ノブゴロド大公国

すっかりやられたよ。マノーリン、かたなしだ。

文学フリマ東京41で買った本

bunfree.net

 文フリ東京41で購入した本。お洒落に撮る環境もセンスもないので床で失礼する。

    

 購入した順で書く。

 

オルタナ旧市街『ポルトガル退屈日記』

 オルタナ旧市街先生のポルトガル旅行記。今年の夏にオルタナ先生が海外旅行から帰国した旨ツイートしていたのを見て、これは文フリで旅行記出版(だ)してくれるだろと密かに切望していたら出た。ありがたやありがたや……。

 宣伝ツイートの時点でクソおもしろそうだったので、早々に完売してしまうことを危惧し、昼過ぎに同人メンバーに店番を任せて一直線に買いに走る。案の定、ブースの前を通りかかる人通りかかる人がひっきりなしに足を止めて購入していた。イベント終了時刻より前に完売してしまったらしいので、早めに行っておいて正解だった。

 表紙には元ネタがあるらしいが私は知らなかった。本を開くと、写真入りのカッコいいしおりが入っている。この写真、見覚えがある、オルタナ先生のnoteで。いいセンス。

 旅行記羽田空港出発から始まる。ポルトガルへの直行便は無いらしく、フランクフルトでの乗り換えが必要で、空港の巨大さとポルトガルの航空会社の杜撰さに読者も緊張感と疲労感が高まる。なんか灰色がかっている感じ。「じい」が唯一の癒し。が、無事、夜にポルトガルに到着し、翌日の朝、快晴の下のテラス席での美味しい朝食で読者も一気に元気になる。素晴らしい。なんという開放感! 

 その後リスボンをいろいろ観光。かつてのポルトガルの威光を感じさせる、やりすぎの金色馬車などの写真も挿入されていて「なんじゃこりゃあ!」となる。

 毎度ながら料理や食事の描写が圧倒的で、どれも香りまで漂ってきそう。先生絶賛のタコのグリル、私気になります。

 読んでいると、まるでオルタナ先生本人と一緒に旅しているような気分になってくる。ネットで画像なんかを見たことすらない場所なのに、なぜか景色が目に浮かぶ。

 最後、地元のレストランでの食事、店主とのふれあい、ホテル客室の窓からの眺め。感動的である。地球の裏側にも毎日を生きている人々がいて、彼らひとりひとりの生活がある。その場にいたわけじゃないのに、自分もホテルの窓から通りを眺めちゃってる。

 オルタナ先生は、読者に郷愁というか哀愁というか、せつない感情を呼び起こすのが上手いと思う。明るく楽しい場面と、しっとりとした情感の転換が効いているし、移行も自然である。

 ああ、終わってしまった。まだ読んでいたいなあと思ったら続きがあるっぽい。嬉しい。何様だよという感じだが、お仕事の方も大変そうなので、無理せず書いて欲しい。

 

大森望監修『超SF創作マニュアル』(ゲンロン)

 ゲンロンで開講されているSF創作講座のサブテキストとして出版されたらしい。ブースの周囲には人だかりができていて飛ぶように売れていた。ブースの中にいた方が声をかけてくれて、私はちょうど100人目の購入者だったらしい。現在は一般販売も開始されている。

 SF作家になるための必読作品集、SF基礎用語集、SFとは何か、SFの歴史、小説の書き方、講座卒業生の作品掲載・刊行・同人誌・サークル情報などがコンパクトにまとまっている。

 私はSFはほとんど読んだことがない。ヴォネガットタイタンの妖女』、ヴェルヌ『月世界へ行く』、ブルガーコフ『運命の卵』『犬の心臓』くらいか。劉慈欣『三体』は第一巻を買ったが積んでしまっている。

 SFへの興味情熱を取り戻して、とりあえず三体を読みたい。

 

・みんなの日記サークル『まだまだみんなで交換日記をつけてみた』

 ひょんなことから、友人がこのサークルに参加していることを知り、私も最近ブログに日記を書いているので興味があり購入。下北沢にある日記専門書店、日記屋月日が主催する日記ワークショップで集まったメンバーで結成されているらしい。ファシリテーターは、かつて「日本一有名なニート」としてメディアにも多数出演されていたpha先生である。それにしても日記専門書店なんてものがあるのか、知らなかった。

 内容はサークルメンバーたちによって交わされた交換日記である。

 交換日記、なつかしい響きだ。小学生の時分、クラスの女子たちが文具店でめいめい買ったと思われる、「たれぱんだ」とか「こげぱん」のキャラクターの交換日記帳を持っていた。前半のページは取り外し可能なプロフィールページになっていて、書いてよ、と頼まれて書いた覚えがある。だが、所詮は小学生だから、書く内容も無いし書く意欲も無いし、自然消滅は避けられなかった。

 失礼ながら最初は「交換日記ぃ? ああ~ん? 日記ねぇ?」などと思っていたのだが、読み始めると本当におもしろかった。家庭、家族、仕事、生活、出かけた場所、食べたもの、観た映画、読んだ本、感じたこと、思ったこと、考えていること……まったく文学じゃねえかよ。大人になってからつける交換日記はこんなにおもしろいのか。前の人から次の人へとバトンが渡されていくのも良い。

 最後に「みんなで日記トーク」というコーナーが設けられているのだが、ここ本当におもしろくて興味深かった。ここに日記文学の本質が詰まっているように思われた。

 皆さん文章が上手いしおもしろいし、そもそも藝術や文学は上手いとか下手とかそんなことは全然本質じゃないし関係ない。全身から情熱と血液が噴き出しているかどうかだえ!

 私は会ったこともない全然見知らぬ人の日記も面白く読めた。私は昨年、10年ぶりに再会した旧友に、再びブログや本を読み文章を書くきっかけを与えてもらった。はてなブログには閲覧数ランキング以外にも様々な人のブログが紹介されている。いろいろな人の文章を読んでいると、ずっと資産報告だけをアップしていたのに、ある日いきなり「今日は猟の解禁日だったので鹿を獲ってきました!」とか写真付きで書いてあって、この人猟師だったのかよ、となるとか、学術論文みたいなものを誰に読まれるあてもなく(と言ったら失礼だが)アップしてる人とかがいる。おもしろいし心強い。

 

・書肆imasu『随風 02』

 アマゾンで注文しようと思っていたが失念していたため、ちょうど良い機会だと思い会場で購入。執筆陣の直筆サイン入りで、好きな本を選ばせてくれるというので「オルタナ先生のサイン入りのやつください」と言ったら、「せっかくだから直接ご本人に書いてもらったらいかがですか?」とすすめられ、「なるほど」と思いオルタナ先生のサインが入っていない本を購入。が、結局オルタナブース再訪の時間がなく、未だサインは入手できていない。

 今号は観念的で難解な作品が多かったがおもしろかった。オルタナ先生の『不在の印象』を読んで、ああ、自分も他者の目を借りて見る遊びをしてるし、拡張されてるわけだと手を打った。早乙女ぐりこ先生の『ふぞろいの餃子たち』がおもしろかった。俺も妻と餃子作りてえよお。独りで料理して独りで食ってもつまんねえよお。

 

・BRIDGES編集部『BRIDGES vol.1 特集「東浩紀の三〇年」』

note.com

 雑誌『BRIDGES』編集人で軽出版者のillbouze先生の編集後記を読んで興味を持ち購入。表紙が鮮やかで会場でも目立っていて、すぐにブースを見つけることができた。

 小松左京先生と東浩紀先生の幻の対談が特別再録されている他、何といっても特筆すべきは「初期東浩紀仕事目録」で、初期の東浩紀先生のあまりにも広範に亘る厖大な仕事の数々が年譜でまとめられている。

「目録だけで80頁超のコンテンツとなることが明らかになった。物理的に自立する雑誌を目指している『BRIDGES』にとって、これは僥倖であった」が、この目録作成のために、illbouze先生の六畳間の私室は資料の山で埋め尽くされたらしい。

柳田國男の最初の著作集『定本 柳田國男集』の別巻におさめられている年譜のアーキタイプが、ひとりの市井の人間が作成していた目録をもとにしていたというエピソードから着想を得たものだ。

