FIREから始める「晴耕雨読」の日々

~AIとの問答による「学び」を綴りました~

『ベネズエラ介入の深層:正義の仮面を剥いだ「石油とプラント」のリアリズム』

 昨日、私たちは『正義』を語った。今日、私たちが目撃するのは『帳簿』である。

1. 介入の背景と「内なる敵」:揺らぐMAGAの結束

 今回の電撃的な介入の表向きの理由は「麻薬撲滅」と「民主主義の回復」です。しかし、米国内の反応はかつてないほど複雑です。 意外なことに、トランプ大統領の熱烈な支持層である**「MAGA(Make America Great Again)」派**の間で不満が噴出しています。彼らにとってのトランプ氏は「外国の紛争に深入りせず、米国民の命と税金を国内のために使う」リーダーでした。 それが、議会承認も経ないまま南米での軍事作戦に踏み切ったことで、「結局はブッシュ時代のネオコン(他国への武力介入派)と同じではないか」という失望が広がっています。中間選挙を控えたトランプ氏にとって、この支持層の離反は最大の誤算となる可能性を秘めています。

2. 「二重基準」の嵐と、イギリスの狡猾な思惑

 国際社会の反応もまた、建前と本音が入り乱れています。中露が「主権侵害」と猛反発するのは想定内ですが、西側諸国の温度差が興味深いところです。 日本や仏独などは「民主主義の回復」を歓迎しつつ、軍事介入のプロセスには触れない「安全主義」を貫いています。

 しかし、イギリスだけは一歩踏み込んだ支持を見せています。 そこには「紳士の国」のえげつない利害があります。イギリスはベネズエラ中央銀行が預けている約3,000億円相当の金塊を事実上差し押さえており、さらに旧領ガイアナの石油権益を守るためにも、マドゥロ排除は「棚ぼた」の勝利なのです。

3. 「理想家」のパージと「実務派」の変心

 トランプ氏の統治者選びも冷徹です。ノーベル平和賞受賞者のマリア・コリナ・マチャド氏は自由と法を説く「理想家」ですが、強引に資源を管理したいトランプ氏にとって、彼女は「使い勝手の悪い監視役」でしかありません。 代わりに浮上したのが、マドゥロ氏の右腕だったデシー・ロドリゲス副大統領です。バリバリの反米派だった彼女がアメリカの意向を呑む理由は「組織の延命」です。マドゥロを「殉教者」として差し出す代わりに、自分たちが握る軍や官僚の利権を温存する──。トランプ氏も、ゼロから国を作るより、既存の権力構造を抱き込む方が「安上がりで効率的」だと判断したのです。

4. 「石油」という名の鎖とメジャーの復讐

 ベネズエラが誇る世界最大の埋蔵量は、ドロドロの「超重質油」です。これをガソリンに変えられる高度な精製プラントは、アメリカのメキシコ湾岸に集中しています。 かつてチャベスによって追い出されたエクソンモービルや、1兆円超の賠償金を狙うコノコフィリップスにとって、今回の介入は「究極の取り立て」です。ベネズエラは石油を掘れば掘るほど、アメリカにあるプラントという「人質」に依存せざるを得ません。この「技術と設備という鎖」がある限り、ベネズエラに真の独立はなく、米資本の支配から逃れる術はないのです。

【おまけ】裁判の行方とパナマの教訓

 日本時間1月6日午前3時に開かれる初公判。結末は1989年の**パナマ侵攻(ノリエガ将軍)**が示唆しています。当時、麻薬密売容疑で拘束されたノリエガも主権を主張しましたが、米裁判所は「米政府が承認していない政権に主権免除はない」と一蹴しました。 トランプ氏が狙うのは即日結罰ではなく、11月の中間選挙に向け、「檻の中の独裁者」と「下落するガソリン価格」という成果を、時間をかけて有権者に見せつける政治ショーの継続です。

【壁の向こう側】第1部:その「働き損」は本当か?――「虫の目」で見る手取りの真実

 「103万円の壁を178万円に」 選挙以来、この数字がメディアを賑わせています。多くの人が「壁を超えると損をする」と信じ、ブレーキをかけて働いています。しかし、一歩引いた視点から眺めると、世間で叫ばれる「損得勘定」がいかに目先の数字に惑わされているかが浮き彫りになります。

