パンセ(みたいなものを目指して)

長年付き合ってきたGooブログからの引っ越しです 思いついたこと、日記風なもの、年相応の社会的なもの、市政のこと、音楽、サッカー、つまりはごった煮の内容です

黙って我慢は良いことか?

ロシアのウクライナ侵攻に対するデモが日本でも行われている
日本国内でのデモが現実的に有効か、クソにも役立たない!
という口の悪い人がもいたが、概ねこのデモは肯定的に受け入れられている

だが同じデモでも、オリンピック反対とか原発反対といったテーマの場合
同じように肯定的な受け入れ方をするだろうか

思い込みかもしれないが、デモに対する日本人の感じ方は
先のNHKの虚偽の字幕がそれとなく暗示させるような
「デモはあまり好ましいものではない」という大きなくくりの中にないだろうか

デモは社会運動だが、そもそも社会運動という言葉は支配権力に抵抗する民衆運動
労働運動のことを意味していた
それがいつからか、社会運動に抵抗という概念を失い社会参加という程度の
意味合いしか持たなくなった
そして、現在では堂々と抵抗の言葉を吐くことは勇気のいることになっている
以上の解説は「マルクスを再読する」の中に書かれていたものだが、自分の実感に近い

なんとなく空気に染まり皆でやることは問題ないが
少ない人数で行う行動(何事も最初は少人数からスタートする)は
いくら正当な行動であっても面倒な行為(面倒くさい連中の行為)と思ってしまうこと
この雰囲気的なものがとても怖い

現在のプーチンはおそらく独裁、あるいは全体主義に近い気がする
全体主義の定義から外れるかもしれないが)
今どうなっているのか?
と同時に
何故そんな状態になってしまったのか?
という問はとても気になるところだ

だがそこには「住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していること」で
それを可能にしていると解説した人がいる
ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」(3)がそれで
以前にも紹介したことがあるがこのように書かれている

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。
その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。
ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。
全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。

周りくどい表現だが我慢して読み解くと、現在でも、いや今こそ役立つメッセージだ思う
人が過去の出来事から何かを学び、今に活かすのが知恵とするなら、ここからは
「人は声を出せる時に出しておかないと酷い状況を招いてしまう」
という歴史的教訓の認識を持つべきだと思う

デモをしないのはある程度覚悟がいるので仕方ないとしても
自分の考えを口にしない、自分の考えさえ他人の考えの借り物
それ以前に無関心の状態というのは、、、想像力の欠如
そして、それは人間性の喪失に繋がりそうでとても深刻な問題と思える

現在の不安はプーチンだけでなく、口から出るものだけは勇ましいこの国の
発信力のある人々にも覚えてしまう
だからこそ今のうちに「NO!」と声をあげようと思う