人間関係が減っていく時期に何が起きているのか

 

人間関係が減っていく時期に、何が起きているのかを整理してみる。

人との関係が減っていく今、浮かんだ問い

ここ数年で、
人とのつながりが少しずつ変わってきた。

以前は当たり前のようにあった関係が、
気づけば自然と途切れ、
今はかなり限られた状態になっている。

この状況を前にして、
自分の中に二つの問いが浮かんだ。

  • 人との関係に疲れてしまったのか
  • それとも、人生の転換期で関係が組み替わっただけなのか

人との関わりが「面倒」に感じ始めている感覚

正直に言えば、
人と関わる仕事そのものが、億劫に感じられることが増えている。

ただ、生活を維持する必要があるため、
完全に人との関係を断つことはできない。

人間関係を避けたい気持ちと、
生活の現実との間で、
感覚が噛み合っていないような違和感がある。


仕事が思ったように進まない今の状態

働き方を切り替えようとする中で、
まだ自分のリズムをつかみ切れていない。

これまでの環境で身についていたペースが抜けず、
今は作り直している途中にある。

成果や手応えが見えにくく、
不安が出やすい状態だと感じている。


過去の人間関係を振り返って見えてきたもの

以前関わっていた人とのやり取りを、
ふと思い返すことが増えた。

「もっと上手くやれたのではないか」と考えることもあるが、
最終的には、
価値観や判断軸が本質的に合わなかった
という結論に戻る。

別の場面でも、
似た構造の関係性に違和感を覚え、
距離ができた経験があった。

なぜ同じ時期に、
似たかたちの人間関係が重なったのか。
その疑問が残っている。


「地位や立場に重きを置く人」との関係性

学びや振り返りを通して、
ひとつの共通点が見えてきた。

それは、
地位・立場・肩書きに強く依存する人との関係だった。

自分は、組織や集団の
「本質」や「意味」を重視してきた。

その違いが、
摩擦や衝突を生んでいた可能性が高いと、
今は整理している。


昇華の途中で起きる感情の揺れ

頭では、
「もう終わったこと」「整理の段階に入っている」
と理解している。

それでも、
ふとした瞬間に感情がぶり返すことがある。

これは未練というより、
整理の途中で起きる自然な反応だと捉えている。


環境を離れた判断を振り返って

当時の環境から離れた理由は、
評価や適応の問題だけではなかった。

そのまま居続けていれば、
心身に無理がかかっていた可能性が高い
と、今は感じている。

生活との兼ね合いで、
簡単に動けない人も多い中で、
自分は比較的早く距離を取った。

それは逃げというより、
自己保存が働いた結果だったのかもしれない。


人間関係が減ったことの捉え直し

人が離れていったというより、
無理をして維持していた関係が、自然に切れた
と考えている。

今は人間関係が少ないが、
それを失敗や孤独だと決めつける段階ではない。

関係の再編成、
あるいは空白の時期として、
捉え直している。


今は答えを急がない

人間関係が減ることは、
必ずしも悪いことではない。

疲れと転換期は、
同時に起こることもある。

今は、答えを出す時期ではなく、
自分の状態を観察し、
立て直す時期なのかもしれない。

この感覚を、
どう扱っていけばいいのか。
その問いを、しばらく持ち続けてみようと思っている。

期待と現実のズレが、これからの自分の軸をはっきりさせた話

退職の挨拶で感じた、思いがけない好印象

退職の挨拶で、隣町の同じ事業所を訪れた。

対応はとても丁寧で、前向きだった。
こちらの話をよく聞いてくれ、空気も柔らかい。

そのやり取りの中で、
「もしかしたら、次につながるかもしれない」
そんな淡い期待が、自然と生まれていた。

この時点では、
評価されている感覚可能性が少し開いた感覚があったと思う。


求人情報を見て、現実とのズレに気づく

その後、改めて求人情報を確認した。

実際に出ていた募集は、
自分が想定していた職種とは違っていた。

その瞬間、頭に浮かんだのは、
「やっぱり、世の中そんなに甘くはない」
という言葉だった。

期待が完全に否定されたわけではない。
ただ、現実とのズレをはっきり認識した。


不安・期待・決心が同時にある状態

その後、自分の感情を整理してみると、
三つの感覚が同時に存在していることに気づいた。

  • 少しの不安
  • それでも残る淡い期待
  • 前に進もうとする決心

どれか一つではない。
楽観でも、悲観でもなかった。

揺れてはいるが、止まってはいない。
そんな感覚だった。


「甘くない」という言葉の意味が変わった

ここで、ひとつ気づいたことがある。

「世の中は甘くない」という言葉は、
諦めや自己否定ではなかった。

むしろ、
現実を引き受けた感覚に近い。

誰かが用意してくれる道を待つのではなく、
自分で舵を取るしかない、という自覚。


