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東海道を歩く 49.追分駅~墨染駅

 前回、大津駅から三条大橋まで歩いた。今回は追分駅から墨染駅まで歩こうと思う。前回で京都・三条大橋に到着したが、一旦旧東海道追分まで戻り、そこから大坂・高麗橋を目指し、あと少しだけ歩いていこう。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.大宅一里塚

 今日は追分駅から出発だ。

追分駅

 

 旧東海道追分から、南西方向に向かう。旧東海道追分について知りたい方は、前回記事「東海道を歩く 48.大津駅三条大橋 4.旧東海道追分」を参照してほしい。

旧東海道追分

 

 「牛尾山道」という道標がある。牛尾山とは?と思い調べたらこの近くに牛尾山という山があるらしい。

「牛尾山道」

 

 追分駅を出て30分程度だが、マクドナルド1号線山科店を見つけたので早めの昼食を済ませる。

 

 「みぎ うじみち ひだり おゝつみち」

 

 「愛宕山」の燈籠…京都・愛宕山信仰だろうか?

 

 マクドナルド1号線山科店から30分ほど歩いたところに大宅一里塚がある。

大宅一里塚

 一里塚は街道の両側に一里(約4km)ごとに土を塚状に盛った目印で、現在の道路標識にあたるもの。

 一里塚の制は桃山時代以前にもあったと考えられるが、慶長9年(1604年)に徳川家康が諸街道の修理とともに一里塚築造を命じたことが「徳川実記」などの文献に見られる。

 江戸時代に有用であった一里塚も近代に入り交通形態の変遷とともに存在価値が薄れ、道路の拡幅や開発などによって数多くの塚が取り除かれることとなった。

 京都市内にあった一里塚も近年次々と姿を消しこの塚も街道の東側が取り除かれ、西側にあったこの塚のみが現存している。

 京都市内にあった一里塚のほとんどが消滅したなかにあって、この一里塚は江戸時代の交通関連の遺構として価値が高く、当時の交通形態を知る上で大変貴重なものとして昭和60年(1985年)6月1日に京都市の史跡として登録された。

 

 大宅一里塚から15分ほど歩いたところに葛籠尻の小町カヤがある。

葛籠尻の小町カヤ

 平安時代深草少将が小野小町のもとに百夜通うことを誓ったという百夜通い(ももよがよい)伝説があるカヤの古木である。

 小野小町はカヤの実を糸に綴ってその日を数えていたが、最後の一夜を前に深草少将がこの世を去ったので少将の菩提を弔うため、小町は小野の里にそのカヤの実を播いた、という話である。

 百夜通えずにこの夜を去った深草少将…これは悲恋ということでよいのだろうか。

 

2.勧修寺

 葛籠尻の小町カヤから20分ほど歩いたところに勧修寺がある。

勧修寺

 醍醐天皇が生母・藤原胤子の追善のため、胤子の外祖父・宮道彌益の邸宅跡を昌泰3年(900年)、右大臣・藤原定方(胤子の同母兄弟)に命じて寺に改めたのが勧修寺である。

 延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、天慶5年(942年)に敦真親王(あつざねしんのう)の子・雅慶大僧正(がけいだいそうじょう)が入寺してからは、皇室からの入寺があいついだ。後伏見天皇の皇子・寛胤親王(ひろたねしんのう)からは門跡寺院となり、おおいに栄えた。

 応仁・文明の乱で焼亡し、豊臣秀吉伏見街道設置(のちの東海道)で寺地も削られた。

 その復興は天和2年(1682年)の霊元天皇皇子・済深法親王(さいしんほっしんのう)の入寺(この背景には小倉事件とよばれる皇位をめぐる事件が存在)まで待たされ、東大寺大仏殿再建の功による寺領の加増や明正天皇旧殿の下賜などを受け、伽藍が再整備された。

 拝観料を払い、なかに入ると宸殿がある。

宸殿

 宸殿は元禄10年(1697年)1月に明正天皇の御殿を下賜されたもので江戸時代初期の建物が残っている。

 

 「君が代」で有名なさざれ石があった。さざれ石とは小さな石が長い年月をかけて溶けて固まり、大きな石になったものである。

さざれ石

 

 偃柏槙(はいびゃくしん)はひのき科の植物で一面一本の木、この木の樹齢は750年といわれ京都市の巨樹名木のひとつに数えられている。

偃柏槙

 

 勧修寺燈籠は水戸黄門が寄進したと伝えられ、京都へ来たら必ず見て通ろう(燈籠・とうろうとかけている?)と言われる燈籠だ。

勧修寺燈籠

 

 千年杉は前方100mにあるそうだが…真ん中の大きい木がそうだろうか。

千年杉

 

 観音堂昭和6年(1931年)に再建された。

観音堂

 

 勧修寺には庭園がある。

勧修寺庭園

 勧修寺庭園は平安時代以来と伝える氷室池を中心とする池庭と、貞享3年(1686年)に後西院旧殿を賜って建てられたという書院の南に広がる平庭の2つの部分からなる。

 氷室池はかつて南へ更に広がっていたが、豊臣秀吉伏見城築城の際に新道建設のため埋められ、現在の大きさになった。

 昭和63年(1988年)5月2日、京都市文化財保護条例により京都市指定名勝とされた。

 

 「この先カレエダ落下お立入りキケンです この先行かれるのはご自由ですが大いに危険」

 行くなとは言ってないが、限りなく「行くな」に近いので行かない。

 

 山桃の老木の主幹は落雷によって二分されたと伝えられ、樹齢は350年ほどらしい。

山桃の老木

 

 勧修寺で御朱印をいただいた。門跡寺院だったので、判子が菊の御紋だ。

 

3.藤森神社

 勧修寺の裏に宮道(みやじ)神社がある。

宮道神社

 宮道神社宇治郡を本拠とした氏族・宮道氏の祖神・日本武尊(やまとたけるのみこと)、その子・稚武王を祭神として寛平10年(898年)に創建された。

 平安時代初期、宇治郡司・宮道弥益は醍醐天皇の生母・藤原胤子の祖父でその邸を寺としたのが勧修寺である。

 後世、宮道弥益・列子をはじめ藤原高藤(藤原胤子の父)・定方・藤原胤子等、勧修寺ゆかりの人々が合祀された。

 藤原高藤の後裔は勧修寺流藤原氏として朝廷で重要な位置を占め、また宮道氏は武家・寺家蜷川氏としてともに繁栄、活躍した。

 本殿は明治23年(1890年)に再建されたもの。

 

 宮道神社から20分ほど行ったところには醍醐天皇御母小野陵がある。これは藤原胤子の墓である。

醍醐天皇御母小野陵

 

 醍醐天皇御母小野陵から40分くらい歩いたところに仁明天皇陵がある。

仁明天皇

 仁明天皇嵯峨天皇の皇子で叔父・淳和天皇の皇太子として即位し、承和の変(842年)で皇太子・恒貞親王(淳和天皇皇子)を廃して、自分の皇子(のちの文徳天皇)を皇太子とした天皇である。

 

 仁明天皇陵から25分くらい歩くと藤森神社に到着する。

藤森神社

 藤森神社は素戔嗚尊(すさのおのみこと)や応神天皇神功皇后など計12柱を祭神とし社伝では神功皇后深草里藤森の地に纛旗(とうき)を立て、塚に兵具を納めまつったのが始まりという。

 もとは現在の伏見稲荷大社の社地にあったと伝え、稲荷社の創立にともなって現在地に移転したそうだ。

 そのためか今も伏見稲荷門前の町は藤森神社の氏子圏で、毎年5月の藤森祭には社地を返せとの掛け声がかけられたこともあるらしい。

 

 石造鳥居は正徳元年(1711年)の銘がある。

石造鳥居

 この鳥居には額がないが、むかし後水尾天皇が書いた額がかけてあった。しかも参勤交代の道筋にあたっていたので、大名は藤森神社を通るときに駕籠からおりて拝礼し槍などを倒して通行しなければならなかった。

 しかし幕末に入りこのような悠長な風習を守っているのは時代に即しないとして、新撰組近藤勇が額をはずしたといわれている。

 

 藤森神社の本殿に参拝する。

藤森神社 本殿

 

 藤森神社には入場無料の宝物殿がある。

宝物殿

 

 宝物殿は撮影不可だが一部だけ撮影できるスペースがあった。それは「京都刀剣御朱印めぐり」の御朱印コーナーと、刀剣乱舞「鶴丸」のコーナーである。

京都刀剣御朱印めぐり

刀剣乱舞「鶴丸

 刀剣乱舞とは日本刀を男性に擬人化したコンテンツで、藤森神社に一時奉納されていた日本刀「鶴丸」にちなんだキャラクターのグッズが展示されている。

 「鶴丸」とは平安時代の刀工・三条宗近の弟子である五条国永によって作刀され、北条家に伝来した後に織田信長、三枝勘兵衛が所持し、三枝勘兵衛が手放した後から伊達家に渡るまでの一時期、藤森神社の祭礼等において御神前に奉納されていたと伝えられる。

 享保頃には仙台藩主・伊達吉村の手に渡り、明治34年(1901年)に伊達家から明治天皇に献上され、現在は宮内庁が「皇室の名宝」として管理している。

 なお「鶴丸」の写しは展示されているが、撮影不可。

 

 藤森神社で御朱印をいただいた。

 

 藤森神社から10分ほどで墨染駅に着いたので、今日はここで終了だ。

墨染駅

 

 墨染駅から京都駅に戻り、一旦大津の宿に戻ってから京都駅へ、そこから竹田駅に向かい「伏見力の湯」で汗まみれの体を洗った。

伏見力の湯

 伏見力の湯は京都城陽温泉から運ばれてきたナトリウム-炭酸水素塩・塩化物温泉で、サウナ・水風呂・外気浴スペースも完備している。汗をかいた後の温泉は最高だ。

 

 伏見力の湯に入った後は京都駅に戻り、田ごと京都ポルタ店で鴨南蛮そばを食べた。

 

 次回は、墨染駅から淀駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

歩いた日:2025年7月20日

【参考文献】

京都府歴史遺産研究会(2011) 「京都府の歴史散歩 中」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第16集」

関東三十六不動をめぐる 6.川崎編②

 前回、第6番札所 等覚院に訪れながら川崎をめぐった。今回は第7番札所 川崎大師 不動堂に訪れながら川崎をぶらぶらしようと思う。川崎大師の境内を1時間以上かけてめぐり、徹底解剖してみた。2026年最初の更新、初詣の代わりにどうぞ!

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.川崎大師

 今日は川崎大師駅からスタートだ。

川崎大師駅

 

 駅から10分ほどのところに松月庵というお蕎麦屋さんがあり、そこで鴨南蛮そばを食べた。寒い冬は鴨南蛮そばに限る。

松月庵

鴨南蛮そば

 

 松月庵からすぐのところに明長寺がある。

明長寺

 明長寺は恵日山普門院と号し、江戸東叡山寛永寺の末寺である。御本尊の十一面観音立像は慈覚大師(円仁)の作と伝えられる。

 寺の創建は文明年間(1469~1487年)と伝えられているが、寛文9年(1669年)の落雷により堂宇・記録が焼失し、詳細な縁起は不明。

 天明2年(1782年)、7世住職・良逢によって現在の本堂が再建されてから発展した。

 

 明長寺をあとにし、川崎大師の参道に入る。参道を入ると大山門があり、その先に大本堂がある。

大山門

大本堂

 ここで川崎大師について紹介しよう。

 大治3年(1128年)漁夫の平間兼乗(ひらまかねのり)が夢のお告げにより、海中から弘法大師像(本尊)を拾いあげ、これを安置する堂を建立したのが始まりであると縁起は伝えるが、第二次世界大戦による戦災で記録類を失い実際の創建年代は不明である。

 また鳥羽天皇の皇后で、保元の乱(1156年)の原因ともなった美福門院の祈願所となり、鳥羽上皇より勅願寺の列に加えられたという。

 川崎大師が隆盛をきわめたのは江戸時代からで、将軍や御三卿などの支配階級の間にも帰依するものが多かった。

 このため御成門の造営をはじめ堂宇の整備がはかられ、古刹としての偉容を誇るようになった。

 境内におかれた大師道の道標は、寛文3年(1663年)に川崎宿の万年屋前におかれたもので、大師参詣者は六郷川を渡り川崎宿にはいるとこの道標によって大師道に導かれたのである。

 江戸市井の人々が川崎宿を経由して川崎大師へ詣でるかたちが、かなり浸透していたことが想像される。

 幕末期には、日本を訪れた外国人たちもこの庶民信仰の霊場を一目みようと立ち寄るものも多く、数多くの紀行文が残されている。

 

2.川崎大師 不動門

 清瀧権現堂の御本尊は如意輪観世音・准胝観世音(じゅんていかんぜおん)の2菩薩で、京都・醍醐寺清瀧権現の御分躰を勧請して安置した。

清瀧権現

 

 旧本堂礎石を見つけた。

 

旧本堂礎石

 旧本堂は、天保5年(1834年)に弘法大師一千年御遠忌を記念して建立された。

 間口十六間(28.8m)、奥行十八間(32.4m)、高さ七十三尺(22m)、建坪二百九十坪(957㎡)の総欅造総銅甍葺の宏壮な建物だったようだ。

 昭和20年(1945年)4月15日未明、第二次世界大戦の戦禍を蒙り諸堂とともに焼失した。

 

 宝篋印塔は以前山門より入り本堂へ通ずる中央にあり、宝暦6年(1756年)3月に田安家より寄進されたもので、中に湯島霊雲和上開眼の経筒銅等が納められた。

宝篋印塔

 

 いろは碑は弘法大師が国字を発明したのを記念して建立したもので、大正5年(1916年)に建立された。

いろは碑

 

 この道標は寛文3年(1663年)川崎宿の渡し場(現在の六郷橋のたもと)近く、大師へ至る道の入口に建てられたもの。この碑には「こうぼう大し江のみち」と刻まれている。

 この碑は第二次世界大戦後、六郷橋付近の道路拡張工事にともなって川崎大師の境内に移管されたものである。

道標

 

 川崎大師の和尚・隆超和上が造った石庭があった。

石庭

 

 石庭の裏に不動門がある。

不動門

 不動門は太平洋戦争後、隆超和上が戦災によって失われた旧大山門の跡地に昭和23年(1948年)に縁のある地から移築させた建物で、新たに大山門が復興するまでの約30年間にわたり川崎大師の山門だった。

 

 八角五重塔弘法大師千百五十年御遠忌を記念して発願され、昭和59年(1984年)に建てられた。なかには釈迦如来像をはじめさまざまな仏様が祀られている。

八角五重塔

 

 「ラテスカんゃちラド」…逆から読むとわかるネタは好き。

 

3.川崎大師 北の湖敏満之像

 北の湖敏満之像があった。北の湖敏満は川崎大師の檀家であり、生前、御本尊の弘法大師を信仰していた縁により平成29年(2017年)に像が建立された。

北の湖敏満之像

 北の湖敏満は昭和28年(1953年)に北海道で誕生、21歳のときに横綱になった。31歳のときに引退、「北の湖」を襲名した。その後は江東区での相撲部屋の運営や日本相撲協会の理事長を務めたりしていたが、平成27年(2015年)に62歳で亡くなった。

 「北の湖理事長」は私もニュースで聞いた記憶はあったが、10年前に亡くなっていたことは知らなかった。

 

 北の湖敏満之像の隣に力石があった。

力石

 力石は昔、川崎大師の境内で若者たちの力比べに使った石である。

 左の2つは「さし石」といってこれは頭の上にさしあげる用の石で、大きいほうは三十六貫(135kg)ある。

 右の3つは「おったて石」といい、これは起こしてまっすぐに立てる用の石で、一番大きいものは百貫(375kg)もある。

 これができた人は一人前とみなされたようだが…握力13kgの私には無理だと思った。

 

 力石の近くに江戸消防記念碑がある。

江戸消防記念碑

 東京消防組の発起で江戸消防記念碑は建設された。

 その趣旨は享保年間、江戸町奉行大岡越前守忠相が江戸町中に町火消というのを設け、その名の区別をいろは文字のように四十八組とした。

 それ以来明治の初めまで組の名を残していたがその起元を永久に伝えるために、明治21年(1888年)に建立された。ここに建てたのは弘法大師が国字を発明した縁による。

 

 川崎大師の墓地の前に「しょうづかの婆さん」がある。

しょうづかの婆さん

 人は死後、三途の川を渡る。その川に奪衣婆がいて、その奪衣婆は「葬頭河の婆(そうづかのばあ)」と呼ばれていたがそれが訛って「しょうづかの婆さん」と呼ばれるようになったそうだ。

