㉙法華経:薬草喩品第五〜心安らか穏やかに生きるとは

このブログの⑤でご紹介しました薬草喩品第五には、法華経信仰の功徳である「現世安穏」が説かれています。

これは法華経を信じ実践する者はこの世で安穏に生きて行けるという功徳で、法華経信仰は現世利益のある信仰であると言われる理由の一つです。

では安穏に生きる、とはどういう事でしょうか?字句の意味は「心安らかに穏やかに生きる」と言う事ですが、具体的にはどのような状態でしょうか。

お金が無い、食物が無い人はそれらが得られたら安穏でしょうか?孤独で寂しい人は友人や恋人、家族が得られたら安穏でしょうか?何かの欲求を満たされれば心は安穏になるのでしょうか?

煩悩のかたまりである人間の欲求は尽きる事がありません。ある欲求が満たされればまた新しい欲求が次から次へと生まれるのです。これでは心が安らか穏やかになりません。

苦しみから解放されたり悩みや問題が解決すれば安穏でしょうか?一時的にはホッとするでしょう。けれど煩悩の塊である人間の悩み苦しみもまた尽きる事がありません。次から次へと新しい悩み苦しみが現れます。これではとても安穏とは言えません。

しかし問題が起こらない、苦しみの無い人生などありません。これは法華経信仰者も同じです。けれど、法華経信仰により眠っている仏界・仏の生命を目覚めさせ、仏の知恵と勇気で乗り越えていくことができます。この体験を積み重ねて生きて行く事により、いつか自分の人生に自信と安心が得られるようになるのです。これが

   現世安穏という功徳だと思います。

さあ今日も成すべき事、やらねばならぬ事に立ち向かいましょう。現世安穏を掴み取るために。

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㉘業(ごう·カルマ)と輪廻転生

仏教の考えに「輪廻転生」と「業」があります。簡単に言うと人は死んでも永遠に転生、生まれかわる。新しい生で幸福になるか不幸になるかは前世の行いの蓄積=業による、という事。すなわち今現在幸福な人は前世の行いが良かった、善行を積んだからその報いで幸福になった。逆に今現在不幸な人は前世の行いが悪かった、悪行を積んだからその報いで不幸になった、という事です。

この悪行の業を消さなければ永遠に不幸に見舞われてしまうので、生きているうちに善行を積んで悪行の業を消さなければなりません。

しかしながら人間はなかなか善行は積めません。特に不幸な人程ますます悪事を働いて悪業を大きくし、ますます不幸になっていき、遂には究極の不幸=無間地獄に落ちてしまう。なぜ人間は善き行いができないのか?それは我々は

    煩悩のかたまりだからです。

この煩悩を克服し、最高の善行を積み、過去世の悪業を消し善業を積んで現世と来世で最高の幸福=仏陀となる方法が

  法華経に帰依し人にも説いていく事です。

このブログに触れた方は法華経に縁を持ったのです。その縁によりいずれ発菩提心を起こし法華経に帰依する事でしょう。その時が一日も早く訪れる事をお祈りいたします。

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㉗真の仏教は仏にすがりません。

おおよそ、ほとんどの宗教の内容はその絶対的な存在である神等の信仰対象に信者はひれふし、すがる、助けを求めるというものです。いわゆる他力本願ですね。

仏教も一般的には「仏様」という超絶的な絶対者の慈悲にすがるもの、と思われていますが、

   真の仏教=法華経は違います。

仏と言うのは「仏陀ブッダ)」=「悟った人」という意味であり、法華経という絶対的真理、法を悟った人の事です。一般的には仏陀とはお釈迦様の事ですが、確かにお釈迦様は仏陀ですが、お釈迦様はこの地球上で初めて仏陀(悟った人)になったにすぎません。いわば先駆者です。しかし、自己の悟りだけでなく他者、すべての人間から苦しみを消すために、すべての人を仏陀にさせようと法華経を説き続けているから尊敬されている、だから「世尊」とも呼ばれています。

真の仏教は、個々の人間が自ら仏陀になり、悩み苦しみを自らの力で解決するというものです。(いわゆる善知識、諸天善神の加護という働きはありますが、それを引き出すのも自身の力です。)自力本願です。