これまでの職場経験と今の感覚

これまでの職場では、
地位や名誉よりも、組織の本質を重視してきた。

社内政治の存在は理解していたが、
そこに積極的に乗ることはしなかった。

結果として、組織の中では浮きやすかったが、
自分の軸だけは守られていたと思っている。

今回の出来事も、
その延長線上にあるように感じた。


「風の時代」という言葉で整理できたこと

組織に全振りしない働き方を選ぶ。

それは逃げではなく、
価値観の切り替えだと感じている。

所属より役割。
肩書きより信頼。
安定より可動性。


この揺れは間違っていない

好印象だったからといって、
すぐにポジションが用意されるわけではない。

期待して落ち込むほど、
世の中は単純でもない。

でも、評価がなかったわけでもない。

今は、不安もある。
期待も少しある。
それでも前に進む覚悟が一番大きい。

この状態を「間違っていない揺れ」として、受け止めている。

あなたは今、
期待と現実のズレを、どう受け止めているだろうか。

退職後にかかってきた一本の電話が、組織の本質を静かに示していた


退職後にかかってきた一本の電話

今日、退職した職場から一本の電話があった。

連絡をしてきたのは、私の後任となった職員だった。

内容は、以前私が事務局業務を担っていた「ある団体」の研修についてだった。
その研修では、講師を組織内部の職員が務める予定だったが、
実際には私以外に講師を務められる職員がいない状況だったという。

私がすでに退職していたため、
団体側は「外部講師」として私に依頼する方向で調整を進めていたらしい。

しかし、その話は、
退職した職場の前の上司たちによって止められた。


面子を守るために、関わらせないという選択

その職員は電話口で、
「組織として面子を保ちたいという判断だと思う」
と話していた。

研修自体は実施する。
ただし、

  • 偶然その場に来たことにする
  • 電話で少し確認する形にする

など、正式な依頼ではない曖昧な関わり方でもその機会を作りたいという気持ちである。

この話を聞いて感じたのは、
後任の職員や団体の判断そのものに対する不信感ではなかった。

むしろ、後任の職員は状況を冷静に把握しており、
団体側も主体的に判断を進めていた。

それでもなお、
「何とか内部で留めてほしい」
ということで、話が止められた。

業務上の合理性ではなく、
組織の面子を守るために、関係性そのものを断つ

その判断を下したのが、
現場でも団体でもなく、
「組織」という立場だったことに、強い違和感が残った。


腹立たしさの正体は、依頼されたことではなかった

この話を聞いて、正直なところ腹立たしさを覚えた。

それは、
依頼されていたことが止められたからではない。

団体が主体性をもって判断したことを、
事務局という立場にある組織が、
業務の合理性ではなく、体裁を理由に止めた

その構造に、違和感を覚えたのだ。

本来、事務局の役割は、
団体の意思決定を支援することであって、
介入することではないはずだ。


外部からの評価と内部での否認

一方で、不思議と冷静な自分もいた。

団体から評価を受けたこと自体は、
前の組織にとっても、本来は誇るべきことだったはずだ。

自分が優秀だったかどうかは別として、
外部から必要とされたという事実は、
率直にありがたいと感じた。

それを正式に認めない、
内部で何とかさせようとする考え、
今回の出来事の本質なのだと思う。


後任者が抱え込まされる構造

後任の職員が置かれている立場も想像できる。

実務は回らない。
しかし、組織の判断には逆らえない。

結果として、
曖昧な形での協力を模索するしかなくなる。

これは、個人の問題ではない。
構造の問題だ。


「もう戻らなくていい」という確認

今回の電話を通して、
改めてはっきりしたことがある。

私はもう、
「筋の通らない形で誰かの都合を埋める役割」を、
引き受ける立場にはいない

ということだ。

感情としては腹立たしさはあった。
しかし同時に、
距離を取る判断が間違っていなかったことも、静かに確認できた。

この出来事は、
過去に戻る合図ではなく、
「もう戻らなくていい」という確認だったのだと思っている。

 

福祉を掲げる職場で、なぜ声を上げた人が排除されるのか


福祉を学び直す中で、過去の職場を思い出すことが増えた。

社会福祉士のレポート課題で扱ったのは、「社会問題の社会的構築」や「スティグマ」という概念だった。

問題は、最初から問題として存在しているわけではない。
誰かが「これは問題だ」と認識し、言語化し、共有して初めて、社会問題として立ち上がる。

逆に言えば、問題を問題として扱わなければ、それは存在しないことになる。

学べば学ぶほど、以前働いていた福祉の職場に対する違和感が、はっきりと輪郭を持ち始めた。
「福祉=善意」「福祉=正しさ」というイメージと、現場で起きていた現実とのズレだった。