 今回は第1部として、個人の損得――いわば「虫の目」で、この壁の正体を暴いていきましょう。

そもそも「所得税の壁」に壁はない

 まず、根本的な誤解を解く必要があります。所得税における「103万」や、これから予定されている「178万」という数字は、実は「崖」ではありません。

  • 所得税の正体は「坂道」 所得税課税最低限を超えた「超過分」にだけ税率がかかる仕組みです。103万円を1円超えたからといって、103万円全額に税金がかかるわけではありません。かかるのは「超えた1円」に対してだけです。

  • 逆転現象はほぼ起きない 扶養者の税額増を考慮しても、世帯全体で「働いた以上に手取りが減る」という逆転現象は、税制上はほとんど発生しません。103万に固執して働く時間を調整するのは、実利というより「心理的な呪縛」に近いのです。

真の壁は「社会保険料」という崖

 本当の意味で「手取りがガクンと減る」のは、税金ではなく社会保険(106万・130万の壁)です。ここを超えると、自分で保険料を負担するため、確かに一時的に手取りは減ります。しかし、これを「損」と切り捨てるのは早計です。

  • 厚生年金は「最強の金融商品」である 年金はよく「破綻する」「払うだけ損」と揶揄されますが、数字は嘘をつきません。国民年金ですら、利息を除けば受給開始から約7年(72歳前後)で元が取れます。日本人の平均寿命を考えれば、これほど高利回りで安定した終身年金は他にありません。

  • 「労使折半」というボーナス さらに厚生年金の場合、保険料の半分は会社が負担しています。自分の財布から出す1万円が、将来の2万円分の価値に化けるようなものです。この「100%の投資効率」を捨ててまで103万や130万の中に収まろうとするのは、資産運用の観点からは「機会損失」以外の何物でもありません。

怒りの矛先を向けるべきは「医療」の不条理

 年金が「自分への投資」である一方で、私たちが本当に直面している「払い損」は、実は「医療費」にあります。

  • 王侯貴族以上の医療を受ける高齢者 かつての富豪ですら受けられなかった高度な延命治療や高額な新薬が、現代の高齢者には惜しみなく提供されています。それを支えているのは、現役世代の重い保険料です。

  • 低すぎる負担割合と高額療養費の壁 現役世代が3割負担で四苦八苦する傍ら、多くの高齢者は1〜2割という低い負担で済みます。さらに「高額療養費制度」によって、どんなに高額な治療を受けても個人の支払額には低い上限が設定されています。この「青天井の医療サービス」と「底の浅い負担」のツケを、すべて現役世代が肩代わりしているのが実態です。

  • 「無料カード」という名のモラルハザード 一部の生活保護受給者が窓口負担ゼロを盾に大学病院をハシゴする一方で、必死に働く現役層が支払いを気にして受診を控える。この「不公平な医療資源の分配」こそが、現役世代の手取りを圧迫している真犯人です。

壁は「脳内」にある

 「103万を超えたら損」という呪縛は、短期的な手取りの変動だけに目を奪われた結果です。

  1. 所得税は「超えた分」だけ払えばいい緩やかな坂道にすぎない。

  2. 社会保険(年金)は、長生きリスクに備える最強の投資である。

  3. 私たちが真に問うべきは、壁の高さではなく、搾取に近い医療費負担の構造である。

 目の前の小銭を守るために、将来の大きな資産と時間をドブに捨ててはいませんか?

ベネズエラ問題  ーーー3つの正義の視点から考察ーーー

「もしあなたが、明日食べるものがない国の国民だったら……、それでもあなたは『正義』や『法』を語り続けますか?」

 2026年1月3日、凍てつくニューヨークの空港に一機の米軍機が着陸しました。タラップを降りてきたのは、かつて南米の若きカリスマと呼ばれ、後に「独裁者」と断じられたベネズエラニコラス・マドゥロ大統領。米軍特殊部隊デルタフォースによる電撃的な拘束劇。トランプ大統領SNSで「正義が果たされた」と勝利を宣言し、ノーベル平和賞受賞者のマリア・コリナ・マチャド氏はこれを「自由への回帰」と祝福しました。

 一見、悪が裁かれ、民主主義が勝利したハリウッド映画のような大団円に見えます。しかし、その舞台裏では、私たちの「正義」の概念を根底から揺さぶる深刻な問いが投げかけられています。この事件を、現代政治哲学の巨人、マイケル・サンデル教授が示す3つの正義の視点から、より深く考察してみましょう。


第1章:功利主義の罠 ──「最大多数の最大幸福」は主権を超えるか?