マチュアでもそのような仕事をなしたいという情熱が目録の完成を導いた」

 ハンパねえ情熱である。アツいって。

 東浩紀先生は日本を代表する思想・哲学、その枠にもとどまらない知の巨人であり、今後著作集・全集が編まれることは確実で、それに付す年譜が作成される場合、この雑誌『BRIDGES』がアーキタイプになる、ならざるを得ないのは間違いない。あまりにも貴重な業績である。

 

・破船房『もなかと羊羹【増補版】』『本の町は、アマゾンより強い』『ポスト・ムラカミの日本文学(改訂新版)』

 編集者・文芸評論家で、「軽出版」「軽出版者」という言葉を生み出した仲俣暁生先生の個人出版レーベルから三冊購入。

 特に『もなかと羊羹【増補版】』は「軽出版者宣言」の他、随風創刊号にも掲載された「ペーパーバック2.0としての軽出版」など軽出版に関する文章が収められた本なのに、なぜタイトルが『もなかと羊羹』なのかずっと気になっていてマスト買い。読んでその理由がわかった。読んでると自分自身でも軽出版をやってみたくなるが、InDesignは高いし難しいと思う。私は使えない。ここは文フリ運営がすすめる一太郎か。比較的簡単らしいし。フリーソフトでも作れるらしく調べてみたのだが、かなりめんどくさそうで玄人向けっぽい。原稿は書けても、組版とか入稿は結構複雑で、ずぶの素人には参入障壁が高いと感じている。

 ブースが隣だったこともあってかこちらの同人誌を買っていただいた。

「一冊300円です」と言うと、

「ええーっ、300円は安すぎるんじゃない?」と仰ってくださったが、我々には印刷費を回収しようという気すら毛頭ない。300(スリーハンドレッド)円、同人誌即売界のレオニダス1世である(?)。

 

 という感じである。楽しかった。帰宅しても本が手元に残り、またじっくり楽しめるというのは良い。

 

ドストエフスキーと日本マンガ

 ドストエフスキーの文学が日本の芸術家に与えた影響ははかり知れない。多くの作家が彼の影響を受け、彼を意識して作品を書いてきた。その作家は枚挙にいとまがないが、最近の作家では中村文則村上春樹などが挙げられるだろう。映画界では、黒澤明ドストエフスキー作品に傾倒していたことはあまりにも有名である。
 それは、漫画家も同じである。多くの漫画家が彼の作品に影響を受け、彼の作品を漫画作品へと昇華させることに挑んできた。その中で最も漫画化されていると思われるのが『罪と罰』である。
 なぜ日本人はキリスト教の理解を欠いているにも関わらずドストエフスキーが好きなのか? なぜ数あるドストエフスキー作品のなかで『罪と罰』が最も多く漫画化されているのか? その漫画作品を取り上げて紹介するとともに、簡単な批評を加えることで、これらの問題に対する答えを見つけられるのではないか。それがこの文章の目的の一つである。

 

手塚治虫罪と罰』(角川文庫、一九九五年)  

初出(東光堂、一九五三年)

 言わずと知れた漫画界の巨匠、手塚治虫による親しみやすい絵で描かれた中編作品。手塚はドストエフスキー作品の中でも『罪と罰』を愛読しており、彼の漫画作品の根底にはドストエフスキーから影響を受けたヒューマニズムの精神が流れている。
 舞台は革命前夜の帝政ロシア、退廃と貧困に明け暮れたペテルブルクの町である。原作を大まかに踏襲した設定とストーリーだが、手塚流に変更された点も散見される。例えば主人公の「ラスコルニコフ」は彼のアパートから質屋の建物までの歩数を数えるのではなく、質屋のある三階までの階段の段数を数える。他にはマルメラードフと居酒屋で出会うのがラズミーヒンであったり、ラスコルニコフがソーニャの足に接吻する場所が橋の下であったり、スビドリガイロフが「人民解放戦線」のメンバーであることなどが挙げられる。
 この作品の評価の分かれ目は、物語のラストに読者が納得できるかどうかにかかっているだろう。私はこの終わり方も好きだが、ぜひ他に、長編にまとめた作品も読んでみたいと思った。
 ところで漫画版『罪と罰』の中で、カテリーナ・イワーノヴナにいわせると「道化みたいな連中」が集まって飲み食いするマルメラードフの法事の場面を描いている作品は手塚治虫・汐見朝子・大島弓子の三つである。この中でも手塚によるものは特に素晴らしく、原作のカーニヴァル性が最もよく表現されている。手塚は「笑い」を重視しており作品の中にもしばしば見ることができる。笑いのセンスに長けていた彼は原作のカーニヴァル的空間を鋭敏に感じ取っていたのであろう。本作は漫画版『罪と罰』の先駆けであり、他の漫画家も執筆の際に参照していたようである。

 

青木雄二青木雄二漫画短編集』(広済堂文庫、二〇〇二年)

より『邂逅』

 代表作『ナニワ金融道』で有名な漫画家、青木雄二による短編作品。青木は資本主義社会に批判的で、熱烈な共産党支持者であった。マルクスの『資本論』やドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ影響で無神論者であった。漫画家としてデビューする以前、会社経営が上手く行っていなかった時代にドストエフスキーを耽読する。彼はあとがきの作品解説でドストエフスキーを次のように評している。

 確か四〇歳ぐらいの時だったと思いますが、とにかく驚きました。「なんとすごい作品だ」。その人間描写、心理の深淵に迫る文体。今までに見たこともない作家でした。おそらく百年に一人の天才だと僕は感じました。それからたちまちドストエフスキーの虜になって、彼の作品を片っ端から読んでいくことになるのです。

 『邂逅』は『罪と罰』にヒントを得て描かれた。青木は大賞の百万円を得て一発逆転するため、本業の写植・版下の仕事をしながら二カ月で描き上げた。この作品をある漫画週刊誌の新人賞に応募するも落選した。しかし原稿の裏に「返却希望」と書いていたため原稿は彼のもとに返却され、自身も「人生のあかし」として大事に保管していたことから、後に未発表作品として世に出すことができた。この経験から、漫画家を目指す者は、賞に応募した際は必ず原稿に返却を希望する旨を書くようアドバイスしている。
 作品の舞台は大阪。主人公の「大原」は高校卒業後の二〇年間、あらゆる職業に失敗、職を転々とし現在は失業中である。失業手当を受給しているが、博打や酒に明け暮れる放蕩生活を送る。ある日、遊郭で働く「敦子」を買う。後日居酒屋で知り合った老人が死去、その葬儀を手伝った際に敦子と再会。老人は敦子の父親であった。大原は葬儀の費用を肩代わりし、敦子を水揚げすることを決意する。大原は印刷工の仕事に就き、敦子は家計を助けるためスーパーのレジ係のパートに応募、採用され、二人は新たな人生を歩みだす。
 徹底して社会の下層に生きる労働者の姿を描き、資本主義社会の矛盾や資本家・使用者の非情さを暴き出している。漫画版『罪と罰』の中では最も共産・社会主義的なプロレタリア漫画で、稀有な作品である。ただし、青木の絵はひじょうに癖があるので、合わない者は合わないだろう。私は好きではない。一部では「下手で下品な絵」とも評されていたようで、青木は絵が下手といわれることに立腹していたそうである。もちろん絵の上手い下手など漫画の一要素に過ぎないが、読む人を選ぶかもしれない。

 

大島弓子『ロジオン ロマーヌイチ ラスコーリニコフ -罪と罰より-』

朝日ソノラマ、一九七六年)

