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中世スコットランドの歴史

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中世スコットランドの歴史について、中世スコットランド史の研究者が学術的な研究に基づきながら、しっかりした内容をお届けするマガジンです。
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記事一覧

一次史料から紐解くウィリアム・ウォレスの正統性とリーダーシップ

西暦1297年11月、略奪に喘ぐイングランド北部にて西暦1297年11月。イングランド北部、タイン川の流域は阿鼻叫喚の地獄と化していました。数ヶ月前の「スターリング・ブリッジの戦い」でイングランド軍を壊滅させたスコットランドの軍勢が、国境を越えてなだれ込んできたのです。 中世イングランドの年代記作家、ウォルター・オブ・ギスバラはこの時の光景を、歴史の血の匂いとともに記録に留めています。 ギスバラの記述は止まりません。ニューカッスルからカーライルに至るまで、ノーサンブリア

霧中の王国の力の源泉 ― 中世中期スコットランドの軍隊と軍事組織

はじめに中世ヨーロッパの戦場を想像する時、我々の脳裏に浮かぶのは、多くの場合、輝く甲冑をまとい、馬上槍を構えた騎士の姿であろう。王への忠誠を誓い、華々しく突撃する重装騎兵。このイメージは、フランスやイングランドといった大陸の王国群の物語から形成された部分が大きい。しかし、北方の霧深き国、スコットランドの現実は、その単一的なイメージでは捉えきれない、より複雑でダイナミックな様相を呈していた。 本稿では、中世中期、すなわち12世紀から13世紀にかけてのスコットランド王国に焦点を

「スコットランドの騎士道の花」 アレグザンダー・ラムジーの栄光と悲劇

騎士道の花一三三二年の再発した内戦の渦中、十四世紀のスコットランドはイングランドとの絶え間ない戦争の炎と、国内の有力貴族間の熾烈な派閥争いによって深く引き裂かれていました。この混沌の時代にあって、一人の騎士がその武勇と高潔さによってスコットランドの騎士道精神そのものを体現する存在として際立っていました。その名は、アレグザンダー・ラムジー。彼の生涯は戦場での輝かしい武勲に彩られる一方で、その栄光ゆえに同胞の嫉妬を買い、悲劇的な最期を迎えることになります。 本稿は『ゲスタ・ア

「大訴訟」の始まり:一二九一年のノラム会議――スコットランド王国の運命を分けた選択――

王なき王国スコットランドを襲った悲劇 一二九一年、イングランドとスコットランドの境域に位置するノラム城で開かれた一つの会議が、スコットランド王国の運命を根底から揺るがすことになります。本稿では、このノラム会議に至るまでのスコットランドが直面した深刻な危機と、それがいかにして隣国イングランドの介入を招き、後の長年にわたる戦争へと繋がる歴史的転換点を生み出したのかを考察します。これは、王を失った王国が独立そのものを賭けて選択を迫られた物語の序曲です。 物語の始まりは一二八六

ロバート・ブルース誕生秘話:女伯による「逆誘拐」伝説は本当か?

スコットランドの英雄として人気の高い王、ロバート・ブルース (王としてはロバート1世)。その誕生にまつわる驚くべき逸話をご存じでしょうか。父親のロバート・ブルース6世が、キャリック女伯マージョリーによって「誘拐」されて結婚したという伝説です。 この奇妙なロマンス譚は、どこまで真実なのでしょうか。中世スコットランドの史料と研究をもとに検証してみたいと思います。 『ゲスタ・アナリア』が語る「逆誘拐」物語14世紀前半に書かれたとされる『ゲスタ・アナリア (Gesta Anna

歴史の分水嶺となった悲劇の少女:ノルウェーの乙女マルグレーテ

北海に浮かぶ島でわずか7歳にしてその生涯を閉じた「ノルウェーの乙女」マルグレーテ。彼女の死は、スコットランド、イングランド、ノルウェーという北欧・ブリテン諸島の三つの王国の運命を決定的に変えることになりました。以下に、彼女の短くも数奇な生涯を紹介できればと思います。 運命の子1283年の春、ノルウェーの古都ベルゲンでひとつの命が誕生しました。父はノルウェー王エイリーク2世、母はスコットランド王アレグザンダー3世の娘マーガレットです。しかし、この誕生は悲劇と背中合わせでした

ブリテン島北部の政治情勢を急変させた839年の謎めいた戦い

839年、フォルトリウの民と異教徒たち、すなわちピクト人とヴァイキングの間で戦闘が発生し、フォルトリウの民から多くの戦死者が出ました。この戦いは発生場所が特定できないため、発生年をとって単に「839年の戦い」と呼ばれており、謎に満ちています。しかしながら、この戦いは中世初期のブリテン島北部の政治情勢に計り知れない影響をもたらしました。アイルランドの『アルスター年代記』は839年の項において、その戦いの様子を以下のように伝えています。 この文章はラテン語とゲール語が混ざり合っ

