1578年3月9日に倒れた謙信は、意識が戻らないまま4日後の13日に死亡してしまいました。謙信は前年の9月23日に「手取川の戦い」で織田家の北陸方面軍を率いる柴田勝家を撃破しています。今年は雪解けを待って新たに軍を起こし、上洛ないしは関東平定の遠征を行おうとしていた矢先でした。
当然のことながら遠征は中止、すぐに葬儀が行われました。出棺の際は、その左右を景勝・景虎らが固めており、この時点では上下の区別なく葬送の儀が行われていたことが分かります。
この後の流れですが、まずは通説の紹介から。
葬儀の後の24日前後、景勝がクーデターのような形で本城を占拠、金蔵を確保します。翌々5月に入り、各所で小競り合いが発生。景勝勢は本城から二の丸にいた景虎に対して鉄砲を撃ちかけます。高所からの攻撃に耐え切れず、景虎は春日山城から退去、上杉憲政の居城・御館へ身柄を移し、本格的な戦端が開かれる――という流れになります。

分かりづらいですが、左の画像は本丸から見た、二の丸・三の丸です。青色が本城部分で、その右下に見える赤色が当時の二の丸、景虎屋敷があった部分になります。本城との高低差は精々7~8mしかありませんが、当時は板塀や櫓もあったでしょうから、鉄砲を撃たれたとしたら相当厳しかったでしょう。ただ逆に言えば景虎は二の丸までは占拠できていたわけで、撤退するのは悪手だったのではないでしょうか(これに関しては後述します)。右の画像は頂上から見た上越の町並み。素晴らしい景観でした。見ての通り、柵がないのが素晴らしいのです。座ってゆっくり景色を鑑賞、当時の気分に浸れました。
これに異論を唱えているのが、乃至政彦氏です。以下、乃至氏の説に則る形で、御館の乱の推移を見ていきましょう。
そもそも景勝・景虎共に、乱に際して家臣らに送った多くの書状が残っているのですが、双方ともに「不慮の事態であった」旨を述べているのです。つまり突発的な事態であったことが伺われます。この突発的な事態とは何を指すのでしょう?
謙信の葬儀が終わり、景勝は道満丸を引き取ろうとしました。景勝の次に当主になるのは道満丸なわけですから、当然の話です。しかし景虎はこれを拒否したのではないか、というのが乃至氏の説です。
道満丸はこのとき8歳、成人までは手元で育てたい――これが景虎の考えでした。ここで議論が沸き起こりましたが、双方引かず平行線をたどりました。ですがまだこの時点では大事にはなっていません。そこでとりあえず景勝は実城へ入り、景虎は道満丸と共に春日山を退去、城下の屋敷へ移りました。これが24日のことです。この論だと景虎は、早い段階で二の丸を平和裏に退出、そもそも銃撃戦は起こらなかったことになります。
跡継ぎが景勝であったことが謙信の意志であったとするならば、景勝の実城入りは自然なことです。事実、実城入りした直後に景勝は数多くの家臣と世代交代の贈答を交わしていることから、この時までは大きな問題は発生していなかったようなのです。
事態が動いたのは、4日後の3月28日です。会津国境にある三条城を任されていた重臣・神余(かまなり)親綱が春日山城に了承なく、近在の領民から人質を集めたという報告があがってきたのです。
これを問題視した春日山は親網に詰問の使者を送りました。これに対して親綱は「先年、会津口でこうした動きがあった時、備えとして証人(人質)を集めたことがあります。今回も非常事態であったため、同じことをしたのです」と返事をしています。
実は謙信の死去に伴い、会津の蘆名盛氏が3月26日に家臣の小田切氏を使って上杉領へ侵攻するよう指示しているのです。会津口を守る親綱はいち早くこうした兆候を察知、近在より人質を集め防衛体制を固めようとした、ということになります。問題はこれを春日山の承認なく、現場の判断でやってしまったことにありました。
実のところ、謙信在任中であるならばこうした動きは黙認され、大事にならなかったかもしれません。越後における上杉家の統治は、中央集権度が極めて低い前時代的なもので、家臣らの領地における独自性もまた強かったのです。過去記事で紹介したように、そもそも謙信自身が古い考え方をする人間でした。
そんな土地柄を神懸ったカリスマ性で統治、強国で在り続けたところが謙信の凄いところで、彼が英雄たる由縁なのですが、新しく家督を継いだ景勝の考え方は違ったのです。世の中の趨勢を若い感性で観察した結果、このままではいけないという危機意識を持っていたのでしょう。近畿にて破竹の勢いを見せる織田家のごとく、上杉家も中央集権化を図る必要がある――景勝はこう考えたわけです。
そんな景勝にしてみれば、勝手な行動をした神余親綱を許すことはできなかったのです。立場的には詰問せざるを得ず、景勝は「(二心ないよう)血判を差し出せ」とまで要求しています。これは親綱にとっては屈辱的なことだったようで、断固拒否しています。
こうしたやりとりを続けている中で3月末、実際に蘆名氏による侵攻が開始されたのです。蘆名の軍は撃退され、4月16日には敗北し撤退します。親綱にしてみれば「ほら見たことか」と、遺恨が残る状況となりました。
このいざこざの仲介に入ったのが、関東から逃れてきた元関東管領にして、形の上では謙信の養父でもある、上杉憲政でした。三条には憲政の領地が飛び地のように配置されていたので、神余親綱とも近しい関係性にあったようです。しかし景勝の態度は頑なで、一歩も譲る気配がありません。
5月1日には、両者の関係は「手切」となります。これは憲政の顔を潰す行為でした。こうした中央集権を目指す景勝の姿勢に対して、多くの家臣たちが反発します。彼らにしてみれば既得権益を侵す独裁者なわけですから、この事件を契機に反景勝的な派閥が急遽、形成されていったのです。そうした反景勝勢力が求めていた旗印に相応しい人、それが景虎だったのでした。
景虎にしてみても、こうした独裁志向にある景勝という人物に、果たして大事な我が子を預けられるのだろうか?そんな不安を抱いていたところ、上杉憲政・本庄秀綱・神余親綱らを中心とした反景勝勢力の「上杉家をあらぬ方向に導こうとする景勝を、引きずり下ろす必要がある」という強い要請を受けたのでした。
景虎自身に強い野心があったかどうかは分かりません。しかし事ここに至ってしまっては、本人の意志とは無関係に、周りが勝手に進めてしまいます。景虎は家督相続に名乗りを上げざるを得なかったのです。
こうして上杉家の行く末を決める、「御館の乱」が発生したのでした。(続く)