 大島弓子は「二四年組」と称される少女漫画家の一人である。一九六二年に『少女サンデー』が休刊して以来、小学館講談社の『なかよし』や集英社の『りぼん』・『マーガレット』等に大きく遅れを取っていた。新たな漫画雑誌の創刊を託された編集者の山本順也は、青池保子萩尾望都竹宮惠子大島弓子木原敏江山岸凉子樹村みのりささやななえこ、山田ミネコ増山法恵ら新たな才能を集め、月刊誌『少女コミック』を創刊、自由に描かせた。SFやファンタジー的要素、同性愛、性描写を含んだ、これまでの少女漫画の枠に囚われない革新的な内容を含んでいたため、茨城県有害図書に指定されたりPTAからの批判があったようである。しかし、それゆえに小中学生のみならず高校生や大学生、男性層までをも取り込むことに成功した。
 本作は『別冊少女コミック』一月から三月号に連載された中編作品である(原題は『罪と罰』)。単行本は出版社の廃業、吸収合併に伴って残念ながら絶版となっている。汐見と同じく少女漫画タッチの絵で、登場人物たちは美形に描かれている。特にマルメラードフとスヴィドリガイロフの造形には驚く。中編作品のためストーリーはかなり端折っている部分がある。冒頭で早くもアリョーナ殺害場面が描かれ、エピローグでは流刑地での様子を一枚絵と文章で説明するのみである。
 ラスコーリニコフがソーニャのもとを訪れ、ラザロの復活部分を読むよう頼む場面において、初め彼女が彼を客として扱い体を委ねようとするなど、疑問に思う点もいくつかある。しかしコミカルな場面、例えばラスコーリニコフがラズミーヒンを「いい男」であると認める場面での、彼の「まじめにゆーな てーれるで やんけ‼」という台詞があった後のシリアスな場面への転換が効いており緊張感を損なっていない。
 なお、大島も『罪と罰』の執筆に挑んだ他の漫画家の例に漏れず煩悶があったようだ。『雨の音がきこえる―珠玉短編集』(一九七六年、小学館文庫)のあとがきには次のように書かれている。

 ジャンルの規制をしない少コミの自由な編集方針は、当時の私を、今までとは異なったテーマを、異なった形式でかくことに誘発しました。
 “用いてはならないことば” がなかったことが、最大の魅力でした。
 私は自問自答しながら、(中略)「罪と罰」のアレンジ等々を手掛けることができました(後略)。
 そして、これらの作品は、なによりも私自身の視野を、変革させてきたにちがいないのです。

 同じジャンルで描いてきた汐見朝子の作品と読み比べるのも面白いだろう。

 

汐見朝子罪と罰 正義か犯罪か』(双葉文庫 、二〇〇二年)

 汐見朝子は神奈川県横浜市生まれの漫画家である。一九七〇年、「りぼんコミック増刊号」に『薫くん大好き』でデビュー。ラブコメ中心の少女漫画家として活動する。しかしその後作風は変化し、豊かさの片隅に追いやられた貧しい人々の存在を描くようになる。七九年にはしんぶん赤旗日曜版に『グッバイ灰スクール』を連載し、現代の受験体制の矛盾を取り上げた。八〇年以降は成人向けレディースコミックも描くようになる。
 本作は『マンガ世界の文学「罪と罰」』(世界文化社、一九九六年)に描かれた長編作品を再録したものである。絵は少女漫画タッチだが、全体を通して漂う張りつめた緊張感は漫画版『罪と罰』の中では随一。ほぼ原作に沿った設定とストーリーだが、ゾシーモフが登場しない、ドゥーニャが持っているピストルがオートマチック拳銃であるなど、変更点はある。
 汐見は出版社から『罪と罰』執筆を打診された際に、学生時代にドストエフスキーが好きだったことを思い出し引き受けてしまった。本人が「格闘の日々」と言い表したように完成までは大変苦労したようで、あとがきで次のように書いている。

 やっとドストエフスキーとの格闘を終えた……この作品を仕上げた今の気分は、まさしくそんな思いです。(中略)ドストエフスキーの奥深さ、思想性、時代的背景、(中略)はたしてこんなものすごい作品を二六三枚のマンガで表現できるのかアブラ汗を流しておりました。

 汐見はこの漫画の執筆に際し、原作は工藤精一郎、米川正夫、中村白葉の訳を読み、手塚治虫版『罪と罰』や江川卓『謎とき「罪と罰」』、中村健之介の著作など、他にも多くの参考文献に当たっている。また、埴谷雄高シンパである夫からもヒントを与えられたと書いている。大作家との格闘の末完成したこの漫画は素晴らしい作品となった。しかし汐見は原作の小説も読むよう読者に強くすすめる。

 これをご覧になっただけで、『罪と罰』とはこんなモノかと思ってはいけないのであります。(中略)この小説に含まれる問題は、百年以上もの時を経て今もなお私たちの心に衝撃を与えてやみません。(中略)『罪と罰』にはあまりにも多くのものが含まれているため、漫画化に当たってどこを取り上げればよいのか格闘せざるを得なかったゆえんであります。(中略)再三申し上げますが、ぜひ本文をお読みいただきたいのであります。

 もちろん原作を読むに越したことはない。しかし初めて読もうとする者や一度挫折してしまった者が原作への足掛かりとして、大いに活用すべき作品であることは間違いないだろう。

 

罪と罰 まんがで読破』(漫画=バラエティ・アートワークス

イースト・プレス、二〇〇七年)

「まんがで読破」シリーズは、名作と呼ばれる世界の文学作品を親しみやすい漫画で楽しめるように企画されたコミック文庫である。漫画執筆の全工程を担当しているのは、バラエティ・アートワークスという会社で、二十数名で作業を行っているらしい。二〇〇七年八月、『人間失格』、『こころ』、『破戒』の三作品を皮切りに刊行が開始された。刊行当初は文学作品のみが対象であったが、現在までに思想書哲学書、歴史書、果ては相対性理論までも漫画化されている。ウェブサイトでは漫画化して欲しい名作のリクエストを受け付けている。本作は第六冊目である。
 裏表紙を見ると、二〇一三年までに一五刷発行されており、おそらく漫画版『罪と罰』の中では最も売れていると思われる。しかし、この作品は漫画版『罪と罰』の中で最も評価することができない。まず絵であるが、良くいえば非常に癖があり、悪くいえば下手であり、どのみち登場人物が皆不細工である。
 そして、登場人物の内面描写も良くない。例えば主人公のラスコーリニコフだが、「警察のバカども これで物証は何もないぞ! 捕まえられるなら捕まえてみろ」「…俺はやはり天才 選ばれた人間!」など、落ちぶれてはいても知的階級である大学生というよりは、ただ粗暴で浅薄な人間としか思えない台詞が頻出する。極めつけは彼が自首する場面だ。罪を告白した後、拳を握って両手を警察署長ニコージム・フォミーチの前に突き出し、「どうした? さっさと捕まえろよ」と笑いながら言うのである。原作でこのような台詞は言っていないし、そもそも彼はそんなことを言う人間ではないだろう。この漫画では彼の苦悩と熱狂がまるで伝わってこない。ポルフィーリーもおかしい。ラスコーリニコフと初めて対面する場面で、彼は下着一枚で椅子に腰かけ、水を張った桶に足を突っ込んでいるのである。原作では「くつろいだ姿」とはいえ、さっぱりしたシャツの上にガウンを着て、履き古されたスリッパを履いていたはずである。漫画版でもすぐにその格好に着替えるのだが、それならばなぜ裸で出迎える姿を描いたのだろうか。ラスコーリニコフを油断させようとするポルフィーリーの策略ということだろうか。
 原作には存在しない蛇足な場面は他にもある。気になったのはソーニャが客の相手をしている直接的な描写で、これは娼婦であることを強調しようという意図があったのかもしれないが、疑問である。さらに、ラスコーリニコフ流刑地で熱にうなされながら見る夢がある。原作では世界中の人々がある疫病に罹り、自分だけが真理を知っていて絶対に正しいと思い込むようになり、お互いのことを理解できずに殺し合い、ごく少数を除いて皆死んでしまうというような夢だった。しかし本作では、ラスコーリニコフが新世界に辿り着き、ブッシュ大統領が登場し、「これは正義のための戦争だ! 聖戦だ」と演説し、核兵器が使用され、荒廃した世界に傷付いたラスコーリニコフが一人取り残されるという夢になっている。おそらく、ドストエフスキーが書いたことが普遍的な問題であり、今でもなお解決されておらず人類は争いを続けている、現代の国際情勢にそのまま当てはまるということを示したかったのだろう。
 原作には描かれていないこと、原作とは異なること、現代的な描写を入れて何が悪いのか、そんなに原作に拘るなら原作だけ読んでおけ、という意見もあるだろう。しかしこの「まんがで読破」シリーズは、「まんがで読破」と銘打っている以上、また「作品の真髄を捉え、徹底的に漫画化」し、漫画で「名著の作品世界」を楽しんでもらうことを目的としているのだから、やはり原作に忠実に漫画化すべきではないか。もちろん紙幅の関係上変更する、削る必要のある箇所は生じるだろうが、改変や「解釈」といったものは不要だろう。読者に大きな誤解を与えかねない。
 ただ、漫画版『罪と罰』の中では入手しやすく最も安価であるから、読者と文豪との橋渡しとしては素晴らしい本である。

