2024年の私的交友における再会を振り返って
はじめに
年末ということで、今年を振り返っている。
何よりもまず、今年ご縁のあった方、お世話になった方々に感謝を伝えたいな、と思った。
本当に、ありがとうございました!!
本稿の以降の文では、今年仕事や家族・親族以外で多くの人とお会いすることができた件について綴る。
経緯および2024年の再会人数
さて、私はもう中年の年代だが、昨年の11月を皮切りに、むかし縁故の会った人たちと積極的に再会しようという機会を作っている。
性格的にムラがあるもので、なかなかコンスタントにとは行かなかったが、それ以前の十数年に比べれば、今年は格段にプライベートで人と会う機会が多かったと言えるだろう。
ざっくり数えたところ、家族・親族を除いてプライベートで90名ぐらいの人たちと再会できたようだ。
中には10年ぶり20年ぶりの再会となった人も多い。逆に言えば、よくもまあ、それだけ放置したものだ……。
もちろん、集団での飲み会や、大きめの同窓会的なイベントで会った人も人数としては多いので、一人ひとりとじっくり話せたわけではない。
改めて、なぜ人と会うのか
この問いについては、何度か会った人に直接聞かれたこともある。
正直に答えようとすると、かなり自分の内面に踏み込むことになるので、実はやや答えづらい問いでもあった。
ここに書ける範囲で記すと、以下のようにまとめられるだろうか。
- 疎遠になってしまっていた人とのつながりを取り戻したいと思った
- 人の話を聞くのが好きだから
- 「年に1回ぐらいは会ってもいいんじゃない?」って話
1.については、コロナ禍前ごろからSNS含めて人との連絡を疎かにしていたので、その反動のようなものと言えなくもないかもしれない。
この辺りの下りについては、下の記事でも触れた。
2.については、特に知らない世界の話を聞いたり、想像もしなかったようなエピソードを聞くのが特に好きだと思う。 そういった話は、趣味の小説創作にも活かせそうだ。
3.については、今年の2月にそのままのタイトルの記事も書いた。
実際には、縁を持った人全員に会おうとすると年をまたぐことになるが、その中でも年に1回は会うような間柄の人がいるならば、その関係性は大事にしたいものだ。
感謝されることが多かった
今年は私自身が能動的に働きかけて、高校や大学でのつながり、過去の職場などと色々な関係性で同窓会のようなイベントを実施する機会がたびたびあった。
良かったことの1つとして、会った人が口々に「ありがとう」と言ってくれたのが特に印象的だった。
こちらが好きでやっていることなので、むしろこちらこそ参加してくれてありがとうなのだが、まあ、彼彼女らがそう言いたくなるような気持ちもわかるような気はする。
こういうの、自分からやるの面倒だし、少しメンタル的にハードルもあるよね。
実際に会った人に話も聞いたが、私と同じように、昔つながりのあった人たちと疎遠になってしまったという人も多いようなのだ。
会った人に言われたことなど
長年遠ざかっていた人から急に連絡が来たら「何かあったのかな?」と思うのが普通だろう。
私から久しぶりの人に連絡を取っていたら、まあ、だいたいそういう反応になるよね・・・っていうことはあった。
直に会った人には次のように言われたことがあった。
「同級生スタンプラリーしてるのかと思った(by 元クラスメート)」
「死ぬまでにしたい100のことでもやってるみたい(by 元上司)」
また直接言われたわけではないが、人づてに「あいつ急にどうしたんだ? もうすぐ死ぬんじゃないか」みたいに言われていたとも聞いた。
おかげさまで健康そのものです(笑)
思うところ
今年の8月に、しずかなインターネットにポエミーな文を投稿した。
これは今の自分の心境と近い。
どうにも遠い道を歩いている人もいれば、いつかその道がまた交じり合うこともあるかもしれない。
あまり遠い人を追い求めても仕方ないし、今年会えなかった人とも、またどこかで会えれば良いなと思う。
来年以降に向けて
来年は今年ほど多くの人に会えるかわからない。
正直、今年ほどの熱量で積極的に動くことはないだろうと思う。
とはいえ、せっかく取り戻せたつながりが多くあるので、それは大事にしたいと思う。
基本的に私は人と会うことにポジティブで、最近は暇さえあれば小説を書いているぐらいなので、何かあればぜひ声を掛けてほしいと思う。
むすびに
駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました!
