星降る辺境で、氷の辺境伯様と極上の恋を。~婚約破棄された悪役令嬢は、旦那様の重すぎる愛に包まれて世界一幸せです~
乾いた音が弾けた。
その瞬間、視界が揺らいで、私は冷たい大理石の床に崩れ落ちていた。
遅れて頬に熱い痛みが走る。口の中には鉄の味。
切れた唇から零れた赤い雫が、白いドレスの裾にぽつりと染みを作っていくのを、どこか他人事のように眺めていた。
「ヨナ、貴様……よくも白々しい顔ができるな!」
頭上から降ってくる怒号に、びくりと肩が跳ねる。
恐る恐る顔を上げると、婚約者である王太子ロクサリオ・フィン・アレサンドロが、今まで見たこともないほど歪んだ顔で私を見下ろしていた。
その隣には、侯爵令嬢ライラ。
彼女はロクサリオの腕にしがみつき、扇で口元を隠してはいるが、その手元は小刻みに震え、絶えず視線を泳がせていた。
「わ、私が……何をしたと仰るのですか……」
私は震える声で、精一杯の言葉を紡ぐ。
恐怖で強張ってしまった私の表情は、傍目には不機嫌で、彼を睨みつけているように見えたのかもしれない。
「ほら……あの女……睨んでるわ……」
「嫌ね。本当に性格の悪い女」
令嬢達からの、侮蔑の言葉が飛び交う。
「とぼけるな! あの嫉妬深い目、卑しい態度……これ以上僕とライラを侮辱する気か! あることないことで僕を問い詰めて責め立てやがって……言語道断だ!」
問い詰めた……?
私が……?
違う。私は何も言っていない。
二人の関係に気づいていなかったわけじゃない。
でも、私は王家のために、公爵家の娘として、何も見なかったふりをしてきた。
一度だって、彼を責めたことなんてない。
(ああ……そういうことなんだ)
すとん、と胸の奥に冷たい石が落ちたような気がした。
彼は、自分の不貞を正当化するために、私を「嫉妬深い悪女」に仕立て上げたんだ。
「ヨナ・フォン・ハプスブルグ! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
周囲からあがる嘲笑。
「当然ね」「あの澱んだ魔力、見ているだけで気味が悪いもの」「お似合いの末路よ」
突き刺さるような視線と言葉の礫。
やっぱり、抗えなかった。
ここが前世で遊んだ乙女ゲームの世界で、自分がその『悪役令嬢』なのだと知っていたから。
だから私はずっと目立たないように、誰の邪魔もしないように生きてきたつもりだった。
けれど、私の手から溢れるこの黒い魔力のせいで、誰も私を信じてはくれない。
どれだけ心を尽くしても、私は「呪いの魔女」でしかない。
(疲れた……)
反論する気力も残っていなかった。
ただ小さく身を縮こまらせ、震える身体を抱きしめる。
冷たい床の感触だけが、今の私に残された現実だった。
その時。
ふわり、と。
夜の冷気を遮断するように、温かく重厚なコートが私の肩に掛けられた。
「……え?」
顔を上げると、そこには深く青い瞳があった。
プラチナブロンドの髪、彫刻のように整った冷徹な美貌。
「氷の辺境伯」と恐れられる男、リオン・クライス・アレサンドロ様。
「こ……氷の辺境伯……。魔獣の巣窟と化していた魔境デーテを一人で平定した化け物……」
「触れるモノ全てを凍らせると聞くわ……! 誰も寄せ付けない冷たい男……」
「なぜそんな奴がここに……」
周囲がざわめき、彼に怯えている。
「大丈夫か? ……いや、大丈夫なわけがないか」
低く、甘い声。
彼は懐からハンカチを取り出すと、私の切れた唇を愛おしげに拭った。
その指先があまりに優しくて、思わず涙が滲む。
「お……お前……リオン……! なにをしている!?」
ロクサリオが裏返った声で叫んだ。
リオン様は王弟の息子であり、ロクサリオの従兄弟にあたる方。
けれど、その才能をロクサリオに妬まれた彼は、公爵という立場でありながら、辺境伯という役割を与えられ、魔獣が蔓延る北の辺境「デーテ領」へと追いやられた。
この異常事態が意味するのは、彼がロクサリオの嫌がらせで王都から追放されたという事実だった。
「……彼女に怪我をさせ、治療もせず、あまつさえ大勢の前で晒し者にするなど……これが一国の王太子のすることか」
「僕に口出しをするのか……! リオン! チッ……侯爵へ戻すだけのつもりだったが気が変わった! ヨナ・フォン・ハプスブルグ! 今この時をもって、ハプスブルグ家の爵位を剥奪する!」
ロクサリオの宣言に、会場がどよめいた。
ハプスブルグ家の侯爵家から公爵家への格上げは、この婚約のための特例だった。
それを元に戻すだけではなく、爵位そのものを剥奪されるということは、私の実家もろとも破滅することを意味する。
お父様、お母様も、みんな……ごめんなさい……。
「終わりね、あの子。もう死ぬしかないんじゃない?」
嘲笑の声が耳を塞ぎたくなるほど響く中、リオン様だけが動じなかった。
彼は静かに、私の前に膝をついた。
床に触れて汚れる事など気にも留めず、まるで女神に傅く騎士のように。
