先日図書館に行った際に、たまたま「沖縄大学土曜教養講座「アジアにおけるジェンダーと暴力の関係性」」というシンポジウムの案内を目にした。仕事の関係上、ZOOMでの参加かつ第一セッション(冨山一郎氏の基調講演)しか聞けなかったが、学びの多いシンポジウムだった。
富山氏が『戦場の記憶』という本を出版したタイミングは戦後50年であったが、そのとき沖縄では少女暴行事件をきっかけに大規模な抵抗運動が行われていて、まだ「戦争」が続いていた。
戦場が異常事態でもなければ、日々の生活から切り離された狂気でもなく、毎日の陳腐な営みにおいてこそ準備されるのだとしたら、過去の戦場の記憶をいかに語ることができるのだろうかということこそ、問われなければならないのだ。また同時にそれは、一見戦場とは無縁にみえる陳腐な日常に、戦場の記憶をもちこむことでもあるだろう。戦場に日常をもちこむことにより、日常と切り離されたところで戦場の記憶を語る語り口を問いただし、今度は逆に日常のなかに戦場を発見するという往復運動が必要なのだ。
(冨山一郎「戦場を思考すること」47頁『増補 戦場の記憶』日本経済新聞社、2006年)
「戦後」とか「平和」だとか言って、現在と戦争を切り離すことはできない。今・ここの日常生活を問い直すことが重要だ。
でも、それはなぜなのか。富山氏は、バトラーの『触発する言葉』の「予めの排除」と、竹村和子の「生そのものに根を張っている暴力」という概念によってそれを説明していた。
「予めの排除」とは何か。それは、既存の言語秩序において、話していても言葉として認めないという排除をさすそうだ。それによってある市民を生存可能に、他の市民を生存不可能にする、という権力勾配が生じそうだ。フランツ・ファノンの、「ニグロ」という言葉を投げかけられた際の分析から、言葉が聞かれないという無力感(相手の言葉は聞く価値がない、つまり言葉が意味を成さなくなる)と、暴力に曝されているという身体感覚が、人種主義や植民地主義の現場ではせり上がってくる、という。
また、「暴力に曝されているという身体感覚」は、過去の暴力と未来の暴力をいま・ここに想起させることだ。なぜなら、過去に行われた暴力が想起されることによって、未来に暴力が発生するかもしれないという思いが、今・ここに生起するからだ。だから、竹村和子は暴力は生そのものに根を張っている、と言ったらしい。
そして、冨山氏は戦前の沖縄でのあるエピソードを紹介する。それは、「関東大震災のように間違って虐殺されないように、標準語をきちんと学びましょう」と、教師が言ったことを、戦後、戦争体験者が語った、という話だ。ここでは、「関東大震災での朝鮮人虐殺」という過去の暴力が、未来に行われるかもしれない暴力を想起させ、当時の人々の生そのものに根を張っているといえる。
同時に、ここでは「予めの排除」も行われているという。なぜなら、既存の言語秩序(=標準語)から、沖縄語を排除しているからだ。排除された沖縄語は言語として見なされず、排除された言語のみをつかう人々を生存不可能に追いやる。この教師のエピソードは、そのエピソードの当時の過去である関東大震災の暴力と、未来である沖縄戦(沖縄戦では、沖縄語を話したものはスパイと見なされ殺された)での暴力を繋げる回路になり得るだろう。
そもそも、「誤解されないように、標準語を学ぼう」という論理は、排除の論理から成り立っていることを指摘する。ここでは「我々は排除されるべき朝鮮人ではないから、それと間違えられないように、標準語を学ぼう」ということだった。この、「〇〇ではないから私は大丈夫」という「予めの排除」の論理によって暴力を現前させるのではなく、生そのものに根を張った暴力を、排除される(はずの)「〇〇」との新たな関係を築く契機にできないか、そしてそれは主体を再編成することにもつながる…と述べていた。
ランシエールは、「既存の政治」は予め排除されているものがあり、それらの声は音として処理されている。そうではなく、みえなかったところ・音しかなかったところに声を聞き取っていくことが「政治」だ、と言ったそうだ。その排除され音とみなされたものと新たな関係を築き、声を聞き取ること。しかし、声を言葉に変えていくプロセスは、「既存の政治」に抵抗するものであるから、暴力的であると命名されることもあり得る……と、このようなことを富山氏は発表なさっていた。
