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いったんの答え ――『日本人とは何か』(加藤周一)読書感想文

 西洋人の書いた思想書なり哲学書なりを読むたびに、かすかではすまない違和感を抱いてきた。特にイギリス、フランス、ドイツの人々の書いたものは、あきらかに想定読者として日本人を考えていないものだ。それを自分が読むというのはどういうことか、疑問に思わざるをえない。
 「西洋人の書いた文物に感銘を受けたり、夢中になるこのわたしはいったいなんなのだろう?」
 そういう気持ちから、日本文化論とか日本人論を読んできたのだけれど、前に読んだ『読書術』(加藤周一著、岩波同時代ライブラリー)がよかったのもあり、同じ著者の『日本人とは何か』(講談社学術文庫)を読んでみた。刺激的な、非常におもしろい本だ。
 本のなかにさまざまな論点があり、概括的にこの本について書くことはむずかしいけれど、ひとまず目を引いた一節を引用してみよう。

 芸術は進歩ではなくて、変化、変化を可能にする持続である。「断絶」という考え方は、思想・文学・芸術の創造的営みにとっては、全く致命的であり、生みだすに値するものを生みだすためには、どうしても文化の持続の観念が必要である。
 すべての文化は伝統的であり、伝統的でない文化は存在しなかった。なぜならば文化とは一国民の中で次第に熟する意識に他ならないからである。文学・芸術もまたそれ以外のところからは生れないだろう。

『日本人とは何か』(加藤周一、講談社学術文庫、p.96)

 「文化」という言葉は定義のむずかしいぼやーっとした言葉だけれども、「一国民の中で次第に熟する意識」と考えてみると、にわかに形を帯びてくる。
 加藤が引用部分で言っていることは、ひとつには、文化とは個人で作るものではないということだ。ある国の文化が単独の個人によって作られるなどということはない。もうひとつは時間性(持続)だ。たとえば文学であれば、ある小説がひとからひとに、世代から世代に読み継がれ、そのつどあらたな批評なり読み方なりがつけられていく、そういう流れで、文学がなりたっていく。そういうことを言っているわけだ。料理やファッションの変遷にも同じようなことが言えそうだ。
 卑近な例になるけれども、ブックメーターやブクログで、読んだ本の感想を書き込んで他の人と共有してみるのも立派に日本文化に参加することだし、なんだってよい、わたしたちの作ったものを「熟させる」行為をすることは、文化に参加することと考えてよいのだ。noteに読書感想文を投稿するのも、もちろん……。
 以上は自国のものを「熟させる」行為のはなしだけれども、西洋由来の文物を消化するわたしたちとは何者なのか。わたしはそのことに対するヒントもほしかった。わたしはキリスト教徒でもないし西洋の血が入っているわけでもない。そんなわたしが西洋の文物を読む意味などあるのだろうか。自由に気楽に刺激を受ければいいじゃない、というのが以前の自分の考えだったけれども、今のわたしはそう簡単に言い切ることもできないでいる。そのわだかまりは、まだうまくことばにできないのだけれども、加藤からのヒントをここでもう一節引いておこう。

 日本の大衆の意識の構造を決定した歴史的な要因は、明らかに超越的一神教とはまったく違うものであった。今、その詳細に立ち入ることはできないが、結論だけを簡単にいえば、仏教以前の神道的世界には、まったく超越的構造がなかったといえるだろう(神道はある点ではシャーマニズム、ある点ではアニミズム、ある点では一種の多神教のように見える)。問題はその後の機会に、大衆の意識の構造が根本的に変ったかどうかということである。変化を惹き起す可能性のあった第一の要素は、いうまでもなく仏教である。しかし、仏教自身が、少くともキリスト教やイスラム教におけるほど明白な超越的宗教ではなく、またたとえそうであったとしても、それがそのままの形で受け入れられたのは、少数の知識階級によってであり、大衆によってではなかった。仏教と日本の大衆との接触によって変化したのは、おそらく、大衆の意識であるよりも、むしろ仏教それ自身であった。

『日本人とは何か』(加藤周一、講談社学術文庫、pp.99-100)

 以下を要約すると、儒教も大衆の意識を変化させなかったし、キリスト教も影響を与えなかった、ゆえに日本の意識の基本的な構造は今にいたるまでかわっていない、というのが加藤の述べるところだ。その代わりに、「西洋での神の役割を、日本の二千年の歴史の中で演じてきたのは、感覚的な自然である」(同頁)。だから、感覚的な文化、造形芸術の領域が発達した。
 ニーチェの本が好きな自分には、さらにその先の部分が大事だ。ここは引用する。

 しかし、美のために何ごとでも忍ぶことのできた国民は、同時に観念のためには、何事も忍ばない国民であった。殉教も、宗教戦争もおこりようがない。超越的な神が考えられなかったように、すべての価値も人生を超越しなかった。価値の意識は常に日常生活の直接経験から生みだされたのであり、本来感覚的な美的価値でさえも容易に生活を離れようとはしなかったのである。

『日本人とは何か』(加藤周一、講談社学術文庫、pp.100-101)

 もともとは日本人というのは超越的な神を戴くようなひとびとではなかった。戦前の一時期に関してはそうではなかったという事情は同書所収の「天皇制について」や「戦争と知識人」に詳しいが、今回はそこまで書くと終わらなくなるので省く。とはいえ、このふたつの評論に書かれている話を読むと、日本人は「超越的な神」だの「価値」だのを掲げて行動するのに向いていないというか、そういう行動原理がそもそもないのではないかと思わせられる。
 ともあれ、日常生活の経験から価値の意識をもつ国民、超越的な神を考えられない国民、そういう国の国民であるのだ、自分は。以上を、
 「西洋人の書いた文物に感銘を受けたり、夢中になるこのわたしはいったいなんなのだろう?」
 という冒頭の問いへの、いったんの答えにしておく。


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