 しょうづかの婆さんはその昔、品川のお台場にいたらしく「台場の久兵様」や「歯のお地蔵さん」と呼ばれていたこともあったらしい。

 昔から歯の痛みを癒し、容貌を美しくすると信じられてきたので今でも信仰されている。私も「もっと綺麗になりますように」と祈ってみるか…。

 

 種梨遺功碑を見つけた。

種梨遺功碑

 長十郎梨の種を発見した当麻辰次郎(文政9年(1826年)~明治38年(1905年))の碑である。長十郎梨は今も生産されている。

 

 「金色(こんじき)の 涼しき法(のり)の 光かな」という高浜虚子の句碑を見つけた。

高浜虚子の句碑

 

 「ものいはで 立出るなり 秋のくれ」という六世竹本綱太夫の句碑があった。

六世竹本綱太夫の句碑

 

 遊山慕仙詩碑を見つけた。

遊山慕仙詩碑

 天保4年(1833年)7月に建てられた遊山慕仙詩碑は、翌年の弘法大師千年御遠忌法要に合わせ、江戸時代後期の書家・寺本海若(てらもとかいにゅう)が川崎大師平間寺に奉納した石碑である。

 碑面に彫られた遊山慕仙詩は空海による漢詩で、自然の働きを通して仏教の真髄を語り、人々を迷いから救い悟りの世界へ導くという悲願が綴られている。

 

4.川崎大師 不動堂

 やすらぎ橋があったが、渡れなかった。

やすらぎ橋

 

 やすらぎ橋の先には降魔成道釈迦如来像(ごうまじょうどうしゃかにょらいぞう)がある。

降魔成道釈迦如来

 29歳で出家した釈尊は苦行の後、菩提樹の下で禅定に入った。種々の悪魔が誘惑・脅迫して釈尊を妨害したが、釈尊は退けて悟りを開いた。このとき釈尊は左手を膝の上に置き右手を伸ばして大地を指すポーズを取ったが、このポーズを「降魔成道」という。

 

 降魔成道釈迦如来像の裏にやたらエキゾチックな建物があるが、これは薬師殿だ。薬師殿は平成20年(2008年)に建てられ、薬師如来像が祀られている。薬師如来像に参拝し、御朱印をいただいた。

薬師殿

薬師如来御朱印

 

 川崎大師には「ひらまくん」というゆるキャラがいるが、なんだろう…そこはかとなく「せ○とくん」に似てるんだよなぁ…。

 

 日本百観音霊場お砂踏み参拝所があった。日本百観音とは坂東33+西国33+秩父34=100か所の観音霊場のことで、お砂踏み参拝所はそこの砂を踏むことで同じ功徳を得られる、というものだ。なお私はまだ坂東三十三か所の5か所しか参拝していない。

日本百観音霊場お砂踏み参拝所

坂東三十三観音 第1~6番札所

 

 「朝露の 雫するなり 大師堂」の正岡子規の句碑があった。

正岡子規の句碑

 

 「つるの池」があったがほとんど水が抜かれていた。

つるの池

 

 「父母の 志きりに恋し 雉の声」の松尾芭蕉の句碑を見つけた。

松尾芭蕉の句碑

 

 鐘楼堂は寛政元年(1789年)正月に創立されたが大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊、昭和5年(1930年)に現在地に移転するも昭和20年(1945年)に戦災で焼失、昭和23年(1948年)に再建された。

鐘楼堂

 鐘は延徳3年(1491年)に鋳造されたものだが、寛政7年(1795年)に再鋳されている。

 

 「ラテスカんゃちラド」に続き「ンピーャシ」…笑

 

 不動堂は昭和39年(1964年)に建てられ、なかに不動明王像が祀られている。ここの不動明王像は関東三十六不動の第7番札所に指定されているため、御朱印をいただく。

不動堂

不動明王御朱印

 

 中書院のなかには光聚庵(こうじゅあん)と心月庵(しんげつあん)という茶室があるが、非公開。江戸時代の寛永5年(1628年)に建てられた六字名号塔もあるが、こちらも非公開。

中書院

六字名号塔

 

5.久寿餅

 「第35回 四国八十八ヶ所霊場巡拝」のお知らせが貼ってあったが2週間かかる上、参加費が合計57万…これは無理だ。

 

 経蔵の前に「奇跡の銀杏」がある。この銀杏も第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失するも奇跡的に蘇生、奇跡の銀杏と名付けられた。

奇跡の銀杏

 

 経蔵には釈迦如来像が祀られ、壁面には大蔵経が納められ天井には「双龍」「飛天」の絵が描かれている。こちらは平成16年(2004年)に建てられた。

経蔵

 

 ここまで来て、やっと大本堂に参拝する。大本堂は昭和39年(1964年)に建てられ、厄除弘法大師像を御本尊として祀っている。

 大本堂では御朱印もいただけ、「厄除遍照殿」と書かれている。

大本堂

大本堂 御朱印

 

 川崎大師の境内を一周して疲れたので、甘いものが欲しくなった。そこで寄ったのが「住吉」さん。

 ここでは名物の「久寿餅(くずもち)」をいただける。

住吉

久寿餅

 天保の頃(1830~1840年)、大師河原村に久兵衛という男が住んでいた。ある風雨の強い夜に納屋に蓄えていた小麦粉が雨で濡れてしまい、久兵衛は仕方なくこれをこねて樽に移し、水に溶いて放置しておいた。

 翌年飢饉が起こり樽に移した小麦粉のことを思い出した久兵衛は、樽の底に小麦粉が発酵してできた純良なでんぷんが沈殿しているのを発見する。

 これを加工して蒸しあげたところ風変わりな餅ができあがり、川崎大師の隆盛上人に食べてもらったところ、隆盛上人は淡白にして風雅な餅の味を絶賛し川崎大師の名物として広めることを久兵衛に薦めた。

 隆盛上人は久兵衛の「久」と無病長寿を記念して「寿」、これを合わせて「久寿餅」と名付けた。

 以前は川崎大師のお坊さんもお刺身の代わりに久寿餅を食べたり、戦後の食糧難の時代は久寿餅のなかに塩豆を入れたり、カレーのルーをかけて食べたこともあったようだ。

 

 1年放置した小麦粉からでんぷんができているのも、それを蒸したのも、それを人に食べさせたのもすごいと思う。まあ、発酵食品は「誰かが最初に食べて美味しいと気づいた」ものたちばかりだろうけど。

 ちなみに久寿餅は発酵食品なので少しだけ酸味がする。まあほぼ無味なので黒蜜やきな粉をかけて食べるが、カレーのルーは合うのか…?

 

6.川崎大師の飴屋

 川崎大師門前には飴屋が軒を連ねている。

 「せき止飴」は松屋の初代・宮﨑米吉が煮詰めた飴に家伝の薬草エキスを加えた飴をつくったのがはじまりで、明治元年(1868年)に深川・門前仲町で「松屋の飴」の屋号で創業した。

 柴又帝釈天への分店を経て昭和11年(1936年)に盛況を呈していた大師門前に「深川不動尊 松屋の飴支店」を出店。

 戦災による店の焼失から休業を余儀なくされたが昭和39年(1964年)に「松屋総本店」の屋号で再開業を果たした。

 

 「さらし飴」は麦芽で糖化された風味豊かな水飴が原料で、煮あがった飴を何度も練り、気泡が混入して白色になった飴。

 飴を切る工程から「厄を切る」という意味も込められている。仲見世通りにはいつもトントンというさらし飴を切る音が響き渡っている。

 

 私も評判堂のきなこ飴が美味しそうだなと思ったので買おうとしていたが、買いに行ったときは残念ながら売り切れ。試食でいただいたせき止め飴が美味しかったのでそちらを買った。今は仕事中のおやつになっている。

評判堂のせき止め飴

 

 また、評判堂の向かい側にある松屋総本店でも水飴を買った。私は水飴が好きなので、大きいタッパーに入ったものを買ってしまった。

水飴

 

7.金山神社

 川崎大師駅から宮川病院脇の道をいくとすぐ右手に、大師河原村の鎮守である若宮八幡宮があり、その境内奥に金山神社がある。

若宮八幡宮

金山神社

 金山神社は古くは「金山権現社」俗に「かなまら様」とよばれ、性と鍛冶屋の神として信仰を集めていた。現社殿は、昭和37年(1962年)に再建されたものである。

 4月の第2日曜日には例祭のかなまら祭りが行われる。祭りには大きな「かなまら」と、仮装をした男たちの面掛け行列が町を練り歩く。

 気になる人は「かなまら祭り」で検索してみるとよい(閲覧は自己責任で)。

 

 若宮八幡宮金山神社では御朱印もいただける。若宮八幡宮のものは「たみのかまどはにぎわいにけり」、金山神社は「円満繁栄」と書かれている。

 

 また、若宮八幡宮にも力石が置いてある。このへんでは盛んだったのだろうか。

 

 散策を終え、川崎大師駅に戻ってきた。今日はこれでおしまい。

川崎大師駅

 川崎大師には、就活のときに川崎にある会社に面接に行ったときに訪れたことがあったが、もう何年も前のことなので覚えておらず、新しい発見がいっぱいあった(ちなみに川崎の会社は二次面接で落ちた)。参道前にある久寿餅のお店は美味しいのでおすすめだ。金山神社の「かなまら祭り」はXで流れてきて見たことがあったので知っていたのだが、実際に参拝したのは初めてだった。

 私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2025年12月13日

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川県の歴史散歩」 山川出版社

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

かわさき区の宝物シート 川崎大師久寿餅

https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000025/25911/10-14.pdf

かわさき区の宝物シート せき止め飴・さらし飴

https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000025/25911/10-14.pdf

(2026年1月1日最終閲覧)

関東三十六不動をめぐる 5.川崎編①

 前回、第4番札所真福寺、第5番札所金蔵寺に訪れながら横浜をめぐった。今回は第6番札所等覚院を訪れながら川崎をぶらぶらしようと思う。このあたりは行ったことがなかったので、結構面白い発見があった。

初回記事はこちら↓

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前回記事はこちら↓

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1.等覚院

 今日は神木本町バス停からスタートだ。

神木本町バス停

 

 神木本町バス停から10分ほど歩いていくと等覚院がある。

等覚院

 等覚院は「神木のお不動様」とよばれて、とくにぜんそく治癒の御利益で多くの参詣客を集めているそうだが、この日は誰もいなかった。

 この寺の縁起には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の際、のどのかわきをいやす泉をツルが舞い降りて知らせ、日本武尊はそこに1本の木を植えた。その木が神木とあがめられて、この地は神木(しぼく)とよばれるようになったとある。本尊の不動明王は智証大師円珍がその神木をきざんだという話も伝わっている。

 明治時代にたてられた山門と幕末の安政3年(1856年)にたてられた本堂の間、石段の両脇にはツツジが植えられている。

 なかには樹齢300年を数えるという古木もあり、つつじ寺として親しまれ花の季節には多くの人が訪れるそうだが、今日は誰もいなかった。

山門

ツツジ

 

 等覚院で御朱印をいただいた。書かれているのは梵字の「カーン(不動明王を意味する)」だろうか。

 

 川崎市のマンホールを見つけた。

 中央にある市の花ツツジを、市章と7個の市の木・ツバキが囲んでいるマンホールである。ツバキの数は川崎市7区を表している。

 川崎市の市章は「川崎」の「川」の字を表すだけでなく、市民の歴史とともに流れ続ける多摩川と、それと同じように発展する「川崎」を象徴している。

 

2.妙楽寺

 五所塚第一公園内に直径約4m・高さ2mほどの塚が5つ南北にならんでいる。

五所塚

 地元では古くから五所塚とよばれ、江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」には長尾景虎とその従者の墳墓と記されている。

 しかし、実際には村境などにつくられた「境」信仰の塚と考えられている。他地域から疫病や災禍が村内へ侵入することを防ぐための祭祀が行われた跡であり、5つの塚がそのまま残っているのは全国的にみても珍しい例という。

 

 五所塚にはかわいいネコチャンがいた。

 

 五所塚の北側に隣接して長尾神社がある。

長尾神社

 長尾権現台とよばれる台地の最高部に位置し、もとは河内長尾の鎮守で五所権現社とよばれていたが、明治42年(1909年)に神木長尾の鎮守・赤城社を合祀して長尾神社となった。

 

 長尾神社からさらに150mほど北へ進むと、左手に長尾山妙楽寺がある。

妙楽寺

 境内には約1,000株のアジサイが植えられ、別名「あじさい寺」と呼ばれている。この日はちょうどアジサイのシーズンだったので、多くの人がアジサイを見に来ていた。

 鎌倉時代の初め、長尾付近には長尾寺もしくは威光寺とよばれる寺院があった。縁起によれば慈覚大師円仁の創建であるという。

 鎌倉時代初期には源氏代々の祈禱寺として栄え、「吾妻鏡」にもその名が登場する。治承4年(1180年)には源頼朝が弟の阿野全成(今若丸)を院主にすえ、寺領の保護をはかっている。これは多摩丘陵の軍事的重要性ゆえの措置であったと考えられる。

 しかし寺勢はやがて衰え、室町時代にはいるともとの威勢はまったく失われくわしい所在地などは不明となって、久しく「幻の寺」とされていた。

 ところが昭和52年(1977年)に妙楽寺の薬師三尊像の解体修理が行われた際、脇侍の日光菩薩の胎内から墨書銘が発見された。

 そこには「武州立花郡大田郷 長尾山威光寺」「天文十四稔(1545年)」という文字がみられ少なくとも天文年間(1532~1555年)までは威光寺が存続していたこと、そして妙楽寺が威光寺の由緒をついだらしいことが史料的にも確認されたのである。

 

 妙楽寺でも御朱印をいただいた。アジサイの切り絵デザインでかわいい。

 

今回の地図①

 

3.日本民家園「宿場」

 妙楽寺から歩いて20分ほどで五所塚バス停に行き、バスに乗る。ここから次の目的地までは少し遠いからだ。

五所塚バス停

 

 バスに乗って10分ほどで飯室バス停に着き、ここから歩く。

飯室バス停

 

 飯室バス停から10分ほどで生田緑地があり、その敷地内に日本民家園がある。

日本民家園

 日本民家園は昭和42年(1967年)に開園した古民家を集めた野外博物館で、園内には農村舞台や船頭小屋、穀物をおさめた高倉も含めて24の民家が復元・保存されている。

 園内は宿場・信越の村・関東の村・神奈川の村・東北の村などのブロックに分けられ、地域の特徴ある民家が集められている。

 この博物館の特色は、たんに民家の収集にとどまらないところにある。家屋内には農具、機織り、藁細工などの生活用具が展示され、園内の通路には道祖神庚申塔馬頭観音などの信仰にかかわる石造物や、石橋・道標などの交通関連の遺物が配置されており、人々の生活の諸相にふれることができる。

 

 民家見学を始める前に本館で民家について学ぶ。

 平場の農村集落の形態を大まかに分類すると、散村型と集村型とに分けられる。

 散村型の農村集落では、屋敷の周囲に防風林を設けるところが多い。集村型の密集した集落をつくっているところの屋敷は、土堀や生垣・竹藪で区切ったり、また屋敷全体を付属屋などの建物で囲んだりする。

平場の民家

 

 古くから漁業を主な生活手段としている村では、魚群をすぐ追えるために船着場の近くに集落を構えるところが多く、海べりの狭い土地に驚くほど密集した形で建てられていることが多い。

海辺の民家

 

 そのほか、民家の建て方やかたち・つくりに関する展示がされていた。

 

 民家についてある程度学んだところで、民家を見に行く。

 

 旧原家住宅は大正2年に竣工した。完成まで22年かかったと伝えられているが、そのうち約20年は木材の調達に費やされたそうだ。

旧原家住宅

 原家は、古くは中原街道沿いで肥料問屋を営み、大地主になると銀行経営や政治に進出して神奈川県議会の議長を2代続けて務めるなどの名家だった。

 なかは古民家カフェになっていたが、閉園時間までそれほど余裕がないためスルーして進む。

 なおカフェを利用しなくてもなかの見学はできる。

 

 旧鈴木家住宅は奥州街道の宿駅・八丁目宿の馬宿だった。馬宿とは馬喰(ばくろう。馬商人。)や馬方(うまかた。馬の世話役。)を泊めた宿のことである。

旧鈴木家住宅

 もとは福島県福島市松川町にあり、19世紀初期に建てられたそうだ。

 

 「みせ」という空間があり、ここは現在のホテルでいうフロントのようなものだ。

 

 「ちゃのま」は宿泊空間ではなく、経営する家族が生活する部屋であったらしい。

 

 「つぎのま」はお客様用の部屋である。なお日本民家園の民家は、基本的に畳の上に入ることはできない。

 

 旧井岡家住宅は見ることができず…残念!

