
前回、石部駅から草津駅まで歩いた。今回は草津駅から大津駅まで歩こうと思う。大津を超えたら次は三条大橋、ついに「東海道五十三次」のゴールということになる。残り少なくなってきたが、楽しんで歩いていこう。
初回記事はこちら↓
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前回記事はこちら↓
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今日は草津駅から出発だ。

草津駅
東海道と中山道の合流点に「中山道 みのぢ」「東海道 いせみち」「東海道 京へ」と書かれたマンホールがあった。

今日まず見るのは、草津宿本陣だ。

草津宿本陣
草津宿の宿場町の長さは約1.3kmで、天保元年(1830年)の記録によると旅籠118軒とあり、本陣2軒・脇本陣4軒がおかれていた。
本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣であったが、九蔵本陣は明治時代以後に絶えて、建物も取り壊され、七左衛門本陣だけが、ほぼ完全な姿を今に残している。
この本陣は材木商も営んでいたため、「木屋本陣」ともよばれ、経済力もあり、本陣の経営も堅実であったという。
田中七左衛門本陣は寛永12年(1635年)から明治3年(1870年)に本陣制度が廃止されるまで、235年間本陣をつとめた。
宿帳に相当する「大福帳」には、吉良上野介(きらこうずけのすけ)・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)・皇女和宮・新撰組や、ドイツの博物学者シーボルトらが宿泊や休憩をした記録が残っている。
享保3年(1718年)に類焼の難に遭ったが、膳所藩(ぜぜはん)の特別の計らいで、膳所城内にあった瓦が浜御殿の建物を拝領して急場をしのいだ。現在の建物はこのときのものである。
入場料を払い、草津宿本陣に入ろう。まず入るとあるのは、玄関広間。

玄関広間
玄関広間は16畳の部屋で、奥壁には幅2間の槍床が、玄関広間の前には、大名などが駕籠を横付けした板張りの式台が設けられている。
玄関広間の隣にある部屋が座敷広間で、ここは従者の休泊に用いられた部屋で、畳廊下の両側に、それぞれ3部屋で構成される西広間と東広間がある。

座敷広間
座敷広間と上段の間の間にあるのが台子の間で、ここは主客に出す茶を点てた部屋であるとともに、上段の間の控えの間としても使われたと考えられている。

台子の間
そして、上段の間だ。

上段の間
上段の間とは本陣建物のなかで最も格式の高い部屋で、大名など主客の休泊に用いられた。
上段の間の隣には上段雪隠がある。ここは大名など主客専用の便所で、手前の小便所と奥の大便所からなり、いずれも畳敷きで、漆塗りの木製便器が据えられていた。

上段雪隠
上段の間から廊下に出ると中庭が見え、松が茂っていた。

中庭を過ぎると湯殿がある。ここは大名など主客専用の風呂場で、畳敷き4畳は脱衣所として使われ、奥の板張り8畳で、中庭の竈で沸かした湯を湯舟へ運び入れ、そのなかで湯浴みをしたようだ。

湯殿
上段の間から廊下を挟んで向かい側には向上段の間があり、ここは上段の間に次いで格式の高い部屋だったようだ。

向上段の間
来た道を戻ると御膳所があり、皇女・和宮が休泊したときに出された昼食が再現されていた。

和宮様御膳
左の膳の左上から水菓子、香の物(なすび奈良漬け・たくあん大根)、汁(合味噌・つまみな・浅草海苔)、ごはん。右の膳の左上から皿盛(三井寺豆腐・焼栗・かんぴょうのみりん煎)、椀(紅葉麩・白髭大根・山吹湯葉・洗生姜)、平(人参・相良麩・椎茸・長いも・銀杏)、膾(煎酒酢・蓮根重切)となっている。この日は精進日(近親の命日など特に仏道に励むべきであるとされる日)だったようで、肉や魚は出ていない。
この戸は「さる戸」といい、表入口にある「大戸」とともに上に吊り上げることができ、これで台所土間を馬に乗ったまま進むことができ、奥の厩へ馬を運ぶことができる。