【哲学ガイダンス:功利主義とは】

 ジェレミーベンサムが提唱した**「功利主義」**は、正義を「効用(幸福や快楽)」の最大化と捉えます。「最大多数の最大幸福」という標語が示す通り、ある行為が正しいかどうかは、その行為によって生み出される「結果」の総和、すなわち苦痛を差し引いた幸福の量が最大になるかどうかで決まります。

ベネズエラへの適用】

 ベネズエラ国民が置かれた状況は、まさに地獄でした。ハイパーインフレで通貨は紙クズとなり、国民の4分の1が難民化し、病院に薬すらない。この「絶望の総量」を考えれば、独裁政権を力で排除し、食料とインフラを回復させる米軍の介入は、圧倒的な「幸福の増大」をもたらすように思えます。

 しかし、ここにサンデル的な批判が生まれます。もし「結果」さえ良ければ、一国の主権という「ルール」を暴力で踏みにじることは許されるのでしょうか。 「正義とは単なる計算に過ぎないのか?」 「多数の命を救うためなら、国際法という『少数派の権利を守るための手続き』を犠牲にしても良いのか?」 功利主義の論理を突き詰めれば、力を持つ大国が「あそこの国民は不幸だから、私が武力で介入して幸福にしてやろう」という独善的な支配(パターナリズム)を際限なく正当化してしまう危険性を孕んでいるのです。


第2章:自由と契約 ──「国を売る」のは自己所有権の行使か?

【哲学ガイダンス:リバタリアニズムとは】

 **リバタリアニズム自由至上主義)**は、正義を「個人の自由」と捉えます。その核心にあるのは「自己所有権」の原則です。私は私自身の所有者であり、私の身体や財産、そして私が労働によって得たものをどう扱うかは、他者に危害を加えない限り私の自由であると考えます。国家による介入や再分配は、この自由に対する侵害と見なされます。

ベネズエラへの適用】

 野党指導者のマチャド氏が「マドゥロを排除してくれるなら、石油利権をアメリカに任せる」という取引を裏で進めていたという疑惑は、この「自由」の観点から非常に興味深い問いを突きつけます。

 もし彼女が国民の意思を代表しているとするならば、自国の資源(石油)を対価に、安全保障(米軍の介入)を「購入」する行為は、一種の正当な契約と言えるのでしょうか。 批判者は彼女を「石油と引き換えに国を売った国賊」と呼びます。しかし、リバタリアンの視点に立てば、今の政権が国民の財産を収奪し、自由を奪っている状態こそが最大の問題です。

「あなたが飢え死に寸前のベネズエラ国民だとしたら、『国の主権』という抽象的な概念を守るために死ぬことを選びますか? それとも、自分の生存のために石油を売って、救世主を買い取りますか?」

 これは、国家という共同体の利益と、個人の「生きる自由」が衝突した際の、極めて残酷な選択なのです。


第3章:徳と共通善 ── 私たちが目撃しているのは「正義」か、それとも「ダブルスタンダード」か

【哲学ガイダンス:サンデルの共通善とは】

 サンデル教授自身が重視するのは、単なる「計算」や「個人の自由」ではなく、**「徳」や「共通善」**に基づく正義です。社会には私たちが共有すべき美徳や、共同体としての目的があるはずだ、という考え方です。彼は、正義に関する議論を道徳的、宗教的な価値観から切り離して論じることはできないと説きます。

ベネズエラへの適用】

 今回、最も大きな矛盾を孕んでいるのが「ノーベル平和賞」という権威です。 平和を象徴する賞を授与されたマチャド氏が、武力による他国の元首拘束を祝福する姿。これは、平和という「徳」に適った行為なのでしょうか。

 また、私たち日本人の立ち位置も問われます。日本は「法の支配」や「人権」といった正義を口にしながら、同盟国アメリカの「暴力的な解決」に対しては、見て見ぬふりをする「安全主義」に徹しています。 「自分たちの手は汚さないが、ボスの暴力による結果(石油の安定供給や共産圏勢力の後退)だけは享受する」 サンデルが説く「共通善」の観点から見れば、これは道徳的な不誠実、すなわちダブルスタンダードではないでしょうか。