旧井岡家住宅

 

 旧佐地家門・供待(ともまち)はもと名古屋城の東南にあり、禄高250石の武家屋敷の出入口だった。

 供待はお供が主人の帰りを待つための施設で、内部は土間、門番部屋、囲炉裏のある板の間からなっている。

旧佐地家門・供待

 

 旧三澤家住宅は、中山道から分かれる伊那街道の宿駅、伊那部宿(いなべじゅく)にあった。

旧三澤家住宅

 外観上の特徴は、石置板葺のゆるい切妻造屋根と上手の門構え、それから式台玄関となっている。

 

 家族の休息するところの「おおえ」には囲炉裏が置かれていた。

 

4.日本民家園「信越の村」

 この水車小屋が置かれていた長野県旧芋井村は飯綱山の豊富な水に恵まれた山間の村で、この水を利用した水車小屋が30軒近くもあったそうだ。

水車小屋

 内部には搗き臼(つきうす)が2基、粉挽きの臼が1基あるほか、わらはたきの杵が設けられている。

 

 旧佐々木家住宅は名主の家のため長大で軒が高く、中二階の採光のために屋根の東側を「かぶと造」としている。

旧佐々木家住宅

 こうした外観の特色のほか、普請帳や記録によって家の歴史がわかる点で重要な民家である。

 まず、享保16年(1731年)の新築願から建築した年がわかり、寛保3年(1743年)の普請帳から千曲川氾濫の影響によって移築されたことが判明している。延享4年(1747年)の普請帳は座敷の増築を伝えている。

 

 「みそべや」と付けられているが味噌のほかに醤油も置いてあったらしい。

 

 「おかって」は食事の準備および使用人が食事をする部屋であるため、囲炉裏が置いてある。

 

 旧江向家住宅があった富山県五箇山地方は、岐阜県の白川地方とともに合掌造で知られる。

旧江向家住宅

 五箇山の合掌造でも庄川本流と利賀谷では造りが違い、これは庄川本流系で、「妻入」「正面に茅葺の庇を付けた入母屋造風」「田の字型の四間取り」という特徴がある。

 そういえば合掌造で有名な五箇山・白川は行ったことがないのでいつか行ってみたい。

 

 こちらの「みそべや」には自家製大豆で味噌を仕込んだらしく、その仕込み桶が置かれていた。

 

 お客様をもてなす部屋は「でい」というらしい。

 

 江向家では紙すきも行い、これは冬の農閑期、出稼ぎの留守を預かる女性たちの仕事となっていたようだ。

 

 五箇山の最奥に境川をはさんで向き合う二つの集落があり、岐阜県側を加須良(かずら)、富山県側を桂(かつら)と呼んでいた。

 桂はダム工事の完成とともに湖底に沈んでしまったものの、かつて桂集落にあった全5戸の建物のうち1戸がこれ、旧山田家住宅である。

旧山田家住宅

 五箇山にありながら白川村に通じる特徴があり、合掌造の地域性を考える上で重要な民家となっている。

 

 食事の準備・室内作業をする部屋は「うすなわ」と呼ばれる。

 

 庄川支流の利賀谷にあった旧野原家住宅は、同じ五箇山でもほかの地域とは間取り等に違いが見られる。

旧野原家住宅

 庄川本流系が「妻入、四間取り」であるのに対し、利賀谷は「平入、広間型三間取りとなっている。

 

 日常生活の中心となる「おえ」には2つの囲炉裏があり、建物正面側には米つき場がある。

 

 旧山下家住宅は昭和33年(1958年)に岐阜県白川村から川崎駅近くに移築され、料亭として利用された後、昭和45年(1970年)に日本民家園に再移築された。

旧山下家住宅

 旧山下家住宅はそば処「白川郷」となっており、営業時間中はなかを見られるようだがこのときは閉まっていた。

 

5.日本民家園「関東の村」

 ここからは「関東の村」に入る。

 旧作田家住宅はイワシ漁で栄えた千葉県九十九里町にあった。漁具小屋は海岸近くにあり、この家そのものは内陸に立地していたため、漁村の家の雰囲気はない。

旧作田家住宅

 

 大勢の人の会合・屋内作業をする「かみ」のスペースは広い。

 

 沖永良部の高倉が展示されていた。

沖永良部の高倉

 脚柱の上に乗る倉を高倉という。古くからあったものだが、今では飛騨白川や秩父等の山間部のほか、沖縄、奄美、八丈等の島しょ部に多く残されている。

 これは鹿児島県の沖永良部島にある和泊町から持ってきたもの。

 

 旧広瀬家住宅のあった山梨県甲州市のある甲府盆地の民家は切妻造の妻壁に柱を見せ、屋根中央を突き上げ二階とする形式が一般的である。

 この家も移築前はそのような姿だったが、調査の結果当初は二階がなかったことが判明した。

 屋根裏を養蚕に利用しはじめたことにより突き上げ二階に改築したらしい。

旧広瀬家住宅

 なかで馬を飼っていたのか、うまやが残っている。

うまや

 

 旧太田家住宅は茨城県笠間市から持ってきた民家で、この建物は二棟が軒を接して建つ、分棟型の民家である。大戸口を入ると広い空間が広がっている。

旧太田家住宅

 

 ひろまには仏壇や機織り機が置かれていた。

ひろま

 

6.日本民家園「神奈川の村」「東北の村」

 旧北村家住宅は神奈川県秦野市にあった民家だが、改修中のため入ることができなかった。

旧北村家住宅

 

 旧清宮家住宅は神奈川県川崎市多摩区登戸にあった。屋根は頂上を土の重さで押さえ、その土が落ちないよう草花が植えてある。

旧清宮家住宅

 

 間取りは、囲炉裏のあるひろまを中心に上手をでえ(座敷)とし、それぞれの裏に寝室と考えられる小部屋を設けている。

ひろま

 

 離れには農具小屋展示室と便所があった。

農具小屋展示室

便所

 

 棟持柱の木小屋は川崎市多摩区生田にあった、カマドのための薪や落ち葉を蓄えておく小屋で、改修中だった。

棟持柱の木小屋

 

 神奈川県川崎市麻生区金程にあった旧伊藤家住宅は日本民家園誕生のきっかけとなった民家だった。

旧伊藤家住宅

 土間は「みそべや(みそとしょうゆを蓄える部屋)」と「だいどころ(食事の準備等、室内作業を行う部屋)」に分かれている。

みそべや

どま

 

 蚕影山祠堂は神奈川県川崎市麻生区岡上東光院境内にあったもので、養蚕の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祀った宮殿(くうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っている。

蚕影山祠堂

 

 蚕影山祠堂のなかには馬鳴大菩薩像(めみょうだいぼさつぞう)がある。この御本尊は貧しい人々に衣服を与える菩薩で、養蚕や機織の守り仏とされている。

宮殿(馬鳴大菩薩像は確認できず)

 

 旧岩澤家住宅は神奈川県清川村にあった、名主もつとめた農家の家だった。谷間の斜面に敷地をひらき、江戸時代は炭焼きを中心に、焼畑農業林業を仕事にしていた。

旧岩澤家住宅

 

 屋根は典型的な入母屋造(いりもやづくり)で、間取りは「ざしき」「でえ」「へや」からなる広間型三間取りである。

ざしき

 

 船越の舞台は三重県志摩市にあったもので、船越は海女漁(あまりょう)で栄えた漁村、この舞台は集落の鎮守・船越神社境内にあった。

船越の舞台

 

 舞台の下には奈落があり奈落の上が回り舞台、上演するときはこの場所で人力で舞台を回した。

奈落

 

 多摩川の「菅の渡し」は菅(すげ・神奈川県川崎市多摩区)と調布(東京都調布市)を結ぶ渡船場(とせんば)だった。作物の運搬、肥料や日用品の仕入れ、墓参りなどを行う人々に利用され、船頭が客待ちをしたのがこの船頭小屋であるが、改修中だった。

船頭小屋

 

 旧工藤家住宅は岩手県紫波町にあった民家である。主屋の前に馬屋を突出させたL字型の民家は、旧南部藩領に多いことから「南部の曲屋(なんぶのまがりや)」として知られる。

旧工藤家住宅

 

 だいどこ、じょうい、なんど、ざしきの4部屋があり、だいどことじょういは日常生活の場、なんどは寝室、ざしきは床の間も備えた特別な部屋で、この広い家で唯一畳が敷かれている。

だいどこ

 

 旧菅原家住宅は山形県鶴岡市にあった民家で、養蚕のため屋根に高窓(ハッポウ)や切上窓(高ハッポウ)が設けられている。

旧菅原家住宅

 

 この建物には豪雪地帯の工夫がうかがえる。高い軒や周囲の板壁、入口のあまや(前室)、にわ(土間)に設けられたいなべや(板敷)やものおきは、いずれも冬場の暮らしを考慮したものらしい。

なべや

 

 これでひととおり日本民家園をまわり終えた。閉園のアナウンスも流れ始めたので、帰ることにした。日本民家園前からバスに乗り、登戸駅に向かう。

 登戸駅から南武線溝の口駅に向かい田園都市線に乗り換え、宮前平駅で降りる。北へ向かうと「宮前平温泉 湯けむりの庄」がある。

宮前平温泉 湯けむりの庄

 

 宮前平温泉 湯けむりの庄の温泉はナトリウム炭酸水素塩・塩化物温泉で茶色である。サウナもついており、まちあるき後に入ると気持ちよかった。

 

 湯上りにビールと麻婆豆腐を食べ、「明日からも勤務だ、頑張ろう」と思った。

 

 等覚院はぜんそくに効果があるそうだ。私も咳喘息や肺炎になることはあるので、そういうときに来れば効果があるのだろうかと考えた。妙楽寺アジサイはベストシーズンで、来て本当によかった。日本民家園は550円で全国の民家を見られるので、おすすめのスポットだ。

 私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

今回の地図②

歩いた日:2025年6月1日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会(2011) 「神奈川県の歴史散歩」 山川出版社

関東三十六不動霊場会(2017) 「関東三十六不動霊場ガイドブック」

日本マンホール蓋学会 川崎市のマンホール

https://we-love-manho.com/kanagawa/kawasaki/kawasaki.html

川崎市 川崎市プロフィール

https://www.city.kawasaki.jp/shisei/category/35-9-1-0-0-0-0-0-0-0.html

(2025年12月31日最終閲覧)

東海道を歩く 48.大津駅~三条大橋

 前回、草津駅から大津駅まで歩いた。今回は大津駅から、「東海道五十三次」の終点である三条大橋まで歩こうと思う。歩き始めたのが2021年7月、三条大橋に着いたのが2025年7月、長い旅路がひと段落ついた。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.大津市道路元標

 今日は大津駅から出発だ。

大津駅

 

 大津市のマンホールを見つけた。

大津市マンホール

 大津市の木「ヤマザクラ」、市の花「叡山スミレ」、市の鳥「ユリカモメ」を中心に、大津絵の「藤娘」と「鬼の寒念仏」を左右に、下段に「びわ湖」と「瀬田の唐橋」をあらわしたものである。

 

 前回終了地点から東海道に合流して歩く。大津駅から10分ほどのところに「此附近露國皇太子遭難之地」という石碑がある。

「此附近露國皇太子遭難之地」

 これは「露国皇太子遭難地の碑」である。

 明治24年(1891年)帝政ロシアのニコライ皇太子に、津田三蔵巡査がサーベルで切りつけた「大津事件」の発端となったのが、ここである。

 当時ロシアは強大国、日本は弱小国であったため、この事件は日本国民を不安のどん底におとしいれた事件だった。

 松方内閣は大国ロシアを恐れ、皇室に対する大逆罪を適用して死刑にしようとしたが、大津地裁で開かれた大審院法廷では謀殺未遂罪として無期徒刑の判決をくだした。大津地裁は「司法権の独立」を貫いたといえる。

 

 京町一丁目交差点に大津市道路元標がある。

大津市道路元標

 道路元標とは大正8年(1919年)の旧道路法で各市町村に1基ずつ設置されたものだが、戦後の道路法改正により道路の付属物ではなくなったため撤去が進み、現在では全国で2,000基程度しか残っていない。

 道路元標は「まちの中心」を定義するという性格上、都市の中心に設置されることが多い。ここは「札の辻」で江戸時代は高札場(重要法令などを書いた掲示板)があった場所であり、それゆえここに設置されたと考えた。ちなみに道路元標がある場所がかつての札の辻であるケースは多い。

 「東海道を歩く」では前回登場は「東海道を歩く 46.石部駅草津駅 5.東海道中山道の合流点」で登場してくる草津町道路元標だ。

 東海道とは関係ないのだが、「地図ラー13」で「道路元標を訪ねてー成田市印旛郡編ー」という文章を書いており、これは千葉県成田市印旛郡内の道路元標の特集だ。「10月うさぎ」ではなく実名名義ですが私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです(唐突な宣伝)。

chibachizu.base.shop

 

 大津市道路元標の足下には、几号水準点もある。

図の赤丸が几号水準点

 几号水準点は主に明治時代に内務省が設置した水準点のことを指す。

 現在、水準測量はドイツ式測量方法で行われているが、日本で行われた初期の近代測量では、イギリス式測量方法が採用されていた。

 イギリス式測量方法では水準点を設置する場所に専用の器具で「不」という字と似たような印を彫っている。これが几号水準点だ。

 几号水準点は東京中心部で行われた水準測量で設置されたり、東京・塩竃間の水準測量で設置されたりしているため東京都心部奥州街道沿いでは見かけるが、それ以外の場所で見かけるケースはそれほど多くない。

 それではなぜこの道路元標に几号水準点が刻まれているのか?ということで「日本の測量史」のページを見てみたが、結局わからないらしい。時代的に几号水準点は明治のもの、道路元標は大正のものなので、几号水準点が何かの石材に彫られていたがそれを道路元標の台座に再利用したのでは?としか書かれていなかった。

 これも東海道とは関係ないのだが、「地理交流広場 第9号」で「几号点を訪ねてー横浜編ー」という文章を書いており、これは神奈川県横浜市の几号水準点の特集だ。私が書いた文章なので、読んでいただけると嬉しいです(再び唐突な宣伝)。

geography.booth.pm

 

2.関蝉丸神社下社

 大津市道路元標という道路元標・几号水準点が見られる個人的ホットスポットをあとにして歩いていると路面電車が颯爽と走り抜けていった。京阪京津線だ。

京阪京津線

 

 大津市道路元標から5分ほど歩いたところに大津宿本陣跡と車石があった。

大津宿本陣跡

 本陣とは、大名や公家などが宿泊するために設けられた施設で、大津宿では大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)、肥前屋九左衛門の2軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣1軒が八丁筋におかれていたが、現在は本陣に関する遺構などは残っていない。

 

車石

 江戸時代、大津と京都を結ぶ東海道には、人や牛馬の通る道とは別に牛車の通る車道が設けられていた。

 昔の道は、今の舗装された道とは違い土道であったため雨が降ればぬかるみ、車輪がぬかるみにとられてスムーズに通ることができなかった。

 そこで江戸時代の終わり頃、車輪が通るところ2列に花崗岩の厚い板石を敷きならべ、通りやすいようにした。

 この2列に敷かれた車道の上を、米をはじめ多くの重い荷物を積んだ牛車が京都まで通っていた。

 初めは平らだった板石も、重い荷物を積んだ牛車の車輪によってけずられ、深い溝ができた。この溝ができた石を車石・輪形石と呼んでいる。

 

 大津宿本陣跡から10分ほど進むと関蝉丸神社下社がある。

関蝉丸神社下社

 関蝉丸神社下社(御祭神・豊玉姫命・蝉丸)のほかに関蝉丸神社上社(御祭神・猿田彦命・蝉丸)が下社から国道を約800m進んだ右手にある。

 社伝によれば弘仁13年(822年)、小野朝臣峯守が逢坂山の坂の守護神として山上・山下に創祀し、貞観17年(875年)に官社になったという。

 逢坂峠は、東海道東山道など主要街道が通る平安京の東の入口にあたり、都を守る逢坂関がおかれていた。

 関蝉丸神社は関の鎮守、また道中の安全を守る道祖神として創建されたと考えられる。この両社に天慶9年(946年)、蝉丸が合祀された。

 

 蝉丸は、平安時代中期の歌人

 醍醐天皇の第4皇子とも宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色(ぞうしき。王臣家の下級家務従事者)とも伝えられる盲目の琵琶の名手で、逢坂山に隠棲して、源博雅に琵琶の秘曲を伝えた話は名高い。琵琶法師の祖として伝説は多いが、史実は明らかでない。

 蝉丸の合祀により、両社は音曲芸能の神として芸能に携わる人々に信仰された。江戸時代には諸国の説教芸人(音曲・舞踊・曲芸などの雑芸人)に免状を与え、同社の縁起を説く者として各地での興行権を保証した。

 

 これは琵琶を持っているから…飛び出し坊や・蝉丸バージョン?