「ヨナ。君は覚えているだろうか」
「えっ?」
「私がまだ辺境伯になる前、学園に通っていた頃、君は、剣の稽古で怪我をした私の手当をしてくれた」
私は瞬きをした。
10年前の記憶。まだ「悪役令嬢」になる前、自分の黒い魔力を恐れて、人目を避けていた頃の記憶。
「は、はい……10年ほど前の事だと記憶しています」
「覚えててくれたのか。それに……いつの頃の事かまで」
リオン様が感極まったように口元を綻ばせる。
氷の辺境伯とは思えないほど柔らかい笑顔に、心臓が跳ねた。
リオン様がゆっくりと立ち上がり、ロクサリオへと向き直る。
その背中から、氷河のような冷たい殺気が溢れ出した。
「お前は、ろくでもない奴に成り下がったな。ロクサリオ」
「き、貴様……! 王子である僕に対してなんだその態度は! 父上が病で伏している今、王子である僕がこの国の最高権力者だ! 頭が高いんだよ!」
ロクサリオが拳を振り上げる。
けれど、リオン様の鋭い眼光に射抜かれ、その手は空中で凍りついたように止まった。
生物としての格が違う。誰もがそう感じるほどの威圧感。
「くだらない。お前は本当に、くだらないちっぽけな男だ」
リオン様が振り返り、再び跪く私に目線を合わせた。
「リオン……様……?」
「あの時から、私は君の虜なんだ。ヨナ」
熱を持った告白。
リオン様が、私の身体を強く抱きしめる。
周りは「なっ!?」「わぁっ……」「まぁ!」と悲鳴のような声を上げた。
あの「氷の辺境伯」が、衆人環視の中で、「呪われた魔女」を抱きしめているのだから。
「……どうしてそんなに震えているんだ。君が怖がる必要なんてない」
「……私……」
「君が震える度に、私の心も震える。君が痛みを感じる度に、私の心も酷く痛む。だからもう……そんな顔はしないでくれ」
リオン様が優しく、私の両頬を撫でる。
壊れ物を扱うように。愛しい者を、ただひたすら愛でるように。
その光景に耐えられなかったのか、ロクサリオが腰の剣を抜いた。
「ふざけるなッ!! その女は僕の所有物だ!! 貴様ごときが……触れるなッ!!」
リオン様は私を抱きしめたまま、背後の王子を一瞥もしない。
「お前はそうやって、喚くことしか出来ない。頼むから、お前のその汚らわしい声で、私と彼女の時間を汚すな」
「なんだと!? 辺境伯の分際で!!」
「……恨んでいるよ。……辺境伯という地位を与えられた事をじゃない」
リオン様の声が低く沈む。
それは底知れぬ執着と、愛憎の響き。
「辺境に押しやられ、彼女に会うことができなくなってしまったことを、恨んでる」
「なんという不敬……! この僕を恨んでいるなどとッ!」
ロクサリオが剣を振り下ろす。
「死ね!! いつまでも僕の兄貴面しやがって!! お前のそういうところが昔から大嫌いだったんだ!!」
白刃がリオン様の背中に迫る。
「リオン様っ!!」
私が悲鳴を上げた瞬間。
「ヨナ。私を離すな」
視界が、金色の光に包まれた。
◇◆◇
次の瞬間、気が付いたら見たこともない場所にいた。
足元には草の感触。見上げれば、こぼれ落ちそうなほどの一面の星空。
ポツリポツリと家の明かりが見える、静かな過疎の村。
「ようこそ、ヨナ。辺境の地、『デーテ』へ」
「こ……ここは……? 今何が……」
リオン様の身体からは、さらさらと光の粒子が零れていた。
肩から天にかけて薄い光の線が伸びている。
まるで星が降ってきたみたいに幻想的で、思わず言葉を失った。
「転移魔法だ。私の得意技だ」
「転移魔法……」
「勝手に連れてきてすまなかった」
「いえ……でも……」
「……心配はいらない」
「え?」
リオン様は夜空の下、真剣な眼差しで私を見つめた。
「君のハプスブルグ家は、爵位を剥奪された。財産も全て、王家に持っていかれるだろう。皆、路頭に迷うことになる。……だから、私から提案がある」
「提案……ですか……?」
リオン様が私の手を優しくすくいあげる。
「……私と、婚約してはくれないだろうか」
「……えっ……?」
「私が、君も、君の家族も、全て守る盾になる」
「でも……! それではあなたが……」
「ああ、分かってる。ロクサリオは諦めない。……あいつはそういう奴だ」
彼が一瞬、遠い目をした。まるで昔を懐かしむような、そんな目。
「……あいつの中で私は、昔のような仲のいい従兄弟ではなく、自分に楯突いた生意気な貴族のひとりにしか見えていないだろう。……もう、私は奴から追われるだけだ。君と婚約を結ぼうが、関係ない。奴は地の果てまで私を追う」
「……リオン様」
私は彼の胸元に手を置いて、そこにおでこを触れた。
私の心はずっと前から決まっていたから。
「……私は、あの婚約を望んではいませんでした」
私は、彼の胸元で少しだけ指を動かす。彼の胸をそっと撫でるように。
「あの婚約はハプスブルグ家にとってはメリットばかりでした。侯爵家から公爵家への格上げ。王子も、初めの頃は私のことをちゃんと好いていてくれましたから、家のためなら……と。お受けしました。でも……私、本当は……」
