11月30日木曜日、天気は曇り時々雪。昨日1日中降り続いた雪は、朝起きたら積雪5cmほどに。湿っぽい雪だけど、今日は終日真冬日のマイナス気温。歩くと耳が痛くなります。
今日で11月も終わり、明日からは今年最後の月である12月。そして2024年ももうすぐ!年々体力的には落ちてきているので、「ぼうけんの旅」が出来るのはいつまでか?あと10年は続けたい!と気持ちだけは大きく持っているけど、車中泊出来る体力は維持できるのか?
心配してても仕方がないので、毎日トレーニングだけは怠らずに継続しているので、来年も旅をしてblogを続けて行きたいです。
さて、ここは山形県庄内地方の庄内町清川。2005年7月1日に余目(あまるめ)町と立川町が合併して、庄内町となっています。流れる川は、長さでは北上川、阿武隈川に続く東北第3位の川である最上川。日本国内でも7位の大河川です。

交通量の多い国道47号線を渡り、川岸へ。やはり川幅が広い。ここは河口である酒田港からおよそ30㎞地点。

対岸は森で、道路もなく人家は見当たらず。人が住んでおらず、人々は最上川の左岸のこちら側にしか住んでいませんね。

横断歩道のない車通りの激しい道路を安全を確認して渡ります。1枚目の写真は左の建物からで、関川関所の見張り所だった建物を復元したもの。右に関所の役人がいた建物(復元)。ここは清川歴史公園です。

庄内藩の関所で、これより先は新庄藩。江戸時代は最上川沿いの道路はなく船が交通手段。
西の伊勢神宮参りと東の奥参り(羽黒山・月山・湯殿山の出羽三山参り)は江戸時代人々の最大の旅だったので、ここは大いに賑わっていたのです。

こちらが見張り所で、展望台にもなっています。入場は無料。

ここから積み出された荷物は、米、紅花、青苧、木材、菜種油など。運び込まれた荷物は磯、木綿、身欠きにしん、茶などでした。

ここ清川から内陸部へは陸路は困難だったため、人々は水運を選ばざるを得ず、年貢米を輸送するのも船を使用したのです。それで、最上川は水運が発達したのでした。

その証拠として、この方、松尾芭蕉ですね。彼もここで一句詠んでいます。
「五月雨を 集めて早し 最上川」はあまりにも有名ですね。

1689年3月27日江戸は深川から弟子の曽良とともに出発し、新庄へは6月1日から3日まで滞在。4日からは出羽三山参りをして、鶴岡へは6月11日に到着していて、13日には酒田へ行っています。

松尾芭蕉は3日に現在の新庄市本合海から乗船し20㎞近く最上川を下り、ここ清川で降りて羽黒山へ向けて歩きだしたのです。
当時、清川は最上川の川下りの駅でもあって、大いに栄えた時代だったのです。

関所の建物は、物品販売とミニレストラン、資料館になっていて、入場は無料です。開館は午前10時からで冬期間(12月から2月は閉館)。今日で年内終わりですね。

人々は、ここから羽黒山参りを始めたのです。それも歩いて羽黒山へ。その距離はおよそ10数㎞。今でこそ、ここから県道45号線の舗装された道路があって車で行けますが、芭蕉が訪れた当時は歩いて1日がかりの獣の出没する怖い山道だったのです。

井戸跡がありますが、最上川の水が湧出していたのかな?それとも冬は豪雪地帯だから、地下水が豊富なのかも?