今年会えた人も会えなかった人も、1年間お疲れ様でした。
12月はまだあと3週間ぐらいありますが、上手く乗り切ってお互いに良い年を迎えましょう。
では、また。
今後の人生のどこかで。
人の間の物理的な距離と心理的な距離
「距離感」=「心理的な距離」
さて、最近書いた2つのエントリでは、人間関係における「距離感」に関しての私見を述べた。
これらの記事で述べた「距離感」というものは、現実世界の目に見える距離とは異なり、実体のないものだ。
いわば、「心理的な距離」だということができるだろう。
〝近い〟あるいは〝遠い〟と感じるかどうか、そして、それがどの程度かという問題だ。
「物理的な距離」
狭義
これに対して、現実世界で直接観測できる、目に見える距離感を「物理的な距離」と言えるだろう。
ある瞬間を切り取ったときに、近くにいるかどうかということだ。
本稿では、これを〝狭義〟の「物理的な距離」と呼ばせてほしい。
広義
私が考える「物理的な距離」は、みなさんがぱっと思いつく意味合いよりやや広めだろうと思う。
生活を同一にしている者や、職場の同僚でよく一緒に仕事をするような間柄も、「物理的な距離」が近いと言って差し支えないのではないだろうか。
これは〝狭義〟の「物理的な距離」に、接触時間、あるいは接触機会の概念を加えた概念になる。
これを〝広義〟の「物理的な距離」としよう。
例えば、マンションで隣の部屋に住む住人とは〝狭義〟の「物理的な距離」は近いだろう。
しかし、その隣人と一度も話したことがないならば、〝広義〟の「物理的な距離」としては近いとは言えない。
きっと、「心理的な距離」も遠いだろう。
これに対して、住所が遠く職場も異なるが、例えばサークルの会合で週に一度定期的に会うとか、そういった間柄であれば、〝狭義〟の「物理的な距離」が近いのはそのときだけだろうが、〝広義〟の「物理的な距離」も比較的近いと言えそうだと思う。
ここまでの話は、みなさんの多くにも受け入れられるのではないか、と期待する。
広々義*1
上の考えを更に発展させて、オンライン上での交流の機会も含めた概念までもひっくるめて、より広い意味での「物理的な距離」としたい。
オフラインで実際に会う機会は滅多にないが、ビデオ通話や普通の電話、電子メールやSNSといったオンライン上ではよくやりとりをしている、というケースを考える。
その人達は「心理的な距離」も近いだろうし、オンライン上でのやりとりはそれが現実に表出した形だと言えるだろう。
2つの「距離感」をすり合わせること
さて、最近の私が大事なのではないかと思っていることは、この「物理的な距離」と「心理的な距離」をなるべく近づけることである。
逆に、それが乖離した状態というのは、例えば次のようなことだ。
- 嫌いな相手とずっと一緒にいなければならない
- 親友だと思っている相手と、もう何年も連絡を取っていない
なんとなく、これは健全ではない感じがする。
冒頭に挙げた記事の1つ、〝「日常」と「無関心」の間〟では、進学、就職・転職、結婚、引っ越しなどといった人生の転機における人間関係の変化について触れた。
これは本稿で定義した言葉を用いて、「周囲の人々との『物理的な距離』の変化に伴って、『心理的な距離』にも変化が起こる」と述べることが可能だと考える。
家族、クラスメート、部活仲間、職場の同僚、……。我々の人間関係のベースになるのは、まずは「物理的な距離」の近さに由来するものが多いだろうと考えられる。
それが、先の記事で述べたように、ライフステージの変化などのイベントで疎遠になったり、断絶してしまうことがある。