あの職場では、問題を指摘しても、ほとんどの場合「なかったこと」にされた。

制度上の矛盾、利用者への対応の歪み、職員間の不公平
どれも声に出した瞬間、空気が変わる。

話し合いは成立しない。
対話は途中で遮断され、共有されることはなかった。

結果として起きていたのは、組織全体で「問題を構築しない」圧力だった。

問題が存在しないことにしておけば、責任も変化も必要ない。
その構造の中で、問題を見ようとした人間だけが、浮いていく。


決定的だったのは、上司の存在だった。

送別会の席で、他の職員には労いの言葉が向けられた。
一人ひとりの働きや貢献を、もっともらしく評価する言葉が続いた。

その流れの中で、私に向けられた言葉はこうだった。

「正直、何をしていたのか分からなかった」
「いつも別の課に行っていた印象しかない」

公の場での、明確な否定だった。
業務内容や役割についての事実確認はなく、印象だけが語られる。

評価を切り下げ、「問題のある人」というイメージを場に固定する行為だった。

直属を外れてからも、干渉や嫌がらせは続いた。
立場が変わっても、関係性は終わらなかった。


なぜ、誰も止めなかったのか。

「気に入らない人を追い込む」タイプだった。
過去にも、退職に追い込まれた職員が複数いたことを、後から知った。

誰もその人を信頼していなかった。
それでも誰も逆らわなかった。

理由は単純で、自分が次の標的にならないためだ。

沈黙することで、自分の居場所を守る。
その選択が積み重なり、集団全体が沈黙を選ぶ空気ができあがる。


振り返って思うのは、
問題を起こしていたのは私ではなかった、ということだ。

問題を見える形にしようとした側が、
「厄介者」「扱いづらい人」としてスティグマを負わされる。

それは個人の性格や能力の問題ではない。
組織が自分たちを守るための、防衛メカニズムだった。

問題を指摘する人を孤立させれば、
問題そのものを見なくて済む。


だから、退職は「逃げ」ではなかった。
私にとっては「卒業」だった。

理念と行動がこれほど乖離した場所に居続けることは、
自分を削り続けることと同義だった。

退職後、隣町の同業者から声をかけられた。
そこで初めて、評価は一つの組織だけで決まるものではないと実感した。


今、無職だ。
それでも不思議と、不安は強くない。

あるとすれば、目の前のレポート提出くらいだ。

それよりも、ひとつの問いが残っている。

問題を見える人が孤立する社会で、本当にいいのか。
福祉とは、本来、誰のためのものなのか。

この文章が、
どこかで同じような経験をした誰かにとって、
「自分だけじゃなかった」と思える材料になれば、それでいい。

声を上げた人が壊れたのではない。
壊れていた構造が、人を黙らせていただけだ。

評価されていても、居場所を失うことがある組織で起きたこと

 

仕事の結果を評価され、 組織の中でも一定の役割を果たしていると認識されている。

実際、ある時期には昇進が決まり、 次の年度の異動も正式に決定していた。

それでもその頃から、 評価とは別のところで、 「これはおかしいのではないか」と感じる出来事が、 少しずつ重なっていった。


評価と違和感は、同時に起きる

評価されていることと、 違和感を覚えることは、 必ずしも矛盾しない。

むしろ、 組織の中で役割を持ち、 責任ある立場になっていくほど、 見えてくるものが増えることもある。

その中で、 言葉にはしにくいが、 確かに引っかかる場面に出会うことがあった。


公の場で感じた、扱いの違い

ある節目の場で、 複数の職員が集まる公の場があった。

その場では、 多くの人に対して労いや評価の言葉が向けられていた一方で、 私に対してだけ、 仕事内容や役割を軽視するように受け取れる発言があった。

その場の空気もあり、 説明や反論をすることはできなかった。

強く印象に残ったのは、 発言そのものよりも、 「ここでは、そう扱われるのかもしれない」という感覚だった。


異動直前に起きた、不可解な出来事

翌年、業務の成果が評価され、 昇進と異動が決まっていた。

異動日は年度末。 しかしその数日前、 業務上の合理性がはっきりしない理由で、 職場の環境が変更されることになった。

結果として、 それまで使用していた執務スペースを離れ、 限られた期間ではあるが、 別の場所で業務を行う状況になった。

短期間とはいえ、 居心地の悪さと、 「居場所がなくなった」という感覚だけが残った。


誰かを責めたいわけではない

これらの出来事を振り返っても、 特定の誰かを非難したいわけではない。

ただ、次のような疑問が残った。

  • なぜ、このタイミングだったのか
  • なぜ、配慮が感じられなかったのか
  • なぜ、この判断を立ち止まって見直す仕組みがなかったのか

評価されていても、 大きな問題を起こしていなくても、 組織の構造や権限の使われ方次第で、 人は簡単に「居場所を失う」ことがある。


問題は、個人ではなく構造にあるのではないか

この一連の経験から感じたのは、 問題は個人の能力や姿勢ではなく、 権限を持つ人の判断が、 十分にチェックされない構造そのものにあるのではないか、 ということだった。