🎙️ 結び:あなたにとっての「正義」とは

 トランプ氏の野望、マチャド氏の悲願、それを利用し沈黙する国際社会。 ベネズエラで起きたことは、単なる政権転覆のニュースではありません。それは、私たちが普段信じている「正義」という言葉が、極限状態においていかに脆く、いかに利害関係によって書き換えられやすいかを露呈させました。

  • 多くの人を救うための「暴力」は許されるのか(幸福)。

  • 生きるために「国を売る」ことは正当な権利か(自由)。

  • 「平和」という名を借りた「実利」の追求は、徳と言えるのか(徳)。

 この記事を読み終えた後、あなたの心の中にはどんな「正義」が残っていますか? 私たちは、遠い南米の地で起きたこの出来事を「対岸の火事」として笑い飛ばすのか、それとも、自分たちの「安全主義」という名の仮面を剥ぎ取り、真の共通善とは何かを問い直すのか。

 その答えは、まだニューヨークの冷たい空気の中に漂ったままです。

【後編】出版界の闇と、淘汰の先にある新たなエコシステム

 前編では紀伊國屋の成功と地方書店のジレンマについて触れた。後編では、さらに踏み込んで、この業界が抱える「流通と構造」の闇、そして未来への展望を論じたい。

3. 「返品率50%」という異常なサプライチェーン

 書店業界が抱える最大の癌は、異常に高い「返品率」だ。製造業として見れば、作った製品の半分近くが一度も使われずに捨てられる(断裁される)など、狂気の沙汰である。

  • データはあるが、意志がない不条理 POSデータで「何が売れているか」は可視化されている。しかし、取次主導の「パターン配本(過去実績に基づき勝手に送り込まれる仕組み)」という昭和の慣習が、それを殺している。取次側には数千の個店を分析するコストがなく、書店側には「返品自由(ノーリスク)」という甘えがある。この結果、売れもしない本を全国にバラ撒き、その送料と廃棄コストを互いに押し付け合っているのが現状だ。

  • 諸外国との決定的な差 例えばアメリカでは、日本のような定価販売制度はなく、Amazonなどの巨大小売との競争が激しい。その分、書店は「実売」に基づいたシビアな仕入れを要求され、出版社も「売れる分だけ刷る」という需要予測に命を懸ける。フランスのように国が手厚く保護する例もあるが、日本は「保護される文化」を気取りつつ、中身は「効率の悪い資本主義」の最悪な部分が露呈している。

4. 作家と出版社がひた隠す「不都合な真実

 なぜ、これほどまでの無駄が放置されるのか。そこには、作家や出版社サイドの「金融システム」の都合がある。

  • 「刷り部数印税」という既得権益 売れた数ではなく、刷った数で印税が支払われる日本の慣習。これは作家にとって、発売直後にまとまった現金が入る「前払いシステム」だ。出版社もまた、新刊を取次へ「押し込む」ことで一旦売上を立て、目先のキャッシュを回す。返品率が高まっても、新しい本を刷って納品し続ければ、帳簿上の現金は回る――まさに「出版業界の自転車操業」である。

  • 電子書籍への拒否反応の正体 電子書籍は「売れた分だけ」の支払いにしかならない。この「実売主義」への移行を拒むのは、必ずしも文化を守るためではない。これまで「刷り過ぎ」によって享受してきた「無利子融資」のような資金繰りシステムが崩壊することを恐れているのではないか。

5. 結び:淘汰の先に残るもの

 落語がラジオに、ラジオがテレビに、そしてテレビがネットにその座を譲ったように、メディアの主役が交代するのは歴史の必然だ。しかし、主役の座を降りることは、必ずしもそのメディアの「死」を意味しない。

 ここで思い起こすべきは、レコードショップの軌跡だ。 かつてCDやストリーミングの登場によって絶滅の危機に瀕したレコードは、今や「手間をかけて音楽を所有し、体験する」という贅沢な嗜好品として、独自の市場と文化圏を再構築した。本もまた、これと同じ道を辿るのではないだろうか。

 誰にでも必要な「安価な情報の運び手」としての役割はデジタルに譲り、紙の本は「愛すべき物理媒体」へと進化する。それに伴い、書店もまた以下の三極に収束していくだろう。