「心理的な距離」は近かったのに、「物理的な距離」を引き離されてしまったがために、最終的に「心理的な距離」も遠ざかってしまう――そんな風に類型化することができそうだ。
そんな事態を防ぐには、単純になんらかの形で交流を続けることが一番だろう。
距離的に離れてしまって、直接会うことが難しいという場合でも、今の時代なら色々とコミュニケーションの手立てはある。
そういった形で広い意味での「物理的な距離」を維持していれば、「心理的な距離」も維持できるように思う。
この記事は、しずかなインターネットに書いた下書きを元に、文章構成を見直して書きました。
*1:そんな日本語はない。つまり、これは造語である。
「わかり過ぎるのも相手を大事にしたことにはならない。説明もはしたない」
出処不明の言葉
表題の言葉は、筆者が学生の頃――つまり、ゥン十年前に出会った言葉だったように覚えているが、出処がはっきりしない。
教員の誰かが言っていたのだったか、何かの本で読んだのだったか……。
誰か、もし出典がわかる方がいらっしゃれば教えていただきたい(緩募)。
頭を悩ませるパラドックス
この言葉は、「急がば回れ」「負けるが勝ち」のような逆説的な響きを持っている。
筆者はこの言葉を知った当初、「え、なんでだ??」とやや混乱したような覚えがある。
ふつう、相手を理解することは相手を大事にすることに通じると思うので、直観に逆らうところがあるかと思う。
また、後半部の「説明もはしたない」については、長らく解釈不能のまま時が経っていた。
私がこの言葉を覚えているのは、このように難解な言葉だったから、という理由が大きい。
解釈に至るまで
「だいたいこんな意味かな」と思ったのがいつ頃だったかも定かではないが、たぶん年単位の時間は経った後だと思う。
そこには、ちょっとした〝アハ体験〟もあったかと思う。
今回、この記事を書くにあたって改めてこの言葉と向き合い、ようやく後半部も含めた一通りの解釈をすることができた。
ただし、先述の通り出典がわからないので、正しい解釈であると保証することはできない。
たぶんこういう意味
以降で、私なりの解釈を述べる。
表題の言葉は、人と人とのコミュニケーションにおける2つの落とし穴を示していると思う。
第一の落とし穴は「わかり過ぎて相手を蔑ろにしてしまうこと」。これがメインの陥穽だ。
第二の落とし穴は、第一のそれに付随して、「余計な説明をしてしまうこと」だ。
なお、筆者は対人コミュニケーションに関してはハウツー本を少し読んだことがある程度の素人であり、自分のことをどちらかといえばコミュ障だと思っている(石を投げないでください🙏)。
ドラゴンボールZを例に考える
ここからは、先日永眠された故・鳥山明先生に敬意と哀悼を表してドラゴンボールZを例に取って考えよう。
ここで、あなたは小さなお子さんがいる親だと仮定する。
サイヤ人編のアニメを観たお子さんはピッコロ大魔王(2代目)のファンになり、興奮してあなたに話し聞かせるのだ。
「ママ(パパ)、あのね。ピッコロってすごいカッコイイんだよ! 元々は悟空の敵だったんだけど、サイヤ人をやっつけるために一緒に戦ってくれるんだ!」
あなたがお子さんにどのように応対するか、という状況設定で、表題の言葉の意味を考えていこう。
前提として、あなたはドラゴンボールのストーリーに慣れ親しんでおり、サイヤ人編含め、ストーリーを鮮明に覚えているものとする。
(※ドラゴンボールを未履修の方には、わかりにくい例となって申し訳ないが、これを機に履修することをオススメする。)
