これはテクニック(指導技術)です。昔と比べ、先生方が会話する時間が減っているように感じます。指導技術は門外不出のものではありません。効果的・効率的な指導法を、どんどん他の先生に聞きましょう。そして自分に合ったものを身につけていきましょう。指導技術は才能ではなく、共有と経験で育つものなのです。

最後に、限られた時間の中で効率よく仕事を行うには、事前に仕事の進め方を考えていないと無駄や遠回りすることがあります。そうならないように、スケジュールが立てられているか、段取りがされているか、など見直しましょう。これは授業も同じですね。
無駄な動き、無駄な言葉はないですか?授業の私たちの立ち居振る舞いは、茶道のそれと同じだと思いますよ……。

  •  分母(時間)を増やさない
  •  分子(質・量・やり方)を調整する
  • 無駄を減らす

  早く帰って鋭気を養い、忙しい3学期を乗り切りましょう。
  

初釜や ひそかに灰の美しく

新年の風景と初釜

明けましておめでとうございます。

初日の出に始まり、初詣、初夢、初湯。定番の初笑いを謳ったバラエティー番組。このお正月、いかかお過ごしだったでしょうか。

1月7日頃までは松の内と言って玄関に松飾りを飾り、その後鏡開きがあります。この頃寒稽古や初釜が行われますね。初釜とは、正月を迎えたことを祝い、元旦に汲んだ若水を使って行う新年最初の茶会のことです。お菓子は花びら餅が出てくるとちょっと嬉しいですね。

 AI俳人と人間の役割

冒頭の句は、初釜という華やかな場で、あえて灰の美を詠んだところに侘び寂びが感じられます。

これを詠んだのは一茶。と言っても小林一茶ではなく、北海道大学の川村秀憲教授が開発したAI「一茶くん」です。「一茶くん」は、江戸から現代まで古今の名句と季語にちなむ写真を学習し、句題か写真を示すとそれに即した俳句を1時間に14万首も詠むことができます。しかし「残念ながら玉石混交です。だれか人の手を借りて選ばないと、多すぎて句会が台無しになります」。(朝日新聞天声人語」2020.1/4)

AIは、見えたものや聞こえたものなどを含む膨大なデータを処理して判断し会話することや、決まったルーティーンを繰り返し早く正確に答えを導き出すことができます。ですから将来、行政書士等の専門職やファミレス等の接客はAIに取って代わられるだろうと言われています。

その一方で、学習していないことでも自分で考えて判断し実行すること、抽象的にものごとを考えること、善悪や美醜の判断をし行動につなげること、人の気持ちを汲み取ることなどがAIは苦手です。

ですから「一茶くん」は膨大な俳句を作れても句の善し悪しはわかりません。善し悪しを決めるのは人間なのです。(正岡子規の「月並」や戦後の「第二芸術論争」を思い出しますね。この手の論争はマンガ等の「名作は存在するか」というテーマで時々お目にかかります。)

 教育の使命と願い

今度の学習指導要領改訂に向けて、AIが苦手な、「問いを立てる」というような、学習していないことでも自分で考えて判断し実行することを特に重点的に指導しようとしているような気がします。反面、善悪や美醜、人の気持ちを汲み取る等は「道徳」に丸投げしようとしているように思えてなりません。

同じものを見ても、サングラスの色が違えば異なる色が見え、同じ情報を分析・処理しても、ソフトが違えば処理結果は異なります。大切なのは、(何が「正しい」のかはさておいて)正しい結論を導き出すには、正しい人生観、生命観、価値観、倫理観が形成されていなくてはいけない、ということです。

生徒たちに良いことと悪いこと、美しいことと醜いこと、変化し続ける心の襞を汲み取り手を差し伸べることは、人間しか教えることができないことだと思います。

私たちは、財界や経済産業省の要望に添った人材を育成する一方で、それ以上に、人としての心を耕していかなくてはいけないと思います。(だから文学的文章の指導が極端に減少する昨今の傾向を国語科として危惧しています。)