少し付近を散策。近くにある御殿林は、戊辰戦争があった地。そして清河八郎生誕の地でもあるのです。

遊歩道を歩くこと5分ほどで、とある神社へ到着。

次回は、ここ清川が幕末の歴史を1ページを飾った地であったことをお伝えします。
清河八郎とはどんな人物であったのか?そして彼と新選組との関係は?
激動の数年間だった幕末、それで34歳の人生を終えた清河八郎。仲間だった近藤勇・土方歳三、親友だった山岡鉄舟らとの出会い。それを紹介します。
では、また明日お会いしましょう!
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今日で11月も終わり、明日からは今年最後の月である12月。そして2024年ももうすぐ!年々体力的には落ちてきているので、「ぼうけんの旅」が出来るのはいつまでか?あと10年は続けたい!と気持ちだけは大きく持っているけど、車中泊出来る体力は維持できるのか?
心配してても仕方がないので、毎日トレーニングだけは怠らずに継続しているので、来年も旅をしてblogを続けて行きたいです。
さて、ここは山形県庄内地方の庄内町清川。2005年7月1日に余目(あまるめ)町と立川町が合併して、庄内町となっています。流れる川は、長さでは北上川、阿武隈川に続く東北第3位の川である最上川。日本国内でも7位の大河川です。

交通量の多い国道47号線を渡り、川岸へ。やはり川幅が広い。ここは河口である酒田港からおよそ30㎞地点。

対岸は森で、道路もなく人家は見当たらず。人が住んでおらず、人々は最上川の左岸のこちら側にしか住んでいませんね。

横断歩道のない車通りの激しい道路を安全を確認して渡ります。1枚目の写真は左の建物からで、関川関所の見張り所だった建物を復元したもの。右に関所の役人がいた建物(復元)。ここは清川歴史公園です。

庄内藩の関所で、これより先は新庄藩。江戸時代は最上川沿いの道路はなく船が交通手段。
西の伊勢神宮参りと東の奥参り(羽黒山・月山・湯殿山の出羽三山参り)は江戸時代人々の最大の旅だったので、ここは大いに賑わっていたのです。

こちらが見張り所で、展望台にもなっています。入場は無料。

ここから積み出された荷物は、米、紅花、青苧、木材、菜種油など。運び込まれた荷物は磯、木綿、身欠きにしん、茶などでした。

ここ清川から内陸部へは陸路は困難だったため、人々は水運を選ばざるを得ず、年貢米を輸送するのも船を使用したのです。それで、最上川は水運が発達したのでした。

その証拠として、この方、松尾芭蕉ですね。彼もここで一句詠んでいます。
「五月雨を 集めて早し 最上川」はあまりにも有名ですね。

1689年3月27日江戸は深川から弟子の曽良とともに出発し、新庄へは6月1日から3日まで滞在。4日からは出羽三山参りをして、鶴岡へは6月11日に到着していて、13日には酒田へ行っています。

松尾芭蕉は3日に現在の新庄市本合海から乗船し20㎞近く最上川を下り、ここ清川で降りて羽黒山へ向けて歩きだしたのです。
当時、清川は最上川の川下りの駅でもあって、大いに栄えた時代だったのです。

関所の建物は、物品販売とミニレストラン、資料館になっていて、入場は無料です。開館は午前10時からで冬期間(12月から2月は閉館)。今日で年内終わりですね。

人々は、ここから羽黒山参りを始めたのです。それも歩いて羽黒山へ。その距離はおよそ10数㎞。今でこそ、ここから県道45号線の舗装された道路があって車で行けますが、芭蕉が訪れた当時は歩いて1日がかりの獣の出没する怖い山道だったのです。

井戸跡がありますが、最上川の水が湧出していたのかな?それとも冬は豪雪地帯だから、地下水が豊富なのかも?

少し付近を散策。近くにある御殿林は、戊辰戦争があった地。そして清河八郎生誕の地でもあるのです。

遊歩道を歩くこと5分ほどで、とある神社へ到着。

次回は、ここ清川が幕末の歴史を1ページを飾った地であったことをお伝えします。
清河八郎とはどんな人物であったのか?そして彼と新選組との関係は?
激動の数年間だった幕末、それで34歳の人生を終えた清河八郎。仲間だった近藤勇・土方歳三、親友だった山岡鉄舟らとの出会い。それを紹介します。
では、また明日お会いしましょう!
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