残すはサマルカンドからタシケントに戻り、一泊して日本に戻るのみ。
駅に戻るには、サマルカンド駅から乗った73番のバスに乗るのがいちばん安いが、旅行の終盤で疲れていたので、宿の前からヤンデックスでタクシーを呼ぶ。
タクシーの運転手は、ここにきて初めてロシア人っぽい人だった。無口ながら駅までは安全運転。ウズベキスタンに来て、タクシーに恵まれているのか、意外とみんな普通の運転(日本ならアウト)。

サマルカンド駅構内。ソ連感のある柱と、明るいステンドグラスが印象的。

構内は、他の駅より土産物屋や売店が若干充実している。

アムダリヤ川をまたぐ鉄橋は見たけど、こんなかっこいい陸橋あったかな?。

電光掲示板の表示。分かりづらいが電車の本数自体が少ないので、迷うことはあまりない。
サマルカンドからタシケントまでは、ブハラからサマルカンドの時と同じウズベキスタンの新幹線アフラシャフ号に乗った。前の座席には老齢のアメリカ人旅行者が、そしてプラ米の隣には、その夫婦が雇った若いウズベク人の通訳が座ってきた。
顔が会いお互い挨拶を交わすと、通訳の彼が『どこから来たんだ?』『ツーリストか?』と聞いてきたので、これはウズベク語を使うチャンスと思い、
『men yaponia danman』
と切り出すと、彼は目を丸くして驚き、
『ウズベク語しゃべれるのか!』
『少し』
という会話が続いた。
すると彼は周りのウズベク人に、俺の隣にウズベク語を話す日本人がいるぞと言いながら、近くの乗客に自慢し始めたのでかなり焦った。斜め前のおばさんも挨拶しにくるし、数秒会話しただけで、こんなことになるとは夢にも思わなかった。

一等車ではパンとコーヒーが配られる。
隣の通訳は前に座るアメリカ人夫婦の世話をしながらも、自分にも話しかけてくれる。日本の写真を見せろというので、色々な写真を見せあい話をした。食いつくようにスマホの写真を見てくれたし、これから行くタシケントや途中通過する町々の話を聞かせてくれた。底抜けに明るい青年だった。今思えば連絡先でも聞いておけばよかったなあと思う。

ウズベキスタンの鉄道は、今回の旅行中は全て定刻到着出発で、何なら欧州の近郊線より全然しっかりしていた。本数が少ないのはさておく。
列車がタシケント市内へ入ると、通訳はアメリカ人夫婦の荷下ろしのために、2人の大きなスーツケースと自分のボストンバッグを早いうちにドア付近に移動し始めた。一方で、自分は、ホテルの迎えが本当に来ているんだろうかと思いながらタシケント市街を見ていた。ヒヴァの田舎から列車を乗り継いで首都まで戻ってきた者にとっては、タシケント南駅、タカマチ駅と通り過ぎてタシケント北駅に入っていくあたりは、何となく品川から東京を走っているような感覚だった。列車は定刻通りに到着した。
ホームで荷物整理を始めるアメリカ人夫婦と通訳等と挨拶を交わして、1人出口に向かうと、すぐにホテル名を書いたカードを持って待ってくれているタクシーの運転手が目に入った。
駅からホテルまでの間、プーチン大統領が来ることもあり、ロシア国旗が至る所に掲げられていて、警察も多く見かけた。あとで聞くところによると、この日の空港は遅延が多かったらしい。そういうわけで、最終日も無事に宿に到着した。
最終日。

ホテルで朝食を食べたあと、スーツケースを預かってもらい、夕方まで外出。
まずは、スーパーでばらまき用のお土産を買い足したりして過ごした。オロイバザールまで行き昼食を食べようと考えたが、ホテルの近くにセルフサービス式の食堂を見つけていたので、そちらに入った。

トルコのロカンタ的な店。欲しいものを順番に取ったり盛ってもらったりして、最後はレジで払うシステム。ご飯やスープなどをもうちょっと欲しい時とかは『yana bitta(もういっぱい)』などの単語を覚えていると便利。必要な単語はどこの国でも似ているなあと、つくづく思う。
近所の人や仕事の休憩で入ってくる人が多く、外国人は皆無だった。

昼食。ひたすらピラフを食べているようだが、味は異なる。
このあと、大戦後の日本人抑留者の墓地近くまで歩いてみたが、入り口が分からずに引き返した。多分、もっと奥だったのかも。