人に人の心を教えるためには、まず教える側の心のありようが問われます。何が正しいのか、何が美しいのか、人情の機微に触れるとはどういうことなのか、背中で教えることができる教師になりたいと思います。そのために、これからも自らを見つめ、高めていきたいと思います。

今年も本ブログをよろしくお願いいたします。

2025年教育を振り返る③ ―― 学びの変化

探究的学習の成果と課題

2025年の学びの変化は、成果と課題が同時に浮き彫りになった一年でした。

文科省が「質の高い探究的な学びの実現」を掲げ、課題設定→情報収集→分析→表現の4ステップを明示して以来、探究的学習は全国の中学・高校で定着しつつあります。

確かにマスコミ等では、探究的学習の成果として「○○中学校では○○を題材に学習に取り組み、ユニークな発表を行った」というような報道がよく見られます。教科の探究的学習では無く「総合的な学習の時間」での探究学習が主なものです。発表会はとてもビジュアル映えし、「子どもが自分の興味から課題を見つけ、調べて発表する」という物語は、視聴者に分かりやすく共感を呼びやすく、しかも「主体的に学ぶ」というイメージは教育改革の成功例として報じやすいからです。

探究的学習の光と影

報道のイメージ vs 現場の実態

一方、日常の地道な探究活動は絵になりにくく報道では省略されがちです。また探究で得た力が教科の基礎学力にどう結びついているかはほとんど触れられません。しかも特殊で華やかな事例をもつ学校が報道される傾向があります。調べる過程でどのような失敗があったか、どのように試行錯誤し、生徒にどのような成長があったかが報道されることはほとんどありません。「やってよかった」「面白かった」という生徒の声はよく取り上げられますが、「やってみているが手応えがわからない」というのが現場の本音でしょう。

本来探究的学習は、過程を重要視すべきものです。従って評価のために、ポートフォリオ等、生徒の成長の記録を細かにとる方法が考えられています。しかし「ポートフォリオの記録に1人1時間かかる」といった声があがっています。また「評価基準があいまいで保護者対応が難しい」といった規準のあいまいさや公平性の問題もあります。

探究的学習の困難さには、成果の可視化や支援体制の整備が課題なのです。「探究学習=子どもの興味関心をもとにした発表会」のイメージを社会がもち、それに応じざるをえない状況に追い込まれている学校も多いのではないでしょうか。

PISA型学力・全国学調への期待と現実

OECDPISA調査は、単なる知識量ではなく「読解力」「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」を通じて、実生活や社会の課題を解決する力を測定するものです。また全国学調も近年は「知識の活用」を問う問題が増えており、探究的学習で育つ力と接点があります。
探究的学習は、生徒が自ら問いを立て、情報を収集・整理・分析し、成果を発表するプロセスを通じて、主体的・対話的で深い学びを育てようとするものです。これはまさにPISAや全国学調が測ろうとしている「知識の活用力」と一致しています。つまり、探究的学習の成果が上がれば、PISA型学力や全国学調の成績向上につながる可能性が高いと考えられています。

しかし、探究的学習に積極的に取り組んでいる学校や地域は、必ずしも全国学調の成績が高いわけではありません。むしろ、複数の県で報告されているように徐々に低下しつつあるところもあるようです。なぜでしょう。

確かに、新しい学びを導入した直後は、従来型の学力指標が一時的に低下するということもあります。しかし伝統的に探究的学習に取り組む伝統のある県にそれはあてはまりません。探究に時間を割くことで、従来型の演習や反復練習が減り、基礎的な知識・技能の定着が弱まったことと、探究で培った「問いを立てる力」「情報を分析する力」が、教科の力として転移していないからなのではないでしょうか。