  1. インフラとしての巨大資本(紀伊國屋モデル): 圧倒的な物流と規模で、物理的な本へのアクセスを担保する「知の集積地」。

  2. 利便性としてのデジタル: Amazon電子書籍が担う、即時的で効率的な情報の提供。

  3. 嗜好品としての独立系・シェア型書店: レコードショップがそうであるように、店主の審美眼やコミュニティを売る「文化の拠り所」。

 「文化保護」という聞こえの良い言葉で、不都合な真実を覆い隠し、古いシステムの延命に税金を投じるのは、もうやめにすべきだ。

 紀伊國屋の独走が示しているのは、変化を拒む者が淘汰され、自力でシステムを書き換えた者だけが未来を掴むという、至極真っ当な市場の摂理である。そしてその淘汰の先には、レコードがそうであったように、本当にその媒体を愛する者たちによって支えられる、より純度の高い「本の未来」が待っているはずだ。

【前編】紀伊國屋の独走と「本屋を救え」という欺瞞 ――構造的限界を迎えた日本の書店

 先日、紀伊國屋書店の2024年8月期決算が「3期連続の過去最高益」を達成したというニュースが流れた。書店不況、無書店自治体の増加、Amazonの席巻……。そんな暗いニュースばかりが目立つ業界において、なぜ紀伊國屋だけがこれほどまでに強いのか。

 そこには、既存の「本屋」という枠組みを捨て、冷徹なまでに合理的な戦略を貫く「強者の論理」がある。そしてその背後には、補助金を叫ぶ地方書店や、古い慣習に縋り付く出版業界が直視したくない「不都合な真実」が隠されている。

1. 「知の商社」へ変貌した紀伊國屋の快進撃

 紀伊國屋の強さを支えているのは、もはや「国内での本の販売」だけではない。彼らは「本屋」という定義を自ら書き換えている。

  • 海外を主戦場に変えた「稼ぐ力」 現在、紀伊國屋の利益の半分以上は海外事業が叩き出していると言われる。空前の日本アニメ・マンガブームを捉え、北米やアジア、中東にまで進出。国内の「再販価格維持制度(定価販売)」に縛られない海外では、現地の物価や需要に合わせ、輸送費や利益を乗せた「高い価格」で売ることができる。円安を追い風に、日本の文化コンテンツを世界に売る「商社」としての顔が、彼らの真の原動力だ。

  • 「取次」という依存からの脱却とリスクテイク 日本の書店の多くは、問屋(取次)から送られてくる本を並べるだけの「委託販売」に甘んじている。しかし紀伊國屋は、出版社との「直接取引」を拡大。返品リスクを自ら負う代わりに、従来の22%という低すぎる粗利を30%〜40%近くまで引き上げる構造改革を自力で成し遂げた。取次に「何を入れるか」を決められるのではなく、自ら「何を売るか」を決める。この当たり前の商売を、リスクを取って実践しているのが紀伊國屋なのだ。

2. 地方零細書店に「紀伊國屋モデル」は応用できるか

 「無書店自治体を守れ」という旗印のもと、公的支援やネット通販規制を求める声は大きい。しかし、紀伊國屋のような「攻め」の経営が地方の個人店に可能かと言えば、現実は極めて厳しい。

  • 「生業(なりわい)」と「ビジネス」の断絶 地方の書店の多くは、自宅兼店舗で「店番」を日常とする「生業」の延長にある。家賃負担が少なく、店主の生活費さえ出れば良いという構造は、平時では「強み」だが、激変期には「弱点」となる。投資をして棚を入れ替える、データを分析するといった「経営」の概念が欠如した場所に、紀伊國屋の手法を持ち込む余地はない。

  • 補助金」ではなく「箱」の提供という解 現金を投入しても、それは店主の所得補填(延命)にはなっても、ビジネスの再生には繋がらない。むしろ、都会で流行している「シェア型書店(棚貸し)」のモデルを地方公共施設に導入してはどうだろうか。駅や道の駅、JAの余剰スペースを「格安で開放」し、既存の施設スタッフが会計を代行する。本で食う必要のない「趣味の店主」たちが、それぞれの偏愛を込めた棚を作る。補助金でゾンビ店を守るより、コストを極限まで削った「寄生型(共生型)エコシステム」こそが、地方における現実的な着地点ではないだろうか。

「農業」という名の福祉、あるいは「票」という名のゾンビ培養

玉川・鈴木対談に見た、日本農政とJAの絶望的な「甘さ」

 先日の『羽鳥慎一モーニングショー』で行われた玉川徹氏と鈴木憲和農林水産大臣の対談。これを「鋭い追及」と見るか「予定調和の茶番」と見るかで、日本の農業に対する解像度が試される。はっきり言えば、あまりにも温い。絶望的なまでに本質から逃げている。