11世紀初頭のスコットランド北部:マリ地方の支配者クラン・ルアズリ (2)

本稿は以下記事の続きにあたります。 ふたつの王国か、ひとつの王国内の権力闘争か「マリ問題」にはもうひとつ重要な論点があります。11世紀初頭にスコットランド北部マリ地方に現れたクラン・ルアズリは、アルバ王国とは別の独立王国だったのでしょうか。それともアルバ王国内部で王位を争う対抗勢力だったのでしょうか。あるいは単なる地方の反乱者に過ぎなかったのでしょうか。彼らの存在をどう解釈するかによって、この時代のスコットランドの歴史像は大きく変わります。この問いに対しては歴史家の間でも意

11世紀初頭のスコットランド北部:マリ地方の支配者クラン・ルアズリ (1)

シェイクスピアの悲劇『マクベス』で知られるスコットランド王マクベス。彼がかつてスコットランド北部・マリ地方を本拠とする有力一族の出身であったことは、意外と知られていないかもしれません。この一族は「クラン・ルアズリ(ルアズリの一族)」と呼ばれ、11世紀のスコットランド史における重要な謎のひとつとなっています。 彼らは正当な王権を主張する勢力だったのでしょうか、それとも単なる地方の有力氏族に過ぎなかったのでしょうか。そもそも、なぜ11世紀初頭に突如として歴史の表舞台に現れたの

スコットランドの王、ドゥヴの子キネーズ (キネーズ3世) の治世と時代 (997-1005年)

ドゥヴの子キネーズは10世紀末から11世紀初頭にかけてスコットランドに存在したアルバ王です。彼はキネーズ3世とも呼ばれ、997年から1005年まで在位しました。 その名が示す通りキネーズ3世はアルバ王ドゥヴの息子であり、アルピーン王朝においてはコンスタンティーン1世の系統に属する王でした。彼は997年に前王コンスタンティーン3世が殺害された後に王位を継承しました。 史料キネーズ3世に関する情報について、アイルランド系の年代記では『アルスター年代記』がその死亡記事を残して

スコットランドの王、クレーンの子コンスタンティーン (コンスタンティーン3世) の治世と時代 (995-997年)

クレーンの子コンスタンティーンは10世紀末のスコットランドに存在したアルバ王です。彼はコンスタンティーン3世とも呼ばれ、995年から997年まで在位しました。 その名が示す通り彼は971年に亡くなったアルバ王クレーンの息子であり、995年に前王キネーズ2世が殺された後に王位を継承しました。しかし、その治世は非常に短く、997年に殺害されました。彼の死は10世紀後半におけるアルバ王国の王位継承の不安定さと、王朝内の激しい権力闘争を象徴しています。 史料現代の私たちから見る

スコットランドの王、マエル・コルムの子キネーズ (キネーズ2世) の治世と時代 (971?-995年)

971年、スコットランド中部を支配していたアルバ王国の王クレーンは、隣国ストラスクライド王国のブリトン人によって、兄弟のエオハズとともに殺害されました。この死によって、彼の5年間にわたる短い治世は終焉を迎えました。 キネーズ王に関する同時代の記録 クレーン王の治世とほぼ同時代に原本が成立した『アルバ王の年代記』は、同王の死後、マエル・コルムの子キネーズ(歴史上キネーズ2世と呼ばれる人物)が王位を継承したと伝えています。この年代記はキネーズ2世について以下のように記してい

973年のチェスターの会合とディー川の船行の逸話 | 10世紀末ブリテン諸島の「国際関係」

前史今から1,000年以上前、現在のイギリスの中部・南部にあたる地域は、いくつかの強力なアングル人やサクソン人の王国によって支配されていました。一般に「アングロ・サクソン時代」と呼ばれる時代です。 しかしながら、9世紀の末にイングランド南部のウェセックスの王であったアルフレッド大王 (在位:871-899年) が北のマーシア王国の支配者エゼルレッドを服従させ、880年代にはアングル人とサクソン人の連合を象徴する新たな政体を確立していきます。その後、この政体はさらに北へと勢力

スコットランドの王、イルドゥルヴの子アムリーヴの時代 (977年頃)

971年のクレーン王死後のアルバ王権マエル・コルムの子キネーズ (キネーズ2世) 971年、スコットランド中部を支配していたアルバ王国の王クレーンは、隣国ストラスクライド王国のブリトン人によって、兄弟のエオハズとともに殺害されることになります。この死によって、彼の5年間にわたる短い治世は終焉を迎えました。 原本となるテクストがクレーン王の治世とほぼ同時代に書かれた『アルバ王の年代記』は、同王の死後、マエル・コルムの子キネーズ(歴史上キネーズ2世と呼ばれる人物)が王位を継