さる戸
この空間は田中家住居部で、本陣職を勤めた田中家の住居部で、通り土間に面して、街道側から店の間、玄関広間、帳場の間、台所の間が並んでいる。

田中家住居部
田中家住居部は台所土間に面している。

台所土間
通り土間の奥に広がる台所土間には、五連式の竈、食器などを納める物入れ、柴入れのほか、北側には流し・水甕・井戸が設けられている。
外に出ると湯沸屋形があり、この竈は、湯殿で使うお湯や馬を洗うお湯を沸かすのに使っていた。

湯沸屋形
湯沸屋形の奥には楽座館があり、ここが草津宿本陣の資料館となっている。残念ながら、撮影禁止。

楽座館
楽座館を出ると厩がある。厩は大名など休泊者が連れてきた馬をつないでおく場所である。

厩
厩のほかに外には長家もあり、ここは塩や醤油を保管するのに使用していたと考えられている。

長屋
2.常善寺
草津宿本陣をあとにし、東海道を歩いていると吉川芳樹園店舗兼主屋を見つけた。

吉川芳樹園店舗兼主屋
この建物は鬼瓦には文政13年(1830年)の銘が見られ、国の登録有形文化財に指定されている。
ここは田中九蔵本陣跡だが、明治10年(1877年)には知新學校が新築されたため今は何も残っていない。

田中九蔵本陣跡
このマンホールは浮世絵師・歌川広重の作品「東海道五拾三次之内草津」をモチーフにしている。

草津宿本陣から歩いて10分ほどで草津宿街道交流館に到着する。

草津宿街道交流館
ここでは、草津宿をはじめ江戸時代の東海道、中山道などに関する資料や情報をみることができる。また、幕末の草津宿を再現したジオラマなどもあり、草津宿のようすがわかりやすく紹介されている。残念ながら撮影禁止のため資料写真はなし。
草津宿街道交流館のなかで浮世絵体験コーナーがあり、刷ってみたものの、なかなかうまく刷るのは難しい。

草津市のマンホールカードも草津宿街道交流館で配布しており、デザインは「東海道五拾三次之内草津」となっている。

草津市マンホールカード
だいぶ遅くなったと思うが、滋賀県の東海道について取り上げた書籍「近江東海道を歩く」も売っていたので購入した。

近江東海道を歩く
草津宿の御宿場印も草津宿街道交流館で取り扱っていた。

草津宿 御宿場印
屋外展示されていたものは石造道標で、「右 東海道」「天明七年五月吉日」と刻まれている。天明7年は1787年なので、現存する道標のなかでは比較的古いものと推測されている。

石造道標
草津宿街道交流館から5分ほどいったところに常善寺がある。

常善寺
常善寺は天平7年(735年)良弁により創建されたと伝えられる草津市内最古の寺院だ。
承久3年(1221年)の承久の乱のとき兵火に遭って焼失し、建長年間(1249~56)に再建された。
室町時代には、初代将軍・足利尊氏、4代将軍・足利義持、9代将軍・足利義尚らにより手厚く保護され、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、上洛の途上に宿陣した。
現在の本堂はコンクリート造りであるが、堂内には鎌倉時代の作といわれる本尊・木造阿弥陀如来坐像両脇士像が須弥壇上にまつられている。
常善寺の近くに松利老舗という和菓子屋があり、そこで「草津たび丸どら焼き」を売っているので買って食べた。これは小豆あん・白あん栗入・抹茶あんの3色あんが包まれていて、豪華である。どら焼きの上には草津たび丸の焼き印も押されている。