なぜ皆が仏陀になれるのか?法華経という法が皆に開かれているからです。そして仏性、仏界という生命を皆平等に持っているからです。

真の仏教は仏にすがりません。仏になるための法、教えなのです。

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㉖続⋮如来寿量品第16〜死ぬ理由

㉕で如来寿量品第16から、人が生まれてくる理由を書かせて頂きましたが、今回生と対をなす死、人が死ぬ理由について書かせて頂きたいと思います。

如来寿量品第16では、お釈迦様=仏の寿命は永遠であり、お釈迦様が仏になったのは宇宙の誕生よりもはるかな昔(五百塵点劫前の昔)であり、それ以来いろんな世界、星に出現して人々に法華経を説いてきており、この地球で昔も今もこれからも、地球が消滅したら違う惑星、世界で永遠に説き続けることが明かされます。?はて歴史的事実としてお釈迦様は紀元前300年位に亡くなったはず。これはどういう事なのか?これは「方便現涅槃」といって、本当は死んでいないのに死んだように衆生に見せていると言う事なのです。なぜそんな事をするのかというと、仏が死なず永遠に生きていたら人々はいつでも仏に会えると思ってありがたみを感じなくなり、仏道修行を怠ってしまうからです。だから方便(手段)として死んでみせたと言う事なのです。よく親孝行したい時に親はなし、といいますがこれと同じですね。人は無い物ねだりをする、会えないと思うと会いたくなるものです。

そして仏に会いたいと発菩提心(仏になろうと決意する事)を起こし仏道修行に励む時、いつでも日蓮大聖人が霊山浄土と呼ぶインドの霊鷲山でのお釈迦様の法華経の説法の場で、お釈迦様に会う事ができると説かれています。

このように仏の命は永遠なのですが、これは言い換えると我々衆生の命、生命も永遠の寿命を持っていると言う事です。なぜなら、

我々衆生の生命にも仏界と言う仏の生命があり、我々も仏になれるからです。

このブログで何度も書いてきましたね。なので我々もお釈迦様と同じで方便として死ぬのです。死ぬ、寿命、タイムリミットがあるから仏道修行を頑張れるのです。これが死なないとなると、いつでもできると思い怠けてしまうのです。これは仏道修行に限らす人間の行動すべてにあてはまります。時間は有限、期限があるから人は頑張って生きる。寿命があるから今日一日を充実させよう、今日を楽しく生きようとする。だから死ぬ、寿命がある方が人は幸せに生きれるのです。そして寿命尽きて死んでもそれはあくまでも方便であり、生命自体は永遠に存在し、因縁によって再びどこかの世界に生まれるのです。

いや、それでも私は死にたくない、永遠に生きていたいという人もいるかもしれませんが、想像してみてください。永遠に死なないと言う事は時間が永久にあるわけですからこの世界のありとあらゆるすべての遊び、スポーツ、旅行、勉強、読書等をやれる事になるでしょう。これ自体はとても素晴らしい事ですが、いつかやり尽くして、または飽きてしまって退屈します。そうなるとおそらく何かやる気も無くなるでしょう。退屈が永遠に続く。これはもう永遠の時間と言う牢獄につながれた状態ではないでしょうか。思うにいづれ気が狂うと思います。それでも永遠に生きたいですか?(余談ですが、手塚治虫先生の「火の鳥」未来編でしたか、死ねない主人公の苦しみを描いていましたね。)

生まれて死ぬ、生死とは一見無駄なサイクルを繰り返しているように見えますが、このように素晴らしい事なのです。人生を生ききりましょう。

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㉕如来寿量品第16〜この世界は美しい

私もあなたも令和7年7月16日現在、この日本に、地球に生きて存在しています。なぜ存在しているのでしょうか?言い換えればなぜこの世界に生まれてきたのでしょうか?そしてなぜ死んで行くのでしょうか?この生死はもちろん人間だけでなく地球上のありとあらゆる生物の持つ宿命、法則です。いや、生物に限らずあらゆる物、星や宇宙ですら誕生と消滅を繰り返しています。不思議です。どうせ死ぬ、消滅するなら生まれて来なければ良いのに、と考える方もいるでしょう。特に今生きていくのが大変、辛いと感じている方には。逆に今生きているのが楽しい、幸せだと感じている方は生まれてきて良かったと感じているでしょうし、いつまでも生きていたいと願うでしょう。

このように今現在幸福ならば生は肯定されます。逆に不幸であれば否定されます。人によっては自ら命を絶ってしまいます。 

 だから人は皆幸福にならなければなりません。

人は幸福にならなければ生まれてきた意味を見いだせない。つまり、

人は本来幸福になるために、生きている事を楽しむために生まれて来るのです。

しかし幸福を求めて生まれて来ても幸福にはなれない。なぜか?