リオン様がスッと、私を抱きしめる。
「……ぁ……」
「……貴女を愛してる。ずっと貴女に、逢いたかった」
ずっとね。
ずっと、私も好きだった。
貴方のことだけを想って、生きてきた。
王子とのデートも、隣にいるのは貴方だと……そう自分に言い聞かせて、心を保っていた。
貴方が傷ついてたあの日から、私の手に触れたあの日から。
私だってずっとあなたの虜だった。
◇◆◇
『君……この力は……? 治癒魔法……? いや、もっと高度で……崇高な……』
『気味、悪いですよね……こんな力。みんなからは魔力が澱んでて、変だって気味悪がられて、魔の力だなんて言われちゃったりして』
私の魔力は密度が高すぎて、黒く見える。
そのせいで、この世界の誰もがそれは魔の力だと、私を恐れた。
『……そんな事はない。すごく優しくて、暖かい力だ』
けれど、彼だけは違った。
私の黒い手を、躊躇いなく握ってくれた。
『……嬉しいです。そんなこと言われたことなかったから』
『……もっと、触れていたくなるくらい、優しくて、暖かい』
リオン様がフッと、手を重ねる。
『……あっ……あの……』
『……す、すまない』
◇◆◇
彼は、あの時と同じ温かさで、私を包んでくれている。
氷の辺境伯なんて嘘だ。彼の腕の中は、こんなにも温かいから。……とけそうなくらいに。
「……リオン様。私……なりたいです……。貴方の……お嫁さんに……」
「……受けてくれるか? 私からの提案」
「……はい。謹んで、お受け致します」
星降る夜空の下、私たちは静かに誓いを交わした。
(……さようなら、私の知る悲劇の結末)
前世の記憶にある「孤独な悪役令嬢」は、もうどこにもいない。
シナリオには描かれなかったこの温かさだけが、今の私にとっての真実だから。
◇◆◇
リオン様に手を引かれ、石造りの重厚な門をくぐる。
そこは、王都の冷たい城とは違う、温かみのある明かりが灯る屋敷だった。
エントランスに入ると、数名のメイドたちが一斉に頭を下げる。
「おかえりなさいませ、旦那様」
顔を上げると、彼女たちは皆、春の日差しのような優しい顔をしていた。
蔑むような視線も、陰口も、ここにはない。
ただ温かく迎え入れられたことに、張り詰めていた肩の力が抜けていく。
リオン様はすぐに、出迎えた初老の執事に視線を向けた。
「すぐに、ハプスブルグ家に使いを出してくれ。金目のものはどうでもいい。まず安全の確保を最優先にし、この屋敷まで連れてくるように」
「畏まりました。直ちに手配いたします」
執事が深く頭を下げ、足早に去っていく。
その背中を見送りながら、私は胸の奥底から熱い安堵の息を吐いた。
口先だけの約束じゃない。彼は本当に、私の家族を守ろうとしてくれている。
捨てられるはずだった私たちに、手を差し伸べてくれている。
「君は疲れたろう。部屋へ案内する」
リオン様が私の背に手を添え、ゆっくりと階段を上がっていく。
案内されたのは、屋敷の最上階にある広い一室だった。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
部屋は塵一つなく清潔に整えられ、パリッとしたシーツの白さが目に眩しい。
そして何より、大きな窓の向こうには、先ほど見た満天の星空が広がっていた。
まるで星屑の中に浮かんでいるような部屋。
コンコン、と控えめなノックの音がして、若いメイドがワゴンを押して入ってきた。
ふわりと、芳醇な茶葉の香りが漂う。
「今日は寒い日ですから。温かい紅茶をご用意いたしました」
メイドは手際よくテーブルにティーセットを並べると、リオン様に親愛のこもった目配せをした。
「旦那様、あとはお任せしても?」
「ああ。ありがとう、あとは私が」
「ごゆっくりどうぞ」
メイドは私に微笑みかけ、静かに部屋を出て行った。
そのやり取りは、主従というよりも、まるで本当の家族のように温かく、信頼に満ちていた。
王都では見たことのない光景。
彼の治めるこの地が、どれほど温かい場所なのかが伝わってくる。
「さあ、ヨナ」
リオン様が椅子を引き、紳士的に私をエスコートしてくれる。
私は少しドキドキしながら腰を下ろし、目の前の彼を見つめた。
リオン様がポットを手に取る。
白磁のカップに、透き通った琥珀色の液体が注がれていく。
その所作一つ一つが洗練されていて、優雅で、そして何より……私への慈愛に満ちている。
ただ紅茶を注いでいるだけなのに、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろう。
彼の一挙手一投足に釘付けになって、目が離せない。
「角砂糖はいくつ?」
「あ……一つ……いえ、三つでお願いします」
自分でも驚くような注文だった。
いつもなら一つだけ。
淑女として、甘すぎるものは控えていたはずなのに。
