江戸の侍・村尾正靖(号は嘉陵、1760‐1841)の江戸近郊日帰り旅の道筋を辿るシリーズ。今回は埼玉県戸田市まで足を延ばす。
文政十一年戊子十月十八日。今の暦では1828年11月24日。この日の日記の最後に「正やす時に六十七歳」と書かれているが、嘉陵は宝暦十年、1760年に生まれているので、この時は数えで六十九歳のはずだ。国会図書館のデジタルコレクションで自筆本も確かめたが、やはり「六十七歳」と書かれている。自分の年齢を間違えたのだろうか。
「孫娘が産まれる前に安産の符を請い承ったので、無事出産し、母子ともに健康であることに感謝し、今日はその符を懐に、新曾村の妙顕寺まで詣でる」(現代語訳:阿部孝嗣)
埼玉県戸田市新曽にある妙顕寺は古くから安産・子安の霊場として知られた日蓮宗の寺である。嘉陵が仕える清水徳川家は紀伊徳川家出身の8代将軍・徳川吉宗の血筋を引く家柄であるが、紀伊家の祖・徳川頼宣(家康の十男)の母、お万の方(家康の側室、養珠院)が熱心な法華信者で、妙顕寺と縁が深かったことから、その後も妙顕寺は紀伊徳川家の関係者から寄進を受けるなど、両者の縁は続いていた。その関係が清水家にも受け継がれ、そうしたことから嘉陵も娘の安産祈願に参詣したのかもしれない。
この日、嘉陵には同行者がいたようだ。矩景(のりかげ)としか書いておらず、苗字は略されているから身内なのだろう。娘婿か。
「大塚の波切不動尊の前を右に行く。この路上で磁針を出してみると、まさに北の方角を指す」
当時、嘉陵は三番町(今の千代田区九段南三丁目)の家に住んでいたが、この日の旅の行程を大塚の波切不動尊前から書き出している。ここから埼玉県まで歩くのはかなり距離がありそうだな、と思ったが、僕も大塚から歩くことにした。
(護国寺)
(豊島岡墓地)
地下鉄有楽町線の護国寺駅で下車。地上に出ると護国寺の門前だ。ここから不忍通りを東へ行く。皇族専用の豊島岡墓地前を過ぎ、富士見坂を登ったところが大塚三丁目の交差点。交わるのは春日通りである。この交差点の向かい側に波切不動尊はあった。当時は通玄院という寺に安置されていたが、現在はその裏手にある本傳寺(日蓮宗)の境内に不動堂があり、その中に奉安されている。通玄院は本傳寺の塔頭だったが、明治の初めに併合されている。
江戸時代の地図をみると、この本傳寺のすぐ近くに「清水殿抱え屋敷」があったようなので、清水家に仕える嘉陵には波切不動界隈は土地勘のあるなじみの場所だったのだろう。

(本傳寺境内。左側の建物が不動堂。「波切不動尊」の額が掛かっている)

波切不動尊の由緒については諸説あるが、そのひとつは次のような話である。日蓮上人が伊勢を巡錫中、川が増水して渡ることができなかった。すると、どこからか老翁が現れ、自分には水を切る術があると不思議なことをいう。実際、日蓮はその翁の導きで川を渡ることができた。日蓮が老翁のあとを追っていくと、山寺があった。しかし、老翁の姿は見えず、寺の者に訪ねた理由を話しても、そのような翁は知らないという。日蓮が立ち去った後、寺の不動明王像が水で濡れていることが分かり、日蓮を導いた老翁は不動明王の化身であったことを知ったのだった。寺の僧がその不動明王像を背負って関東まで日蓮のあとを追ったが、江戸までやってくると、その像を動かすことができなくなってしまったので、そこにお堂を建てて安置することにした。その場所が大塚だったというわけだ。そして、水を切って川を渡ったということが波切不動という名前の由来であるという。
とにかく、『江戸名所図会』にも描かれ、広く知られて信仰を集めていたようだ。

ここから春日通りを北へ行く。まもなく右手に文京区立大塚公園があるが、江戸時代にはここに白河藩松平家の屋敷があった。
「この道の半ば行った所から少し北北東の方向に向かい、また北に向かう」
大塚公園から少し行くと、北西に向かう春日通り(国道254号線)から右に分かれ、そのまま北上する。旧波切不動前からほぼ1キロで山手線大塚駅である。
山手線のガードをくぐり、都電荒川線の線路を左に見ながら、さらに北上する。折戸通りという名前がついている。もちろん、江戸時代からある道である。

「橋を渡っていくと浅茅が生えている所に茅葺きの家があるが、そこには乞食が住んでいる。なお進むと、楢や櫟が群生している林がある。そのこずえの濃淡の彩りも鮮やかで、その眺めは素晴らしい。ちょうど折よく野分が一陣吹く。
神な月時雨にましてわびしきは袖にちりかふ風のもみぢ葉
みちのべのくぬ木のもみぢ風ふけば行なやむまでちりかかりけり」