次世代教育の核心課題

探究的学習は、PISA型学力や全国学調の成績を押し上げる潜在力を持つ教育改革の柱です。ただし、成果を定量的に可視化し、評価方法を整えることが不可欠です。

マスコミ等では、探究的学習が総合的な学習の時間等の「独立した活動」として紹介されています。しかし現実問題として、基礎学力との橋渡しが弱いため、学習の転移が十分に起こっていないのではないでしょうか。つまり、探究で育った力が全国学調の問題に活かされるまでの、各教科の具体的な指導方略や、基礎・基本と探究的学習との指導のバランスこそが課題なのです。

次期指導要領改訂の方針の一つとして、「知識・技能」と「思考・判断・表現」の2観点に集約するという方向が出されました。これは探究的学習を制度的に取り組む試みであるような気がします。しかし依然として「成果の可視化」はどうあるべきか、という課題が残っています。

もし今後PISAや全国学調の成績が思わしくなければ……マスコミは探究的学習を「失敗の原因」として批判する危険性があります。これはかつての「生活単元」や「ゆとり教育」の繰り返しです。

2025年の学びの変化は、「探究的学習の定着」と「基礎学力の弱まり」という二重課題に象徴されるように感じます。政策・制度と現場・学びの連環をどう設計し直すかが、次世代教育の核心課題だと思います。制度設計と現場実践の橋渡しが必要なのです。

 

具体的に探究的学習をどう教科学習に取り入れるかは、「国語教科書を探究的学習に活かす」シリーズをご覧下さい。

……本年もご愛読ありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。

2025年教育を振り返る② ―― 現場の変化

教員の働き方改革や部活動改革の進展

教員の働き方改革

1980年代後半から1990年代にかけて学力低下論や校内暴力問題、モンスターペアレント問題などを背景に、マスコミを中心に教員への社会的批判が強まり「教員パッシング」といわれる時代がありました。しかしバブル崩壊後、教員採用試験の倍率は高く、「教員は安定した人気職」というイメージがありました。就職氷河期には「なりたくてもなれない職業」として憧れの対象でもありました。

しかし2000年代半ば以降、教員の長時間労働や過重な業務が問題化し、メディアでも「過労死ラインを超える教員」「部活動顧問の過重負担」が繰り返し報道され、「ブラック職場」という言葉が定着しました。

この言葉が定着して20年経ちました。今年は法改正や業務量の適正管理など、国や自治体がようやく動き出した年でもあります。これにより改善傾向はあるものの、依然として月平均約47時間の超過勤務が報告され、精神疾患による休職者数も過去最多を更新しています。OECD諸国でも教員の長時間労働は問題視されていますが、日本は突出しているのです。

みなさんはどう感じているのでしょう。もし仕事を減らすとしたら、授業準備・事務・部活動など、どの業務を減らしたいですか?

部活動改革

教員の長時間労働が問題視され始めた2000年代、「ブラック職場」の一貫として話題に上るようになりました。そして2010年代半ば以降、生徒の強制参加、過度な練習、顧問の休日返上などが社会問題化しました。この時にメディアや教育学者が「ブラック部活」という言葉を使い始め、2017年頃に定着します。

そして2020年代。「ブラック部活」批判を背景に、スポーツ庁が「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」を策定(休養日確保、練習時間制限など)。部活動改革(地域移行・地域展開)が進められはじめました。

2025年度の調査では、休日部活動の約半数が地域クラブへ移行済みとなりました。今後休日の部活動を地域クラブへ移すことが原則となり、平日も段階的に地域展開が進められています。

現在は「学校から地域へ」という大きな流れの中で進展しており、2026年度からは「地域移行」という言葉を「地域展開」と改め、全国的に本格実施に入る予定です。しかし指導者不足や財源確保、吹奏楽や美術の文化系活動の受け皿など、問題が山積する中、「移行」ではなく「展開」とした場合、教員の負担は本当に軽減され、「展開」という言葉が示す理念に、現場はどこまで近づけるのでしょうか。

来年度以降、部活動の地域展開はいよいよみなさんはどうなると思いますか?

現場の声を届けるには?

