朝、洗濯機が回っている間にお墓参りにいった
歩いて数分、車ならあっという間に着く距離だが
最近は楽な方、楽な方を選んでしまう
毎日の日課だが自分は決して信心深い方ではない
同居人がそうするほうが安心すると思えるからで
墓石に向かってはいつも祖父母・父、叔母に
平穏に暮らせていることへの感謝を述べることにしている
信心深くはないが、何故か自信を持って信じていることはある
それは「何かがあっても、おばあちゃんが見守ってくれている」
ということ
93歳まで長生きした祖母はとても優しい人だった
そして面白い明るいい人だった
母との折り合いも良く、両者がお互いにいい意味で気を使っていた
まだ保育園にも行かない頃、自分は隣のおばあちゃんの家で眠りについた
おばあちゃん子だったので、これはよくあることだったが
ある時、眠っている間に自分が父母のいる家に運ばれていることに気づいた
寝ぼけ眼で、、ああ運ばれているな、、と思ったのは今でも覚えている
そんなおばあちゃんが眠る福住寺には大きな樟と銀杏の木がある
秋になると地面が黄色に染まって、決まって写真を撮る
絵心がないので、撮っただけというのが情けないが、今年はこんな感じ

そう言えば、不意に思い出したことがあった
利休だったか他の和尚さんだったか忘れたが
庭の掃除をするように命じられた彼は、一旦箒できれいに落ち葉を掃き寄せた
ところが、しばらくすると履き寄せた葉をいくらか元の場所に散らすようにした
そのほうがきれいとか美しいと感じたためらしい
そう感じる感覚はすごいなと思いつつも、驚いたのは
それを見ていた掃除を命じた人がその行為とか、そこで現れた光景(行為)を
良しとしたことだった
センスのある人の行為を、認めるだけの眼力があるということは
すごいな、、と思う
自分だったら履き寄せた葉っぱが風で戻されたら苛ついていただけだろう
話は変わって、今は少しストレスが溜まったり不安が募ったりしているが
「そんなこと」と目前にあることがらを軽視して威勢のいい言葉を続ける人は
「こんな人たち」と言った人と合い通じるものがある
(いずれもそんな扱いをされるべきものではないと思う)
そしてその発言が批判されるのではなく、市民権を持ちつつある世の中に
自分は違和感を覚えるのだが、そんな中、何か美しいものきれいなものは
人を少しばかりストレスから救ってくれそうな気もする
それにしても、もう少し絵心があればいいのに、、といつも思う