1️⃣ グッド・コミュニケーション
最初の例は、2つの落とし穴を回避した良いコミュニケーションの例だ。
この場であなたに求められていることは、お子さんがどのシーンにどのような感動を覚えたのかに注意を払い、お子さん自身の言葉を引き出すことだ。
たぶん、こんな感じで相槌を打つのが良いのではないか。
「へ〜、そんなにカッコイイんだ!」
きっとお子さんは、「うんうん」と肯いて、ピッコロがいかにカッコイイかを実演を交えながら熱弁してくれるだろう。
あなたはしっかりお子さんに体と顔を向けて、ときどき「ええ、そんなに!?」とか驚きながら、ニコニコして話を聴いていれば良い。
2️⃣ わかり過ぎた場合
2つ目の例は、第一の落とし穴に嵌ってしまったケースだ。
「ママ(パパ)、あのね。ピッコロってすごいカッコイイんだよ!」
この場合、先のお子さんのセリフに対して、食い気味に反応してしまうかもしれない。
例えば、以下のような具合だ。
「そうよね! あなたなら、きっとピッコロの魅力に気づくと思ってたわ」
「え、ママもピッコロのこと知ってるの?」
「もちろん! ドラゴンボールで一番好きなキャラよ!」
「へ〜、そうなんだ」
1️⃣ との違いがおわかり頂けるだろうか。
お子さんの言葉に早く反応し過ぎて、お子さんの言葉を引き出せていないのである。
お子さんと好きなものを共有できるという点では、それほどネガティブには感じられないかもしれない。
でもお子さんにとっては、 1️⃣ の場合のように伸び伸びと話せなかったことで、少し心にモヤモヤが生じるかもしれない。
上のような食い気味の反応でなかったとしても、以下のような応対もこの落とし穴に嵌った例と言えるだろう。
「わかるわかる。ピッコロね。魔貫光殺砲よね」
つまり、「よく知ってるから別に話さなくてもいいよ」のようなメッセージを出す態度だ。
興奮したお子さんはそんな態度は気にせず話を続けてくれるかもしれないが、あなたはお子さんよりも低いテンションでそれを聞く形になってしまいそうだ。
3️⃣ はしたない説明
最後の例は、第一の落とし穴に加えて、第二の落とし穴にも嵌ってしまうケースだ。
「ママ(パパ)、あのね。ピッコロってすごいカッコイイんだよ!」
お子さんのこの言葉を聞いたあなたは共感し、つい色々と喋ってしまう。
「わかる! 魔貫光殺砲とかカッコイイよね! あれで悟空もろともラディッツを倒すのよね。あのシーンは衝撃だったわぁ……」
あなたがそんな風に話してしまったら、お子さんはきっと憤慨して次のように言うのではないか。
「もうママ! いま僕が言おうと思ったのに!」
2️⃣ 3️⃣ の補足
以上で示してきた例は少し極端で、かつ、子供っぽい事例だと思われたかもしれない。
……が、これを例えば友達同士の打ち明け話だとか、職場での個人面談などに置き換えても、同じようなことが言えるのではないだろうか。
目の前の相手の言動そのものに向き合う
コミュニケーションにおいて、相手に理解を示すことは大事なことだ。
しかし、それは基本的には、目の前の相手の言動に対してあるべきだ、と思う。
また別の例を挙げる。
あなたが年長者で、あなたに相談を持ち込んだ若者が、昔の自分と同じようなことで悩んでいたとしよう。
そうした場合に、「それってこういうことだろう」と言ってロクに話を聞こうとしなかったら、たとえその推察が正しかったとしても、相手は蔑ろにされたように感じるだろう。
これも、第一、ひいては第二の落とし穴に嵌った例と言えそうだ。
ツーカーは駄目なのか?
