スーツケースひとつで来た女
「バレンタインデーに女を一人にしておくなんて男じゃない! そんな男とはもうつき合いたくない!」
電話で事態収拾不可能と悟った。慌ててチケット買って香港経由で深センへ飛んだ。
着いてすぐ深センの街へ。いつもと違う。きらびやかに彩られた目抜き通り。彼女と手をつないで歩いた。
「赤いバラが欲しい」
通りにある花屋はどれも例外なく赤いバラを売っている。店を正面から見れば赤いバラしか見えない。バラの濃い紅色が目に痛い。日本とは明らかに違う風景に驚くが、そんなそぶりは見せず頷いた。郷に入っては郷に従えとバラを買い求める。
その場の勢いでプロポーズ。
マイホームを購入した。面倒くさい国際結婚の手続きも済ませた。着々と準備は進んで行く。あとは彼女が日本に来ればめでたく新婚生活が始まる。
いつでもいいから早く飛行機に乗っておいで、と言ったら、
「私一人で行かせる気?」
またオレはマズイことを言ったらしい。
彼女は東莞のレストランで結婚披露宴をしようと家族、親戚、友達、同僚を招待していたのだ。
また慌ただしく羽田空港から飛んだ。着いたその日は家族だけの小さな宴会となった。初めて会う家族と言葉は通じなくても心は通じた。
翌日の披露宴は華やかさが加わり賑やかな大宴会になった。いくつも並んだ円卓は料理と酒があふれ、笑い声と歌が絶えなかった。
翌朝、妻となる人を連れて行く。二日酔いの醜態など微塵も見せない。お義父さん、お義母さん、姉妹に心配させまいとオレは踏んばった。
家族との別れのシーンはまるで映画だ。涙を誘う。
玄関にあらわれた彼女を見て目が点になった。スーツケースひとつだけ引いている。二泊三日のオレと変わらない格好じゃねーか。ホントに横浜で暮らすつもりか。
その潔さ、度胸の据わり具合に驚いたもんだ。そして自分の責任の重さを感じた瞬間だった。
細君の生まれ育った彼の地では、バレンタインには男が女に赤いバラを贈ることになっている。よってこの日はバラを片手に、手をつなぐ男女のゾロ歩きが街にあふれる。
今や四人となった我が家はベビーカーと抱っこひもが欠かせない。娘二人に両手がふさがるからだ。
金沢八景へ買い物がてらの散歩の帰り道、ベビーカーのひさしに赤いバラをさしたのはそんなわけである。
新幹線がはこぶもの
「おねえちゃーん」
その言葉にはすべて濁点がついているようだった。
新幹線に乗ってお茶を飲んで文庫本を広げる、なんてことは遠い昔だ。それは出張を終えて家路につくときの誰にも邪魔されない貴重な時間だった。
携帯電話を持つようになっていつでもつながるようになった。こちらが望まなくても電話が僕の時間を中断させる。パソコンもいつでもつながる。途絶えることのないメールは受信トレイをいっぱいにする。高速で滑走するリクライニングシートで背中に振動を感じながら、時間を惜しむようにして画面を見つめキーを叩く。そんなことをしていると目的駅のアナウンスが聞こえてくる。窓の外に流れる景色は目に入った異物のようで馴染むことはなかった。
同じ新幹線でもまったく違った体験をさせてくれたことがあった。新型コロナ流行の前の年だった。保育園に通う娘ひまりを連れて各務原の実家に帰省するときのことだ。
「アリスおねえちゃんとシャボンだまするの」
「イチゴおねえちゃんにおえかきしてもらう」
前の日からあれをやりたいこれをやりたいとはしゃいでいた。興奮で夜も眠れないひまりだったが、出かける朝は自ら起き出した。新横浜から新幹線に乗ればジュースとお菓子、おもちゃをカバンから出して大遊園会が始まる。僕も大きく羽を伸ばしてビールとつまみで寛ぐ。
オヤジとオフクロが待つ実家に帰ると僕の妹も子供を連れて現れた。小学生と中学生の女子二人だ。とたんに家の中がお祭り騒ぎのにぎやかさになる。従姉妹どうし三人が集まるとその勢いは止められない。
「わたしのおにんぎょうだっこして」
「わたしのあたまにリボンむすんで」
大きなお姉さんを見つけた娘は甘えることも忘れなかった。
二晩を各務原で過ごしたあと名古屋駅に向かった。従姉妹がホームまで見送りに来たがにぎやかな女子会は終わる気配がない。お互いにガラス窓を挟んで手を振り合う。
いよいよ新幹線が走り出した。そのとたんひまりが身体を翻して座席の隅に顔をうずめるようにして突っ伏した。突然の動作だったが三日間の疲れが出て眠ったのかと思った。
ビールを口に含んでふたたび横を見ると様子が違った。背中を大きく上下させている。まさかキャンディーを喉に詰まらせたのかと慌てて娘の身体を抱き起した。娘は大きく口を開け、
「おねえちゃーん」
と声をあげた。頭を後ろに倒し天井を仰ぎながら腹の底から声を絞り出す。誰はばからず泣き、しゃくりあげながら繰り返す。
「おねえちゃーん」
繰り返すその言葉にはすべて濁点がついていた。
一緒に同じ楽しい時間を過ごした。ふたつにひき裂かれる。痛いほどの悲しさ。
目からあふれる涙はほほをつたって落ちる。鼻からも水が流れ唇を濡らす。口からはよだれがこぼれている。三つの液体はあごで合流し堰を切ったように流れ落ちる。口を開きあごを突き出しながら天井に向かって泣くひまり。いつでもどこでもつながる時代にも出会いと別れはあるのだと教えてくれた。楽しさも寂しさも精いっぱい味合わせてあげたいと思った。
「おねえちゃーん」