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三浦半島の北側の境界線を、歴史的観点から考察しましょう。
必ずしも地形だけが境界を分けるのではない。
三浦半島の北側の境界:歴史的観点からの考察
三浦半島の歴史的な境界は、郡の区分、交通の要衝、中世の武士団勢力、などから考えることができます。
とくに、古代からの郡境(ぐんざかい)と、三浦氏の支配領域やが重要な手がかりとなります。
① 古代の行政区分(郡境)による境界
古代日本では、律令制度に基づいて地方行政が行われており、神奈川県域は以下のように区分されていました。
相模国(現在の神奈川県中西部)と武蔵国(現在の神奈川県東部・東京・埼玉の一部)の境界が存在しました。
そのものずばり、「境川」という川がありますね。これは相模・武蔵の両地域の「境」というニュアンスですね。

上流部 武蔵国と相模国を流れることから、その名称が付けられました。
中流部 中流部では、高座郡と鎌倉郡の境界をなしていたため、その名が付けられたと考えられています。
下流部 下流部では、現在では市境が「境川」で分けられていない地域もありますが、歴史的には境界をなす川として重要でした。
現在の名称 現在でも、その歴史的な背景から、「境川」という名称が使われています。
大化の改新(645年)でヤマト王権が中央集権化を進める過程において、現在の神奈川県域には武蔵国と相模国が成立しました。県東部(ほぼ横浜市と川崎市全域)は武蔵国の一部となり、それより西の地域は相模国に編入されたのです。
行政単位としての国が設置されると、首長である国司(こくし)が任命され、国司が政務をとる政庁(国衙(こくが))、すなわち国府(こくふ)が定められます。
ところが相模国の場合、日本で唯一、現在に至るまでに国府の所在地が特定されていません(武蔵国の国府は東京都府中市)。というのも、相模国の国府は三遷したために、所在地があやふやになってしまっているのです。(いまのところ平塚市四ノ宮説が有力)

そして三浦半島は相模国の三浦郡として認識され、北側は鎌倉郡や久良岐郡(現在の横浜市南部)と接していました。
この郡境(ぐんざかい)が、歴史的な三浦半島の「北限」を示す一つの手がかりとなります。
三浦郡と久良岐郡の境界 → 現在の横浜市金沢区と逗子市の境界あたり。
鎌倉郡との境界 → 鎌倉市北部(大船・今泉)付近。
② 交通と軍事上の要衝による境界
中世以降、鎌倉幕府が成立すると、交通の要衝として鎌倉の北の守りが重要視されました。
巨福呂坂(こぶくろざか)や名越切通しなどの古道は、三浦半島と内陸部を結ぶ戦略的な要衝でした。
これらの防衛ラインは、三浦半島の北端を防衛線と見なしていた証拠です。

③ 中世の三浦氏の勢力範囲による境界

三浦半島は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、三浦氏が支配していた地域として知られています。三浦氏の本拠地は現在の三浦市周辺で、勢力は北へ広がっていました。
三浦氏の支配の北限は、おおむね現在の鎌倉市大船付近や逗子市周辺と考えられています。
鎌倉自体は源氏の本拠地であり、三浦半島の文化・政治的な中心として特別な位置づけでした。
衣笠城(横須賀市)が三浦氏の主要な拠点であり、ここから北へ向かうと源氏勢力と接する地域となります。

結論
歴史的には、大船—逗子—横浜金沢区のラインが三浦氏の勢力と他勢力の境界線に近いと考えられます。
【三浦半島の歴史的な北側境界線のまとめ】
古代の郡境: 三浦郡と久良岐郡、鎌倉郡の境界(現・横浜市南部、逗子市あたり)

補足: 参考になる史跡や地名
衣笠城跡(横須賀市): 三浦氏の本拠地跡
名越切通し(逗子・鎌倉間): 鎌倉防衛のための要衝
六浦(横浜市金沢区): 港町として古代から発展し、境界の目安となる地域