読書会で取り上げている『ポストコロニアル研究の遺産』の、第一章の磯前順一「翻訳不可能なものを翻訳すること」を読んでいた。その最後の方でこのような言葉がある。
人文学は「[想像]不可能な他者を想像する」仕事だと語ったのは、スピヴァクであった。さらに彼女は、自分のいうところの「想像力」が、「自己利害から距離をと[る]」ことだと補足している。自己の欲望の貫徹ではなく、自己の欲望から解き放たれたところで「他者への配慮」をすること。それが、「判断の訓練に基礎を置く政治形態」としての「民主主義」だとスピヴァクは説く。(77頁)
この前の箇所で、村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で、人間を3パターンに分けた箇所を引用する。それによると、人間は、①反抗的な人間である「アウトキャスト」、②自分の頭でものを考えられる「選良」、③意のままに行動する「中間層」……の三種に分けられ、③が小説の中では「八五パーセントとおれは概算している」という。この③の、主体性の欠如した主体が、アーレンとのいう「凡庸な悪」にもなりうるものだった。啓蒙主義は、この③をどうにか①に変えようとしてきたが、それは失敗に終わったことを指摘する(そのような啓蒙主義は、排除に繋がる危険性がある)。
民主主義はその理念からして、一定の資格を満たした人間を次々に公共圏へと招き入れる。しかも実際にはその理念に反して、外部の人間を他者化させるだけでなく、内部に属する人間に対しても均質化と同時に格差を押しつける。それでも、彼らの声を反映する理念を民主主義が報じる以上、想像力を有する主体も、それを著しく欠落させた主体も、いったん主権者と認定されたならば等しい権利を主張することが、建前にせよ認められる。
なかでも、資本主義と密接に結びついたリベラル民主主義では、声の量がその質を不問に付し、他者への配慮よりも自己の欲望を肯定することが優先される。欲望の肯定が翻訳不可能性に取って代わり、共約可能なものの共約可能性を成り立たせる媒介高となるのだ。そのとき、公共空間の構成員の関係は、思想的な内容ではなく、その内容がいかなるものであれ、互いの既得権益を承認し合うことによって結びつく。ここにいたって、民主主義はポピュリズムとほとんど同義語になってしまうのである。(79頁)
今は、他者とどう取り結ぶか……ということが問われている時代なのだろう。私自身は、どちらかというと、おそらく村上の言うところの②的な人間なのだろうと思う。が、やはり特定の問題については③的だったり、①…はないと信じたいが、①的になってしまうこともあるだろう。自分の中にもこのように複数の自分が渦巻いているなかで、どう現実の他者と関係を取り結ぶのか。
主体に亀裂がなくなる「例外状態」のもとでは、主体は言葉を持つことができない。自らの内に亀裂があるからこそ、主体は自己完結することなく、他者の声に向かって耳を澄まし、他者の声を理解しようと欲する。閉じてしまえば、主体は同じ言葉を持つ同質化された仲間以外を必要としなくなる。もはや具体的な他者は存在せず、単数の謎めいた他者の眼差しが支配するだけとなる。(91頁)(「例外状態」:私的な領域と公的な領域は分離すべきなのに、私的な領域が公的な領域を覆ってしまう状態。言葉は定義上公的なもので、私的なものである「声」とは分けられるものだから、「例外状態」で人間は言葉を持たない。)
ここで言われていることは、まさにSNSの中で起きやすい状況であるように思われる。フィルターバブルやエコーチェンバーの問題にアテンションエコノミーが融合し、スマホ・SNSへと時間や集中力が奪われている現在で、世界は簡単に例外状態に転落しやすい状態にあり、人々の主体性も奪われているように思う。そこに抵抗するためにどうするのか。そういう他者とどう我々は取り結ばれるべきなのか。答えはないだろうけど、考えていかなきゃいけないと思った。