松利老舗

草津たび丸どら焼き

松利老舗から5分ほどのところに立木神社がある。

立木神社
立木神社の御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)。
神社の由緒書に「古来初めて旅立つことを鹿島起(かしまだち)と称するがそれは立木神社の祭神が、初めて常陸国鹿島神宮(現・茨城県鹿嶋市)から当地へ旅立ち遊ばされたのが語源であると、古書にも誌されている」とある。
また境内の石碑に「この時、命手に持つ柿の木の杖を社殿近くの地にさすと、不思議に生えついた。この木を崇めて社名を立木神社と称した」とある。
御朱印をいただけそうだったので、御朱印をいただいた。

立木神社 御朱印
前回記事で「草津川は平成16年(2004年)に川としての役目を終え、新たな草津川はかつての草津宿と矢倉村の境に平地河川化されて付け替えられた」と記載したが、その付け替えられた草津川がこちらである。

草津川
草津川を渡り、10分ほど歩くと「矢橋の渡し」の船乗り場へと至る分岐点がある。

「矢橋の渡し」の船乗り場への分岐点
突然だが、「急がば回れ」という言葉を知っているだろうか。
「知ってるよ!」と言われそうである。これは危険な近道よりも、安全な本道をまわったほうが、結局早く目的地に着くたとえから、成果を急ぐなら一見遠回りに見えても着実な方法をとったほうがよいことを戒めた言葉である。
では、この言葉の語源が、実はここ「矢橋の渡し」にあることを知っている人はどれくらいいるだろうか。
永禄11年(1514年)の成立とされる、「雲玉和歌捗」という本には以下のように書かれている。江戸時代の「醒睡笑」でも同様の歌が紹介されている。
「もののふの やはせのふねは はやくとも いしかはまわれ せたのながはし」
これは東海道の大津と草津間の早道として用いられていた湖上の渡し、矢橋の渡し船を利用するより、瀬田橋への回り道のほうが着実であることを例えたものだが、これが現在まで慣用句として使われているのは驚きである。
「急がば回れ」では瀬田橋まわりを勧めているが、江戸時代、俗謡に「瀬田へ回れば三里の回り、ござれ矢橋の舟にのろ」「瀬田へ回りか矢橋へ出よか、ここが思案の姥ヶ餅」などと詠まれ、東海道を往く多くの旅人は、この渡し船を利用した。
瀬田を回ると3時間あまり、一方矢橋の渡しを利用すると2時間程度、多少の船賃は必要だが、船に乗れて少しは楽ができるし、「近江八景」のひとつに数えられた「矢橋の帰帆」の風光明媚な景色を見ることもできた。
果たして矢橋の渡し船、瀬田橋への回り道、どっちが早く大津にたどり着けたのだろうか?私だったら、天気を見て判断しようと思う。
4.野路の玉川跡
「矢橋の渡し」分岐点から10分ほど歩くと野路一里塚跡がある。ここは日本橋から119里目(約476km)の一里塚だが、何も残っていない。

野路一里塚跡
現在時刻12時前、おなかがすいてきたので近くのすき家でチーズ牛丼を食べた。

「話電」のマンホール…さては古いな?

「ようこそ南草津「遺跡と萩の育むまち野路」の玉川へ」の案内板があった。

野路の玉川跡を見つけた。

野路の玉川跡
野路の玉川は、平安時代の古歌にも詠まれ、六玉川のひとつに数えられたところで、萩が名所であったことから、萩の玉川とも呼ばれた。
源俊頼のこのような歌が残っている。
「あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけん」
野路の玉川から5分ほど歩くと弁天池があり、弁天池の中央には弁財天が祀られている。

弁天池

弁財天が祀られている島
この日は4月6日、桜がとても綺麗だった。

ふと足元を見ると、やたら賑やかなマンホールがあった。大津市に入ったようだ。

大津市マンホール
市制施行から100年目の大津市の景観をモチーフにした、琵琶湖、琵琶湖大橋、ミシガン船、ヨット、観覧車、ユリカモメ(市の鳥)、エイザンスミレ(市の花)、ヤマザクラ(市の木)、花火大会、レガッタ、びわ湖花噴水、犬などが描かれている。
犬は100周年記念イベントキャラクターの「ももちゃん」で、カラー版だと片手が赤くなっており「ワン ハンド レッド」という洒落があるそうだが、モノクロ版だとそれが再現されていない。
大津市章のついた消火栓を見つけた。

