多摩丘陵に残る古道「布田道」を歩いた話の3回目。
鎌倉街道の別所から里山の雰囲気を味わいながら、谷戸の道を奥へ向かって歩いていく。

道はゆるやかなカーブを描きながら、少しずつ登っていく。

谷戸田の奥には野球グラウンドがあり、そこを過ぎると、谷戸の向こう側へ抜けるために山を切り開いた「関屋の切通し」となる。箱根や富士山の火山灰が堆積した関東ローム層の赤土の崖がそそり立つ間を曲がりくねりながら通り抜ける。




切通しを抜けると、昔の鎌倉街道だと言われる古道と合流。切通しの説明にあった通り、2町、つまり200メートル余りで小野路宿である。

近くにあった地蔵尊。

明治3年建立の石久保子育地蔵尊。

小野路の里。


小野路の宿に到着。ちょうど正午になるところ。黒川から2時間。


江戸時代の高札場を模したという説明板に「小野路の歴史」が解説されている。
「『小野路』の地名の由来には諸説あります。
『大日本地名辞書』によると、平安時代の牧場地帯『小野牧』(現在の八王子市から日野市・府中市・稲城市・多摩市・町田市北部を含む地域)への入口、『武蔵名所図会』によれば、武蔵七党の一つの横山党の祖である小野氏との関係によるものと考えられ、『鶴川村誌』では、『小野郷』(現在の府中市域内)への道筋ともいわれています。
小野路は、長い歴史を通じて交通の要所で、江戸時代に東海道と甲州街道を結ぶ脇往還として、また江戸中期以降は埼玉方面から大山詣でに行き来する人々で賑わう宿場となっていました。
江戸時代には近隣の三十五ヶ村をまとめる組合村の寄場として見張番屋が置かれ、明治時代には登記所や郵便局などの公的施設ができ、小野路は地域行政の中心的役割も果たしました」

また、この小野路は徳川家康も通っている。ただし、亡くなった後に。駿府で死去した家康は久能山に埋葬されたが、その遺言に従い、1年後の元和三(1617)年に日光東照宮に改葬された。その御尊櫃を運ぶ千人ともいわれる大行列が小野路を通っているのだ。そのルートは予め「御尊櫃御成道」として整備され、この時、小野路に一里塚も築かれ、現在も残っている。
そして、いよいよ御尊櫃が小野路にさしかかった時、宿場の西の向坂で御尊櫃を乗せた輿が壊れ、急遽呼ばれた鍛冶屋が修理をしたという。この時の小野路宿の労苦に対して幕府は助郷役の免除で応えたそうだ。
町田市に小野路という土地があることは知っていたが、今まで訪れたことはなかった。電柱が地中化されているせいもあり、旧宿場町らしい風情のある街並み。想像していた以上によいところだな、と思う。

2時間歩き続けたせいか、寒さも感じない。もう少し歩きたい。

まずは高台の上にある小野神社に参拝。ここにも地神塔があった。

小野神社は平安時代の天禄年間(972年頃)、武蔵国司として都から赴任した小野孝泰が小野氏の先祖で優れた学者だった小野篁(802-53)をこの地に祀ったのが始まりだという。
応永十(1403)年には小野路村の僧正珍が寄進を募り、交通安全を祈願して宮鐘を奉納し、清浄院(廃寺)の僧が鐘をついて旅人に時を知らせたという。しかし、この鐘は戦国時代の文明年間(1469-87)に山内上杉軍の兵により陣鐘として持ち去られ、現在は神奈川県逗子市沼間の海宝院に保管されているという。小野神社には昭和59年に復元された宮鐘が拝殿の右側に吊り下げられている。


その後、小野神社前交差点の角にある小野路宿里山交流館で昼食。小野路産の地粉を使った「小野路うどん」(560円)と「里山コロッケ」(120円)を注文。食事メニューはうどんだけ(ほかにお弁当あり)。

小野路うどんはざる蕎麦かと思うような細いうどんで、冷たい麺をキノコやゴボウが入った温かい汁につけて食べる。野菜のかき揚げ付き。

里山コロッケはサクサク、ホクホク。どちらも美味しかった。

ここにはつるの剛士の色紙が飾ってあった。去年の春の日付で、偶然にも僕が小野路へ行った日(2月23日)の夜に放送されたNHK-BSの「ふらっとあの街 旅ラン10キロ」がまさに、多摩丘陵編(再放送)で、つるの剛士は府中市の多摩川をスタートして聖蹟桜ヶ丘、永山を経て丘陵地帯に入り、関屋の切通しを通って小野路へ来て、里山交流館で休憩していた。

ちなみにこの交流館は江戸時代の旅籠「角屋」を改修したものだそうで、今は小野路の観光拠点になっている。そして、蔵では雛人形が展示されていた。




小野路宿の風景。右手が近藤勇らを招いた小島家。幕末の小野路や新撰組関連の資料館になっているが、休館中だった。

さて、布田道は小野路が終点で、ここからはバスで鶴川や多摩センターなどに出られる。これで帰ってもいいのだが、まだ歩き足りない。
ということで、交流館でもらった地図を頼りに小野路散策を続行するが、続きはまた明日。