飛び出し坊や・蝉丸バージョン

 

3.逢坂山関跡の碑

 関蝉丸神社下社から5分ほど歩くと安養寺があるが、閉まっている。

安養寺

 安養寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、拝観は事前予約が必要。

 貞観4年(862年)、円珍によって開かれたと伝えられる。江戸時代には、安養寺は園城寺の末寺で、天台宗寺院だったが明治5年(1872年)に浄土真宗本願寺派に移った。

 境内には平安時代後期に造られた木造阿弥陀如来坐像、身代わり名号石(延暦寺の僧兵の長刀から蓮如の命を守った石)、立聞観音(たちぎきかんのん。蝉丸の奏でる琵琶を立ち聞きしていた僧侶が姿を変えた観音様)などがあるらしい。

 

 安養寺から10分ほど歩くと関蝉丸神社上社がある。縁起などは概ね下社と同じなので省略。

関蝉丸神社上社

 

 関蝉丸神社上社から10分ほど歩くと逢坂山関跡の碑がある。

逢坂山関跡の碑

 逢坂関は設置年次は未詳だが、弘仁元年(810年)の平城上皇の変(薬子の変)のとき、伊勢の鈴鹿関(現在の三重県鈴鹿市)、美濃の不破関(現在の岐阜県関ケ原町)とともに、「三関」のひとつとされた。

 非常時には関が閉じられ(固関(こげん))、平安京から関所を警護する固関使が派遣された。以後逢坂関は、平安京東海道東山道北陸道を結ぶ交通の要衝として、長く存続した。

 清少納言の「枕草子」にも「関は逢坂」と書かれ、蝉丸の小倉百人一首に入っている「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」の歌でも有名である。

 鎌倉時代末期に成立した「石山寺縁起絵巻」にも、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)一行が逢坂関を越える場面が描かれている。

 

 逢坂山関跡の碑の左側に、石造の常夜灯が立っている。逢坂峠を越える通行人のために、寛政6年(1794年)、夜道を照らす常夜灯が設置された。

 この常夜灯には、「施主 大津米屋中」として4人の米屋の名前が刻まれている。逢坂越えを利用することの多かった米屋によって寄進されたことがわかる。

 

4.旧東海道追分

 逢坂山関跡の碑を通り過ぎると香ばしいにおいがしてくる。うなぎ屋の「逢坂山かねよ」だ。

逢坂山かねよ

 時刻11時半、香ばしいにおいにそそられてつい入りたくなるが、値段があまり可愛くないので退散した。なお、京阪京津線大谷駅の駅近なので公共交通でのアクセスは良い。

 

 逢坂山関の碑から15分ほど歩くと月心寺がある。

月心寺

 月心寺は、明治時代から昭和時代を生きた日本画家・橋本関雪の死後、昭和21年(1946年)に関雪の別荘を寺に改めたものである。

 境内には走井の泉(東海道の旅人がのどを潤した泉)、聖徳太子像(橋本関雪の持仏)、百歳堂(小野小町の百歳像を祀る)、松尾芭蕉の句碑(大津絵の 筆の始めは 何仏)などがあるが、開いていなかった。

 

 月心寺には大津算盤(おおつそろばん)の始祖・片岡庄兵衛の説明板がある。

 江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は慶長17年(1612年)、片岡庄兵衛が明国から長崎に渡来した算盤を参考に製造を始め、のちに片岡庄兵衛は幕府にも算盤を卸していたそうだ。

 算盤…電卓どころか計算はスマホやパソコンでできる現代人である私は、小学生以来見ていない。

 

 なぜ、逆…?

 

 月心寺から20分ほど歩いたところに旧東海道追分があるが、その近くに追分駅がある。明日はここからスタートのため、一応下見しておく。

追分駅

 

 追分駅からほど近くに、旧東海道追分がある。

旧東海道追分

 旧東海道追分は旧東海道の三条街道と伏見街道(途中の小野で分かれ六地蔵から奈良へ至り、奈良街道とよぶ場合もある)の分岐点で、まっすぐ西へ行くと、東海道五十三次の終着点・三条大橋に至る。

 左(東南)方向にたどれば、伏見から淀・枚方・守口を経て大坂に至る、いわゆる東海道五十七次の道へと続く。

 道標には「みぎハ京みち」「ひだりハふしミみち」とあり、現在立つのは昭和29年(1954年)に再建したもので、当初の道標は滋賀県安土城考古博物館にあるようだ。

 東海道五十三次東海道五十七次の分岐はここであるため、明日はここからスタートする。

 今日は三条大橋に行きたいため、とりあえず西の方向へ進む。

 

 旧東海道追分からすぐの閑栖寺(かんせいじ)には先ほど説明した車石・車道の再現がある。車石の上を牛車が、真ん中のスペースを牛が歩いた、というのはこういう道である。

車石・車道の再現

 

 閑栖寺から10分ほど歩くと「小関越」「三井寺観音道」と刻まれた大きな道標が建つ。

 文政5年(1822年)11月、江戸・京・大坂の定飛脚問屋の手によって建立されたものである。

 ここから東海道と分かれる小関越は、古代に万葉集にも詠まれた逢坂越を大関と呼んだことに対する名前で、西国三十三観音巡礼第14番札所の三井寺観音堂への巡礼道である。

 

5.日岡

 「京都市」のカントリーサインがあり、京都府京都市に入る。

 

 京都市のマンホールを見つけた。

京都市マンホール

 古都京都にちなんで「御所車」をモチーフにデザイン化したもの。

 真ん中にデザインされているのは京都市の略章で、明治24年(1891年)10月2日に制定された京都市き章を用いている。これは「京」の字を図案化したものだ。

 

 諸羽神社の鳥居があるが、神社まで少し遠そうなのでパスする。

 

 京都市に入って20分ほどで山科駅に到着。おなかがすいたので山科駅の「麺家 山科」でざるうどんを食べた。

山科駅

麺家 山科

 

 山科駅から歩いて10分ほどのところに五条別れ道標がある。

五条別れ道標

 宝永4年(1707年)に沢村道範が建てたもので、北面に「右ハ三条通」東面に「左ハ五条橋 ひがしにし六条大仏今ぐ満(ま)きよ水道」と記す。「今ぐ満」とは今熊野のことである。

 

 五条別れ道標から15分ほど歩いたところに天智天皇山科陵がある。

天智天皇山科陵

 天智天皇山科陵の上円部は八角形を成し、下方部は南側を2段に築成し、上円部径約40m、下段の1辺は約70mの大型の天皇陵である。

 御廟野古墳ともよばれ、奈良県明日香村にある天武・持統合葬陵(野口王墓)とともに、その比定がほぼ確実な天皇陵といわれる。

 

 日本で初めて漏刻(ろうこく。水時計。)を設け、時を告げさせたという天智天皇の故事にちなんでか、入口には石製の日時計がおかれている。

天智天皇山科陵 日時計

 

 天智天皇山科陵から20分ほどで日岡峠の山頂に着く。

 東海道では幕末まで車の往来が禁止されていたが、都に近い大津・京都間だけは許されていた。そのため人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道を分け、車道は石で舗装され、その石は車石と呼ばれていたのは先述した。

 当初、日岡峠の車道は深くえぐられ、人馬道との段差があったため雨が降るとぬかるみ、牛車の通行に支障が生じていた。

 そこで木食正禅上人が享保19年(1734年)から道路改修事業を始め、車道に土砂を入れることで人馬道との段差解消、峠の頂上を掘り下げてその土砂を坂道に敷くことで勾配をゆるやかにするなどの事業を行い、元文3年(1738年)に改修が終了した。

 その後も木食正禅上人は「梅香庵」を建ててそこで道路の維持管理をしたり、井戸を掘って旅人や牛馬ののどの渇きを潤したり、梅香庵に石の竈を設けて湯茶の接待をしていたようだ。

 今でこそ通りづらい道もアスファルトで舗装してしまえば一発で解消するが、当時は改修にも一苦労だったのだろうと思う。

 

6.捻りマンポ

 日岡峠の頂上から20分ほど歩くと捻り(ねじり)マンポがある。

捻りマンポ

 捻りマンポは琵琶湖疎水のインクラインの下をくぐるトンネルである。

 琵琶湖疎水は、京都府知事・北垣国道が京都百年の大計として計画したもので、京都府技師・田邊朔郎の設計・指導のもと、明治18年(1885年)に着工、明治23年(1890年)に竣工した疎水である。

 インクラインとは、疎水の水運において蹴上の船溜まりと岡崎側の動物園南の船溜まりの間に35mの標高差があって船の通行が困難なため、この斜面に上り・下りの複線の軌道を敷いて、船ごと台車に載せ水車動力のちにはモーターでワイヤーを巻き上げて走らせるもののことをいう。

 捻りマンポのトンネル出入口の上部の石額は、北垣国道揮毫のものであるが、何と書いてあるのかわからない。

 マンポの意味は不詳であるが、インクラインの重い荷重に対してトンネルに強度をもたせるためにレンガをねじったように螺旋状に積み上げたため、このようによばれたらしい。これは明治時代の鉄道に用いられた工法である。

 

 捻りマンポから15分ほどで粟田神社に着く。

粟田神社

 粟田神社は、貞観18年(876年)の創建と伝え、牛頭天王あるいは素戔嗚尊(すさのおのみこと)などをまつる。

 厄除けと旅行安全に利益があるとされ、東海道を通った人々の思いが感じられる。

 三間社流造の本殿に、拝所をつけた幣殿が接続しており、棟札から文政6年(1823年)の創建という。拝殿は元禄16年(1703年)の建立と伝わる。

 

 粟田神社御朱印をいただいた。

 

 粟田神社から10分ほどのところに三条白川橋道標が立っている。

三条白川橋道標

 東海道沿いに建てられた道標で、「三条通白川橋」「是よりひだり ちおんゐん ぎおんきよ水みち」の字のほか、京都に不案内の旅人のために建てたという目的と施主、「延宝六年(1678年)」の年号などが刻まれており、京都市内に現存する最古の道標である。

 

7.三条大橋

 三条白川橋道標から10分ほどで、ついに三条大橋に到着する。

三条大橋

 三条大橋とは平安京の三条大路を踏襲した、三条通の鴨川に架かる橋のことである。

 繁華街の中に位置しており、東詰は京都市内の主要ターミナル、京阪本線三条駅地下鉄東西線三条京阪駅がある。

 天正18年(1590年)、豊臣秀吉増田長盛に命じて架設したことが、橋の欄干擬宝珠に記載され、この擬宝珠は現在の橋にも一部残されている。

 「天正十七年(1589年)」銘の石製橋脚も西北詰に置かれている。

 

 現在の橋は昭和25年(1950年)の築造で、長さ約74m・幅約15.5m。

 東海道の西の起終点であり、西詰北側には高札場があった。

 橋の東詰には、寛政の三奇人の1人・高山彦九郎がこの橋から京都御所を遥拝する姿を写した銅像が建てられている(昭和36年(1961年)再建)。

高山彦九郎

 大正6年(1917年)、日本最初の駅伝が三条大橋からスタートしたのも有名である。現在の箱根駅伝も、東海道の東端、日本橋からスタートしている。

 

 三条大橋には、「東海道中膝栗毛」で有名な弥次さん・喜多さん像もある。もっとも、最初の「東海道中膝栗毛」で彼らは伊勢神宮に向かうため、三条大橋には来ていないのだが…。

弥次さん・喜多さん像

 

 今日はすがすがしく晴れ、東海道のフィナーレを飾るのに相応しい。

 

 令和3年(2021年)に「何かブログのネタになれば」と思い東海道を歩き始めたが、その後応援してくれる人も増え、半ば引くに引けない状況になったため日本橋から三条大橋まで歩いてみた。「引くに引けない」とは書いたが、実際「楽しかったから」歩いていたのもまた、事実である。

 鴨川の流れを見ながら、この4年の軌跡に思いを馳せた。

 …ここまで書けば、実にフィナーレっぽいが、実は次の日から大坂・高麗橋まで「東海道五十七次」を歩く予定であるため、真の最終回はもう少し待たなければならない。要は「もうちょっとだけ続くんじゃ」というやつである…もちろん、本当に「もうちょっとだけ」であり、某ド〇ゴンボールの如く17巻でそれを言い、その後42巻まで続いた、ということはない。

 それにしても…今日は7月、京都の夏は暑い。この後、関西住みの友人と会う予定があったため、大津の宿に戻り一回シャワーを浴びてからでないと会えないな、と思ったので京都駅に向かう。京都駅に戻るのにバスが最速、と検索で出てきたのでバスで戻った。

京都駅

 次回は、追分駅から墨染駅まで歩く予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

歩いた日:2025年7月19日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

【参考文献・参考サイト】

八杉淳(2010) 「近江東海道を歩く」 サンライズ出版

京都府歴史遺産研究会(2011) 「京都府の歴史散歩 中」 山川出版社

滋賀県歴史散歩編集委員会(2015) 「滋賀県の歴史散歩」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第15集」

日本マンホール蓋学会 大津市のマンホール

https://we-love-manho.com/siga/ootu/ootu.html

史跡と標石で辿る日本の測量史 琵琶湖疎水の測量

https://uenishi.on.coocan.jp/k350biwakososui.html

京都府 マンホールふた_デザイン・コレクション

https://www.pref.kyoto.jp/gesuido/16400033.html

京都市情報館 京都市のあらまし(紋章)

https://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000015587.html

(2025年12月14日 最終閲覧)

坂東三十三観音をめぐる 2.鎌倉編②

 前回、第1番札所・杉本寺に訪れながら鎌倉をめぐった。今回は第2番札所・岩殿寺、第3番札所・安養院、第4番札所・長谷寺に参拝しつつ鎌倉をぶらぶらしようと思う。近いけどあまり行かない鎌倉には、奥深い世界があった。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.岩殿寺

 今日は逗子駅から出発だ。

逗子駅

 逗子市のマンホールを見つけた。

逗子市マンホール

 逗子市のマンホールは市の都市宣言「青い海とみどり豊かな平和都市」から青い海とみどりをテーマにデザインした。

 海を表す波模様と市の木「ツバキ」、それに都市をイメージするひし形を加えてデザインし、中央に市章を配置している。

 逗子市章は逗子の「逗」を図案化したもので、円満平和を象徴している。

 

 逗子駅から歩いて20分ほどで、岩殿寺に到着する。

岩殿寺

 岩殿寺は、寺伝では養老4年(720年)大和・長谷寺の開山・徳道上人と行基上人の開創というが不詳。

 古くは真言宗で、慶長(1596~1615年)のころ禅宗に改めたという。

 「吾妻鑑」に源頼朝北条政子・大姫(源頼朝北条政子の娘)・源実朝らの参詣があったことや、岩殿寺の名がみえることにより、鎌倉時代から観音信仰の霊場であった。

 

 山門をはいり急な階段をのぼりつめると、銅板葺きの観音堂がある。

岩殿寺観音堂

 間口3間、奥行5間四方のこの堂は、棟札により、享保13年(1728年)に築造されたことがわかる。

 この堂のなかに秘仏十一面観音像があるが、年1度、1月18日の開帳のときしかその姿をみることはできない。

 

 岩殿寺で御朱印をいただいた。

岩殿寺 御朱印

 岩殿寺で御朱印を待っている間に寺の人に話しかけられ、「第3番札所まではどうやって行くの?」と聞かれたので30分くらいだし歩く予定です、と答えたら「じゃあ「まんだら堂やぐら群」見ていきなよ!」と言われ、地図までもらってしまった。これは行くしかない。

 