大津市章は大津の「大ツ」を図案化したもので、昭和33年(1958年)に制定された。
弁天池から25分ほど歩くと「東海道立場跡」がある。江戸時代には立場という休憩スポットがあったようだが、現在は何も残っていない。

東海道立場跡
長沢川にかかる桜が綺麗だった。

5.建部大社
東海道立場跡から10分ほど歩くと月輪池の一里塚趾がある。ここは日本橋から120里目(約480km)の一里塚だが、塚などは残っていない。

一里塚趾
「三條大橋迄で五里(約20km)余り」と書かれている案内板を見つけて、あと少し、頑張れそうな気がした。

「西行屋敷跡」の案内板で東海道は左折する。西行法師は平安末期の代表的歌人だが、一時ここに住んでいたという伝承があってこの案内板が建てられている。

西行屋敷跡
大場の桜があったが、ほぼ葉桜になっていた。

大場の桜
「大江の史跡 文化財マップ」があったので写真を撮っておく。

大江の史跡 文化財マップ
大場の桜から20分ほど歩いたところに建部大社がある。建部大社は東海道から少し離れたところにあるが神仏霊場会の札所の寺社だったので、神仏霊場会の御朱印を集めている人としてはこれは行っておかなくては!と思ったので寄ることにした。

建部大社
建部大社は古代、神社の最高位にあたる近江国一宮として位置づけられた歴史と風格が感じられる神社である。
もとは神崎郡建部郷にあったものを、天武天皇4年(675年)に現在地に遷したものとされる。
武運の神とされ、武家の信仰が篤く、永暦元年(1160年)、前年の平治の乱で平家に敗れた14歳の源頼朝が、配流地の伊豆に向かう途中、当社に参籠して源氏の再興を祈願したという。
源氏再興をはたした頼朝は、建久元年(1190年)の上洛の際に、建部大社に詣でてその武運に感謝し、神領を寄進したとされる。
その後、幾度となく戦火に見舞われたが、その都度再建して、江戸時代には膳所藩歴代藩主の崇敬を受けた。
もとは建部神社と称したが、昭和52年(1977年)、建部大社と改称した。
本殿に参拝して境内を歩いていると菊花石を見つけた。

菊花石
「菊の紋様が神秘な力の働きで自然石から放射状にのびてできた」とあるが、何か科学的に説明できそうな気もする。以前も菊のような石を見た気がするが、こっちのほうが綺麗だと思う。ちなみにそれは「東海道を歩く 21.金谷駅~ことのまま八幡宮バス停 4.菊川」に出てくる菊川由来の石だ。
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あと「君が代」で有名なさざれ石もあった。さざれ石とは小さな石が長い年月をかけて溶けて固まり、大きな石になったものである。