校内暴力、学力低下、過労死ライン超えなど、まずマスコミで「危機」が強調され、保護者や世論が「何とかすべきだ」と声を上げ、社会問題化。やがて調査や審議会を経て、10年単位で制度改正やガイドライン策定が行われる。……結局、改革が現場に届くまでに時間がかかり、教員は「待たされる」「疲弊する」という状態が続いてきました。

現場の声が、制度・政策に反映されるまでには10年近いタイムラグがあります。これは「統計」や「調査報告」に変換される過程で温度感や切実さが失われることや、政策決定の場に現場教員が直接参加する機会が限られているのが主な原因だと思います。

現場の声を直接行政に届けるには、どうしたらよいのでしょうか。

現場の声は「組合的な発言」と考えられ、思想的・政治的なものと見なされ忌避されてきた歴史があります。まず、これを思想的・政治的なものではなく「教育の質を高める」ためのものと位置づける必要があります。

行政は議会に弱い → 議会は大衆に弱い → 大衆はマスコミに弱いといわれます。ですから、教員が直接マスコミに訴えることは政策に影響を与える有効な手段の一つです。2015年末から2016年にかけて、インターネット署名サイトで「教師に部活の顧問をする・しないの選択権を下さい!」という呼びかけが広がり、短期間で2万人以上の署名が集まりました。これは文部科学省にも提出され、部活動改革の議論を後押しする契機となりました。複数の教員の声を束ねて「現場の証言集」として報道に載せるなど、組織的・集団的な形で発信することも安全で効果的な方法だとは思います。

しかし最も直接的な方法は、自治体等の協議会に現場教員が直接参加する仕組みを強化することです。現在は「行政」の方と、現場を知らない「評論家や研究者」、意識の高い「保護者」、教育現場代表として「校長(校長会長や退職校長など)」が参加しています。これをもう一歩進めてほしいと思います。

みなさんはどう考えますか?

 

現場の声が届く仕組みをどう作るか――これが2026年への最大の課題です。

次回は「学びの変化」です。

2025年教育を振り返る① ―― 政策・制度の動向

はじめに

ブログ「禮奇亭備忘録」を8月から初めて、4か月が過ぎようとしています。多くの方にアクセスをいただき、誠にありがとうございました。

さて、2025年も教育政策・現場・学習の各領域で大きな動きがありました。3回にわたり、一年を総括し、2026年への展望をしたいと思います。

学習指導要領の改訂に向けて

2025年は、次期学習指導要領の改訂に向けての議論が本格化しました。その中で、グローバル化・デジタル社会・多様性の拡大といった社会変化に対応する必要性が強調されました。

私が特に興味をもったのは、指導要録の評価を2観点に整理するという方向で議論されたということです。つまり「知識・技能」「思考・判断・表現」の2観点で評価するというものです。(文科省資料(2025年7月)出典はこちら

これは、観点別評価の複雑さを減らし、教師の負担軽減と生徒の学びの改善につなげることを目的としています。

「知識・技能」「思考・判断・表現」はある程度「できる・できない」の評価をすることができます。しかし現行のものは「主体的に取り組む態度」にもABCの評価がつけられ、これら3観点の総括によって1~5の評定がつけられています。これが2観点となると、特に五教科の場合は、ほぼテスト点のみで評定をつけることも可能になるわけです。

教師にも生徒にも簡素化の大きなメリットがあります。一方、学びの多様性をどう評価に反映させるかが今後の焦点となります。

みなさんはどう考えますか?

教育DX(デジタル化)とAI活用の進展

デジタル教科書

GIGAスクール構想の端末整備に伴い、次期指導要領までに「紙と同等の正式な教科書」としてデジタル教科書を位置づける方針が示されました。しかし、北欧や韓国など、先行してデジタル化を進めた国で「学習定着率の低下」「健康面の懸念」などを理由に、紙の教科書を重視する方向へ揺り戻しが起きています。

特に国語はテキストの俯瞰性・一覧性の面で読解を困難にする可能性が高いように感じます。世界的な揺り戻しを踏まえると、紙とデジタルのハイブリッド利用が現実的な姿になるのではないでしょうか。しかし財政的に併用を無償化できるかは未定です。

もし財政的な理由により、紙かデジタルか一方のみが無償化の対象として採択されたら……現実問題として、紙とデジタルの併用は可能になると思いますか?