違和感を覚えても、 声を上げにくい空気があり、 沈黙することが「適応」とみなされる。

そうした状態が続く組織は、 少しずつ、しかし確実に疲弊していくように思う。


記録として残す理由

この文章は、 誰かを攻撃するためのものではない。

同じような違和感を抱えながら、 「自分が悪いのではないか」と 考え続けてきた人が、

もしかすると、構造の問題なのかもしれない

そう立ち止まるきっかけになればと思い、 記録として残すことにした。

福祉を学ぶほど違和感が強くなった理由

社会福祉士の資格取得を目指して学習を進める中で、
ある違和感が、日に日に強くなっていきました

それは、
「福祉を推進するはずの組織が、福祉的とは言えない行動をとっている」
という感覚です


福祉=善意という思い込み

福祉という言葉には、
「善意」「優しさ」「正しさ」といったイメージが強く結びついています

しかし現場や組織を見ていると、
善意や責任感が強い人ほど、苦しくなっていく構造があるように感じました

  • 問題に気づいてしまう
  • 放置した先の悪化が想像できる
  • 「誰かがやらなければ」と抱え込む

その結果、
助けを求めることができなくなり、沈黙し、孤立していく


人はなぜ「助けて」と言えなくなるのか

背景には、個人の性格だけでは説明できない、
組織や社会の構造があると感じています

  • 評価されることへの依存
  • 役割や立場で人を見る文化
  • 「できない=価値が下がる」という無言の圧力

人は次第に、
「人として」ではなく「役割と評価」で見られる存在になっていきます

弱みを見せることは、
人格の問題や能力不足として受け取られてしまいます


問題は、個人ではなく構造にある

違和感に気づいた人が「扱いにくい人」になり、
沈黙した人が「適応できる人」とされる

しかし本当に問われるべきなのは、
そのような振る舞いを生み出してしまう構造そのものではないでしょうか

問題は、
個人の弱さではなく、構造の硬直にあります


本来の福祉とは何か

福祉は、
「支える側」と「支えられる側」を固定するものではありません

状況やタイミングによって、
人は誰でも支える側にも、支えられる側にもなります

自立とは、すべてを一人で抱え込むことではなく、
必要なときに支援を選択できる状態
だと思います


最後に

正しさや善意が、
人を黙らせ、追い詰めてしまうことがあるります

その矛盾に気づいたとき、
自分を責める必要はないのだと思います

問題は あなたではない
構造の側にある

この文章が、
同じような違和感を抱えている誰かの、
言葉にならなかった感覚に、そっと触れるものであれば幸いです

退職後の不安と向き合う方法

2026年1月1日。新しい年の始まりである今日、私にとって特別な意味を持つ一日となりました。
昨日、私は26年と6ヶ月という長い期間を過ごした職場を退職しました。

この数字を改めて見ると、人生の大きな部分を捧げてきたのだと実感します。
振り返れば、本当にいろいろなことがありました。
喜びも、苦悩も、すべてが詰まった濃密な時間でした。

退職という名の「卒業」

退職という言葉を使いましたが、私の中では「卒業」という感覚が強くあります。
長年身を置いていた場所は、私にとって学び舎であり、成長の場でした。

世界の違いに気づいた瞬間

しかし、ある時から、自分がいる世界と、これから目指したい世界との間に、
明確な違いを感じるようになりました。

それは、決してネガティブな意味ではありません。
むしろ、次のステージへ進むための準備が整ったというサインだったのかもしれません。
だからこそ、今回の退職は、過去に感謝し、未来への希望を抱く「卒業」だと捉えています。

退職前に抱えていた不安

実は、退職前の2ヶ月間は、今後の生活について大きな不安を抱えていました。

収入への不安

収入がどうなるのかという現実的な不安。

時間の使い方への不安

これまでとは違う生活リズムの中で、時間をどう使えばいいのか。

自分は何者になるのかという不安

仕事を離れた自分は、一体何者なのか。
そんな漠然とした問いが、常に心の中にありました。

不安が消え、前に進もうと思えた理由

しかし不思議なことに、退職を迎え、新しい年を迎えた今、
その不安はほとんど消え去っています。

むしろ、心の中には、
「前に進もう」という気持ちと、
根拠はないけれど確かな「成功する」という感覚が満ちています。

これは、長年の経験と、
自分自身で決断を下したことへの自信から来ているのかもしれません。

新しい生活の始まりに思うこと

このブログは、そんな人生の転換期を迎えた私の「今日の思い」を記す場所として始めます。

新しい一歩を踏み出したこの感覚を大切にしながら、
これから始まる日々を、全力で楽しんでいきたいと思います。

2026年1月1日