1. 「基幹的農業従事者」という名の統計マジック

 番組や農水省が振りかざす「農業従事者116万人」という数字。この実態を直視している人間がどれだけいるだろうか。その中身は、もはや産業としての農業者ではない。

  • 「毎日が日曜日」のご隠居たち 統計上の「基幹的農業従事者」の定義は、ふだん主に農業に従事している人を指す。だが、実態は70代、80代のリタイア世代が、先祖代々の土地を荒らさないために毎日田んぼへ通う「家庭菜園の大規模版」に過ぎない。

  • ビジネスではなく「ホビー」 彼らにとって、コメ作りは経済事業ではなく、年間30日程度の「健康維持」と「世間体」のための活動だ。労働費を無視し、農外所得(年金や給与)で赤字を補填しながら、小売価格と比較して「店で買うよりはマシ」と考える。これはもはや「産業」と呼べる代物ではない。

2. ゾンビを温存し、エースの足を引っ張る「減産政策」

 鈴木大臣が繰り返した「需要に応じた生産」という言葉。これが意味するのは、非効率な零細農家でも生き残れるように、国が供給を絞って価格を吊り上げるという、市場原理への冒涜である。

  • 2,000円台でも勝てる専業農家の悲鳴 日本のコメ生産の80%を担う上位20%のプロたちは、規模の経済を活かし、5kgあたり2,000円台でも十分に利益を出せる。彼らこそが輸出産業としての「攻めの農業」の主役だ。

  • 足を引っ張る「供給調整」 しかし、自民党とJAは、彼らに増産を許さない。なぜなら、適地で大量生産が行われ、米価が市場原理で下がってしまえば、コスト高の「ホビー農家(残り80%の層)」が市場から退場せざるを得なくなるからだ。

3. 農業の皮を被った「金融・不動産コングロマリット」の正体

 では、この不自然なシステムを支えるJA(農協)の実態はどうだろうか。ここには、産業を停滞させることで生きながらえる「自己目的化」した構造がある。

  • 逆転した比率:守るべき農家より多い「役人」 JA正職員数は約17万2,000人。これに対し、日本農業の稼ぎ頭である「主業経営体(プロの農家)」は約20万件程度。プロの経営体ひとつに対し、ほぼ一人のJA職員がぶら下がっている計算だ。

  • 本業は「金融と不動産」 JAの収益の柱は、もはや農産物の販売ではない。組合員の預金や保険、土地を売った金を預かる「金融ビジネス」だ。非効率な零細農家に高い資材を売りつけ、手数料を取ることで、17万人の職員の雇用を維持している。

4. 歪な「弱者救済」という名の搾取

 ここで私たちは、一つの残酷な事実に目を向けなければならない。「農家=儲からない=可哀そう」という昭和の「おしん」的イメージは、もはや絶滅危惧種である。

  • 格差の正体:大邸宅とワンルームマンション 都市部で働くサラリーマンが、狭いアパートでの生活に耐え、重い税負担に喘いでいる。一方で、地方の農家はどうだろうか。広大な敷地にそびえる大邸宅、巨大なガレージ、そして先祖代々の土地という莫大な含み資産。

  • データが示す「農家の富」 総務省農水省の家計調査を紐解けば、農家の「世帯貯蓄額」や「可処分所得」は、多くの場合、都市部の勤労者世帯を上回っている。この「実は富裕層」である層を維持するために、都市生活者が高い米価と税金を通じて所得を移転し続けるという構図は、もはや行政としての存在意義への冒涜ではないか。

結論:対談が踏み込めなかった「聖域」

 玉川氏は「おこめ券」のような枝葉末節で大臣を突いたが、本当に問うべきはそこではない。

 「大臣、あなたが守っている116万人の多くは、産業人ではなく『福祉の対象』ですらない、資産を持った『ホビー農家』ですよね? 彼らに稲作から退場してもらい、大潟村のような適地に集約してコスト競争力を高める。それこそが日本農業を救う唯一の道ではないか」

 この問いをぶつけない限り、どんな対談も、ゾンビ企業の延命を国民の家計と税金で支える構造を追認しているに過ぎない。日本農業が「産業」として自立する日は、政治が「票」を捨て、「ホビー」と「ビジネス」を明確に分離したときから始まるのだ。