さざれ石
神仏霊場会の御朱印帳は忘れてしまったので、書置きをいただいた。せっかくなので、期間限定デザインにした。かわいい。

建部大社 御朱印
建部大社から10分ほどで瀬田の唐橋に到着する。

瀬田の唐橋

瀬田の唐橋から瀬田川を見る
琵琶湖から流れ出る唯一の河川である瀬田川に架かる橋で、古くは瀬田橋・勢多橋・瀬田の長橋などとも称された。
古代から交通の要衝として戦略上重要な位置を占め、瀬田川の渡河攻防戦は戦の勝敗を決するところとして、「唐橋を制するものは、天下を制す」といわれた。
おもなものでも、天武天皇元年(672年)の大海人皇子と大友皇子による壬申の乱、寿永2年(1183年)の源義仲による寿永の乱、承久3年(1221年)の北条時房による承久の乱などにおいて、幾度となく唐橋をめぐる攻防戦が繰り広げられた。
丸木舟を横に並べて、フジの蔓をからめていたことから「搦橋(からみばし)」ともいわれ、「からみ橋」から「から橋」の語源になったとも、またヤナギのように流麗であったので、別名を「青柳橋」ともいわれていた。
その後も、幾度となく架け替えがなされるなか、唐様を模したことから、唐橋・韓橋・辛橋などと称されたと考えられる。
天正3年(1575年)に織田信長が現在地に橋を移し、その後も豊臣秀吉による改修が行われたが、木造のため約20年ごとに架け替えられたという。
現在の橋は昭和54年(1979年)に架けられ、間に中ノ島を挟んで大小2橋に分かれ、大橋は全長約172m、小橋は約52m、幅は約12mで、橋脚は鉄筋コンクリート製だが欄干には擬宝珠が施され、歴史上重要で古風な橋の風情がある。
瀬田の唐橋には、以下のような伝説がある。
藤原秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる大蛇の背をやすやすと踏み越えた。
大蛇はおじいさんに姿をかえ、秀郷のもとを訪れた。
おじいさんは秀郷にこう依頼した。
「二上山に7回り半も巻き付いた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食べつくしてしまい、困っているのだ。しかし大ムカデはあまりに凶暴で、誰も退治できていない。そこで私が大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていたのだ。どうか大ムカデを退治してくれないか。」
秀郷は大ムカデの退治を引き受けて、秀郷は大ムカデに対して矢を放った。すると大ムカデの眉間に矢が刺さり、大ムカデは消滅した。
おじいさんは秀郷の武勇をたたえ、自分の家に招待した。なんとおじいさんが住んでいたのは瀬田橋の下にある竜宮だった。
おじいさんは琵琶湖に暮らす人々を守るために2,000年前から瀬田橋に住んでいた神様で、漁民の暮らしや豊かな実りある近江国をずっと見守ってきたと言った。
秀郷はおじいさんから一生食べきれないほどの米俵をお土産に渡されて、竜宮を後にした。このことから秀郷は「俵藤太」と呼ばれるようになったという。
瀬田の唐橋の下には、今も竜宮があっておじいさんが住んでいるのだろうか。
7.粟津の晴嵐
京阪石山坂本線・唐橋前駅の踏切を越えると鳥居川交差点に着くので、右折する。

唐橋前駅
そのまま進み、松原町西交差点で左折するとすぐに石山駅が見えてくるので、駅構内を通り過ぎて南口から北口に出る。

石山駅
次の交差点を左折して北に進むと、工場街が見えてくる。ここは以前、500本を超す松並木が続き、「粟津の晴嵐」とよばれる近江八景のひとつに数えられた名勝地だった。

工場街。桜が綺麗。
晴嵐という名称は、晴れた日にマツの木の葉がこすれておこる音が、嵐のように聞こえることからつけられた。
江戸時代の浮世絵師・歌川広重も近江八景を画題に、粟津の晴嵐を描いている。
明治時代末期から大正時代に工業地帯ができて以来、松並木の周囲の状況も激変し、今残っているマツはわずか数本になってしまったのが残念である。
石山駅から歩いて15分ほどのところに「膳所城(ぜぜじょう)勢多口総門跡」がある。

膳所城勢多口総門跡
ここで膳所城について説明する。
膳所城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、慶長6年(1601年)、膳所崎に築かせた水城である。
大津城で戦後処理にあたっていた戸田一西が、3万石で入城したのに始まる。
その後、城主は本多・菅沼・石川氏と頻繁に交替したが、慶安4年(1651年)に本多俊次が城主となって以降、本多氏が代々世襲した。
なお石高は一時7万石となったが、延宝7年(1679年)に就任した10代藩主・本多康義のとき6万石となり、以後、明治4年(1871年)の廃藩まで続いた。
膳所城は築城当初、本丸と二の丸が琵琶湖に突き出ていたが、寛文2年(1662年)の大地震で破損し、大幅な改修工事が行われた。
本丸の一角に4層の天守閣が築かれ、湖面に映る風景は、多くの絵師によって近江八景「粟津の晴嵐」に描かれ、また「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠、水に映るは膳所の城」と詠われた。
しかしこの名城も明治3年(1870年)、20代藩主・本多康重の願い出により、諸藩に先駆けて取り壊されることになり、城の建物は大津市内外の各地に移された。
若宮八幡宮の鳥居の奥に膳所城本丸・犬走門がある。