でも、なんだか今は、とことん甘い気分に浸りたかった。
脳が、心が、甘さを求めてる。
「ふふ、甘いのが好きなんだな」
リオン様が嬉しそうに目を細め、ことり、ことり、と白砂糖を三つ、カップに落とす。
「どうぞ」
差し出された紅茶を両手で包み込むと、じんわりとした温もりが指先から伝わってくる。
「いただきます」
彼が角砂糖を入れてスプーンで撹拌してくれたことで、紅茶は飲み頃の適温まで下がっている。
甘い。
砂糖の甘みと、香り高い紅茶の風味が、凍えていた身体の芯まで染み渡っていく。
心までポカポカと解けていくみたい。
向かいの席で、リオン様も紅茶を啜っている。
整った唇にカップを運ぶ。普通のことなのに、それが何故か妙に愛らしくて、胸がきゅっと鳴る。
湯気の向こう、ふとリオン様が視線を上げ、私を見つめた。
長い睫毛が揺れる。
その奥にある、深い青色の瞳。
吸い込まれそうなほど美しくて、私はカップを持ったまま硬直してしまう。
しばらくの沈黙が流れる。
時計の針の音だけが、コチ、コチと響く静寂。
彼はカップを置くと、テーブルの上にあった私の左手にそっと触れた。
大きな指が、私の薬指をなぞるように這う。
「……細い指だ」
熱っぽい声。
「あの……」
「私が今日、王都にいたのは予感がしたからだ」
「予感……?」
「……ヨナに、逢える予感」
彼の指が、私の指に絡んでくる。
逃げ場を塞ぐように、けれど優しく包み込むように。
その言葉が、嬉しくてたまらない。
彼が辺境伯になってから、数年間、一度も会えなかったのに。彼は私を感じてくれていた。
恥ずかしくて、顔が沸騰しそうなほど熱いのに、彼の瞳から視線を逸らすことができない。
繋がれた指先が熱い。
そこから彼の熱が流れ込んできて、私が私でなくなってしまいそう。
沈黙に耐えきれず、震える声で尋ねる。
「……このデーテに来てから……どのような暮らしを?」
「……最初は大変だった。荒れた土地で、魔獣がそこら中を歩き回っているような、とても人が住めるような場所ではなかった」
彼がふと視線を外し、窓の外を見つめる。
「必死だった。ここを魔獣共から取り戻すために。毎日、毎日戦った」
星空を映すその横顔。
憂いを帯びた瞳が、あまりに美しすぎて、尊すぎて、呼吸をするのも忘れて見入ってしまう。
「でも、そのおかげで、今ここは私の安息の地だ。王家のしがらみにも縛られず、自由に生きられる。それに……夢見ていた」
「夢?」
彼が、再び私を見つめる。
さっきよりも数段、熱を帯びた、とろけるような瞳で。
「ここで、君と暮らす夢」
震えた。
身体じゃない。心が、魂が震えた。
堰を切ったように感情が溢れ出す。
何度目だろう。
ここへ来てまだ数時間しか経っていないのに、とろけてしまいそうって思ったの。
心臓が持たない。
ただ向かい合って座り、紅茶を飲んでいるだけなのに……まるでずっと彼に抱きしめられているみたいに、身体の芯から熱が引かない。
ガタンッ……。
椅子が倒れる音がした。
私は、何を考えているんだろう。
はしたない。淑女にあるまじき行為。
でも、我慢できなかった。
気が付いたら私は立ち上がり、テーブルを回り込んで、椅子に座る彼の上半身を強く抱きしめていた。
私の胸に彼の顔を埋めるように、深く。
「ヨナ……」
驚いたような彼の声が降ってくる。
「……愛おしくて……愛おしくてたまらないんです……あなたが……! 私……変な女でしょうか……!」
言ってしまった。
みっともない。
でも、もう止められない。
彼の匂いが鼻腔をくすぐる。
紅茶の香りと混ざり合った、彼だけの匂い。
ふわり、と視界が浮いた。
「っ……!?」
気が付いたら私は、彼に抱き返され、そのまま彼の膝の上に乗せられていた。
横抱きのまま、彼の腕の中に収まる。
「こんなに、触れても、いいのか?」
至近距離で見つめる彼の瞳が、問いかけてくる。
拒絶なんて、するはずがない。
「……触れてください」
彼は私の頬を優しく撫で、髪をすいた。
その指先の動き、視線、吐息。
その所作すべてに愛が満ちていて、熱を帯びていて、甘くて、甘すぎて。
自然と私の息も荒くなる。
私は彼の膝に乗せられたまま、震える腕を彼の首に回した。
座りながらお姫様抱っこをされるなんて、生まれて初めてだ。
恥ずかしさと、幸福感で頭がくらくらする。
それ以上、言葉はなかった。
ただ私は、彼とお互いの吐息がかかるほど近い距離でしばらく見つめあったあと、瞼を閉じ――深く、甘い口付けを交わした。
彼と私の睫毛が触れ合う。それが少しこそばゆい。
触れ合う唇の柔らかさ。熱っぽさ。
私のすべてを奪うような、けれど慈しむような口付け。
静かな部屋に、時計の音と、微かなキスの音だけが響く。
「……んっ……」
どのくらいの時間が経ったのだろう。
長い、長いキスの後、ゆっくりと唇が離れる。
ぼんやりと霞む視界で彼の顔を見ると、その瞳は……私にもわかるくらいに、トロトロにとろけていた。