「つう」といえば「かあ」のような関係も1つの理想形ではあるだろう。
しかし、それは熟年夫婦のようなごく限られた特別な関係で成立するものだろう。
上の例ほど極端でなかったとしても、あなたの理解力・察し力が高いからといって、それほど近しくもない相手にそのパワーを発揮することはリスクになり得ると思う。
例えば、相手があなたに通常果たすべき説明の義務を怠り、暗黙の理解を要求するようなリスク。これは言うなれば、「理解の搾取」だ。
またあるいは、その相手があなた以外の他者にもあなたと同じレベルの理解を求め、周囲との間に摩擦を生むリスクもあるかもしれない。
行き過ぎた理解は、行き過ぎた配慮にも通じるように思う。
いずれも、かえって相手を駄目にしてしまう、という側面があるのではないか。
別の言葉として、「親しき仲にも礼儀あり」ということわざもある。
たとえ親しい人の内心がわかったとしても、言われなかった言葉は言われなかったものとして扱うのは、正しい配慮だと思う。
例外: 許されそうなケース
蛇足かもしれないが、「わかり過ぎ」たり「(はしたない)説明」が許されそうなケースもあるかもしれない、と思った。
それは、ビジネス上のコミュニケーションなどで、とにかく問題解決が優先されるシチュエーションだ。
この場合、話し手よりも聞き手の言語化能力が高いとしたら、話し手の断片的な言葉を拾って、察し力・理解力を最大限に発揮し、話し手の言いたいことを話し手自身より上手く言語化することが可能なこともあるだろう。
それは問題を前に進める際に役に立ちそうだ。
まとめ
最後に、これまで述べてきた私なりの解釈のまとめを示す。
表題の言葉は、人と人とのコミュニケーションにおける2つの落とし穴を示していると考えている。
第一の落とし穴は「わかり過ぎて相手を蔑ろにしてしまうこと」。これがメインの陥穽だ。
第二の落とし穴は、第一のそれに付随して、「余計な説明をしてしまうこと」だ。
たとえ相手の言外の心情・事情を深く察せられる立場にいるとしても、それを前提とした言動を相手に示してしまうことは、かえって相手の期待を裏切ったり、相手を傷つけることにつながりかねない。
時としてそれが求められるケースもあるかもしれないが、原則的には、目の前の相手の言動をあるがままに受け止めることを第一とするのが良いだろう。
もしも相手の言外の心情・事情に踏み込む際には、それ相応の配慮をすべきだと思う。
人間関係における「距離感」の話
人間関係における「距離感」とは
先日のエントリで、「人間関係の距離感覚」という概念を導入した。
人が他人との関係性で認識できる距離の限界を仮に『1km』としよう。(略)『1km』の外に行った人は、自分にとって「無関心」という扱いとする。
……こういった具合のものだった。
このような考え方は、近ごろの私の中ではほぼ定着している。
現在の私は、以下のように「距離感」を仮定して考えている:
- 《無限遠》……赤の他人
- 《1km圏外》……ほとんど他人
- 《1km圏内》……知ってる人
- 《100m以内》……かなり近しい人。構えずにストレスなく話せる
- 《10m以内》……同居家族
だいたい、こんなところだ。
こんな風に前提として設定しておくと、「あの人との距離感は《100m》ぐらいかな」とか考えやすいように思う。
「距離感の非対称性」
自分が相手に対して感じる「距離感」が、相手が自分に対して感じる「距離感」と一致するとは限らない。
これを「距離感の非対称性」と呼ぶことにした。
自分は距離《50m》の親しい友人と思っていたのに、相手からは《300m》ぐらいの数ある友人の1人と思われている、とかそういう話だ。
お互いの「距離感」をすり合わせることの大切さ
そんな悲しいすれ違いを生まないために、互いの「距離感」をすり合わせることは重要だ。
よくありそうな例として、若い男性は小悪魔系八方美人女子に安易に舞い上がらないように気をつけよう。
あなたがその女性に感じる距離より、おそらく彼女があなたに感じる距離は遠い。
「距離感」の食い違いに関して、私の実体験からもう一つ例を挙げよう。
少し前に、ある人から次のような指摘を受けたことがある。
「あなたはいつも唐突すぎて、人をびっくりさせてしまう」
これも、「距離感」の不一致から来る現象だと、今ならば理解できる。
それもそうだ。