軽い夕食。たまたま入ったのがトルコ料理店で、チャイが無料で付いてきた。
このあとホテルに戻り、スーツケースを受け取り、再びヤンデックスを使いタシケント空港に向かった。
駅に戻るには、サマルカンド駅から乗った73番のバスに乗るのがいちばん安いが、旅行の終盤で疲れていたので、宿の前からヤンデックスでタクシーを呼ぶ。
タクシーの運転手は、ここにきて初めてロシア人っぽい人だった。無口ながら駅までは安全運転。ウズベキスタンに来て、タクシーに恵まれているのか、意外とみんな普通の運転(日本ならアウト)。

サマルカンド駅構内。ソ連感のある柱と、明るいステンドグラスが印象的。

構内は、他の駅より土産物屋や売店が若干充実している。

アムダリヤ川をまたぐ鉄橋は見たけど、こんなかっこいい陸橋あったかな?。

電光掲示板の表示。分かりづらいが電車の本数自体が少ないので、迷うことはあまりない。
サマルカンドからタシケントまでは、ブハラからサマルカンドの時と同じウズベキスタンの新幹線アフラシャフ号に乗った。前の座席には老齢のアメリカ人旅行者が、そしてプラ米の隣には、その夫婦が雇った若いウズベク人の通訳が座ってきた。
顔が会いお互い挨拶を交わすと、通訳の彼が『どこから来たんだ?』『ツーリストか?』と聞いてきたので、これはウズベク語を使うチャンスと思い、
『men yaponia danman』
と切り出すと、彼は目を丸くして驚き、
『ウズベク語しゃべれるのか!』
『少し』
という会話が続いた。
すると彼は周りのウズベク人に、俺の隣にウズベク語を話す日本人がいるぞと言いながら、近くの乗客に自慢し始めたのでかなり焦った。斜め前のおばさんも挨拶しにくるし、数秒会話しただけで、こんなことになるとは夢にも思わなかった。

一等車ではパンとコーヒーが配られる。
隣の通訳は前に座るアメリカ人夫婦の世話をしながらも、自分にも話しかけてくれる。日本の写真を見せろというので、色々な写真を見せあい話をした。食いつくようにスマホの写真を見てくれたし、これから行くタシケントや途中通過する町々の話を聞かせてくれた。底抜けに明るい青年だった。今思えば連絡先でも聞いておけばよかったなあと思う。

ウズベキスタンの鉄道は、今回の旅行中は全て定刻到着出発で、何なら欧州の近郊線より全然しっかりしていた。本数が少ないのはさておく。
列車がタシケント市内へ入ると、通訳はアメリカ人夫婦の荷下ろしのために、2人の大きなスーツケースと自分のボストンバッグを早いうちにドア付近に移動し始めた。一方で、自分は、ホテルの迎えが本当に来ているんだろうかと思いながらタシケント市街を見ていた。ヒヴァの田舎から列車を乗り継いで首都まで戻ってきた者にとっては、タシケント南駅、タカマチ駅と通り過ぎてタシケント北駅に入っていくあたりは、何となく品川から東京を走っているような感覚だった。列車は定刻通りに到着した。
ホームで荷物整理を始めるアメリカ人夫婦と通訳等と挨拶を交わして、1人出口に向かうと、すぐにホテル名を書いたカードを持って待ってくれているタクシーの運転手が目に入った。
駅からホテルまでの間、プーチン大統領が来ることもあり、ロシア国旗が至る所に掲げられていて、警察も多く見かけた。あとで聞くところによると、この日の空港は遅延が多かったらしい。そういうわけで、最終日も無事に宿に到着した。
最終日。

ホテルで朝食を食べたあと、スーツケースを預かってもらい、夕方まで外出。
まずは、スーパーでばらまき用のお土産を買い足したりして過ごした。オロイバザールまで行き昼食を食べようと考えたが、ホテルの近くにセルフサービス式の食堂を見つけていたので、そちらに入った。

トルコのロカンタ的な店。欲しいものを順番に取ったり盛ってもらったりして、最後はレジで払うシステム。ご飯やスープなどをもうちょっと欲しい時とかは『yana bitta(もういっぱい)』などの単語を覚えていると便利。必要な単語はどこの国でも似ているなあと、つくづく思う。
近所の人や仕事の休憩で入ってくる人が多く、外国人は皆無だった。

昼食。ひたすらピラフを食べているようだが、味は異なる。
このあと、大戦後の日本人抑留者の墓地近くまで歩いてみたが、入り口が分からずに引き返した。多分、もっと奥だったのかも。

軽い夕食。たまたま入ったのがトルコ料理店で、チャイが無料で付いてきた。
このあとホテルに戻り、スーツケースを受け取り、再びヤンデックスを使いタシケント空港に向かった。
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