欲望と、愛と、安堵がない交ぜになった、甘い瞳。
そして、彼の瞳に映る私もきっと、同じ顔をしているのだろう。
そう想像して、私は彼の胸に顔を埋めた。
彼の心臓の音が、私のそれと同じくらい激しく高鳴っているのが聞こえた。
私たちはしばらく、そうしていた。
触れ合っている温もりが心地よすぎて、離れられなかったから。
◇◆◇
その後、私はメイドたちに案内されて浴室へと向かった。
温かいお湯に浸かり、王都での冷たい記憶と、旅の疲れを洗い流す。
用意されていた肌触りの良い寝間着に袖を通すと、ようやく「ここは安全な場所だ」という実感が湧いてきた。
廊下を歩き、自室の扉を開ける。
「……あ」
部屋の中には、窓際の椅子に腰掛け、読書をしているリオン様の姿があった。
月明かりに照らされたその横顔が、あまりに絵になっていて、私は息を呑む。
扉の音に気づいた彼が、ゆっくりと本を閉じ、こちらを向いた。
「リオン様……待っていてくれたのですか?」
「まだ、君と一緒にいたくて。……迷惑か?」
不安そうに揺れる青い瞳。
そんな風に見つめられたら、断れるはずがない。
「いいえ。とんでもないです」
扉を開いた瞬間、貴方がいてくれて、私の心は跳ねたのだから。
まだ居てくれた。まだ触れ合える。
それが嬉しくてたまらない。
これは、紛れもない本心。彼が望むように、私も彼を望んでいた。
リオン様はふっと安堵の笑みを浮かべると、立ち上がって私に近づいてきた。
まだ少し湿り気を帯びた私の髪に、彼の手が触れる。
「座って」
エスコートされ、私は先ほどまで彼が座っていた窓際の椅子に腰を下ろした。
まだ彼の体温が微かに残っていて、温かい。
彼は私の後ろに回り込むと、手に持ったタオルで私の髪をそっと包み込んだ。
「ぁ……」
思わず、甘い声が漏れる。
少しだけ振り返ると、彼は慈しむような瞳で、私の髪を優しく拭いていた。
その手つきは壊れ物を扱うように慎重で、丁寧で。
まるでお姫様になったみたいに。
「綺麗な髪だ。艶もある」
「そ、そうでしょうか? 髪を褒められたのなんて、初めてです……」
王都では「不吉な魔女の髪」と陰口を叩かれていた黒髪。
でも、彼の手にかかれば、それすらも宝石のように扱われる。
「そうか。なら君の周りにいた者たちの目は節穴だったんだな」
不機嫌そうに呟く声すら、私には心地よくて。
彼のかける言葉一つ一つが、私の鼓動を高鳴らせる。
何気ない言葉が、魔法の呪文みたいに心に染み込んでいく。
まるで、彼に魔法をかけられているみたいで。
彼をどこまでも、深く愛してしまう魔法。
「君はもっと、自分を誇っていい」
「え?」
「君の魔力を、澱んでいると言う節穴共の言うことなど、気にするな。君は、尊い人だ」
髪を乾かす彼の手が止まる。
静寂の中に、彼の熱っぽい吐息だけが聞こえる。
「リオン様?」
その時、ふわりと視界が遮られた。
彼が後ろから、私を抱きしめた。
大きな身体が、私をすっぽりと包み込む。
彼の吐息が首筋にかかって、ゾクリと甘い痺れが走る。
「……っ」
心拍数が跳ね上がる。
トクントクンと、心臓が早鐘を打つ。
まだ濡れている髪が首筋に張り付いてひんやりするけれど、その上から覆いかぶさる彼の体温が、冷たさを熱へと塗り替えていく。
私の胸の前で交差された彼の腕。
捲り上げられたシャツの袖の隙間から、一筋の古い傷痕が見えた。
(あ……)
記憶にある傷。
学園の裏庭で、幼い私が震える手で治した傷だ。
完治したはずだけれど、まだ薄く白い跡が残っている。
私は吸い寄せられるように、その古傷を指先でなぞった。
「……っ……」
頭上で、彼が息を呑む気配がした。
「ご、ごめんなさい! 痛かったですか!?」
慌てて指を離そうとすると、彼が私の手を上から押さえつけた。
「違う……。逆だ」
「え?」
「触れた君の指に、思わず……」
言葉が途切れる。
私の顔は見えていないはずなのに、彼が顔を真っ赤にしているのが伝わってきた。
触れ合っている彼の肌、そして首筋に押し付けられた彼の額が、火傷しそうなほど熱いから。
「……君のその力は、とても尊い。君自身がそうであるように」
彼の吐息が耳にかかり、私はビクリと肩を揺らす。
「……私を、救ってくれた奇跡の力だ。私は君も、君のその力も、全てを大切に、愛したい。君の全てを。ひとつ残らず」
腰が抜けていくのが自分でもわかった。
今、すぐに立ち上がれと言われても無理だ。
身体の芯がとろけて、力が入らない。
私は震える手を伸ばし、私の首の横にある彼の頬を撫でた。
(……濡れてる?)
指先に伝わる湿り気。
耳を澄ますと、微かに鼻をすする音が聞こえた。
あなたは、何を抱えていたんだろう。
私の癒やしの力は、あなたの傷だけでなく、もっと深い「何か」を救っていたんだろうか。
こんなに強くて、優しくて、愛に溢れている貴方に、涙を流させるその感情は……なに?
悲しみ?
喜び?
それとも、愛?