今まで《無限遠の彼方》にいたと思っていた相手が急に《目の前》に現れたら、誰だってビビる。私だってビビる。
その前に、いくつかのステップを踏むべきだったのだ。
「ヤマアラシのジレンマ」について
「ヤマアラシのジレンマ」という言葉がある。
往年の名作アニメ『エヴァンゲリオン』に登場して有名になった言葉だ。私もあれで知った(*1)。
「ヤマアラシのジレンマ」とは、人間関係における二律背反した心理状態を表す。
より詳しく述べると、人間同士が互いに仲良くなろうと心理的に近づこうとしても、互いを見えない針で傷つけ合って、一定以上には近づけない――即ち、「近づきたいのに近づけない」という二律背反した心理状態のことを指す。
上で述べた「距離感」の考え方を適用するならば、距離を縮めようとして失敗し、互いに傷ついてしまうということになるだろう。
言葉のイメージからは、ぶつかり合って衝突や拒絶が起こるのかな、と想像してしまうが、現実には近づかれた方がスルッと身を躱すことによって、近づいた方が自傷してしまうことが多いのではないかと思う。
あるいは逆を考えるならば、苦手な相手が近づいてきたことによって、自分にしか見えない針でチクチク刺されるとか。
そうやって傷つきながら、相手との適切な距離を学んでいくのが、「ヤマアラシのジレンマ」というものらしい。
この記事は、しずかなインターネットに書いた下書きを元に、文章を再構成して書きました。
「日常」と「無関心」の間
TL; DR
社会的立場や環境が大きく変わると、それまでの人間関係が断絶することってあるよね、という話。
やや長いめの補足
「人間関係の距離感覚」という概念を導入すると、この話を少し認識しやすくなるように思う。
人が他人との関係性で認識できる距離の限界を仮に『1km』としよう。
実世界においては、目の良い人なら見えるかな、ぐらいの距離だ。
『1km』の外に行った人は、自分にとって「無関心」という扱いとする。
進学、就職・転職、結婚、引っ越しなどのイベントによって、自身の社会的立場や生活環境の変化に伴い、周囲の人間関係も大きく変化することがある。
それによって、自分の『100m』以内にいる、「日常」生活の中で接する人々がガラリと入れ替わる、ということが起こり得る。
その変わりたてのときに、新しい人間関係の構築にかかりきりになってしまうのは、まあ仕方のない話かもしれない。
だがそれによって、今まで『100m』以内にいた人たちが、気づいたらいつの間にか『1km』圏外に行ってしまっていた、ということが往々にして起こりがちなのではないだろうか。
……というか、筆者個人の体験として、しばしば起こってきた。
それに関して、筆者自身、反省と後悔の念はある。
もちろん、人と人との関係は双方向のものだから、それについて筆者だけが悪い、ということもないのかもしれない。
むしろ、相手から繫ぎ留めてもらえなかったことを嘆くべきなのかもしれない。
それを「結局、その程度の関係だったんだ」と諦めて切り捨ててしまうことは容易い。
しかし、それでいいんだろうか。
『100m』以内に留めておくことが難しくても、自分が少し努力すれば『200〜300m』ぐらいの距離は維持できる(できた)かもしれない。
それまで仲がよかった人に対して、環境が変わったからといって、「はい、さよなら」と、『1km』圏外に追いやってしまうのは、悲しいことではないだろうか。
それを意図的、または自覚的に行うのならまだしも、無自覚の内にやってしまう(しまった)としたら、どうにか手を打って挽回したいものだ。
『100m』以内の「日常」接する人たちと、『1km』圏外の「無関心」領域の人たちとの間を、別の関係性の人たちで埋めることはきっとできるだろうと思うのだ。
この記事は、しずかなインターネットに書いた下書きを元に、推敲して書きました。
年に1回会う関係は、実は結構仲が良いということ
この話が当てはまる人の前提として、「学校教育の課程を終え、社会に出て1年以上経った」という人たちを想定している。
更に、「生まれ育った土地から離れた経験がある」という条件も加えるべきかもしれない。
さて、みなさんがこの1年で会った人たちの中で、今の仕事とは無関係に、学校教育を終えた後も年に1回以上の頻度で会っている、という人は果たしてどのくらいいるだろうか?