2.まんだら堂やぐら群

 歩いていたら水準点を見つけた。一等水準点5362-1号だ。

一等水準点5362-1号

 道を歩いていたらたくさん庚申塔が立っている場所を見つけた。

 その昔、庶民の間に「庚申待ち」という風習があった。

 それは60日ごとに巡ってくる庚申の日の夜は、体のなかにいる「三尸(さんし)の虫」が体から抜け出して天に上り、その人の悪行を天帝に告げられて寿命が縮むとされ、その日は寝ずに夜を過ごすという風習である。

 この日は庚申講の仲間が寄り合い、寝ずに夜を明かした…ここまで書くと宗教的行事であると感じるが、いろいろな書籍を読んだ感じ実際は大学生の飲み会オールに近い感じらしい。

 これを18回連続でやると記念に庚申塔を建てる。60日×18なので実際は3年くらいで建てるため、関東にはあちらこちらに庚申塔が残っている。逗子市内だけで90基近く残っているらしい。

 庚申塔は、青面金剛や三猿(見ざる、聞かざる、言わざる。日光東照宮で有名なアレ)などが刻まれているのが特徴。

 

 岩殿寺から20分程度歩くと法性寺に着く。「猿畠山」と書かれた扁額の左右に、木造の白いサルが2匹手をのばしているのが特徴の山門をくぐる。

法性寺 山門

山門のサル拡大

 坂道を登っていくと法性寺本堂がある。

法性寺 本堂

 文応元年(1260年)、日蓮上人の松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされ、この山の洞穴に身を隠したところ3匹の白いサルがあらわれ、食物を供えたため日蓮上人は救われた。

 「これは山王権現の導きである」と考えた日蓮上人は、弟子の日郎に寺の建立を命じたが、日郎は果たすことができないまま亡くなったので、日郎の弟子・朗慶が元応2年(1320年)に法性寺を建てたという。

 そのため法性寺の開山は日郎で、開基は朗慶となっている。

 

 法性寺の裏から山道に入り、20分ほど山道を歩いていくと岩殿寺の人にオススメされた「まんだら堂やぐら群」に出る。まんだら堂やぐら群の展望台から見えた海が綺麗だったので載せておく。

 

まんだら堂やぐら群

 初めて見たときは「な、なんだこれは」と思った。岩肌に無数の洞穴があき、五輪塔があるものもある。

 そもそも「やぐら」とは、鎌倉とその周辺地域に見られる特殊な遺構のことだ。

 まんだら堂やぐら群は、150穴以上が集中して造られており、やぐら群として最大級の規模を誇る。

 明確な文献資料がなく、「まんだら堂」とは何なのか、いつどのように造られたのか等は不詳だが、整備に先駆けて実施した発掘調査の結果、やぐら内部に石塔を据えて納骨・供養する施設として13世紀後半頃から造られ始め、おおむね15世紀いっぱい供養が行われていたと考えられている。

 火葬した場所も敷地内で見つかっており、鎌倉時代、鎌倉周辺で人が亡くなったらここで火葬され、納骨されていたのだろう、と思うとそっと手を合わせたくなった。

 

 なお、山のなかにあるためいつでも開いているわけではなく、今年(2025年)は4月19日~6月1日(初夏)、10月18日~12月14日(秋)の間の土曜・日曜・月曜・祝日、10時~16時(初夏)、10時~15時(秋)しか開いていないので、逗子市のホームページで開いているか確認してから出かけるとよい。

 岩殿寺の人におすすめされなかったら行かなかったと思うので、ラッキーだと思った。

 

3.名越切通

 まんだら堂やぐら群から来た道を少し戻ると、名越切通(なごえきりどおし)がある。

名越切通

 逗子と鎌倉の間には名越山があり、現在はトンネルがつうじている。

 この山越えの道は、かつての「難越」という地名の字からもわかるように難所であった。

 鎌倉時代、このような険しい道の改良のため、幕府は尾根を切り削り低くし、山腹を削り、切通を開通させた。

 この名越切通は、いわゆる鎌倉七切通とよばれる鎌倉への道の1つである。

 鎌倉七切通とは、名越、亀ヶ谷坂(かめがやつざか)、化粧坂(けわいざか)、巨福呂坂(こぶくろざか)、朝比奈、大仏、極楽寺坂の切通をいい、「京の七口」をまねて江戸時代に名数化された。

 名越の尾根上には、今も切通が往時の姿のまま残っている。

 

 切通は、平時には鎌倉と全国とを結ぶ経済上の輸送道路として、戦時には軍事的防衛の役割をはたした。

 たとえば、切通に逆茂木を切りつめれば敵の通行を防止できるし、切通の両端から投石し攻撃もできる。

 名越の切通には、山腹をひな壇状に削り、陣地とした平場が残っており、尾根下にみられる切岸によって軍事的機能がいっそう強化されているのをみることができる。

 

 鎌倉には切通があることは前から知っていたが、実物を見たのは初めてだった。

 

4.長勝寺

 名越切通を大町口から出ると、鎌倉市に入る。

 山から下りてくると何か地元のお祭りがやっていたが、部外者は入っちゃだめそうな気がしたので遠目で眺めた。

 

 しばらく歩いて県道311号線に合流したところに長勝寺がある。

長勝寺

 長勝寺日蓮の松葉ヶ谷法難の跡と伝えられ、日蓮に関わりのある本圀寺の旧地ともいわれている。

 この地の領主・石井長勝が日蓮に帰依し、日蓮伊豆国伊東の配所から鎌倉に戻ってきたとき、自分の邸宅に小庵をたて寄進したのが本圀寺だったそうだ。

 本圀寺が室町時代初期に京都に移建して廃寺になっていたのを日静が復興し、山号と寺号を開基の石井長勝の名にちなんで石井山長勝寺とつけたと伝わる。

 

 境内正面の本堂は帝釈堂ともいわれ、帝釈天がまつられている。

 これは文応元年(1260年)日蓮をとらえようとして草庵をおそった松葉ヶ谷法難のとき、帝釈天の使いである白猿に日蓮が救われたということから、帝釈天出現の霊場として安置されることになったという。

 

 本堂の前にどでかい銅像があるがこれは日蓮上人像で、この銅像高村光雲作。東京の洗足池から裏山に移建されていたが現在地に移され、四天王像とともにまつられている。

 

 本堂に入って御首題(日蓮宗の御題目が入った御朱印)をいただこうとしたが、人手不足で断られてしまった。今日は縁がなかったと思い先に進む。

 

 長勝寺から10分ほどで、今日お昼を食べようと思っていた登茂ゑ寿司に着く。

登茂ゑ寿司

 

 にぎり 2,500円を注文する。今日は夕飯を家で食べる予定なので、昼にお高めのランチを食べられるのが嬉しい。

にぎり

 

 ハマグリのお吸い物がついてきて、すすりながら悦に浸る。

 

 なんとデザートまでついてきた。

 

 食べ終わる直前まで私しかお客さんがいなかったので少し不安だったが、お寿司は美味しかったしな、と思っていると退店直前に2組くらいお客さんが入ってきた。地元民に愛されているお店なのかもしれない。

 

 登茂ゑ寿司から歩いて10分ほどのところに八雲神社がある。

八雲神社

 八雲神社はもともと祇園天王社とよばれ、新羅三郎義光が奥州へくだるとき鎌倉へ立ち寄り、京都の祇園社の祭神を勧請したと伝える。

 また義光の子孫・佐竹氏が一族の霊祠を相殿に分祀していたので、佐竹天王社ともいわれた。

 社殿の手前の左側には宝物殿があり、窓越しから拝観できる。

八雲神社 宝物殿

 

 八雲神社御朱印をいただいた。それにしても…「奉拝」の「拝」の字、長くない?

八雲神社 御朱印

5.安養院

 八雲神社からほど近くに別願寺がある。

別願寺

 別願寺は現在は時宗の寺院だが、もとは真言宗で能成寺といい、公忍が一遍上人の弟子になって覚阿と改め、弘安5年(1282年)に時宗に改宗して寺号もかえたといわれる。本尊は阿弥陀如来像である。

 室町前期には鎌倉公方菩提寺となって栄えていた。

 本堂脇の墓地には3mをこえる足利持氏の供養塔という石造の多宝塔がある。実際は鎌倉期につくられた石塔らしい。

足利持氏供養塔

 

 ここでも御朱印をいただいた。ちなみに鎌倉三十三観音霊場の第13番札所でもあるため、そちらの御朱印もいただけるが今回は御本尊様のものにした。

 

 別願寺からほど近くに安養院がある。ここが坂東三十三観音 第3番札所である。

安養院

 安養院の前身は尊観が創建した善導寺である。

 北条政子源頼朝の菩提をとむらうため長谷笹目に創建した律宗の長楽寺が、鎌倉末期に善導寺に移ってきたことから、寺号を長楽寺、院号北条政子法名である安養院に改めたという。

 

 本堂には本尊の阿弥陀如来像をまつり、その後ろに1.75mの千手観音像が安置されている。

 この観音様は昇竜観音とか良縁観音・田代観音ともよばれ、比企ヶ谷の田代寺から移され、出世や良縁を求める人々から篤く信仰されている。

 この千手観音は、鎌倉前期に制定された坂東三十三観音第3番札所になっている。

 

 地蔵堂には日限地蔵とか子安地蔵とよばれる石像の地蔵菩薩像があり、本堂の裏手には「徳治3年(1308年)」銘の大きな宝篋印塔が、左側には北条政子の供養塔とよばれる小さな宝篋印塔がある。

地蔵堂

宝篋印塔

北条政子の供養塔

 

 坂東三十三観音札所なので、御朱印をいただいた。

 

 安養院から歩いて10分ほどのところに教恩寺がある。

教恩寺

 教恩寺は小田原の北条氏康が知阿上人を迎えて材木座光明寺境内にたてたもので宝海山と号していたが、江戸時代の延宝6年(1678年)現在地に移され、山号をこの地からとった中座山にかえた。

 公開されていないが、本尊の阿弥陀如来像と両脇侍観音・勢至菩薩立像は鎌倉前期の仏像である。本尊の阿弥陀如来像は平重衡の念持仏ではないかといわれている。

 教恩寺でも御朱印をいただいた。こちらも鎌倉三十三観音の第12番札所。

 

6.長谷寺

 教恩寺から歩いて10分ほどのところに六地蔵がある。

六地蔵

 ここからやや北に寄ったところに刑場があったといわれ、ながく荒地となって飢渇畠(けかちばたけ)とよばれていた。

 ここに人々が罪人の霊をとむらうために地蔵をまつったのが六地蔵の始まりで、のちに人通りの多い現在の場所に移された。

 

 六地蔵からさらに10分ほど歩くと盛久頸座がある。

盛久頸座

 平氏の武将である主馬八郎左衛門盛久(しゅめはちろうざえもんもりひさ)は平家滅亡後京都にひそみ、清水寺に参詣し平氏の冥福を祈っていたが、北条氏にとらえられた。

 文治2年(1186年)鎌倉に送られて、由比ヶ浜で首を斬られることになったが、信仰していた千手観音の霊験によって助かったといわれる。

 この付近は古くから砂丘の頂部で古代の埋葬地となっており、ときどき人骨も出土することから刑場と考えられている。

 

 盛久頸座で一等水準点 5361-1号のマンホールを見つけた。

 

 盛久頸座から5分ほどのところに甘縄神明社がある。

甘縄神明社

 甘縄神明社行基が草創し、この地方の豪族・染屋時忠が山上に神明宮をたてたとの言い伝えがあり、鎌倉時代以前からある古い神社のひとつである。

 この神社の御神体源義家の守り神といわれ、源氏との関わりが伝えられている。

 鎌倉時代には源頼朝北条政子源実朝らがたびたび参拝しており、御家人安達盛長が守護にあたるなど鎌倉幕府から篤い信仰をうけていた。

 

 甘縄神明社から由比ガ浜通りに戻り、西に進み信号を渡った小道にはいると、突き当りが長谷観音で知られる長谷寺である。

長谷寺山門

 開基は藤原房前(ふじわらのふささき)、開山は徳道といわれ、天平8年(736年)の創建と伝えるが、大和長谷寺の縁起にならったものとみられるので、確実な創建年代はあきらかでない。

 長谷寺の梵鐘に「文永元年(1264年)」の銘があるので、このころには寺が完成し、鎌倉時代には栄えていたことがわかる。

 本尊の十一面観音は高さ9mをこす巨大なもので、木造の観音像では日本最大である。足利尊氏足利義満徳川家康らの信仰も伝えられ、坂東三十三観音の第4番札所として知られる。

 

 放生池の間をとおって階段をあがると、小さな水子地蔵が多数並んでいる。

水子地蔵

 

 さらにのぼると右手から鐘楼や改築された阿弥陀堂観音堂、観音ミュージアム、経蔵などの建物が並んでいる。

 阿弥陀堂には、源頼朝が42歳の厄除けに建立したと伝える、厄除阿弥陀といわれる阿弥陀如来像がまつられている。

阿弥陀堂

 観音堂には、本尊の観音菩薩像とその前立や徳道上人像などが安置されている。

観音堂

 

 観音堂の隣には観音ミュージアムが併設されている。ここは500円で入れるが、追加課金だからなのか境内の混みようと比べると比較的静かだった。

観音ミュージアム

 観音ミュージアムでは数多くの文化財がときどき入れ替えられながら展示されている。フラッシュを焚かなければ写真撮影も許可されているのがありがたい。

 

 木造勢至菩薩坐像は伝承によると、鎌倉幕府御家人畠山重忠の守り本尊とされるほか、かつて長谷にあった誓願寺の本尊の脇侍とする説もあるが、その由来は定かでない。

木造勢至菩薩坐像

 

 こちらは令和3年(2021年)に造られた「絆観音」である。

絆観音

 絆観音は本尊造立1300周年だった令和3年(2021年)に始動した、創建当初の本尊のお姿を復元するプロジェクトの一環で造立されたものである。今は新しくピカピカだが、これも100年とか経てば文化財指定されるのかもしれない。

 

 この銅造梵鐘は長谷寺に伝わる文化財のなかでも、「長谷寺」の寺号が確認される最古の資料で、文永元年(1264年)に鋳造されたと記録に残る。重要文化財に指定されている。

銅造梵鐘

 

 石造菩薩立像はギリシア風の衣服のひだや、彫りの深い顔立ちなど、仏像制作発祥の地・ガンダーラの様式を伝えている。確かに日本人離れした顔立ちをしている。

石造菩薩立像

 

 「観音応現ー三十三応現身の世界」のコーナーでは十一面観音立像御前立をセンターに、観音三十三応現身立像という33体の仏像がずらりと立ち並び、圧巻だった。

 十一面観音立像御前立は本尊が秘仏である場合などに、その身代わりとして安置される像「前立」で、天文7年(1538年)以前に造られたものらしい。

十一面観音立像御前立

 

 観音三十三応現身立像は「法華経 普門品」に観音様は33種類姿を変えることができ、そのときに適した姿でありとあらゆる生命を救うことが書かれていることから、観音様33変化を表した仏像である。なお「坂東三十三観音」「江戸三十三観音」など、札所の数が「33」であることが多いのはそういう理由である。珍しい例で秩父だけ「三十四観音」だが、これは「坂東33」+「西国33」+「秩父34」=100 とする理由である。

 

 銅造十一面観音懸仏は合計6面あり、いずれも鎌倉時代末期から室町時代の様式を示すうえ、通常見受けられる懸仏に比べ大型である。

 

 如意輪観音坐像。如意輪観音密教における六観音とよばれる変化観音のひとつで、煩悩を打ち破ってあらゆる願いをかなえてくれる仏である。若干ポーズがリラックス感あるな…と思ったのは私だけだろうか。

如意輪観音坐像

 

 十一面観音立像御後立は本尊の背後にまつられていた像と伝えられている。江戸時代に造った割に金ピカだが、これは平成26年(2014年)の午年坂東大開帳のときに全面的に修理されたため。

十一面観音立像御後立

 

 この十一面観音立像は岩座とよばれる四角い台座に立っており、江戸時代に造られたと考えられている。

十一面観音立像

 

 観音ミュージアムをあとにし、長谷寺御朱印をもらう。16時に朱印所は閉まるため、滑り込みセーフだった。あと知らないカップルに「あの人の持ってる御朱印帳、カッコイイ~」と言われて少しだけ嬉しかった(これは坂東三十三観音用の御朱印帳で、前回ブログで杉本寺で買ったもの)。


 長谷寺の境内に由比ヶ浜を望める展望スポットがあったので行ってみた。夕暮れ時の空と弧を描く由比ヶ浜の海岸線が美しい。

 