知りたい。
貴方の何もかもを知りたい。
貴方の心の中に、深く、深く入ってみたい。
私は彼の手を包み込むようにして、優しく撫でた。
この繊細なガラス細工のような人を、壊さないように、優しく、丁寧に。
しばらくの間、彼は私の肩に額を押し付け、声を押し殺して泣き続けた。
小刻みに震える彼の背中を感じながら、私は何も言わず、窓の外に広がる満天の星空を眺めていた。
部屋に響くのは、柱時計の音と、彼の微かな嗚咽。
私の手が、彼の手に触れて衣擦れの音を立てる。
私の心音と、彼の心音だけが重なり合って響いていた。
◇◆◇
しばらくして、彼はそっと私から身体を離した。
再びタオルで髪を乾かし始める。
丁寧に、丁寧に、愛おしげに。
私はただ、されるがまま、彼に身を任せた。
「お願いがあるんだ。ヨナ」
髪が乾ききった頃、彼がぽつりと呟いた。
「はい。なんでしょう?」
「……一緒に寝ても、いいか?」
ドクン。
胸が、弾けるような音を立てた。
「何もしない。ただ、今夜は君の隣で寝かせて欲しい」
「……リオン様」
「嫌なら……断ってくれて構わない。ただ私は……」
その声には、縋るような弱さが滲んでいた。
私はゆっくりと立ち上がって、ベッドの方へと歩いていった。
「ヨナ?」
不安に震える彼の声を背に受けながら、私はベッドに腰かけ、彼を振り返った。
「来てください。私も、まだあなたに触れていてほしいから」
彼の瞳が大きく見開かれ、揺れた。
陽炎のように、ゆらゆらと。
彼はタオルを二つに折り、椅子の背もたれに掛け、私の横へ来て、静かにベッドに腰掛けた。
「ありがとう。ヨナ」
もう一度、キスをする。
さっきよりは、軽いキス。
けれど、込められた愛の深さは変わらない。
そのまま、身を寄せ合うようにして、二人でベッドへ倒れ込んだ。
私を見つめる彼の顔には、まだ少しの不安が見え隠れしていた。
私が消えてしまうのではないかと、恐れているような顔。
「大丈夫」
私はそう言って、彼の背中に腕を回して抱きしめた。
すると彼は、子供みたいに私を強く抱きしめ返して、甘えるように額を擦り付けてきた。
背中に回されたその指先が、微かに震えているのが伝わってきた。
「……朝まで……このままで」
「はい」
私たちは、夜の間中ずっと、抱き合い続けた。
おでこをくっつけ、お互いの睫毛が触れ合うほどの距離で。
彼の体温と匂いに包まれて、私は数年ぶりに安らかな眠りについた。
◇◆◇
やがて、小鳥のさえずりと共に朝が来た。
瞼を開けると、目の前に彼の健やかな寝顔があった。
妖精が止まっていそうな長い睫毛。あどけなさの残る、子供のような寝顔。
普段の凛々しい「氷の辺境伯」とはまるで違う、無防備な表情。
(ふふ、可愛い……)
少しだけ、彼の寝顔を観察していた。
私だけが知っている、私だけの彼の寝顔。
やがて、彼も目を覚ました。
まどろみの中でゆっくりと開かれるその瞳は、ゆらゆらと揺れて、朝の光を反射した宝石みたいに綺麗だった。
「おはよう、リオン様」
「……おはよう、ヨナ」
寝起きの掠れた声が、甘く鼓膜を揺らす。
私たちはしばらくそのまま、言葉もなく見つめ合った。
コンコン。
控えめなノックの音が、甘い時間を現実に引き戻す。
「失礼いたします」
昨日のメイドが、朝食を乗せたワゴンを運んできた。
彼女は、共にベッドで身を寄せ合う私たちを見て、一瞬驚いたようだったが、すぐに優しく微笑んだ。
「朝食のスープとパンをお持ちしました。冷めないうちに、召し上がってください」
彼女は手際よくテーブルに食事を並べると、深々と頭を下げて部屋を出ていった。
テーブルに広げられていたのは、湯気の立ついい香りのする琥珀色のスープと、焼きたての香ばしいパン。
それと、色とりどりの新鮮な野菜のサラダだった。
「いただこう。ヨナ」
彼がそう言って、私をテーブルまでエスコートしてくれる。
初めて歩く赤子みたいに、どこまでも甘やかされて。
今日は、昨日のように向かい合っては座らなかった。
彼は当然のように自分の椅子を私の隣に移動させ、肩が触れ合う距離で座った。
そして、パンをちぎって私の方へ差し出してくる。
「は、恥ずかしい……です」
「誰も見ていない。さあ、食べて」
彼の真剣な眼差しに負け、私は少し顔を赤らめながら口を開いた。
彼は優しく、私の口にパンを含ませる。
「美味しいか?」
「はい。とっても」
「それはよかった」
彼が満足そうに微笑み、少し照れくさそうにスープを見つめている。
何かを言いたげに口を開きかけては閉じているのが、見ていてすぐに分かった。
(あっ……。もしかして)
私はスープをスプーンですくい、彼の口元にスッと差し出した。
「熱いですから、冷まして飲んでください」
彼は耳まで真っ赤にし、私のスプーンからスープを口に含んだ。
「あちっ……」
「ほら、だから冷ましてって言ったのに」
「はは……」
彼は照れくさそうに笑い、私はもう一度スープをすくった。
「はい。どうぞ」
「……君が……冷ましてくれ……」
(そ……そう来たか……)
思いもしないおねだりに、思わず私はカァッと赤面してしまう。
でも、期待に濡れた彼の瞳を見ていたら、断ることなんてできない。
少し、呼吸を整えてから、スープにふーっと息を吹きかける。
その様子を、彼は愛おしげに、食い入るように見つめている。
「多分……これで熱くないと思います」