 

落合尚之罪と罰』(双葉社アクションコミックス 全十巻 

第一巻・二〇〇七年、第十巻・二〇一一年)

漫画アクション』(双葉社刊)二〇〇七年一月二三日号より連載が開始され、二〇一一年三月一五日号で完結した。『黒い羊は迷わない』(小学館ヤングサンデーミックス、一九九七年)と共に、落合尚之の代表長編作品となった。単行本は全十巻。高良健吾主演でテレビドラマ化もされ、二〇一二年四月二九日から同年六月三日まで、WOWOWの連続ドラマW枠で放送された。全六回。
 舞台を一九世紀ロシアから二一世紀の現代日本に移し替えて描かれた作品。登場人物の名前も日本風に変えてあり、原作中のラスコーリニコフがモデルである大学生の主人公には「裁 弥勒(たち みろく)」という名前が与えられている。この名前には原作に由来する秘密が隠されていると落合は書いている。作者あとがきによれば、江川卓『謎とき「罪と罰」』(新潮選書、一九八六年)を参考に命名したそうである。姓に意味を与えるゴーゴリ以後のロシア文学の伝統を受け継いでいるのである。種明かしは原作を読んで確認していただきたい。
 弥勒は、今は亡き父のように「立派」な教師になるよう、母から将来を託された男子大学生である。現役で有名大学に合格したものの、入学してすぐに大学へは行かなくなり、アルバイトもせず、部屋に籠って小説を書いている。彼が文芸誌の新人賞に応募した「収穫者の資格」という作品が佳作に選ばれ、雑誌に掲載される。
 ある日、彼は一人の女子高生、島津里沙(しまづ りさ)が、道行く男に対して売春を持ちかけている場面を目撃する。彼女は同じの高校の生徒であり、女子高生を専門に売春させ搾取する売春斡旋組織のリーダー、馬場光(ばば ひかる)に支配されているのであった。弥勒は、選ばれた者は法や秩序を踏み越える権利を持つという独自の哲学に基づき、光の殺害を計画し実行する。しかし殺害したところを里沙に見られてしまう。里沙は自分のために光を殺してくれたのだと思い、弥勒に感謝し、死体の隠ぺい工作を行おうとする。だが弥勒は計画を自分の力のみで遂行することにプライドを持っていたため、里沙を邪魔に思い、その場で殺害してしまう。
 一巻の序盤から十巻まで過激な暴力・性描写が多く、気分が悪くなるような場面がある。苦手な読者は読んでいる途中に嫌になってくるかもしれない。また、全体を通して現実離れしたエピソードが多く、読者は閉口するかもしれない。しかしこれには作者のねらいがある。作者はあとがきで次のように書いている。

 先日あるインタビューで、こんなことを訊かれました。
「この漫画では、レイプや売春、いじめなど、世の中の暗い面を象徴する出来事ばかりが沢山描かれている。
 こういった題材を選んでいるのは『現実の世の中はこんなにも荒んでいる』という告発を社会に対して行うという意図があるのか?」
 それについては大体次のように答えました。
「僕は現実の世の中がここまで荒んでいるとは思っていません。これを現実だと思って描いてはいません。(中略)
 こういった極端な状況を描く目的は、敢えてそういう状況下にキャラクターたちを置くことで、彼らの人間性をより分かりやすく際立たせるためです。(中略)
 この漫画では展開のスピード感を殺さないために、またシンプルな分かりやすさを優先して、敢えてこういう描き方をしているのです」(中略)
 フィクションだからこそ描き出すことのできる真理や真実というものがあると思うんです。ジャーナリズムではない、フィクションの制作物が作られる意味はそこにあると思う(攻略)

 なるほど、確かにキャラクターたちは極端な状況下に置かれているが、極端過ぎて逆に人間性が損なわれている箇所もあると思われ、かように現実離れしたエピソードを多用したことには疑問が残る。また、スピード感というが冗長に過ぎる感もある。もう少し現実と付かず離れずの距離を保てばより効果的であったのではあるまいか。
 しかし、原作のラスコーリニコフをうまい具合に現代の若者、大学生に落とし込んでいる。人生に悩むプライドが高い青年が読めばグサリとくる台詞や場面も多い。特に原作中のポルフィーリーがモデルとなっている五位検事と弥勒の論争には胸をえぐられる思いがするだろう。漫画版『罪と罰』の中では最も長い作品であるため、読み応えは十分である。

 

罪と罰 マンガで読む名作』

(漫画=岩下博美日本文芸社、二〇一〇年)

「マンガで読む名作」シリーズは二〇一〇年一月の『ソクラテスの弁明』を皮切りに、『ハムレット』、本作『罪と罰』、『三四郎』、『聖書』、『カラマーゾフの兄弟』が刊行された。類似のシリーズとして同社の「マンガで完読」シリーズもあり、ロシア文学では『アンナ・カレーニナ』、『どん底』が刊行された。残念ながら、現在までに両シリーズとも全作品が品切れ重版未定となっているが、『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』は電子書籍化されており、とらのあなダウンロードストア、メロンブックスDL、ディーエルサイトコムデジケット・コムなどで購入することができる。
 本作、『罪と罰』は漫画家の岩下博美による長編作品である。この作品は、漫画版『罪と罰』の中では原作を最も忠実に漫画化して見せた、極めて稀有な漫画である。漫画版『罪と罰』を読むならこの岩下博美版をおすすめしたい。私はこの作品を最も評価する。登場人物の服装や容姿もほぼ原作の記述の通りである。ラスコーリニコフアメリカ開拓期の西部のガンマンのように見えなくもないし、ソーニャがブロンドではなく黒髪であるなど若干の相違点はあるが、それは重要なことではない。絵が素晴らしく、ラスコーリニコフはイケメンで、ソーニャはとにかく美しく可愛らしい。エピソードも丹念に描き込んでおり、ラスコーリニコフがアパートから質屋のある建物まで七三〇歩を数える描写もある。そして驚くべきことに、マルメラードフがソファから転げ落ちて絶命する場面を描いているのは漫画版『罪と罰』の中で唯一この作品だけである。イースト・プレス版と違って妙な「解釈」は入れておらず、ラスコーリニコフの内面描写もうまいし、監獄で見る夢も原作の通りである。
 しかし、なぜかこちらにもソーニャが客の相手をしている直接的な描写があって、おそらく先に出版されていたイースト・プレス版を参照してのことだと思われるが、必要なかったのではないか。また、マルメラードフの法事の場面はカットされており、スヴィドリガイロフはドゥーニャが去った後すぐに自室で自殺するなど(もっともこれはどの漫画版『罪と罰』でもそうであるが)省略されている点もある。登場人物の表情、特にアリョーナの狼狽した表情の描写が無い点も気になった。だが、これらはいずれも全体としての完成度と質の高さを損ねるものでは全くない。作者は自身のブログにおいて「諸々の制約があり」と述べているし、仕方のない部分はあるだろう。
 ここまで丹念に描くことができたのはやはり作者にとって「二〇代そこそこの頃どっぷりハマって読んでいた 大好きな物語」であったからだろう。「名だたる名作を汚さぬよう満身創痍で作画に打ち込」んだ結果は見事である。ブログでは「引きこもり」と「美少女」と「お笑い」という事柄がモチーフのドスト作品は難解ではない、「ドストはラノベ」である、という作者のドスト論が掲載されているのでぜひご覧いただきたい。

 

漫F画太郎罪と罰』(新潮社 全四巻 第一巻・二〇一一年、

第四巻・二〇一三年)