 経蔵には輪蔵とよばれる回転式書架に一切経がおさめられている。輪蔵は観音様の縁日(毎月18日など)に回すことができるらしい。

経蔵

 階段の近くにかきがら稲荷大明神があり、御本尊は海に流れているとき、付着した蛎殻(かきがら)の導きでここに来たといわれている。

 かきがら稲荷大明神の絵馬は蛎殻に書かれている珍しいものだが、ぱっと見外国語で書かれた絵馬だらけなので日本語を探すほうが難しい。

かきがら稲荷大明神

 

 階段を降りると大黒堂がある。

大黒堂

 大黒堂では鎌倉・江の島七福神の1つに数えられている大黒をまつる。

 

 左手の庭池をとおっていくと弁財天をまつる弁天堂があり、その山裾の窟には弁財天と十六童子がきざまれている弁天窟がある。個人的には弁天窟が一番面白いスポットだと感じた。

弁天堂

 

弁天窟入口

弁天窟の弁天様


 時期的に紅葉が美しく、それ目当てで来ている観光客も多くいた。

 

 長谷寺の近くには「鎌倉大仏」で有名な高徳院もあるが、閉門時間に間に合いそうになかったので諦めた。以前にも行ったことがあるし、行こうと思えば行ける距離(筆者は都内在住)のためまた行けばいいかな、と思った。

 

 長谷寺から歩いて5分ほどのところに長谷駅があり、ここから帰路についた。なお、長谷駅長谷寺高徳院の最寄り駅であるため乗客が多く、毎朝乗っている通勤ラッシュよりも酷い満員電車に揉まれながら鎌倉駅へ向かうことになった。

長谷駅

 

 岩殿寺は逗子の山の中腹にあるしっとりとした寺院で、そこの方に「まんだら堂やぐら群」の存在を教えていただけたからまんだら堂やぐら群を見ることができた。まんだら堂やぐら群は中世の葬送遺跡ということで、岩に穴を開けそこに五輪塔が並んでいる景色は初めて見たものだった。近くにあった名越切通も現在ほど土木技術が発達していない時代に造ったにしては立派だなと感じた。

 安養院も岩殿寺同様しっとりとした寺院だった。それに比較し長谷寺は観光客が多く、今までのしっとりとした札所を見てきた流れで見ると少し面食らった。よく言えば今でも庶民信仰が篤いのだと思えるのだが…。ただ観音ミュージアムは課金だからかあまり人がおらず、勿体ないと感じてしまった。あと境内で聞いた会話で「ここが鎌倉大仏?」「ほかに鎌倉大仏はあった気はするしそっちは外にあった気もするんだけど、どうだっけ?」と話しているカップルがおり、「ここは鎌倉大仏ではないよ!鎌倉大仏高徳院!まあここの御本尊も巨大だからわからないでもないけど!」と突っ込みたくなった。言わなかったけど。

 私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2025年11月23日

【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2005)

「神奈川県の歴史散歩 下 鎌倉・湘南・足柄」 株式会社山川出版社

坂東札所霊場会(2019) 「坂東三十三観音巡礼」 株式会社朱鷺書房

日本マンホール蓋学会 逗子市のマンホール

https://we-love-manho.com/kanagawa/zusi/zusi.html

逗子市 市のシンボル

https://www.city.zushi.kanagawa.jp/shisei/abotzushi/1005033.html

逗子市 令和7年度 まんだら堂やぐら群限定公開

https://www.city.zushi.kanagawa.jp/shiminkatsudo/bunkazai/1004537/1007768.html

(2025年12月8日最終閲覧)

東海道を歩く 47.草津駅~大津駅

 前回、石部駅から草津駅まで歩いた。今回は草津駅から大津駅まで歩こうと思う。大津を超えたら次は三条大橋、ついに「東海道五十三次」のゴールということになる。残り少なくなってきたが、楽しんで歩いていこう。

初回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

前回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

1.草津宿本陣

 今日は草津駅から出発だ。

草津駅

 東海道中山道の合流点に「中山道 みのぢ」「東海道 いせみち」「東海道 京へ」と書かれたマンホールがあった。

 

 今日まず見るのは、草津宿本陣だ。

草津宿本陣

 草津宿の宿場町の長さは約1.3kmで、天保元年(1830年)の記録によると旅籠118軒とあり、本陣2軒・脇本陣4軒がおかれていた。

 本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣であったが、九蔵本陣は明治時代以後に絶えて、建物も取り壊され、七左衛門本陣だけが、ほぼ完全な姿を今に残している。

 この本陣は材木商も営んでいたため、「木屋本陣」ともよばれ、経済力もあり、本陣の経営も堅実であったという。

 田中七左衛門本陣は寛永12年(1635年)から明治3年(1870年)に本陣制度が廃止されるまで、235年間本陣をつとめた。

 宿帳に相当する「大福帳」には、吉良上野介(きらこうずけのすけ)・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)・皇女和宮新撰組や、ドイツの博物学シーボルトらが宿泊や休憩をした記録が残っている。

 享保3年(1718年)に類焼の難に遭ったが、膳所藩(ぜぜはん)の特別の計らいで、膳所城内にあった瓦が浜御殿の建物を拝領して急場をしのいだ。現在の建物はこのときのものである。

 

 入場料を払い、草津宿本陣に入ろう。まず入るとあるのは、玄関広間。

玄関広間

 玄関広間は16畳の部屋で、奥壁には幅2間の槍床が、玄関広間の前には、大名などが駕籠を横付けした板張りの式台が設けられている。

 

 玄関広間の隣にある部屋が座敷広間で、ここは従者の休泊に用いられた部屋で、畳廊下の両側に、それぞれ3部屋で構成される西広間と東広間がある。

座敷広間

 

 座敷広間と上段の間の間にあるのが台子の間で、ここは主客に出す茶を点てた部屋であるとともに、上段の間の控えの間としても使われたと考えられている。

台子の間

 

 そして、上段の間だ。

上段の間

 上段の間とは本陣建物のなかで最も格式の高い部屋で、大名など主客の休泊に用いられた。

 

 上段の間の隣には上段雪隠がある。ここは大名など主客専用の便所で、手前の小便所と奥の大便所からなり、いずれも畳敷きで、漆塗りの木製便器が据えられていた。

上段雪隠

 

 上段の間から廊下に出ると中庭が見え、松が茂っていた。

 

 中庭を過ぎると湯殿がある。ここは大名など主客専用の風呂場で、畳敷き4畳は脱衣所として使われ、奥の板張り8畳で、中庭の竈で沸かした湯を湯舟へ運び入れ、そのなかで湯浴みをしたようだ。

湯殿

 

 上段の間から廊下を挟んで向かい側には向上段の間があり、ここは上段の間に次いで格式の高い部屋だったようだ。

向上段の間

 

 来た道を戻ると御膳所があり、皇女・和宮が休泊したときに出された昼食が再現されていた。

和宮様御膳

 左の膳の左上から水菓子、香の物(なすび奈良漬け・たくあん大根)、汁(合味噌・つまみな・浅草海苔)、ごはん。右の膳の左上から皿盛(三井寺豆腐・焼栗・かんぴょうのみりん煎)、椀(紅葉麩・白髭大根・山吹湯葉・洗生姜)、平(人参・相良麩・椎茸・長いも・銀杏)、膾(煎酒酢・蓮根重切)となっている。この日は精進日(近親の命日など特に仏道に励むべきであるとされる日)だったようで、肉や魚は出ていない。

 

 この戸は「さる戸」といい、表入口にある「大戸」とともに上に吊り上げることができ、これで台所土間を馬に乗ったまま進むことができ、奥の厩へ馬を運ぶことができる。

さる戸

 この空間は田中家住居部で、本陣職を勤めた田中家の住居部で、通り土間に面して、街道側から店の間、玄関広間、帳場の間、台所の間が並んでいる。

田中家住居部

 

 田中家住居部は台所土間に面している。

台所土間

 通り土間の奥に広がる台所土間には、五連式の竈、食器などを納める物入れ、柴入れのほか、北側には流し・水甕・井戸が設けられている。

 

 外に出ると湯沸屋形があり、この竈は、湯殿で使うお湯や馬を洗うお湯を沸かすのに使っていた。

湯沸屋形

 

 湯沸屋形の奥には楽座館があり、ここが草津宿本陣の資料館となっている。残念ながら、撮影禁止。

楽座館

 

 楽座館を出ると厩がある。厩は大名など休泊者が連れてきた馬をつないでおく場所である。

 

 厩のほかに外には長家もあり、ここは塩や醤油を保管するのに使用していたと考えられている。

長屋

 

2.常善寺

 草津宿本陣をあとにし、東海道を歩いていると吉川芳樹園店舗兼主屋を見つけた。

吉川芳樹園店舗兼主屋

 この建物は鬼瓦には文政13年(1830年)の銘が見られ、国の登録有形文化財に指定されている。

 

 ここは田中九蔵本陣跡だが、明治10年(1877年)には知新學校が新築されたため今は何も残っていない。

田中九蔵本陣跡

 このマンホールは浮世絵師・歌川広重の作品「東海道五拾三次之内草津」をモチーフにしている。

 

 草津宿本陣から歩いて10分ほどで草津宿街道交流館に到着する。

草津宿街道交流館

 ここでは、草津宿をはじめ江戸時代の東海道中山道などに関する資料や情報をみることができる。また、幕末の草津宿を再現したジオラマなどもあり、草津宿のようすがわかりやすく紹介されている。残念ながら撮影禁止のため資料写真はなし。

 

 草津宿街道交流館のなかで浮世絵体験コーナーがあり、刷ってみたものの、なかなかうまく刷るのは難しい。

 

 草津市のマンホールカードも草津宿街道交流館で配布しており、デザインは「東海道五拾三次之内草津」となっている。

草津市マンホールカード

 

 だいぶ遅くなったと思うが、滋賀県東海道について取り上げた書籍「近江東海道を歩く」も売っていたので購入した。

近江東海道を歩く

 

 草津宿の御宿場印も草津宿街道交流館で取り扱っていた。

草津宿 御宿場印

 

 屋外展示されていたものは石造道標で、「右 東海道」「天明七年五月吉日」と刻まれている。天明7年は1787年なので、現存する道標のなかでは比較的古いものと推測されている。

石造道標

 

 草津宿街道交流館から5分ほどいったところに常善寺がある。

常善寺

 常善寺は天平7年(735年)良弁により創建されたと伝えられる草津市内最古の寺院だ。

 承久3年(1221年)の承久の乱のとき兵火に遭って焼失し、建長年間(1249~56)に再建された。

 室町時代には、初代将軍・足利尊氏、4代将軍・足利義持、9代将軍・足利義尚らにより手厚く保護され、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、上洛の途上に宿陣した。

 現在の本堂はコンクリート造りであるが、堂内には鎌倉時代の作といわれる本尊・木造阿弥陀如来坐像両脇士像が須弥壇上にまつられている。

 

3.「急がば回れ

 常善寺の近くに松利老舗という和菓子屋があり、そこで「草津たび丸どら焼き」を売っているので買って食べた。これは小豆あん・白あん栗入・抹茶あんの3色あんが包まれていて、豪華である。どら焼きの上には草津たび丸の焼き印も押されている。

松利老舗

草津たび丸どら焼き

 

 松利老舗から5分ほどのところに立木神社がある。

立木神社

 立木神社の御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)。

 神社の由緒書に「古来初めて旅立つことを鹿島起(かしまだち)と称するがそれは立木神社の祭神が、初めて常陸国鹿島神宮(現・茨城県鹿嶋市)から当地へ旅立ち遊ばされたのが語源であると、古書にも誌されている」とある。

 また境内の石碑に「この時、命手に持つ柿の木の杖を社殿近くの地にさすと、不思議に生えついた。この木を崇めて社名を立木神社と称した」とある。

 御朱印をいただけそうだったので、御朱印をいただいた。

立木神社 御朱印

 

 前回記事で「草津川は平成16年(2004年)に川としての役目を終え、新たな草津川はかつての草津宿と矢倉村の境に平地河川化されて付け替えられた」と記載したが、その付け替えられた草津川がこちらである。

草津

 

 草津川を渡り、10分ほど歩くと「矢橋の渡し」の船乗り場へと至る分岐点がある。

「矢橋の渡し」の船乗り場への分岐点

 突然だが、「急がば回れ」という言葉を知っているだろうか。

 「知ってるよ!」と言われそうである。これは危険な近道よりも、安全な本道をまわったほうが、結局早く目的地に着くたとえから、成果を急ぐなら一見遠回りに見えても着実な方法をとったほうがよいことを戒めた言葉である。

 では、この言葉の語源が、実はここ「矢橋の渡し」にあることを知っている人はどれくらいいるだろうか。

 永禄11年(1514年)の成立とされる、「雲玉和歌捗」という本には以下のように書かれている。江戸時代の「醒睡笑」でも同様の歌が紹介されている。

もののふの やはせのふねは はやくとも いしかはまわれ せたのながはし」

 これは東海道の大津と草津間の早道として用いられていた湖上の渡し、矢橋の渡し船を利用するより、瀬田橋への回り道のほうが着実であることを例えたものだが、これが現在まで慣用句として使われているのは驚きである。

 「急がば回れ」では瀬田橋まわりを勧めているが、江戸時代、俗謡に「瀬田へ回れば三里の回り、ござれ矢橋の舟にのろ」「瀬田へ回りか矢橋へ出よか、ここが思案の姥ヶ餅」などと詠まれ、東海道を往く多くの旅人は、この渡し船を利用した。

 瀬田を回ると3時間あまり、一方矢橋の渡しを利用すると2時間程度、多少の船賃は必要だが、船に乗れて少しは楽ができるし、「近江八景」のひとつに数えられた「矢橋の帰帆」の風光明媚な景色を見ることもできた。

 果たして矢橋の渡し船、瀬田橋への回り道、どっちが早く大津にたどり着けたのだろうか?私だったら、天気を見て判断しようと思う。

 

4.野路の玉川跡

 「矢橋の渡し」分岐点から10分ほど歩くと野路一里塚跡がある。ここは日本橋から119里目(約476km)の一里塚だが、何も残っていない。

野路一里塚跡

 

 現在時刻12時前、おなかがすいてきたので近くのすき家でチーズ牛丼を食べた。

 

 「話電」のマンホール…さては古いな?