私の差し出したスープを彼が飲む。
「んっ……うまい」
彼がそう呟くと、今度は慌てて自分のスプーンでスープをすくいはじめた。
そして、そのスープに必死にふーっと息を吹きかけ始める。
(あ、これ、私の番だ)
トクントクンと、心拍数が上がる。
冷めた頃合いを見計らって、彼がスプーンを差し出してくる。
「ど……どうだ?」
彼の瞳を見つめながら、私はスープを飲んだ。
「うん……美味しいです」
「そうか……!」
彼はパァッと顔を輝かせた。
その後も彼は、何度も私にスープとパンを「あーん」し続けた。
もうとっくに冷めてしまったスープに、何度も何度も一生懸命に息をふーっと吹きかけている彼の姿が、愛らしくて仕方なかった。
◇◆◇
午後には、彼に連れられてデーテの領地を見て回った。
「領主様! 今日は美しい方をお連れで!」
「リオン様! 採れたての野菜、持ってってよ!」
「リオン様ー! あそこの風車、また回らなくなっちまったんだ。見てくれませんかね?」
領民たちは彼とすれ違うと、彼が公爵であることを忘れるくらいフランクに声を掛けてくる。
採れたての野菜をくれたり、子供たちが彼の手を引いて、砂場で作った自慢の城を見せてきたり。
リオン様は嫌な顔一つせず、風車を魔法で直したり、猫と戯れたり、子供と鬼ごっこをしたりしている。
王都にいた時には想像もできないような暮らしが、そこにはあった。
公爵は、この国では王族に次ぐ絶対的な権力を持っている。
ましてや、彼は王子の従兄弟だ。
少し違えば、王子になっていたような身分の人だ。
それが、この地の領民と何ら変わらない、まるで近所のお兄さんのような振る舞いをしている。
彼がこの地でどれだけのことをしてきたのか、どれだけ愛されているのかが、民からの声掛けで容易に分かった。
デーテでの生活は、私の人生観をごっそりひっくり返してしまった。
華やかで凛としている「氷の辺境伯」からは想像もできないくらい、泥臭くて、温かい日々。
領民と一緒に畑を耕し、汗を流し、迷子になった犬を泥だらけになって一緒に探す。
彼とのここでの日常は、まるで夢みたいだった。
毎日が新鮮で、毎日が輝いてて。
新しいものに囲まれて、上辺だけキラキラしている王都とは比べ物にならないくらい、本物の輝きがあった。
◇◆◇
そんなデーテでの彼との甘い生活は、あっという間に過ぎていき、気づけば1ヶ月が経っていた。
実家の両親も無事に保護され、今は領地内の別のお屋敷で平穏に暮らしている。
私は、相変わらずリオン様のお屋敷に居候の身だけど。
毎晩のように愛を囁かれ、毎朝のように甘やかされる日々。
もう、このままずっとこうしていたいと、心から願っていた。
けれど、そんな甘い生活に、影が差し込んだ。
王都からの、一頭の早馬。
もたらされた一通の書状。
『リオン・クライス・アレサンドロ辺境伯。
ヨナ・フォン・ハプスブルグと共に、王城へ赴かれたし』
それは、王都に残してきた悪魔からの招待状だった。
◇◆◇
深夜の王城。
ロクサリオは、一人静かに国王の寝室へと忍び込んだ。
天蓋付きのベッドには、病に伏した国王が浅い呼吸を繰り返している。
人払いは済ませてある。今、この部屋には誰もいない。
「……父上」
呼びかけても反応はない。
ロクサリオの瞳には、昏い欲望と焦燥だけが宿っていた。
「リオンを呼びつけました。あの女も一緒にね。……僕はもう待ちきれないんですよ」
「あなたがいつまでも譲位しないから、あいつらがのさばるんです。……僕こそが王だ。僕だけが、全てを手に入れるべきなんだ」
ロクサリオの手が、国王の枕へと伸びる。
躊躇なくそれを引き抜くと、父の顔の上に掲げた。
「楽にして差し上げますよ」
グッ。
力任せに、枕を顔に押し付けた。
国王の身体がビクンと跳ね、弱々しい手がロクサリオの腕を掴もうと空を掻く。
「死ね……死ね……! 僕のために、死んでくれよ父上ェ!!」
ロクサリオは歯を食いしばり、全体重を乗せて押し付ける。
ジタバタと暴れていた国王の手足が、次第に痙攣し、力が抜けていく。
やがて、その動きは完全に止まった。
ロクサリオは荒い息を吐きながら枕をどける。
そこには、苦悶の表情を浮かべたまま動かなくなった父の姿があった。
「はぁ……はぁ……ふふっ……」
笑いがこみ上げてくる。
これで邪魔者はいなくなった。自分がこの国の頂点だと。
ロクサリオは高揚したまま部屋を出た。
だが、彼は気づいていなかった。
わずかに開いた扉の隙間から、その一部始終をライラに見られていたことに。
彼女は口元を手で覆い、ガタガタと震えながら、音を立てずにその場から逃げ出した。
◇◆◇
ライラが自室に戻り、恐怖に震えていると、扉が開き、ロクサリオが入ってくる。
「ひっ……!」
ライラは悲鳴を飲み込み、部屋の端へ縮こまる。
ロクサリオは上機嫌だった。
まるで、長年の重荷を下ろしたかのように晴れ晴れとした顔で近づいてくる。
そして、彼女をベッドに押し倒し、無理やり唇を塞いだ。
「んぐっ……! や、やめて……!」
抵抗するライラを押さえつけ、ロクサリオは彼女の耳元で囁く。
「……父上は死んだよ。僕が看取ったんだ」
「え……?」
ライラの背筋に戦慄が走る。
こいつは、何を言っている?
枕を押し付け、陛下を窒息させるところを、確かにライラは見た。
それを看取ったなどと、嬉々として語るこの男は何だ?