月刊コミック@バンチ』(新潮社刊)二〇一一年四月号から連載が開始され、二〇一三年四月号で完結した。単行本は全四巻。
 漫画界の奇才、漫F画太郎による長編作品。彼の私生活は謎に包まれていたが、清野とおるが『東京都北区赤羽以外の話』(講談社、二〇一二年)で暴露した。それによるとかなりのボロアパートに住んでおり、人と会うのが苦手なためほとんど外出しないという。出版社の人間でも彼に会ったことのある人間はごく僅かで、担当の編集者でさえ打ち合わせは電話かFAX、原稿のやり取りも郵送のためほとんど会ったことがないらしい。また、『実話』(『月刊少年チャンピオン』二〇一一年二月号)によると、連載を打ち切られ、どの出版社にも掲載を断られる状況が続くと、あっという間に貯金が底を尽き、食うにも困るほど貧窮し激ヤセすることがあったという。彼の人物や生活はラスコーリニコフのそれとも重なり、彼が『罪と罰』を描くのも必然だったのだろう。
 各巻の表紙はそれぞれ異なる作家が描いている。なお、当初画太郎は表紙も全て自分で描いたと主張していたが、後に自分ではないことを認めたようである(清野のブログ「『罪と罰』と画太郎先生と僕」)。「表紙詐欺」と評されるように、第一巻の表紙を見る限りではいかにも正統派の漫画であるふうに騙っているが、内容は極めて品性下劣なエログロナンセンス・ギャグ漫画である。
 舞台は「ロシア王国」の「ヤキマンコ」。しかしあるコマで背景が突然現代の日本に変わることがある。
 原作中のラスコーリニコフがモデルの主人公「エビ山エビゾー」は高学歴・イケメン・巨根の三拍子がそろった人間国宝級の天才を自称する。彼は質屋の「ババア」からゆとりと馬鹿にされたことに腹を立て、自ら書いた「ババア抹殺計画」に基づきババア殺害を実行しようとする。しかし殺害に失敗しババアの返り討ちに遭ったエビゾーはその後しばらく姿を消し、以後主人公としての役割は原作中のソーニャがモデルと思われる「マヨ」に移る。最終的にロシア王国の王座を巡り、現在の王「スビドリガイロフ」を倒すために登場人物たちが奔走する。
 終始論理的な一貫性を欠いた不条理なストーリーである。しかし、エビゾーが彼の住むアパートから質屋のババアの建物まで七三〇歩を数えるなど原作に無駄に忠実な部分もある。また映画『マトリックス』へのオマージュなどもあり作者のセンスが光る瞬間が度々訪れる。とにかく下品で基本的に原作からは大きく逸脱しているが、この漫画をきっかけとしてドストエフスキーの作品に触れてみようとする読者や層がいるかもしれない。世界文学における偉大な作品とされる権威に媚びず、ひるまず、徹底的に破壊し尽くし、そして再生してのけた漫F画太郎には、単行本第二巻の巻末で各界の著名人から賛辞が送られている。また、アマゾンなどのレビューでは高評価を連発しており、インターネット上では漫F画太郎の作品を無理やり評価することが一種のノリとして受け入れられているようである。
 なお、単行本は「ドストエフスキー様からのお告げ」により、雑誌掲載時より様々な変更点があるそうである。

 

山元しんてつ『ドストエフスキーと日本マンガ』

(ヴォストーク編集部【旧法政大学ロシア文学研究会】

『ヴォストーク Vol.2』、2024年第二版)p.18-28

 

とある男の日記(ダイアリー)2025年11月編

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11月1日(土)

 午前、起床。スパゲッリィの麺を茹で、たらこパスタの素を混ぜて食べる。食後に先日スーパーで購入しておいた半額のブルガリアヨーグルトとお徳用粗茶。

 身体が重い。いつまでこんな生活を続ければ良いのか? 働きたくない。どんな責任をも負いたくない。世の中には、仕事が大好きで、仕事が生きがいであって、仕事をしてこそ人生が充実すると考えている者がいるらしい。そんなに仕事が好きなら、家に帰らず職場に寝泊まりして24時間働いていれば良い。だって好きなんだろ?

 重い足取りで職場に出勤すると、ある事務員から「自分が用事あるときだけかけてきて、こっちが電話した時にはなんで電話出てくれないんですか?」と苦言を呈される。「そっちは勤務時間中だが、俺は勤務時間外だからだ。どうしても出てくれと言うなら時給を払え。ワンコール以内に出てやるよ」と言い返したら黙りこくっていた。なんだその目は。そんな腐った目で人間を見るのはやめろ! ヨーソロォー! 黙るなら最初から言うんじゃねえ。セイーッ! セイーッ! ろくなもんじゃねえ。

 余談だが、私は長渕剛と同じ公立中学校の出身で、その中学校の図書室には長渕ニキが寄贈した本が収められている「長渕文庫」という本棚が設けられていた。どんな本が収蔵されていたかはさっぱり覚えていない。

 夜、帰宅。-196チューハイ(オレンジ&レモン味)を飲みながら年末調整の書類を書く。毎年思うのだが、欄が小さくて書きづらいにも程がある。多く取られた税金を取りもろすためだ、仕方がない。

オブローモフは溜息をついた。

「ああ、生活か!」

「生活がどうしたって?」

「煩わしいんだよな。平安ってものがないじゃないか! ごろりと横になって眠りたいよ……ずっとね……」

 

ゴンチャロフオブローモフの夢』(安岡治子訳、光文社古典新訳文庫、2024年)Kindle版、抄訳 第四部

 

11月7日(金)

 賃労働は休み。19時、-196チューハイ(オレンジ&レモン味)を、豆腐に鰹節をかけたもので飲みながらゲンロンカフェのイベント『250億の哲学──個人投資家の人生を聞く』をシラスの配信で視聴。

genron-cafe.jp

 延長時間も含めると約5時間だったが、おもしろくてあっという間であった。

 個人投資家である片山晃と機関投資家である小松原周の共著『勝つ投資 負けない投資』(クロスメディア・パブリッシング、2024年改訂版)を読んだ。

 実際に投資を開始すると、あっという間に相場の魅力にとりつかれました。投資に失敗すれば、損失が自分自身にダイレクトに跳ね返ってくるわけですが、損をしたくてこの世界に入ってくるプレイヤーは誰一人としていません。誰もが成功を夢見てリスクを取っています。だから、全員が必死になって戦っている。(中略)

 結局のところ、僕は勝負事が大好きなのだと思います。それも、舞台が大きくなればなるほど興奮の度合いは高まっていく。18年前のあの日、株式市場という世界最大にして最高水準のオンラインゲームと出合ったことで、僕の人生は大きく変わったのです。

 

片山晃・小松原周『勝つ投資 負けない投資』(クロスメディア・パブリッシング、2024年改訂版)p.19-20

 この本では、一応具体的な投資手法も述べられているのだが、それよりも株式投資に何を求めるのか、どう向き合うのかといった心構えや、株式投資の原理原則に立ち返る重要性が説かれている。

 片山は企業や業績は人の営みが作り出すもので体温が感じられる、そこにドラマやストーリーがあるから好きだと書いている。熱いぜ。

 株に才能は必要かという話もちょっと書かれていて、この辺は私が書こうと思っている「投資は才能か、訓練か」というような文章に使わせてもらいたい。座して待て。

 

11月8日(土)

 私のブログを読んだ同人から「ペソアに感銘を受けたなら辻潤も好きなんじゃない?」とラインが届く。「おっ、渋いねえ」と知ったかぶりで返信。私には知らないことが多すぎる、というか私はこの世の何も知らない。まあいい、無知のち晴れである。彼女からあるページが送られてくる。

 自分には今なにを書こうとか、どんな風に書いてみようとかいう考えはまるでない。ただひどく朦朧として混沌たる頭に思い浮かぶことを、なんの脈絡もなく書き散らすばかりである。私にはこれ以外に、なんのパスタイムもないのである。常識や、論理や、道徳によって批判されては困るのである。しかし、いささかでも文章の形式を存しているとすれば、まだ多少の自覚症状というべきものが残存しているからだと思う。断っておくがたとえ誤字や、無意味な反復や、脱字や、その他連絡がないような文章があるとしても、それらはそのままにして見逃してもらいたいのである。

 自分のような人間が生きていること、それ自体がすでにひどい矛盾だということは、かなり以前から私はよく承知しているのである。

 

辻潤『絶望の書 ですぺら辻潤エッセイ選』(講談社文芸文庫)p.208

 私は7、8年ほど前に、某有名掲示板に晒されたことがある。法政の付属校のスレッドで、このブログとX(旧ツイッター)のURLと、私の下半身事情を私自身が暴露したツイートのスクショが貼られていて、こいつは某キー局の女子アナウンサーと同学年だ、みたいなことが書かれていた。たしかにその女子アナと同い年で同学年ではあったが、私は付属校の出身ではないし、大学の学部も全然違う。私もついに名前が売れたんだ、バズリ倒して原稿依頼が殺到するんだと思ったが以後特に何もない。一体何だったんだあれは。

 批判や嘲笑を意図していたのだとすれば、それは徒労に終わる。辻潤が述べているように、私もまた何の脈絡もなく書き連ねているだけのことである。

 

11月12日(水)

 賃労働後の帰路、スーパーへ買い出しに行く。最近、アジやホッケなど魚の干物が美味しいと感じ、積極的に買って食べている。魚介類は日持ちがしないことに加え、あまり人気がないと見え、高確率で大幅に割引されているのでありがたい。

 きまぐれクックのかねこが、魚を一番おいしく食べる方法は干物だと言っていたが、私も同意である。フライパンで焼くのだが、そのまま載せるとくっついてしまうのでクッキングシートを敷いて焼く。ふと、クッキングシートの説明書きを見ると、発火の恐れがあるからガスコンロでの使用は厳禁と書いてある。ダメなのかよ、知らなかった。

 注意書きを無視してフライパンにクッキングシートを敷いて真アジの開きの干物を焼く。燃えるなら燃えろ、そして俺の魂にも火を点けてくれ! 