 

 「ようこそ南草津「遺跡と萩の育むまち野路」の玉川へ」の案内板があった。

 

 野路の玉川跡を見つけた。

野路の玉川跡

 野路の玉川は、平安時代の古歌にも詠まれ、六玉川のひとつに数えられたところで、萩が名所であったことから、萩の玉川とも呼ばれた。

 源俊頼のこのような歌が残っている。

 「あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけん」

 

 野路の玉川から5分ほど歩くと弁天池があり、弁天池の中央には弁財天が祀られている。

弁天池

弁財天が祀られている島

 

 この日は4月6日、桜がとても綺麗だった。

 

 ふと足元を見ると、やたら賑やかなマンホールがあった。大津市に入ったようだ。

大津市マンホール

 市制施行から100年目の大津市の景観をモチーフにした、琵琶湖、琵琶湖大橋、ミシガン船、ヨット、観覧車、ユリカモメ(市の鳥)、エイザンスミレ(市の花)、ヤマザクラ(市の木)、花火大会、レガッタ、びわ湖花噴水、犬などが描かれている。

 犬は100周年記念イベントキャラクターの「ももちゃん」で、カラー版だと片手が赤くなっており「ワン ハンド レッド」という洒落があるそうだが、モノクロ版だとそれが再現されていない。

 

 大津市章のついた消火栓を見つけた。

 大津市章は大津の「大ツ」を図案化したもので、昭和33年(1958年)に制定された。

 

 弁天池から25分ほど歩くと「東海道立場跡」がある。江戸時代には立場という休憩スポットがあったようだが、現在は何も残っていない。

東海道立場跡

 長沢川にかかる桜が綺麗だった。

 

5.建部大社

 東海道立場跡から10分ほど歩くと月輪池の一里塚趾がある。ここは日本橋から120里目(約480km)の一里塚だが、塚などは残っていない。

一里塚趾

 「三條大橋迄で五里(約20km)余り」と書かれている案内板を見つけて、あと少し、頑張れそうな気がした。

 

 「西行屋敷跡」の案内板で東海道は左折する。西行法師は平安末期の代表的歌人だが、一時ここに住んでいたという伝承があってこの案内板が建てられている。

西行屋敷跡

 

 大場の桜があったが、ほぼ葉桜になっていた。

大場の桜

 

 「大江の史跡 文化財マップ」があったので写真を撮っておく。

大江の史跡 文化財マップ

 大場の桜から20分ほど歩いたところに建部大社がある。建部大社は東海道から少し離れたところにあるが神仏霊場会の札所の寺社だったので、神仏霊場会の御朱印を集めている人としてはこれは行っておかなくては!と思ったので寄ることにした。

建部大社

 建部大社は古代、神社の最高位にあたる近江国一宮として位置づけられた歴史と風格が感じられる神社である。

 もとは神崎郡建部郷にあったものを、天武天皇4年(675年)に現在地に遷したものとされる。

 武運の神とされ、武家の信仰が篤く、永暦元年(1160年)、前年の平治の乱で平家に敗れた14歳の源頼朝が、配流地の伊豆に向かう途中、当社に参籠して源氏の再興を祈願したという。

 源氏再興をはたした頼朝は、建久元年(1190年)の上洛の際に、建部大社に詣でてその武運に感謝し、神領を寄進したとされる。

 その後、幾度となく戦火に見舞われたが、その都度再建して、江戸時代には膳所藩歴代藩主の崇敬を受けた。

 もとは建部神社と称したが、昭和52年(1977年)、建部大社と改称した。

 

 本殿に参拝して境内を歩いていると菊花石を見つけた。

菊花石

 「菊の紋様が神秘な力の働きで自然石から放射状にのびてできた」とあるが、何か科学的に説明できそうな気もする。以前も菊のような石を見た気がするが、こっちのほうが綺麗だと思う。ちなみにそれは「東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停 4.菊川」に出てくる菊川由来の石だ。

octoberabbit.hatenablog.com

 

 あと「君が代」で有名なさざれ石もあった。さざれ石とは小さな石が長い年月をかけて溶けて固まり、大きな石になったものである。

さざれ石

 

 神仏霊場会の御朱印帳は忘れてしまったので、書置きをいただいた。せっかくなので、期間限定デザインにした。かわいい。

建部大社 御朱印

 

6.瀬田の唐橋

 建部大社から10分ほどで瀬田の唐橋に到着する。

瀬田の唐橋

瀬田の唐橋から瀬田川を見る

 琵琶湖から流れ出る唯一の河川である瀬田川に架かる橋で、古くは瀬田橋・勢多橋・瀬田の長橋などとも称された。

 古代から交通の要衝として戦略上重要な位置を占め、瀬田川の渡河攻防戦は戦の勝敗を決するところとして、「唐橋を制するものは、天下を制す」といわれた。

 おもなものでも、天武天皇元年(672年)の大海人皇子大友皇子による壬申の乱、寿永2年(1183年)の源義仲による寿永の乱、承久3年(1221年)の北条時房による承久の乱などにおいて、幾度となく唐橋をめぐる攻防戦が繰り広げられた。

 丸木舟を横に並べて、フジの蔓をからめていたことから「搦橋(からみばし)」ともいわれ、「からみ橋」から「から橋」の語源になったとも、またヤナギのように流麗であったので、別名を「青柳橋」ともいわれていた。

 その後も、幾度となく架け替えがなされるなか、唐様を模したことから、唐橋・韓橋・辛橋などと称されたと考えられる。

 天正3年(1575年)に織田信長が現在地に橋を移し、その後も豊臣秀吉による改修が行われたが、木造のため約20年ごとに架け替えられたという。

 現在の橋は昭和54年(1979年)に架けられ、間に中ノ島を挟んで大小2橋に分かれ、大橋は全長約172m、小橋は約52m、幅は約12mで、橋脚は鉄筋コンクリート製だが欄干には擬宝珠が施され、歴史上重要で古風な橋の風情がある。

 

 瀬田の唐橋には、以下のような伝説がある。

 藤原秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる大蛇の背をやすやすと踏み越えた。

 大蛇はおじいさんに姿をかえ、秀郷のもとを訪れた。

 おじいさんは秀郷にこう依頼した。

 「二上山に7回り半も巻き付いた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食べつくしてしまい、困っているのだ。しかし大ムカデはあまりに凶暴で、誰も退治できていない。そこで私が大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていたのだ。どうか大ムカデを退治してくれないか。」

 秀郷は大ムカデの退治を引き受けて、秀郷は大ムカデに対して矢を放った。すると大ムカデの眉間に矢が刺さり、大ムカデは消滅した。

 おじいさんは秀郷の武勇をたたえ、自分の家に招待した。なんとおじいさんが住んでいたのは瀬田橋の下にある竜宮だった。

 おじいさんは琵琶湖に暮らす人々を守るために2,000年前から瀬田橋に住んでいた神様で、漁民の暮らしや豊かな実りある近江国をずっと見守ってきたと言った。

 秀郷はおじいさんから一生食べきれないほどの米俵をお土産に渡されて、竜宮を後にした。このことから秀郷は「俵藤太」と呼ばれるようになったという。

 

 瀬田の唐橋の下には、今も竜宮があっておじいさんが住んでいるのだろうか。

 

7.粟津の晴嵐

 京阪石山坂本線・唐橋前駅の踏切を越えると鳥居川交差点に着くので、右折する。

唐橋前駅

 

 そのまま進み、松原町西交差点で左折するとすぐに石山駅が見えてくるので、駅構内を通り過ぎて南口から北口に出る。

石山駅

 次の交差点を左折して北に進むと、工場街が見えてくる。ここは以前、500本を超す松並木が続き、「粟津の晴嵐」とよばれる近江八景のひとつに数えられた名勝地だった。

工場街。桜が綺麗。

 晴嵐という名称は、晴れた日にマツの木の葉がこすれておこる音が、嵐のように聞こえることからつけられた。

 江戸時代の浮世絵師・歌川広重近江八景を画題に、粟津の晴嵐を描いている。

 明治時代末期から大正時代に工業地帯ができて以来、松並木の周囲の状況も激変し、今残っているマツはわずか数本になってしまったのが残念である。

 

8.膳所

 石山駅から歩いて15分ほどのところに「膳所城(ぜぜじょう)勢多口総門跡」がある。

膳所城勢多口総門跡

 ここで膳所城について説明する。

 膳所城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、慶長6年(1601年)、膳所崎に築かせた水城である。

 大津城で戦後処理にあたっていた戸田一西が、3万石で入城したのに始まる。

 その後、城主は本多・菅沼・石川氏と頻繁に交替したが、慶安4年(1651年)に本多俊次が城主となって以降、本多氏が代々世襲した。

 なお石高は一時7万石となったが、延宝7年(1679年)に就任した10代藩主・本多康義のとき6万石となり、以後、明治4年(1871年)の廃藩まで続いた。

 膳所城は築城当初、本丸と二の丸が琵琶湖に突き出ていたが、寛文2年(1662年)の大地震で破損し、大幅な改修工事が行われた。

 本丸の一角に4層の天守閣が築かれ、湖面に映る風景は、多くの絵師によって近江八景「粟津の晴嵐」に描かれ、また「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠、水に映るは膳所の城」と詠われた。

 しかしこの名城も明治3年(1870年)、20代藩主・本多康重の願い出により、諸藩に先駆けて取り壊されることになり、城の建物は大津市内外の各地に移された。

 

 若宮八幡宮の鳥居の奥に膳所城本丸・犬走門がある。

若宮八幡宮 膳所城本丸・犬走門

 膳所城本丸・犬走門の建築年代について、膳所城築城当初の慶長期に建てられた城門を寛文2年(1665年)の大地震のあと、冠木や柱の古材を用いて現在の姿に再建されたと考えられている。

 

 京阪石山坂本線瓦ヶ浜駅脇の踏切を通り過ぎる。

京阪石山坂本線瓦ヶ浜駅

 瓦ヶ浜駅から7分ほどで篠津神社に到着する。

篠津神社

 篠津神社の創建年代は不明だが、中庄村の氏神として信仰されてきた。

 古くは天王社・牛頭天王社と称したが、室町時代中頃にはこの地に鎮座していたことが、篠津神社に伝わる棟札からわかる。

 江戸時代には膳所藩主・本多家の尊崇を受け、現在の社殿は万治4年(1661年)に造営された。

 

 表門は棟札により膳所城北大手門から、明治5年(1872年)に移築されたことが判明した。

 建築年代を示す資料はないが、慶長年間(1596~1615年)頃と推定されている。形式は、袖棟をもつ高麗門である。

膳所城北大手門

 

 篠津神社から15分ほどで膳所神社に到着する。

膳所神社

 膳所神社の御祭神は食物を司る豊受比売命(とようけひめのみこと)である。

 かつてはもう少し湖側にあったといわれ、旧地とされる約300m南東の大津市生涯学習センター敷地内に、小祠が建てられている。

 社名となっている「膳所(ぜぜ)」の地名は、この地一帯が平安時代天皇の食事に供する魚介類を献上する場所であったことによるとされる。

 江戸時代には膳所藩主・本多家も信仰し、たびたび寄進をした。

 

 表門は明治3年(1870年)に膳所城が廃城となった後、城門を移築したものである。

 伝承では二の丸と本丸の間の門で、解体修理の結果「明暦元年(1655年)」の銘札が発見された。

 門は薬医門の形式で、両開きの大扉の左に脇柱を建て、片開きの潜り戸を設ける頑丈な造りである。

膳所城・城門

 

 現時点で16時過ぎ、少し迷ったが桜の時期ということで「桜の名所」として有名な膳所城公園に行ってみることにした。

膳所城公園

 

 家族連れがのんびりと花見を楽しんでいて、私も桜を楽しむことができた。

 

 膳所城公園には三等三角点の「膳所」が設置されている。この三角点は明治36年(1903年)に設置された古い三角点である。

三等三角点「膳所

 

 滋賀県に入ってからしばらく経つが、そういえば琵琶湖を見たのは初めてな気がする。

琵琶湖

 

 なお、膳所城公園前の道路には一等水準点212-1号もある。

一等水準点212-1号

 

 膳所城公園から10分ほど歩くと和田神社に到着する。

和田神社 鳥居

和田神社

 和田神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。

 鳥居の奥にある表門は、文化5年(1808年)に創設された膳所藩校・遵義堂の門を移築したものである。

 社伝によると、持統天皇の頃には、元天皇社、八大竜王社と称していたという。

 明治時代に入り、同社の鎮座する琵琶湖岸の地が和田浜とよばれていたことから、現在の「和田神社」に改称された。

 

 境内には、樹齢600年以上、高さ約24mの銀杏の大木がある。

大銀杏

 関ヶ原の戦いに敗れ、捕らえられた石田三成が京都へ護送される途中につながれたのがこの大銀杏といわれていて、湖上を行く船の格好の目印になっていたようだ。

 

 和田神社から10分ほど歩くと石坐(いわい)神社に到着する。

石坐神社

 石坐神社は「延喜式神名帳に「石坐神社」とみえるが、創建年代は不明である。

 社伝によれば天智天皇のときに、神社の南西にある御霊殿山(ごりょうどやま)に海津見神(わだつみのかみ)があらわれて旱魃(かんばつ)を救ったため、天皇が山上にまつったことに始まるという。

 壬申の乱(天武天皇元年・672年)後、粟津郷の石坐野に社殿を建てて御霊殿山から祭神を遷し、八大竜王宮と称した。このとき、近江朝ゆかりの3神を密かに合祀したとされる。

 江戸時代には八大竜王社とよばれ、雨乞いの神として信仰された。

 明治時代になって、現在の「石坐神社」と改称された。

 

 御祭神は多く、天命開別命(あめのみことひらかずわけのみこと・天智天皇)、弘文天皇(大友皇子)、伊賀采女宅子媛命(いがうねめやかこひめのみこと)、彦坐王命(ひこいますおうのみこと)、豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、海津見神である。

 

 膳所城北総門跡があり、膳所城域はここで終わりとなる。

膳所城北総門跡

9.義仲寺

 もう門が閉まっていたが、義仲寺の前を通った。

義仲寺

 源義仲(木曽義仲)は治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨を受けて挙兵し、北陸から京に入り、平家を西国に追った。

 しかし、後白河法皇と対立し、法皇の意を受けた源頼朝の弟源範頼源義経軍と激しく戦い、寿永3年(1184年)粟津で戦死した。

 義仲寺境内には源義仲の墓があり、そのかたわらには源義仲の愛妾・巴御前の小さな供養塚が立っている。

 義仲寺は、室町時代末期頃に近江守護・佐々木六角氏が源義仲の菩提を弔う寺を建立したことに始まると伝えられている。

 

 江戸時代中頃までは、源義仲の墓と伝えられる塚に根をおろすカキの木があるだけの小寺だったといわれ、木曽塚・無名庵ともよばれていた。

 松尾芭蕉が最初に義仲寺を訪れたのは、「おくのほそ道」の旅から帰った元禄2年(1689年)で、この年の暮れは義仲寺で越年した。

 その後、源義仲を敬愛していた松尾芭蕉膳所の地に心惹かれ、たびたび滞在している。

 「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」の有名な句は、伊勢の俳人・山田又玄が、元禄4年(1691年)に無名庵に滞在中の松尾芭蕉を訪ね泊まったときの作である。

 松尾芭蕉は元禄7年(1694年)10月12日、大坂で死去した。松尾芭蕉の遺言により、向井去来ら門人により遺骸は木曽塚に運ばれ、14日に葬儀が行われ、深夜ここに埋葬された。

 源義仲の墓の右隣に、松尾芭蕉の墓があり、墓石の「芭蕉翁」の文字は内藤丈草が書いたといわれる。

 芭蕉先生だからできたのだろうが、敬愛する偉人の隣に自分の墓を作るとは、すごいと思ってしまう。

 

 滋賀県庁は昭和14年(1939年)に建てられ、国の登録有形文化財に指定されている。

滋賀県

 

 東海道中央大通りがぶつかる交差点で左折し、大津駅で今日は終わりにする。

大津駅

 次回は大津駅から、ついに三条大橋に到達する予定である。

 

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

今回の地図⑥

歩いた日:2025年4月6日

次回記事はこちら↓

octoberabbit.hatenablog.com

 

【参考文献・参考サイト】

八杉淳(2010) 「近江東海道を歩く」 サンライズ出版

滋賀県歴史散歩編集委員会(2015) 「滋賀県の歴史散歩」 山川出版社

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第14集」

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第15集」

日本マンホール蓋学会 大津市のマンホール

https://we-love-manho.com/siga/ootu/ootu.html

大津市 市章・市民憲章・市民の歌

https://www.city.otsu.lg.jp/soshiki/005/1202/g/otsucity/1390611704637.html

(2025年11月30日 最終閲覧)

坂東三十三観音をめぐる 1.鎌倉編①

 お久しぶりです。10月うさぎです。6~10月にかけて本業で激務、その後も1ヶ月くらい体調が戻らずブログが更新できていませんでした。申し訳ございません。

 この前11月3連休は秋田に旅行に行くはずだったものの、秋田駅前ですらクマが出るという惨状で断念、全国で宿探しをするもどこも高い宿しか残っていない…ということで宿泊なしで近場を旅してみるか、というときに「坂東三十三観音」でもやってみるか!と考えついた。

 私はまず、納経帳をいただくのを兼ね、第1番札所のある鎌倉に向かった。

1.坂東三十三観音とはなにか?