「橋を渡って」というのは今の大塚駅付近を北西から南東へ流れていた谷端川のことだろう。当時はこのあたりまでくれば、町をはずれて、すっかり田舎の風景に変わり、その美しさに嘉陵は歌を二首詠んでいるが、今は特に面白みもない町並みが続く。
「ほどなく庚申塚である」
折戸通りを大塚駅から1キロ近く行くと、「庚申塚」の交差点。ここで交わるのが旧中山道である。右へ行けば、巣鴨駅に通じる「おばあちゃんの原宿」として有名な地蔵通り商店街。とげぬき地蔵の前に出る。ここから嘉陵は中山道を左へ向かう。


この庚申塚は江戸時代には中山道の江戸と板橋宿の中間に位置する立場(休憩所)で、茶店もあって賑わっていた。その様子は『江戸名所図会』などにも描かれている。

ここにはもともと文亀二(1502)年に造立された石碑(秩父青石の庚申板碑だろう)があったが、江戸の大半を焼き尽くした明暦三(1657)年の大火の後に復興資材の材木が倒れかかって壊れてしまったため、地元の人々が相談して、割れた板碑を塚に埋め、その上に新しい庚申塔を建てたのだという。これは十方庵敬順の『遊歴雑記』の中に書かれている。現在、祭神は猿田彦大神となっているが、これは明治以降に千葉県銚子市の猿田神社の分霊を合祀したものだそうだ。
「中山道は真北に向かう。少し行くと一里塚があり、さらに進むと滝の川三軒家で、道の左に人家が四、五戸ある。昔は三軒しかなかったので、その名が付いたのであろう」
庚申塚をあとに旧中山道を行く。嘉陵は「真北に向かう」と書いているが、実際は概ね北西の方角に向かう。
すぐに都電の庚申塚駅がある。現代人にとっては昔懐かしい存在であるが、江戸時代人にとっては想像すらできないような未来の乗り物である。

この庚申塚駅付近には当時、街道で行き倒れた人馬を埋葬する共同墓地があったという。供養のための地蔵尊もあったが、現在は西巣鴨2‐33‐9に移転している。旧街道の角に「延命地蔵尊」の石標が立ち、そこから左に少し入ったところに地蔵堂がある。

ここには延命地蔵尊のほか、地蔵を主尊とする庚申塔、馬頭観音、「南無妙法蓮華経」の題目塔、徳本名号塔がある。
地蔵尊は昭和二十年の空襲による損傷を受けて、年代など不明だが、江戸初期のものと考えられるという。

題目塔には「加越能住人」「為道中安全」の文字が刻まれており、北陸の法華信者が地元と江戸を結ぶ街道の安全を祈願したことが分かる。

さて、「少し行くと一里塚があり」という記述について、編注者の朝倉治彦氏はこの一里塚は「北区西ヶ原二丁目」にあるという注釈をつけているが、これは明らかに誤りである。嘉陵のいう一里塚は北区滝野川1‐54付近にあった中山道の平尾一里塚のことである。ただし、これは今は痕跡すらない。西ヶ原の一里塚は現存するが、日光御成道のものである。また、嘉陵は一里塚を過ぎて、三軒家があったと書いているが、これも順序が逆である。おそらく、記憶を頼りに書いたのだと思うが、このような記憶違いはしばしば起こるものである。

やがて、古い商家がいくつか現れ、大正大学の前に「日本農業を支えた種子屋(たねや)街道」という説明板や種子地蔵がある。また、滝野川人参、滝野川牛蒡、練馬大根などの江戸野菜の説明プレートもある。

江戸近郊のこの地域は江戸に野菜などを供給する農業地帯で、江戸中期頃から街道を行く人々に野菜の種子を販売する種子屋が店を構えるようになった。当初は農家の副業として畑で採取した種子を売っていただけだったが、明治以降は全国の良質な種子を仕入れて販売する卸売り業者へと発展し、大正時代の最盛期には巣鴨庚申塚から板橋宿までの中山道沿いに20軒ほどの種子屋があったという。そのうち、江戸時代からの草分け的な存在が榎本孫八、越部半右衛門、榎本重左衛門の三軒で、この三軒から三軒家の地名が生まれたのだという。この「三軒家」についても、通り沿いに詳しい解説板があり、地域の歴史を伝えている。
(種子屋街道の名残の東京種苗、1844年創業)

庚申塚から500メートルほどで明治通りと交わる「堀割」交差点。中山道の南側を並行して流れていた千川上水(玉川上水の分水路)の分配堰が江戸末期にこの付近に造られ、分水路が開削された。明治十五年に設置された「千川上水分配堰」の碑は各水路の利用者の水利権を明確化して、割り当てられた取水量の順守を求めるためのものだそうだ。

堀割交差点を過ぎ、三軒家の説明板などを見ながら行くと、前方に埼京線の踏切が見えてくる。北区滝野川から板橋区板橋に入るあたりが平尾一里塚の旧所在地で、ここを左へ入ると新撰組局長近藤勇の墓がある。
(前方を横切る横断歩道の先に一里塚があったようだ。ここを左折すると近藤勇の墓)
ここから板橋宿に入るが、しばらくは畑が広がっていたようだ。
つづく
(左から