 食後、文学フリマに出す同人誌の原稿を書く。締め切りまで一週間もない。毎回思うのだが(そしてすぐに忘れて後回しにしてしまうのだが)、文章を書くというかタイプするのには、ある程度構想が固まっていたとしても、やはり相応の時間がかかる。気がついたら夜が明けていた。

 

11月13日(木)・11月14日(金)

 賃労働は休み。引き続き原稿を書く。原稿を書く、生みの苦しみなど、無名の兼業アマチュア自称文筆家・作家(大爆笑)である私が言うのはおこがましいにも程があるが、何事も形から入るのは結構重要であると考えている。

 中学か高校の教科書に載っていた菊池寛の掌編小説に『形』という作品がある。

www.aozora.gr.jp

 戦場で派手な鎧兜を身に着け、敵から恐れられていた槍の名手である侍大将が、初陣の若い侍に頼まれて一式貸してやったところ、自分はあっけなく槍で脾腹を突かれてしまうという話である。

 

11月23日(日)

 東京ビッグサイトにて文学フリマ東京41が開催される。

 DTP全般を担当してくれている先輩の爆速編集により、なんとか新刊を携えて参加。

 国際展示場駅から歩いてエスカレーターを上がると黒山の人だかりができている。何事かと思ったら入場者の待機列だった。流通センター時代とは隔世の感がある。

 ブースに来ていただいた方々ありがとうございました。嬉しいお言葉をかけていただき感激しました。

 途中、離席していろいろ見て回りたくさん本を購入。

 終了後は同人たちと豊洲の居酒屋で打ち上げ。途中、結婚式の帰りと思われる若者たちが入って来て盛り上がっていたので早々に退散し、ファミレスでお茶。ここで私は限界が来て寝てしまう。加齢を感じる。

 帰宅後、購入した本を手に取って眺める。感想はまた後日書きたい。

 

12月1日(月)

 夜、賃労働後にバイクで帰宅途上、信号機のない交差点において、一時停止標識を無視して進行してきた相手方バイクと衝突。双方転倒。

 衝突する寸前、人生で初めて走馬灯を見る。火山の見える町、小学校の校庭、長渕文庫、高校の制服、大学受験、上京、市ヶ谷外濠、弱者就活、カス労働、友人たち……ああ、やっぱり自分は何もできないまま死ぬんだ、無名の独身限界中年男性労働者兼業アマチュア自称文筆家・作家(大爆笑)が関の山だったんだ、みんな達者で……俺は一足先に逝くよ……。

 ふと気がつくと自分の体は道路に横たわり、星のひとつも見えやしない東京の薄明るい夜空を仰いでいた。

「い……痛え……」

 頭部と右半身に鈍痛。よろよろと立ち上がり相手の状況を確認する。

「……大丈夫ですか?」

「だいじょぶです……」

「とりあえず警察を呼びます」

「いや、だいじょぶです。すみません。警察じゃなくて、話し合いましょう」

 何言ってんだこいつは? 東南アジア系外国人である。免許証の名前の欄は全部アルファベット。読めねえよクソが。

「いや、バイクぶっ壊れてるしお互いケガしてるでしょ。ちゃんと事故処理しなきゃ」

 110番して交通捜査の警察官たちが臨場して現場検証。

 まず、相手方は自賠責保険証不携帯、さらに任意保険未加入であることが判明。もう嫌な予感しかしない。この時点で警察官の心証も悪くする。自分は一時停止して安全確認をしてから交差点に進入したが、相手(俺)が猛スピードで突っ込んできて避けきれなかったと主張。

 やはりドラレコの重要性を痛感する。バイク用のドラレコは雨風に晒されて壊れやすく、映りが悪い物が多い。きちんとした物はバカ高いので結局装着せずにいた。

 だが、現場道路に残された痕跡やバイクのぶっ飛び方や破損具合から、相手が一時停止せずに交差点に進入したと断定される。

 彼は見ていてちょっとかわいそうになるぐらい警察官に怒られる。「嘘つかないで本当のことを言って」「防犯カメラ調べればすぐわかるんだよ」「誠実な態度じゃないよそれは」「あなたの国ではそんないい加減なことでいいかもしれないけど日本で免許持って運転するっていうのは甘いことじゃないんだよ」

 私が走行していた側が優先道路で、相手に一時停止義務があることから過失割合は8:2といったところか。私の側にも、交差点における安全確認義務というのがあり、過失は生じてしまう。

 物損事故の方向で処理。人身事故として刑事事件化することもできるが、私にも過失があるから私も被疑者ということになってしまい、警察も当事者もクソめんどくさいからである。

 あとは、民事で互いの示談交渉だが、これは任意保険会社に任せて一件落着である。──互いに任意保険加入者であった場合は。

 おいどうすんだよ、俺のバイクフレームひん曲がってアライメントおかしくなって真っすぐ走れねえんだけど。ウインカーレンズ割れてんだけど。ヘッドライト壊れてんだけど。全部自腹切って払えるのかよ? どうなんだ、え?

 まあ払わんだろうな。相手の分は俺の保険で払うのに俺の分は全部俺が自腹で泣き寝入り(スクーターごときに車両保険なんか付けるかよ)。ざけんじゃねえ。

 一発で排外主義者になっちまいそうだぜ。

 くにへかえるんだな。おまえにもかぞくがいるだろう……

 とりあず右半身が痛くて右腕が上がらないので病院へ行く。通勤途上なので労災保険扱いだろう。

 俺言ったよな? 「通勤は命懸け」だって。外に出て働いても良いことなんて何もねえじゃねえかよ。やっぱ家で布団被って寝てるのが一番だろ常識的に考えて。向いてねえわ、俺は、働くことに。 

 いや……そうか……! これは神からの啓示なんだ!

「おぬしは働くことに向いておらぬ。(一生)休むが良い。これは警告じゃ」

 あざーっすwww!!! 

 この日、私は神の声を聴いた。私は神を見た! 神はいるのだ!

 

12月2日(火)

 午前中から保険会社と電話やメッセージでやり取り。しばらくして相手方本人から「わたしが悪かったです。ほんとうにすみません」と謝罪の電話がくる。警察から相当怒られたらしく憔悴している様子。相手方も体が痛く仕事を休んでいるという。加入していた任意保険は一ヵ月前に更新忘れで切れていたとのこと。来日して10年目、初めての経験で今後どうなるかわからなくて不安だから、いろいろ教えて欲しいと言われる。なんかかわいそうになってきたので所々英単語を混ぜながら丁寧に説明する。物損事故として処理されており刑事事件化はしない、お互い逮捕されたりする心配はないから大丈夫、双方に非があるから過失割合によって修理代を負担し合うことになる、過失割合や具体的な金額に関しては私ではなく代理人(保険会社)との交渉になる旨を伝える。ひと安心した様子だったが修理代が高額になった場合のことを心配していた。 

 不慣れな異国の地でいろいろ大変だろうし、もし支払い能力が無い場合は、払える範囲で払ってくれれば良いと考えている。それでお互い恨みっこなしで一件落着とする。私の心は大海より広く深い。