 まず、「坂東三十三観音」とはなにか、について説明しよう。

 坂東三十三観音とは関東1都6県にまたがる33か所の観音霊場で、それぞれ

 神奈川県9か所(第1~8、14番札所)、

 埼玉県4か所(第9~12番札所)、

 東京都1か所(第13番札所)、

 群馬県2か所(第15~16番札所)、

 栃木県4か所(第17~20番札所)、

 茨城県6か所(第21~26番札所)、

 千葉県7か所(第27~33番札所)がある。

 なお、第1番札所が神奈川県鎌倉市にある杉本寺で、第33番札所が千葉県館山市にある那古寺となっている。

 一説によれば、源頼朝が将軍であった頃、坂東にも三十三観音を作る動きが起こり、源実朝のときに制定されたとされている。

 江戸時代の沙門円宗が著した「秩父縁起霊験円通伝」に「坂東は武蔵、相模、安房、上総など八州にわたる。其の行程堪へ難し」とあるように、全行程三百三十里(約1,300km)の巡拝は現在でも容易ではない。ただ現代的巡拝として、私は使えるところは公共交通を使っていく所存である。

 また、西国三十三観音秩父三十四観音と合わせ、「日本百観音」といわれている。西国三十三観音はお金の都合上すぐにやる予定はないが、秩父三十四観音はいつかやってみたいと思っている。

 

2.鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム

 11月3連休の初日、10時過ぎ、私は鎌倉駅に降り立った。雲一つない快晴だ。

鎌倉駅

 

 小町通りは観光客でごった返していた。3連休の鎌倉をなめていた。

小町通り

 

 ふと足元を見ると、鎌倉市の市章が入ったマンホールがあった。

鎌倉市マンホール

 鎌倉市章の「ササリンドウ」は昭和27年(1952年)11月3日に制定された。

 ササリンドウ(笹竜胆)はリンドウの葉が笹に似ていることからの名前だが、植物名としてより、家紋として有名である。

 笹竜胆は鎌倉幕府を樹立した源頼朝の家紋といわれており、歌舞伎でも源氏を表現するものとして使用されている。

 

 鶴岡八幡宮・三の鳥居をくぐると源平池に至る。紅葉が美しい。

源平池

 治承4年(1180年)に源頼朝鶴岡八幡宮を創建した。

 源頼朝の夫人であった北条政子は、寿永元年(1182年)に大庭景義に命じて境内の東西に池を造成させ、東の池(源氏池)には3つの島を作り、3は「産まれる」こと、と祝い、西の池(平家池)には4つの島を作り、4は「死」を意味することと、平家の滅亡を祈った。これが源平池である。

 そして源氏池の中の島に弁財天社を祀ったのが旗上弁財天社の始まりで、以来ずっと崇敬されていたが、明治元年神仏分離の際になくなってしまった。

 その後昭和31年(1956年)に再興され、さらに昭和55年(1980年)に鶴岡八幡宮創建800年を記念して、現在の社殿が復元された。

 そんなわけで、旗上弁財天社に参拝する。

旗上弁財天社

 

 神社用の御朱印帳を見るとあと2ページで全て埋まってしまうことに気づいたので、御朱印帳を購入する。1,700円で鶴岡八幡宮がデザインされている。

鶴岡八幡宮 御朱印

 

 旗上弁財天社の御朱印もいただいた。ご丁寧に、1ページ目は鶴岡八幡宮御朱印のほうがいいでしょう、ということで2ページ目に書いてくれた。

旗上弁財天社 御朱印

 

 旗上弁財天社に異様に白いハトが何匹かいたが、これはなんだろう…アルビノ

ハト

 

 旗上弁財天社をあとにして、鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムへ向かう。

鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム

 

 鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムの建築は、昭和26年(1951年)に開館した神奈川県近代美術館の旧鎌倉館を継承したものである。

 昭和24年(1949年)、当時の神奈川県知事であった内山岩太郎のもとに神奈川県在住の美術家や学者から美術館を要望する声があがり、「神奈川県美術家懇話会」が設立された。

 用地が検討された結果、鶴岡八幡宮の境内に建設されることになり、昭和26年(1951年)、建築家・坂倉準三の設計で日本初の公立近代美術館として神奈川県立近代美術館は開館した。

 土地の借地契約満了に伴い平成28年(2016年)1月に神奈川県立近代美術館としての展覧会活動は終了し、3月に閉館した。

 その後、旧鎌倉館は神奈川県指定重要文化財に指定され、神奈川県から鶴岡八幡宮に土地の返還と合わせて無償譲渡され、令和元年(2019年)に「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として開館、令和2年(2020年)には建物が国の重要文化財に指定された。

 

 鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムの理念としては、鶴岡八幡宮の歴史を軸に、鎌倉の魅力を紹介する季節展示や一つのテーマを掘り下げた特別展を行い、鎌倉の新たな文化発信拠点を目指している。

 

 この日は鶴岡八幡宮にまつわる常設展示のほか、「鶴岡八幡宮の季節展ー文様と美ー」という企画展をやっていた。これは鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムが所蔵する様々な工芸品や日本画のなかから、伝統文様に焦点を当てた展示を行っていた。

 

 観覧料は一般600円だが、展示が充実していて展示をすべて見るのに1時間以上かかってしまった。なお、展示物はすべて撮影禁止。

 

 鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムにはカフェも併設されている。現在12時前だったので、ここでごはんを食べることにした。

カフェ

 

 頼んだのはドリップコーヒーと抹茶あん&粒あん きな粉バターサンド。窓際の席を取ったこともあり、非常に写真映えする。

 食べているときにバターがはみだしそうになったのが気になったが、展示を見終わって疲れた頭に甘いものは沁みた。

 

 カフェの店内には大銀杏が展示されている。

大銀杏

 この大銀杏は樹齢1,000年、樹高約30mもあった立派な銀杏だったが、残念ながら平成22年(2010年)に倒れてしまった。

 

3.鎌倉国宝館

 鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムをあとにして、鎌倉国宝館に向かう。

鎌倉国宝館

 鎌倉国宝館は、大正12年(1923年)の大正関東地震によって地域の貴重な文化財を損失した経験のもと、不時の災害から由緒ある文化財を保護し、あわせて鎌倉を訪れる人々がこれらの文化財を見学できるよう一堂に展示する施設として設立が計画された。

 このとき、「鎌倉同人会」をはじめ多くの人々から寄付が寄せられ、鎌倉市域に所在する寺社から多数の宝物の寄託を受け、昭和3年(1928年)に開館した。

 「国宝館」の名称は、鎌倉国宝館設立当時の古社寺保存法に規定された「国宝」を多数収蔵していることに由来する。

 昭和25年(1950年)に文化財保護法が制定されると、昭和26年(1951年)には同法に基づく勧告・承認施設となり、昭和27年(1952年)には博物館法のもと登録博物館になった。

 鎌倉国宝館の本館は、国の登録有形文化財に登録されている。鉄筋コンクリートによる高床式校倉風建築で、設計は岡田信一郎による。

 

 展示は主に「彫刻展示「鎌倉の仏像」」と「特別展「扇影衣香ー鎌倉と宋元・高麗の仏教絵画の交響ー」に分かれている。

 彫刻展示のほうは音声ガイドがあり、聞きながら見ることができる。彫刻展示のなかでは「木造 薬師三尊及び十二神将立像」が印象的だった。これは中央に薬師如来を配しその左右に日光菩薩月光菩薩、その周囲に十二神将という12軀の薬師如来を守護する神様が配置されていた。全部で15軀あり、圧巻だった。

 ほかのものだと倶生神坐像が印象的だった。「不気味な笑みが拝む者を威圧する」と説明されていたが、私にはどこかユーモラスな顔に見えた。

 

 「特別展「扇影衣香ー鎌倉と宋元・高麗の仏教絵画の交響ー」」では宋元・高麗、日本の鎌倉の同時代の東アジアで制作された仏教絵画を展示していた。

 

 観覧料は一般1,000円、なお写真撮影は禁止されていたため写真はなし。

 

4.鶴岡八幡宮

 鎌倉国宝館をあとにして、鶴岡八幡宮本殿のほうへ向かう。

 途中に若宮がある。

若宮

 若宮では仁徳天皇ほか3神を祀っている。

 若宮の創始は古く、康平6年(1063年)に源頼義が勧請した鶴岡若宮を源頼朝が治承4年(1180年)に現在地に遷した鶴岡八幡新宮若宮まで遡る。

 現在の社殿は江戸時代初期の寛永元年(1624年)に造られたもので、平成8年(1996年)に国の重要文化財に指定された。

 

 これが、例の倒れた大銀杏の跡だ。

大銀杏跡

 

 階段を上り、楼門の下に来る。この先に本殿があるが、ここから先は撮影禁止。

鶴岡八幡宮 楼門

 

 ここで、鶴岡八幡宮についての説明をしよう。

 源頼義が勧請した由比の若宮(元八幡)を、治承4年(1180年)源頼朝が現在の境内に移したが、建久元年(1190年)に火災にあい焼失したため、裏山(現在の上宮の位置)に改めて石清水八幡宮を勧請し、上下両宮とした。鎌倉幕府2代将軍・源頼家白旗神社や新宮を造営した。

 鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府の祈禱の中心的役割をはたした。

 また、頼朝が長年待ち望んだ征夷大将軍をはじめ、頼家や3代将軍・源実朝などの叙位任官の際には、本来ならば内裏で行われる拝賀の儀式をすべて鶴岡八幡宮ですませていることから、内裏としての機能をあわせもったと考えられている。

 また、武家政権を保障する神として、政権担当者により代々修造が行われた。

 

 本殿建物は幣殿・拝殿を連ねた流権現造で、廻廊が東西に延びて本殿を囲む形になっている。また、本殿には応神天皇比売神神功皇后が祀られている。

 廻廊は内部が区画され往時はさまざまな神事、法会の場として機能していた。

 楼門中央に掲げられた八幡宮の扁額「八」の文字は八幡大使の神使とされる鳩を象っていて、寛永6年(1629年)曼殊院門跡良恕法親王の揮毫によるものだ。

 現在の社殿は文政4年(1821年)本殿火災後、文政11年(1828年)徳川11代将軍・徳川家斉による幕府あげての事業として再建され、江戸時代末期の幕府作事方による代表建築のひとつと評されている。平成8年(1996年)に国の重要文化財に指定された。

 本殿の傍らにある武内社には武内宿禰が祀られている。武内宿禰応神天皇重臣だったため応神天皇が祀られる神社の末社として祀られることが多い。こちらも平成8年(1996年)に国の重要文化財に指定された。

 本殿の奥には宝物殿があり、ここには桃山期から江戸初期の7基の神輿や鎌倉時代の擬宝珠、栄西禅師が中国で建久元年(1190年)に贈られた堆黒箱(ついこくばこ)、鎌倉彫の墨壺などの考古資料・刀剣・工芸品など100点以上が所蔵され、その一部が展示されている。200円払うとなかを見ることができる。

 

 鶴岡八幡宮本殿への参拝を済ませ、丸山稲荷社へ参拝する。

丸山稲荷社

 丸山稲荷社は建久2年(1191年)の鶴岡八幡宮本殿の鎮座以前からこの地に祀られていた地主社である。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。

 形式は一間流見世棚造で、中世(室町期)の神社建築の貴重な遺例として高く評価されており、境内に現存する最古の建造物でもある。

 昭和42年(1967年)に国の重要文化財に指定された。

 

 丸山稲荷社への参拝も済ませたら、鶴岡八幡宮御朱印をいただいた。さっき買った御朱印帳を出すと、「1ページ目はこちらの御朱印のために残してくれたんだね?」と確認され、はいと言うと御朱印を書いてくださった。

鶴岡八幡宮 御朱印


5.宝戒寺

 鶴岡八幡宮をあとにして、宝戒寺に向かう。

宝戒寺

 宝戒寺は天台宗の寺院である。

 鎌倉幕府第14代執権・北条高時の邸跡に、後醍醐天皇を開基とし、円観恵鎮を開山として、建武2年(1335年)、足利尊氏がたてたといわれる。

 2世の惟賢(普川国師)は足利尊氏の次男ともいわれ、寺領も多く、子院も5院ほどあきらかになっている。

 江戸時代には、天海僧正が関東における天台宗の本寺として、寺の維持相続を徳川家康に懇願している。

 本尊は地蔵菩薩像で、貞治4年(1365年)三条法印憲円という仏師がつくったことが体内銘によりあきらかである。左手に宝珠、右手に錫杖をもち、鎌倉地方の南北朝期の作風を伝え、子育経読地蔵の名で親しまれている。

 

 宝戒寺でも御朱印をいただいた。

宝戒寺 御朱印

 

 宝戒寺から10分ほど歩くと関取場跡がある。

関取場跡

 後北条氏が荏柄天神社の修繕や維持費にあてるため、通行人から関銭をとる関所を天神社前に設け、その後、関所を橋のところに移したのでこの橋は関取橋とよばれるようになり、橋の脇にこの「関取場跡」の碑がある。

 

 関取場跡から5分ほど進むと歌ノ橋の碑がある。

歌ノ橋

 鎌倉時代に冤罪で処刑されそうになった渋川兼守が、和歌10首に自分の心を詠んで荏柄天神に奉納したのを、3代将軍・源実朝に認められ罪を許された。渋川兼守は祈願成就の礼に、荏柄天神社前に橋を架けたので、「歌ノ橋」という名前になったそうだ。

 

6.杉本寺

 歌ノ橋から5分程度で、杉本寺に到着する。

 杉本寺の縁起では、天平6年(734年)に光明皇后の命で、藤原房前行基により創建された鎌倉最古の寺と伝えている。

 円仁(慈覚大師)が中興開山で、坂東三十三観音の第1番札所となっている。

 

 石段を少しのぼると仁王門があり、さらにのぼると茅葺きの本堂がある。

仁王門(修繕中)

本堂前の苔階段

杉本寺本堂

 

 堂内には本尊として3体の十一面観音像がある。

 内陣の西方にたつ本尊は、平安後期の作とみられる。行基が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め「こここそ観世音菩薩を安置すべき霊地である」と思い、霊木で等身大の像を彫刻し安置したと伝える。

 内陣の本尊は、平安後期の作。慈覚大師が仁寿元年(851年)この寺で霊感に打たれ、みずから海辺に浮かぶ霊木を彫刻し安置したと伝える。

 内陣の東方の本尊は、鎌倉中期の作。花山天皇の命で、源信が寛和元年(985年)十一面観音をつくり、熊野権現の示現でこの観世音と霊場順礼の記文をおさめたと伝えられている。

 文治5年(1189年)大蔵観音堂が失火で炎上したときに、別当浄台坊は火焔のなかにとび込み、衣をわずかにこがしただけで無事に本尊を取りだすことができた。これが、観音が火炎地獄から人びとを救うという信仰と結びつき、信仰を集めた。また、観音みずからスギの木の下に火をさけたとして、「杉本の観音」とよばれるようになったともいう。

 建久2年(1191年)源頼朝が参詣して建物再建のため寄進をし、実朝も建暦2年(1212年)参詣している。

 また、本尊を安置する御堂前を馬で乗り打ちするものは必ず落馬するというので、「下馬観音」といわれたが、建長寺の開山・大覚禅師がこの観音堂に参籠して祈願し、袈裟で観音をおおい落馬もなくなったので、「覆面観音」といわれるようになったそうだ。

 本堂に参拝し、関東三十三観音の納経帳を買った。2,600円と少し値が張ったが、後日長谷寺でこれで御朱印をもらおうとしたら見知らぬカップルに「カッコイイ御朱印帳だね」といわれ少しだけ胸を張った。

坂東三十三観音納経帳

 もちろん、第1番札所の御朱印をいただくことは忘れない。

 

 また、最初の札所ということもあり、坂東三十三観音の公式ガイドブックが売っていたので買っておくことにした。

坂東三十三観音公式ガイドブック

 

 さらに、御朱印をいただいた後に寺の方から「歩いて巡礼されますか?なら第1~4番札所の地図がありますので、よろしければどうぞ」と地図もいただいてしまった。

 

 この時点で16時、杉本寺の閉門の時間も近づいていたのでお暇することにした。納経帳とガイドブックで少し重くなったリュックを背負い、石段を下りていく。石段を下りたところに杉本観音バス停があるのでそこからバスに乗り、鎌倉駅へ戻って帰路についた。

杉本観音バス停

 鶴岡八幡宮には何度か行ったことがあるが、参拝するか、御朱印をもらうかするだけで、博物館めぐりをしたのは初めてだった。そのため、鶴岡八幡宮では時間をつぶそうと思えば4時間程度はつぶせるという知見を得た。

 杉本寺は初めて訪れた。鎌倉最古の寺、坂東三十三観音第1番札所としてもっと賑わってもよいはずだが、訪れたときは数人の参拝客がいただけで静かな寺院だった。でも鎌倉最古の寺院はこれくらいしっとりしてたほうがよいのかもしれない。

 私の知らない神奈川が、まだまだありそうだ。

今回の地図

歩いた日:2025年11月22日

 

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【参考文献・参考サイト】

神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会(2005)

「神奈川県の歴史散歩 下 鎌倉・湘南・足柄」 株式会社山川出版社

坂東札所霊場会(2019) 「坂東三十三所観音巡礼」 株式会社朱鷺書房

鎌倉市 もっと知りたい!市章「ササリンドウ」

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/sishou.html

鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム ミュージアムについて

https://tsurugaokamuseum.jp/shiru/index.html?top

鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム 鶴岡八幡宮の季節展ー文様と美ー

https://tsurugaokamuseum.jp/tanoshimu/index.html?top

鎌倉市 鎌倉国宝館について

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/about-mus.html

鎌倉市 特別展「扇影衣香ー鎌倉と宋元・高麗の仏教絵画の交響ー」

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/2025-seneiikou.html

(2025年11月29日最終閲覧)