大友皇子は太政大臣=執政王として君臨し外交政策を主導。百済官僚に支えられ唐と手を組み新羅を打倒し、百済復興の名の下、任那復興を企図する。
大友皇子の立場
- 大友皇子は母が伊勢首出身で皇女ではないことから祭祀王としての大王にはなれない。一方で執政能力は大変優秀で、祭祀王天智天皇のもと、執政王としての活躍は大いに期待されていた。(継体持統㉕:祭祀王と執政王 - 上古への情熱)
- この執政王に対し、天智天皇は新しい官職を用意して祭祀の天皇と区別した。それが太政大臣である。
- 初代太政大臣が大友皇子であり、二代目が高市皇子である。高市皇子は日本書紀では高市皇子命と「命」をつけているが、執政王としての尊称である。ちなみに草壁皇子は「尊」として祭祀王の尊称である。
- このように大友皇子も高市皇子も最初から執政王として生きており、祭祀を司る天皇にはそもそもなれないし、なるつもりもない。
- 天智天皇が大友皇子を天皇にしようとしたとか、大友皇子が天皇になろうとしたとかは、全く事実と異なる。
- 大友皇子は天皇になれないが執政王として大いに期待されていたし、優秀であった。天智天皇即位元年668年には大友皇子は21歳になったことから、天智天皇は執政権を大友皇子に移したと思われる。
- この時期の参政権は数えで21歳が条件であったようで、天武天皇の皇子も21歳での参政記事が多い。
- 天智天皇即位元年668年から大友皇子は執政王であり、671年には正式に執政王としての新ポジションである太政大臣となった。
親唐路線の確立(668〜670年)
- 執政王大友皇子は百済官僚に囲まれた近江で親唐路線をひた走る。
- 中臣鎌足主導で一旦は新羅レジスタンス支援を決めたが、669年には中臣鎌足を排除。(継体持統㊷:鎌足暗殺 - 上古への情熱)
- 以後、親唐路線を確立し、軍事力増強のため、白村江で疲弊した西国に代わり、東国からの徴兵体制構築に務めた。
- 大津-琵琶湖-関ヶ原ラインは瀬戸内から東国への通路であり、大津宮遷都は東国兵力の徴収の効率化のためと解釈できる。
壬申の乱前夜(671年)
- 旧百済地域、熊津の唐軍は669年以降本格化した新羅レジスタンスの攻勢に徐々に耐えられなくなり、熊津都督府は671年1月に我が国に助けを求めてきた。
- ここで親唐派の近江朝廷=大友皇子は唐に対して援助の約束をしたと思われる。665年日唐和親条約(継体持統㊲:665年日唐和親条約と定恵の死 - 上古への情熱)の確認をした形だ。
- 一方で新羅は671年後半にかけて百済旧都をも占領し、朝鮮半島の唐軍は滅亡寸前まで追い込まれる。
- 671年10月には唐の水軍は新羅に撃破された。
- この新羅に撃破された唐の水軍が対馬・筑紫に逃げ込んできた。665年日唐和親条約により、博多湾那大津の造船所で軍艦の修理と補給ができたからだ。
- これが日本書紀671年11月の記事にある郭務悰ら二千人の来日である。新羅に撃破された唐の武装軍艦が補給をしに来たのだ。
日唐連合軍の結成(671年末)
- ここで郭務悰と近江朝は新羅レジスタンス殲滅作戦を行う約束をする。
ストーリーは以下の通り。
①郭務悰率いる唐水軍は博多湾の造船所で最新装備を整えて672年5月30日に博多から出航。最新装備の軍艦で672年6月に朝鮮半島南部の制海権を掌握。
②唐本国からは将軍の高侃が率いる唐陸軍が672年7月に朝鮮半島へ侵攻。
③近江朝は東国から軍を徴収。美濃に東国軍を集結させ韋那磐鍬に統率させて672年6月27日に美濃から出陣。672年7月上旬に筑紫から渡海。
④672年7月、唐と近江朝で刻を合わせて朝鮮半島に攻め込み、新羅を南北から挟み討ちし、新羅レジスタンスを殲滅、新羅を占領。
⑤結果、百済と任那が復活。 - 完璧な計画、必勝体制で、新羅殲滅と任那復興は目前であった。
大友の夢潰える
- が、大海人皇子の一撃で近江朝はあっけなく瓦解する。
- 近江朝が美濃・尾張軍を招集し朝鮮半島へ向けて出陣する情報を得た大海人皇子は、集まった美濃軍を村国男依に奪取させ672年6月26日未明に不破関を封鎖。
- 6月26日中には美濃軍を高市皇子に統率させた。
- 6月26日の夜半、何も知らずに不破関を通過しようとした韋那磐鍬を阻止。
- 6月27日、これまた何も知らずに美濃まで出向いた尾張軍が反乱軍と知らずに大海人皇子に合流。
- これで壬申の乱の趨勢は決まり、結果、近江朝は瓦解。672年6月26日のたった一日で勝負は決まり、任那復興は露と消え、新羅は生き残った。
崇峻天皇と織田信長と大友皇子
- 国家規模の軍事行動を起こすと、身辺警護が疎かになる。
- 古くは崇峻天皇、最近では織田信長がやらかした失敗だ。
- 大友皇子ももう少し用心深く琵琶湖から関ヶ原周辺の警備を固めていれば、大海人皇子につけ入る隙を与えなかったのに、一瞬の気の緩みが命取りとなった。
- 大友皇子が新羅を滅ぼし任那を復興させ、さらには、大友皇子が新羅に代わり唐軍を駆逐して朝鮮半島の覇王となった可能性も十分にあったのに、悔やまれる大失敗であった。
- 用意周到、完璧な計画だったが、大海人皇子に足をすくわれた。
我々は大海人皇子=天武天皇が作った世界線に居るので文句は言えないが、672年6月26日大海人皇子のクーデターが無い世界線では、極東アジアの歴史は全く違っているはず。