 午後、賃労働を休み病院(整形外科)へ行く。通勤途上のケガなので健康保険は使えないから労災保険で受診するも、労災指定病院ではないため費用は一旦全額自己負担しなければならない。レントゲンを撮るのかと思ったが医師に必要ないだろうと言われる。というのも余程バキッと折れていない限り、ヒビ程度ではレントゲンを撮っても映らないらしい。痛みがひどくなったり腫れあがったりした場合はまた来るよう言われ処方箋を貰う。近くの薬局に行き、薬剤師が棚から薬を取ってバーコードを通したりする様子を眺めながら待つ。医療機関で働く人々は凄いと思う。ただ勉強ができるだけの学校秀才や、そうですらない自分のような人間にはとても務まらない崇高な仕事である。というか能力も学もやる気もない私にとっては世の中の大半の人々が凄いと思いながら、湿布や痛み止めの薬をもらう。

 帰宅後、職場に連絡する。「マジ首痛いっす。腕上がんないっす。最低でも1ヵ月は療養しないと無理っす。あー、痛い痛い♪」と伝え電話を切り、布団の上にスマホを放り投げる。

 勝利の撤退である! いいかげん敗北を知りたいぜぇ……。

 

とある男の日記(ダイアリー)2025年10月編

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10月2日(木)

 午前9時頃起床。賃労働は休み。HYPER SBI 2を立ち上げるが取引はせず。

 歩いてコンビニに行き日経新聞とサンドイッチを購入。帰り際に郵便受けを確認すると、隣室の郵便受けに溢れんばかりの郵便物が溜まっている。そういえば最近、夜も明かりが点いていないし昼間も隣人の気配が全くないことに気づく。郵便受けから半分飛び出している物をちらと見ると、ド派手な警告色の封筒にエヴァみたいな極太明朝体で「至急開封」と書かれた、全保連や法律事務所からの督促状と思われる郵便物が大半を占めている。ああ、家賃滞納で追い出されたのか。

 人には様々な事情がある。しかし、こういう状況に陥った人は、どのように再スタートを切れば良いのか。調べると、短期間だが自治体が家賃相当額を給付する住居確保給付金という制度があるらしい。あとは失業手当や傷病手当金生活保護あたりか。消費者金融でカネを借りるのは、やめた方が良い。終わりなき地獄の負のスパイラルに陥る。経験者(俺)は語る。公的な扶助を活用し、とにかく就労の道を探り、現在の滞納分を解消することが最優先だとGoogle先生は言っている。

 

10月3日(金)

 日経平均株価終値最高値更新記念パピコ。4万5769円。

 

10月6日(月)

 日経平均株価終値最高値更新記念パピコ。4万7944円。

 前日比+2175円。高市相場。

 

10月7日(火)

 日経平均株価終値最高値更新記念パピコ。4万7950円。

 前日比+6円。寄り付き後は一時500円高の上昇も、急激に失速。賃労働後に株価を見て驚く。

 

10月9日(木)

 日経平均株価終値最高値更新記念パピコ。4万8580円。

 

10月10日(金)

 賃労働は休みだが、昼前から焼き肉屋でカスみたいな職場の飲み会が行われる。20代の頃は付き合いの飲み会に積極的に参加し同僚とコミュニケーションを図ることは重要だと考えていたのだが、最近は加齢のせいかそんなに飲めないし疲れるし、少人数ならまだしも、とにかく苦痛で、時間の無駄であるという思いが強くなり、極力避けている。友人とか親しいひとと酒を飲むのは楽しいし、自宅で一人で飲むのもすぐにトイレに行けるし横にもなれるから割合好きなのだが、職場の人間と飲んだって話の内容はカスそのものであり、無意味どころか有害ですらある。

 しかも私の勤め先の人間の飲み方の汚さといったらそれはもう下劣の極みであり、店員からの「他のお客様から苦情が入ってますのでもう少し声のボリューム落としてください」という注意から始まり、挙句の果てに「俺の靴をどこに隠した!」「この店はウイスキーも置いてねえのか?」「お前生意気だな、あ?」などと店員に絡みだし、最終的に「お客さん、いい加減にしてくださいよ!」と出禁を食らった店は数知れない。しかも後日そのことを誇ったり笑い話にしたりしているのである。私はその醜悪な様を見て「いい歳した大人がこりゃだめだ」といたたまれない気持ちになり、飲み会から足が遠のいたのである。が、今回は退職者の送別会も兼ねているというので仕方なく久々の参加。

 この焼き肉屋は回転ずし店のように注文した品がレーンに乗せられて席まで届くというシステムで、なかなか面白かった。店員も最低限の人数で客の案内と片づけを行うのみで、業務の負担は軽そうであった。こういう仕組みを考えて作る人は凄いなと感心する。

 食べ飲み放題コースが終了してもまだ昼過ぎ。「ケツカッチンなんでお先にドロンします」と前もって断っておいたが、皆、街に繰り出して飲む気満々で、巻き込まれないように姿と気配を消して同じエレベーターには乗らず、帰る方向が同じ先輩後輩と建物裏口から逃走を図る。無事に電車に乗り帰路に就く。「あれに付き合ってたら日付変わっちゃうよ」「女のいる店に行こうなんて言い出したら最悪だぜ。この前は一軒で20万使ったらしいよ」と先輩が愚痴をこぼす。大体、あれだけ飲み食いしてまだ飲み歩くなんて驚愕の一言である。とても付き合ってられん。

 話は実に単純である。

 酒を飲むと楽しい、この楽しみが資産である。しかし人生において楽しみだけがあるということはなく、楽しみにはそれに見合った苦しみが必ず伴う。この苦しみが負債ということになる。その酒徒の方はこの苦しみがなく、飲酒には楽しみしかない、と仰ったのだが、命が有限であり、生と死がセットになっていて、生がいずれ死によって清算されることからも知れるように、それはない。必ず反対側には苦しみがある。

 その苦しみの内容は様々であるが、比較的わかりやすいものに、酒毒によって蝕まれる健康、時間を浪費することによって生じる生産性の低下、金銭の費消、酔いによる錯誤や判断ミス、錯誤によって生じる周囲との軋轢などがある。

 

 飲酒の苦しみ・負債はこのようにして増大し、得られる楽しみ・利益は少なくなっていく。飲んでも昔のように楽しくない。最近、頓に酒量が増大した。連続飲酒のようなことになってしまった。

 こういう状態を称して昔の人は、「人、酒を飲む、酒、酒を飲む、酒、人を飲む」と言った。ただ飲むために飲んでしまっているのだ。

 

町田康『しらふで生きる 大酒飲みの決断』(幻冬舎、2019年)p.42-44

 

10月20日(月)

 日経平均株価終値最高値更新記念パピコ。4万9185円。

 前日比+1603円。高市相場2nd。

 

10月21日(火)

 日経平均株価終値最高値更新記念パピコ。4万9316円。

 

10月22日(水)

 午前9時起床。外は雨。寒い。朝食は先日スーパーで購入しておいた割引のブルガリアヨーグルトとバナナ。HYPER SBI 2を立ち上げて株価を確認後、職場に出勤。

 始業前に組合員全員参加が義務付けられている労働組合の会合に出席。開始直後から労働者たちの怒りが爆発する。昨今の物価高で俺たちの生活は疲弊しきっている、ローン返済が苦しい、娘の学費が工面できない、賃上げが追いついていない、外国人労働者受け入れを検討する前にやるべきことがあるはず、そもそもこんな労働賃金条件では外国人労働者すら逃げ出すだろう、といった悲痛な意見。

 私は1992年生まれなのだが、その年に入社したベテラン社員によると、平成バブルが崩壊しても、直接もろに影響を受けたのは不動産や株に投機をしていた企業や人々で、90年代はそこまで酷くはなかったし、むしろ無風だったそうだ。中学、高校、大学の間じゅう、ずっと失われた何十年という言葉を聞き続けてきた私には信じがたい話だが、まだ90年代にはこんな弱小中小企業の単純労働者でも年収1000万プレイヤーがごろごろいて、彼らは常に帯付きの100万円の札束を財布に入れて働いていたという。不景気が広く一般社会に甚大な影響を及ぼし始めたのは2000年代に入ってからで、組合も会社側からの数々の人件費削減(賃上げゼロ、各種手当廃止等)・労働時間延長・合理化提案を飲まざるを得ない状況に追い込まれたらしい。

 反戦反核原発運動の前に労働組合の本義を思い出すべきなど怒りの声は続き、近々での退職を宣言する者まで現れる。止むことなき怒号が飛び交うなか会合は強制終了。配布された資料をその場で破り捨てる者や紙飛行機にして飛ばす者もいる。カオスである。

 休憩時間に社食に行くと「価格改定のお知らせ」が貼ってある。ほとんどのメニューが20円ほど値上げ。今年に入ってもう2回目の値上げである。

「ごめんねえ。お米屋さんから値上げをお願いされちゃってねえ。最近は卵も高くてねえ」と食堂のお母さんが溜め息交じりにぼやく。海老と青菜の中華炒め定食(560円)を食べる。

 夜、賃労働を終え帰宅。隣人の郵便受けに新たな郵便物が届き続けている。全保連からの「訪問のお知らせ」、日本年金機構からの督促状、裁判所からの特別送達。もしかして退去の手続きを踏まずに夜逃げしたのか?