若宮八幡宮 膳所城本丸・犬走門
膳所城本丸・犬走門の建築年代について、膳所城築城当初の慶長期に建てられた城門を寛文2年(1665年)の大地震のあと、冠木や柱の古材を用いて現在の姿に再建されたと考えられている。
京阪石山坂本線・瓦ヶ浜駅脇の踏切を通り過ぎる。

京阪石山坂本線・瓦ヶ浜駅
瓦ヶ浜駅から7分ほどで篠津神社に到着する。

篠津神社
篠津神社の創建年代は不明だが、中庄村の氏神として信仰されてきた。
古くは天王社・牛頭天王社と称したが、室町時代中頃にはこの地に鎮座していたことが、篠津神社に伝わる棟札からわかる。
江戸時代には膳所藩主・本多家の尊崇を受け、現在の社殿は万治4年(1661年)に造営された。
表門は棟札により膳所城北大手門から、明治5年(1872年)に移築されたことが判明した。
建築年代を示す資料はないが、慶長年間(1596~1615年)頃と推定されている。形式は、袖棟をもつ高麗門である。

膳所城北大手門
篠津神社から15分ほどで膳所神社に到着する。

膳所神社
膳所神社の御祭神は食物を司る豊受比売命(とようけひめのみこと)である。
かつてはもう少し湖側にあったといわれ、旧地とされる約300m南東の大津市生涯学習センター敷地内に、小祠が建てられている。
社名となっている「膳所(ぜぜ)」の地名は、この地一帯が平安時代、天皇の食事に供する魚介類を献上する場所であったことによるとされる。
江戸時代には膳所藩主・本多家も信仰し、たびたび寄進をした。
表門は明治3年(1870年)に膳所城が廃城となった後、城門を移築したものである。
伝承では二の丸と本丸の間の門で、解体修理の結果「明暦元年(1655年)」の銘札が発見された。
門は薬医門の形式で、両開きの大扉の左に脇柱を建て、片開きの潜り戸を設ける頑丈な造りである。

膳所城・城門
現時点で16時過ぎ、少し迷ったが桜の時期ということで「桜の名所」として有名な膳所城公園に行ってみることにした。

膳所城公園
家族連れがのんびりと花見を楽しんでいて、私も桜を楽しむことができた。

膳所城公園には三等三角点の「膳所」が設置されている。この三角点は明治36年(1903年)に設置された古い三角点である。

三等三角点「膳所」
滋賀県に入ってからしばらく経つが、そういえば琵琶湖を見たのは初めてな気がする。

琵琶湖
なお、膳所城公園前の道路には一等水準点212-1号もある。

一等水準点212-1号
膳所城公園から10分ほど歩くと和田神社に到着する。

和田神社 鳥居

和田神社
和田神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。
鳥居の奥にある表門は、文化5年(1808年)に創設された膳所藩校・遵義堂の門を移築したものである。
社伝によると、持統天皇の頃には、元天皇社、八大竜王社と称していたという。
明治時代に入り、同社の鎮座する琵琶湖岸の地が和田浜とよばれていたことから、現在の「和田神社」に改称された。
境内には、樹齢600年以上、高さ約24mの銀杏の大木がある。

大銀杏
関ヶ原の戦いに敗れ、捕らえられた石田三成が京都へ護送される途中につながれたのがこの大銀杏といわれていて、湖上を行く船の格好の目印になっていたようだ。
和田神社から10分ほど歩くと石坐(いわい)神社に到着する。

