パンセ(みたいなものを目指して)

長年付き合ってきたGooブログからの引っ越しです 思いついたこと、日記風なもの、年相応の社会的なもの、市政のこと、音楽、サッカー、つまりはごった煮の内容です

生成AIのプロンプト履歴

最近思うことは「他人の本棚を覗いてみたい」と思うのと同様に
他人の生成AIに対するプロンプトを見てみたいということだ
最近よく会話している生成AIには、その履歴が残っているので
自分が如何にへんてこな問いをしているかがよく分かる

自分はこれらの問いと答えに満足感や充実感を覚えるが
他人様が覗いたら、つまらん面倒な問いをしている奴だな
くらいしか思わないだろう

最近はこんな内容で問うてみた
問 日本ではドイツのように加害の歴史を省みようとすると、
  自虐史観という言葉でよく思われないのは何故ですか

これに対して結構な分量の答えが返ってくる
そこにある重要な概念が、加害の歴史を考えることは
自己否定につながるという意識
日本人は国家と自己の一体化が激しく、加害を考えることが自己否定に
すり替えられるとしている

ならば、何故日本人は国家と自己の一体化が強いのかと思い
こんなことを聞いてみた

問 日本人は国家と自己の同一化が激しい様ですが、
  他の国はそれほどではないのですか

答 日本では「国家と自己を重ねて感じやすい傾向」は比較的強く、
  他国では必ずしも同じ形では現れません

日本の特徴:国家が「外在的なもの」になりにくい

日本では歴史的に、
国家=抽象的な制度ではなく
国家=「空気」「場」「共同体の延長」
として経験されてきました。

背景要因
近代国家形成が「外圧への適応」として急速に進んだ
市民革命を経ず、国家が上から整えられた
天皇制が「超越的だが身近」な象徴として機能した
その結果、
国家を批判すること = 自分たちを否定すること
という感覚が残りやすくなりました。
丸山眞男が言う「無責任の体系」や、
戦後にまで続く「誰も決めていないが皆が従う」構造も、
この延長線上にあります。

このように、またまた良く整理された答えが返ってくる
結局のところ、こうした心理的な傾向は教育がバカに出来ないようだ
そこで教育について聞くと

答 結論を先に言えば、
日本の教育は「適応する個人」は
  比較的うまく育ててきたが、「不確実さに耐え、
  自分で意味づけし判断する個人」を育てる点では弱い、
  という評価になります

  • できるだけ多くの人を
  • できるだけ均質な水準まで引き上げ
  • 社会に摩擦なく参加させる

そのために重視されたのは、

  • 正解がある問い
  • 手順を守ること
  • 周囲と同じ速度で進むこと
  • 感情を荒立てず「我慢する」ことだった

問 でも、そもそも人生とか世の中は思い通りにならないことの方が多い
  それに慣れるのは良くないとしともそれに対処するのは結局は
  個人の力と思います
  こうした個の確立のための日本の教育はどうなっていますか

答 

「思い通りにならなさ」への対処はどう教えられてきたか
ここが重要です。
日本の教育は、
世の中が思い通りにならない
という前提を明示的にはほとんど教えていません。
代わりに教えられてきたのは、
うまくいかないのは努力不足
空気を読めば衝突は避けられる
我慢すればいつか報われる
という道徳化された忍耐です。
しかしこれは、
状況が理不尽な場合
ルール自体がおかしい場合
努力しても構造的に報われない場合
に対処する力には、ほとんどなりません。

こんな問と答を夜中に目覚めた時、繰り返しているとついには頭が冴えて
二度寝ができなくなりつつある
それにしても、上手くまとまっている答に対しては、正直なところ
少しばかり嫉妬する感情もある
自分が時間をかけてその思いと考えてきたことが、あっという間に
上手くまとまれているのは、自分が情けなくなりそうで、、、

でも何故?といった自発的な問は人間にしかできないから
ま、良いか!と思うしかないかもしれない
だからこそ他人のプロンプトを見てみたいものだ

まとまらない話