AIの活用

教師不足や長時間労働の軽減に対し、AIを活用した業務効率化や個別最適化への対応などが言われています。しかし現実は理想にはほど遠く、部分的に移行に進んでいる段階です。更に地域格差もあり、政策的支援が必須でしょう。

それ以上に問題となるのは、倫理・ガイドライン整備です。学校への活用より、中高生の方がはるかに進んでしまっています。そのため、中高生によるAIの不正利用が急激に増加しています。

生成AIを使ってレポートや作文を丸写しする、数学や英語の課題をAIに解かせて提出するなどの不正利用。画像生成で「ありもしない写真」を作りSNSで拡散する、ディープフェイク動画を使った悪ふざけや誹謗中傷をするといった偽情報の拡散。AIで作ったイラストや音楽を「自作」として投稿、あるいは他人の作品をAIで加工して無断利用するといった著作権・倫理違反。AIチャットを使って相手を模倣してのなりすまし、あるいはAI生成の文章や画像で同級生をからかういじめや嫌がらせなどです。

これらの中で問題行動レベルのものは、学校毎の生徒指導の対象となるにとどまります。犯罪レベルのものはマスコミ等で話題となりますが、未成年であり個人や学校の特定を恐れるためあいまいな報道になっています。教員の不祥事ほどは世の中に広がらないのです。

AIはとても便利な思考のパートナーです。ただし、その力を活かすのは人間の問いかけ次第です。教育の可能性を広げる一方で、未成年による不適切利用が急増している現実を直視しなければいけません。理想と現実の間にあるこのギャップを埋めるのは、技術ではなく、倫理と教育の力だと思います。

みなさん、AIの進歩に学校でのリテラシー教育は追いつけるでしょうか?

少子化対応や地域教育格差への施策

少子化による学校統廃合は避けられない流れです。特に地方では「1学年数人」という小・中学校も増えています。そのため、複数校を統合して「小規模校の集約」が進められています。また都道府県レベルでは、「定員割れ」が常態化している高校を統合する動きが加速しています。中央教育審議会の答申(2025年)でも、少子化に伴う大学進学者数の減少を見据え、大学の統合・縮小を進めつつ「地域の知の拠点」を維持する方針が示されています。

少子化により「大学全入時代」と言われるほど、希望すればほぼ大学に進学できる状況です。ただし、進学率が高まっても地方では進学先の選択肢が限られているというような「地域格差」や「大学の質の格差」は残っています。これは日本だけでなく世界的な流れのようです。

入試のハードルが下がるこどで、学習習慣の弱体化やモチベーションの低下が進むのと同時に、学びの多様化、個別最適化の可能性が高まっています。「みんな違って、みんないい」ということは、学力が低くても高くてもかまわない、ということにつながってしまいます。ですから、学び直しや探究心をどう育て、どう評価するかが課題となります。一歩間違うと、学力の二極化が一層進むかもしれません。

そうならないためにも、統廃合後の通学支援(スクールバス、遠隔授業)や、大学の地域連携(産学官連携拠点化)など、強力な政策的な支援が必要でしょう。少子化は教育の量を減らすのではなく、学びの質を問い直す契機としなくてはいけないと思います。どう乗り越えるかは、探究心を育てる教育の力にかかっているのです。

SFの古典、H.G.ウェルズの『タイム・マシン』(1895年)では、人類が「支配する側」と「支配される側」の二層に分離してしまう姿が描かれています。教育の二極化は、このSFのような未来につながるのでしょうか。この未来を避けるために、私たちは何をすべきでしょう。みなさんの考えをお聞かせください。

 

次回は、現場の変化についてです。