石坐神社
石坐神社は「延喜式」神名帳に「石坐神社」とみえるが、創建年代は不明である。
社伝によれば天智天皇のときに、神社の南西にある御霊殿山(ごりょうどやま)に海津見神(わだつみのかみ)があらわれて旱魃(かんばつ)を救ったため、天皇が山上にまつったことに始まるという。
壬申の乱(天武天皇元年・672年)後、粟津郷の石坐野に社殿を建てて御霊殿山から祭神を遷し、八大竜王宮と称した。このとき、近江朝ゆかりの3神を密かに合祀したとされる。
江戸時代には八大竜王社とよばれ、雨乞いの神として信仰された。
明治時代になって、現在の「石坐神社」と改称された。
御祭神は多く、天命開別命(あめのみことひらかずわけのみこと・天智天皇)、弘文天皇(大友皇子)、伊賀采女宅子媛命(いがうねめやかこひめのみこと)、彦坐王命(ひこいますおうのみこと)、豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、海津見神である。
膳所城北総門跡があり、膳所城域はここで終わりとなる。

膳所城北総門跡
9.義仲寺
もう門が閉まっていたが、義仲寺の前を通った。

義仲寺
源義仲(木曽義仲)は治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨を受けて挙兵し、北陸から京に入り、平家を西国に追った。
しかし、後白河法皇と対立し、法皇の意を受けた源頼朝の弟源範頼・源義経軍と激しく戦い、寿永3年(1184年)粟津で戦死した。
義仲寺境内には源義仲の墓があり、そのかたわらには源義仲の愛妾・巴御前の小さな供養塚が立っている。
義仲寺は、室町時代末期頃に近江守護・佐々木六角氏が源義仲の菩提を弔う寺を建立したことに始まると伝えられている。
江戸時代中頃までは、源義仲の墓と伝えられる塚に根をおろすカキの木があるだけの小寺だったといわれ、木曽塚・無名庵ともよばれていた。
松尾芭蕉が最初に義仲寺を訪れたのは、「おくのほそ道」の旅から帰った元禄2年(1689年)で、この年の暮れは義仲寺で越年した。
その後、源義仲を敬愛していた松尾芭蕉は膳所の地に心惹かれ、たびたび滞在している。
「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」の有名な句は、伊勢の俳人・山田又玄が、元禄4年(1691年)に無名庵に滞在中の松尾芭蕉を訪ね泊まったときの作である。
松尾芭蕉は元禄7年(1694年)10月12日、大坂で死去した。松尾芭蕉の遺言により、向井去来ら門人により遺骸は木曽塚に運ばれ、14日に葬儀が行われ、深夜ここに埋葬された。
源義仲の墓の右隣に、松尾芭蕉の墓があり、墓石の「芭蕉翁」の文字は内藤丈草が書いたといわれる。
芭蕉先生だからできたのだろうが、敬愛する偉人の隣に自分の墓を作るとは、すごいと思ってしまう。
滋賀県庁は昭和14年(1939年)に建てられ、国の登録有形文化財に指定されている。

滋賀県庁
東海道と中央大通りがぶつかる交差点で左折し、大津駅で今日は終わりにする。

大津駅
次回は大津駅から、ついに三条大橋に到達する予定である。

今回の地図①

今回の地図②

今回の地図③

今回の地図④

今回の地図⑤

今回の地図⑥
歩いた日:2025年4月6日
次回記事はこちら↓
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【参考文献・参考サイト】
八杉淳(2010) 「近江東海道を歩く」 サンライズ出版
滋賀県歴史散歩編集委員会(2015) 「滋賀県の歴史散歩」 山川出版社
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第14集」
風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 第15集」
日本マンホール蓋学会 大津市のマンホール
https://we-love-manho.com/siga/ootu/ootu.html
大津市 市章・市民憲章・市民の歌
https://www.city.otsu.lg.jp/soshiki/005/1202/g/otsucity/1390611704637.html
(2025年11月30日 最終閲覧)