我々衆生は煩悩に取り憑かれた凡夫だからです。

快楽、欲望を満たすなど儚い喜びは容易く手に入れられます。しかし、本当の幸福はなかなか手に入れられません。なぜなら本当の幸福とは「絶対的幸福」=仏になる事です。

法華経如来寿量品第16では、この世界は本来仏の住む仏国土であり、人々が楽しく幸せに生きていける場所なのですが、煩悩のせいで我々衆生(人間)には火炎が燃え盛る地獄に見えてしまい、常に存在し衆生救済のために法華経を説いている仏の姿も見る事ができない、と説かれています。

この煩悩から解放されるには仏になるしかありません。仏になった時、地獄に見えるこの世界はとても言葉では表現できない程の美しい、素晴らしい仏国土に変わるのです。そして日蓮大聖人が「霊山浄土」と呼ぶ霊鷲山でのお釈迦様の法華経説法の場に立ち会えるのです。皆さん法華経に帰依し幸せになりましょう。

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㉔怨みを消すには?

AがBを殺したとします。あるいはA国がB国に爆撃し、多くのB国民が死んだとします。当然B側の親族、国民等は怒り、怨み、A側に反撃、復讐するでしょう。そしてその報復によって今度はA側に多大な犠牲者がでるでしょう。するとさすがにA側の一部から自分達が仕掛けた事で自分達に非があるのだからこれで止めにしよう、と言う者がでてきますが、愛する者を殺された者の怒り憎しみは収まらず、その者の声は聞かず、場合によっては反対者を殺してしまって再びB側を攻撃する。そしてB側は同じようにA側に再度復讐する。そうやって両側の報復合戦、殺戮はどんどんエスカレートしていき、そのうち目的が復讐を超え「敵の殲滅」に置き換わり、殺し合いは永遠に続き、おそらくAもBもこの地上から消えてしまうまで続くのでしょう。

このように怨みを怨みで解決しようとしても根本的に解決しません。お互い不幸のままです。ではどうすれば解決するのか?

お釈迦様は紀元前約400年前におっしゃっています。それは

怨みの問題は怨み自体を消すしか解決しない。

という真理です。簡単な事です。しかしながら、

 我々凡夫は煩悩のためそれができません。

それができるのは

       仏のみです。

よって、全人類が仏にならなければこの娑婆世界(地球)から怨みが消える事はありません。という事は

全人類が仏になるしか世界平和は実現しない。

私はそう確信しています。

大きな戦争が起こる度、人類は戦争が起きないための「国連等のしくみ、条約などのルール作り」等の努力をしてきましたが、ご承知のとおり何の役にもたっていません。しょせん人間の心次第だからです。心が汚い者はルールをやぶり嘘を平気でつきます。なのでもう、急がば回れ

  全人類が仏になるしかないのです。

仏になる方法はこのブログで何度も言ってきました。それは、

法華経に帰依し、日々南無妙法蓮華経を唱え、仏界の生命を体現して生きていく事です。

「全人類が法華経に帰依し南無妙法蓮華経を唱える日が一日でも早く来てこの娑婆世界が霊山浄土となりますように。」このように私は毎日の唱題で祈っています。

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㉓畜生道に堕ちているあなたにも仏界がある

気のせいでしょうか、最近子供や女性等いわゆる弱者に対する暴力等の犯罪が多い気がします。

このような自分より弱い者に対して暴力行為をするような生命状態を、法華経では畜生道といいます。要するに野生の動物状態です。

野生動物は自分よりも弱い獲物を襲って捕らえ食べます。エサにするのは常に自分よりも弱い者です。決して自分より強い者は狙いません。なぜなら自分が食われてしまうから。常に腹を空かせるという満たされない欲望に支配され、自分よりも強いものに食われる恐怖におびえながら獲物を求めさまよう、惨めで浅ましく醜い生命状態です。私達には皆この生命が備わっていますが、けれどこれに自分を支配されてはいけません。支配されている人を畜生道に堕ちている、と言います。

法華経では十界と言って、人の生命の状態を十種に分類し、地獄界、餓鬼界、畜生界等最低の苦しみの状態等から仏界と言う最高の仏の状態まで10種の生命状態を説いているわけですが、どんな界に堕ちている状態の生命にもこの仏界が存在しているのです。すなわち

 畜生道に堕ちているあなたも仏になれる

ただし、普段は畜生の生命に覆い隠されています。いわば泥の中に埋まってしまっているのです。仏界を出現させるにはこの泥を洗い流す必要があります。ではどうやって?

 南無妙法蓮華経の唱題で洗い流すのです。

この記事を読まれている畜生道の方は、さぞかし今までの行いを悔いてる事でしょう。ぜひとも唱題に挑戦し、仏界の生命に目覚め、畜生道から這い上がって頂きたい。

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