「たくさんいるよ」
と答えられる人は少数派ではないだろうか。
少なくとも筆者にとっては、そんな人は中々いない、稀有な存在だ。
社会に出ると、生活の中心は仕事になる。
更に家庭を持つと、それだけで24時間が埋まることもある。
仲が良かった者同士でも疎遠になることは珍しくない。
それなりの密度で同じ時を過ごした者同士なら、数年越しの再会でも意外とすぐに打ち解けられるものだ。
ただし、それを繰り返していたら、人生の内でその人と会えるのはあと10回とか20回(下手したら数回)とかいう話になる。
「……あれ? それで良かったんだっけ?」
とならないだろうか(筆者はなった)。
それに、久しぶりに会ってすぐに打ち解けられる関係性だったとしても、長く離れていたら多少、不安にもなる。
通じ合っていたと思っていても、自分だけの思い込みだったのではないか、と揺らぎもする。
筆者にも子供の頃ずっと仲が良かったが、今は音信不通になっているような友人がいる。
中年ぐらいになると、「ひょっとして、もう死んでたりしないよな……?」とか、思わないでもない。
だから、「自分にとって大事な人なら、きちんと連絡を保った方が良い」という当たり前の結論が出てくる。
まめに連絡を取り合うのは、そんなに多人数でなくてもいいだろうが、たまに連絡を取るぐらいならそれほど負担でもない。
そして、会えるなら会おう。
せめて、年に1回ぐらいは。
この記事は、しずかなインターネットに書いた下書きを元に、推敲して書きました。
「自分磨き」について
「自分磨き」という言葉がある。
人生の早い内から自分を適切に磨いて高めて行けるとしたら、それは恵まれた、おそらくは幸いなことだろう。
それには才能だけではなく、環境も大事な要因だろうと思う。
例えば、特別に優れたものでなかったとしても、まともな教育を受けられる環境にあったことは幸いだったと思う。
勉強以外についてはどうだろうか。
例えば、大谷翔平や羽生結弦といったプロスポーツ選手が青年期から世間を賑わすほどの活躍を見せているのは、彼ら自身の才能や努力と周囲の環境が噛み合っていたからではないかと思う。
そうではなく、野に咲く花のように埋没してしまった者にとっては(それの良し悪しはさておき)、どれか1つ以上が揃わなかったと言えるのかなと思う。
どんな分野でも、適切な師を見つけるか、学習・修得のための環境が整っていない限り、自らを適切な方法で高めていくことは手探りにならざるを得ないだろう。
もし、大谷選手や羽生選手の指導者がトンデモな人達だったら、それでも彼らは開花したかもしれないが、やはりそれは大きなハードルになっただろうと思う。
私ももう「中年」と言われる年齢だ。
この歳になってようやく、「こうなりたい」と思ったときに、最善手でなくとも、それなりの方法で無理なく取り組めるようになったような気がしないでもない。(様々な分野で情報を得る手段として、インターネットは大いに役立っている)
若い頃の自分の不器用さ加減を思うに、それが上手くできない場合というのは、努力が長続きしなかったり、1つのことだけにかまけて他が疎かになったり、磨こうとしてかえって駄目にしてしまったり、そもそも正しいやり方がわからず見当違いのことをやっていたり、ということが往々にしてあるように思う。
歳を取ってからは、手が届きそうな高みに必要な努力の量もなんとなくわかるようになった。
それと同時に、自分の限界を悟ることもある。
どれだけ努力しても、若かった頃に戻ることはできない。
だから、冒頭に記した通り、人生の早い内から自分を適切に磨いて高めて行けるとしたら、それは恵まれた、幸いなことだろうと思うのだ。