 

10月23日(木)

 午前9時起床。賃労働は休み。HYPER SBI 2を立ち上げて株価を監視。先日アマゾンに注文しておいた『日経マネー』12月号を郵便受けから取り出す。隣室の郵便受けは相変わらずも、配達員によって押し込まれた形跡あり。

 『日経マネー』12月号は創刊40周年記念号と称して個人投資家特集が組まれている。テスタ、桐谷さん、片山晃(五月)、DAIBOUCHOUらスター投資家たちのインタビューや投資手法・哲学が満載でかなりおもしろかった。こういう投資系の雑誌は毎号大体同じような内容しか書いてないので一度読んだら処分するのだが、これは捨てずに取っておこう。

 昼過ぎ。スーパーの激安PB袋塩ラーメンを作り、鍋から直接食べる。洗い物の負担を減らすライフハックである。

 食後に、先月、旧友夫妻と会った時に話題に出た、現実攻略系YouTuber、天竜川ナコンの動画を久々に見る。

www.youtube.com

 『現実実況プレイ 特別編~何者にもなれなかった自分 攻略~』は名作である。

「初心者さんは、ついつい全てを投げ出してしまいがちですが、ここで、注意です」「絶対に、目の前のことを一つ一つやりましょう」「結局、自分はどこまでいっても、自分にしかなれませんよねえ!」「まずは、部屋を掃除します」「その後、洗濯をします」「また、切らしていた生活用品を買いに行きましょう」「清々しくてワロタ」「当たり前のことを当たり前にやるだけで、気持ちが良いですよねえ!」「その後は、5分でも良いので、誰にも頼まれていないけど、自分がやった方が良いと信じられることをやりましょう」「確かに、全て無駄なことなのかもしれねえ。一周遅れなのかもしれねえ。それでも確かに自分なりに頑張ってはいることを、他でもない自分が知っていますよねえ!」

 との攻略法に従って、歩いて近所のドラッグストアへ行き、カビキラー、パイプユニッシュサンポール等を購入(カタカナ多いな)。さっそく開封して風呂と流し台とトイレを掃除。清々しくてワロタ。気持ちが良いですよねえ!

 その後、カクヨムに連載中のラノベっぽいなにかを少し執筆。忘れているわけではない。が、更新が途絶えてしまっていて読者には申し訳ない。

 

10月24日(金)

 昼過ぎから雨。肌寒い。19時半より、飯田橋の貸会議室にて、ゴンチャロフオブローモフの夢』(安岡治子訳、光文社古典新訳文庫、2024年)読書会が開催される。

 今回は前回と異なる綺麗めの貸会議室を利用したが、なぜ貸会議室の入っている建物というのは、こうも場所がわかりにくいのか。「え、ここ?」となる参加者多数。

 実験的に平日夜に開催してみたが、新規の参加者も含めて計8名が参加。

 課題図書、光文社古典新訳文庫の『オブローモフの夢』は、ゴンチャロフオブローモフ』の第1部9章を独立させて文庫化したもので、参考として『オブローモフ』全体の抄訳が掲載されている。

 『オブローモフ』はロシア文学どころか世界文学史においても重要な作品であるらしく、私が大学生の時分に、米川正夫訳の岩波文庫版を読もうとしたのだが、下巻は短いとはいえ上中下巻の三冊に及ぶ大作であり、しかも主人公のオブローモフは上巻の最後までベッドから起き上がらないという有り様で、早々に挫折してしまい、どんな話なのかも結局わからないままであった。

 『オブローモフの夢』は長編『オブローモフ』に先立って発表された。いかにして主人公オブローモフという人物が形成されたのか、彼の生い立ちが詩的に描かれている。農奴を抱える貴族の家庭に生まれ、靴下まで乳母や召使いに履かせてもらって、友だちに交じって雪合戦に興じることすら許されないという家庭環境で、そりゃベッドから起きて働きに行くなんてごめんだよなという感じ。

 参加者たちと、席替えしながら自由に議論。参加者の中にはロシアに留学経験のある方や独学でロシア語を勉強して筆記体まで習得している方がいて驚く。様々な文献に当たった、かなり高度な内容の議論も展開される。

 昔から痛感しているのだが、私は批評的な読み方というのができない。どうしてもただの感想になってしまう。だから、感想を書く。『オブローモフ』は日本でいえば高等遊民というか、腐っても貴族だし寝てるだけで領地からカネが転がり込んでくる経済的に不自由ない有閑階級、それなりの教育を受け先進的な思想を持つ知的エリートが、働きたくないだの、他者と蹴落とし合う競争はしたくないだのと駄々をこねまくる話で、ざけんなよと思ったりするのだが、しかしオブローモフはどこまでも純粋な魂を持った男で憎めないし、彼の働きたくない、生活なんて煩わしい、ずっと寝ていたいという思いは誰しもが抱いているもので、痛切なものを感じさせるし、普遍的である。私はちょうどオブローモフと同じくらいの年齢だが、この作品を20歳そこらの若い時に読んでも、その真価はわからなかっただろう(読んだのは抄訳だけだけど)。

 読書会後、片付けをしながら参加者の方々としばし雑談。他の読書会事情などを聞く。書店の事情に詳しい方が「ビジネス書は売れているが人文書は全然売れてない」と言っていた。

 次回も開催予定だが、課題図書、時期は未定。年末年始は人も集まらないだろう。

 ところで、Kindle Unlimitedはすごい。突然終了したりするので注意が必要だが、光文社古典新訳文庫が読み放題である。週刊文春も読める。無限に時間が潰せてしまう。

 

10月27日(月)

 日経平均株価終値最高値更新記念パピコ。5万512円。

 高市相場3rd。夕方、トランプ大統領来日。明日、日米首脳会談。

 

10月29日(水)

 日経平均株価終値最高値更新記念パピコ。5万1307円。

 値上がり銘柄数約500に対して値下がり銘柄数約3000。一部のAI・テック株が指数を押し上げている。私はバリュー株中心のポートフォリオのため持ち株は軒並み下げ。怪しい雰囲気。

 

10月30日(木)

 日経平均株価終値最高値更新記念パピコ。5万1325円。

 

10月31日(金)

 日経平均株価終値最高値更新記念パピコ。5万2411円。

 もう10月が終わる。今年ももうあと二ヶ月で終わる。早すぎる。明日から世間は三連休らしいが、底辺単純労働者には関係ない。ただひたすらに憂鬱である。

 好きなことを仕事にしよう、一度きりしかない人生なんだからやりたいことをやろう、などというのは詐欺である。では、どうするか? オブローモフシチナさ!

浮かぬ顔のオブローモフにオリガは、働くように、と言う。

「働くことよ。なるべく頻繁に人と会うこと」

「働くですって! 働くことができるのは、何か目的があるときですよ。僕にどんな目的があると思う? そんなものはありはしない」

「目的──それは生きることよ」

「何のために生きているのかわからないと、一日一日を何となく生きることになる。ああ、一日がやっと終わった、一夜がやっと過ぎたと喜んでも、夢の中でも、何のために今日を生きたのか、明日を生きるのだろうという退屈な疑問に思い悩むのです」

「何のために生きたのか、ですって! 誰かの存在が不要だなんてことがあり得るでしょうか?」

「例えば僕の存在がそうかもしれませんよ」

「あなた、今まで、あなたの人生の目的がどこにあるのか、ご存じなかったの? 私、そんなこと信じません」

「僕はもはや、人生の目的があるべき場所を通過してしまい、この先にはもう何も無いんですよ。何のために、誰のために僕はこれから生きてゆくのか? 人生の花は散ってしまったのです」

 

ゴンチャロフオブローモフの夢』(安岡治子訳、光文社古典新訳文庫、2024年)Kindle版、抄訳 第二部