その目が、恍惚と狂気に濁っているのを見て、ライラは悟ってしまった。
この男は、完全に人としての一線を超えて狂ってしまったのだと。
「明日、リオンとあの女が来る。……そこで、お前には大切な役割を用意してある」
「な……なん……ですか……」
ロクサリオが懐から、一本の短剣を取り出した。
柄に王家の紋章が刻まれた、豪奢な短剣。
冷たい刃が、ライラの頬に当てられる。
「ひっ……!」
「これで、あの女を刺せ」
「……は……?」
耳を疑った。
「久しぶりですわね! とでも言って抱きつけばいい。その時、あの女を突き刺せ。呼吸が止まるまで刺し続けろ」
「そ……そんな……できません……っ! そもそも私は……! ヨナ様との婚約をあなたが破棄したあの時も……! 本当のことを言うべきだと……!」
「黙れッ!!」
ロクサリオの怒号に、ライラの肩がビクリと震える。
「また殴られたいのか? もう僕にそんなことをさせないでくれ。お前の美しい顔を腫らしたくはないんだ」
ロクサリオがライラの頬に当てていたナイフを滑らせる。
プツリ、と刃がライラの喉元に食い込み、赤い血が滲んで流れ落ちた。
「ひぃぃっ!!」
「僕に従え。僕はこの国の王だぞ? 王の命令に背くつもりか?」
狂った瞳が、至近距離で覗き込んでくる。
断れば殺される。従うしかない。
ライラは震える手で、その短剣を受け取った。
ずしりと重いその凶器は、まるで彼女の罪の重さそのもののようだった。
「……は…………はい……」
「それでいいんだ」
ロクサリオは満足げに笑うと、ライラの喉元から流れる血を舐め取った。
(……リオン……お前から奪ってやる。お前が僕から奪ったようにな)
◇◆◇
翌朝。
ロクサリオは、これ以上ないほど爽やかな目覚めを迎えた。
窓から差し込む朝陽が、自身を祝福しているように感じる。
今日から自分が王だ。この国の絶対的な支配者だ。
そう思うだけで、身体の芯から高揚感が湧き上がってくる。
ふと横を見ると、シーツにくるまり、震えているライラの姿があった。
はだけたシーツから覗く彼女の華奢な肩や背中には、赤黒い痣がいくつも咲いている。
昨晩、自身の高ぶりをぶつけた「愉悦」の痕跡。
怯え、泣き叫ぶ彼女を組み敷いた記憶を反芻し、ロクサリオは嗜虐的な笑みを浮かべた。
「……ふん。壊れない程度には愛してやるさ。僕の所有物としてな」
ロクサリオがベッドから降り、ガウンを羽織ったその時だった。
ドンドンドン!
荒々しいノックの音が響く。
「殿下! ロクサリオ殿下! 起きておいでですか!」
「……騒々しいな。なんだ」
不機嫌に扉を開けると、青ざめた顔の衛兵が息を切らして立っていた。
「リオン辺境伯が到着されました! すでに『謁見の間』にてお待ちです!」
「……ほう? もう来たのか」
ロクサリオは口角を吊り上げた。
恐怖に震えながら逃亡するかとも思ったが、ノコノコと処刑されに来るとは。
「上出来だ。すぐに支度をする」
ロクサリオは振り返り、ベッドで震えているライラの髪を乱暴に掴んで引き起こした。
「おい、起きろ。仕事の時間だ」
「っ……はい……殿下……」
ライラは焦点の合わない瞳で、機械人形のように頷いた。
◇◆◇
王城の「謁見の間」。
私とリオン様は、広い広間の中央で静かにその時を待っていた。
周囲を取り囲む衛兵たちは、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせている。
リオン様が放つ、静かだが圧倒的な威圧感。
それが、彼らに本能的な畏怖を抱かせている。
カツーン、カツーン……。
静寂を破り、廊下の奥から足音が近づいてくる。
重厚な扉が、ギギーッと音を立てて開かれた。
現れたのは、豪奢な衣装を纏ったロクサリオ。
そしてその背後には、まるで幽霊のように顔面蒼白で、背中を丸めたライラが控えていた。
彼女の首元や手首には、化粧では隠しきれない鬱血した痕が滲んでいるのが見えた。
私は絶句し、すぐに理解した。
(どこまでも……最低な人)
私は、憐れむような、あるいは汚いものを見るような目で、かつての婚約者を一瞥した。
「待たせたな、罪人ども」
ロクサリオは、玉座の前まで歩みを進めると、ふんぞり返るようにして私たちを見下ろした。
その顔には、隠しきれない優越感と、歪んだ愉悦が張り付いている。
「リオン・クライス・アレサンドロ。及びヨナ・フォン・ハプスブルグ。……よく逃げずに来たものだ」
ロクサリオが嘲笑う。
「呼ばれた理由はわかっているな? 1か月前、僕に対して不敬を働いた貴様らに、国家反逆の罪で処刑を言い渡す」
「……不敬だと?」
リオン様が眉一つ動かさずに問う。
「父上は、昨晩崩御された」
その言葉に、周囲の衛兵たちがざわめいた。
「病状が急変してな。僕が最期を看取った。……よって、今この瞬間から、この僕が国王だ。過去の事とは言え、僕はあの時、酷く傷ついた」
ロクサリオはまるで演劇での演技のように、わざとらしく腕を広げて見せた。
「僕は毎晩あの日のことを夢に見る。分かるか? トラウマだよ。貴様らは、僕にトラウマを植え付けた。これが不敬でなくて何になる? よって……貴様らは、即刻打ち首とする」
ロクサリオが高らかに宣言する。
暴論もいいところ。
でも、誰も何も言えない。何かを言えば、彼はその者も処罰することは誰の目にも明らかだったから。
怒りで体が震えそうになるのを、リオン様の手の温もりが止めてくれた。
繋いだ手が、大丈夫だと語りかけてくれる。
「……ほう。崩御されたか」
リオン様の声は、凍えるほど冷ややかだった。
「確認はしたのか?」
「なに?」
「本当にお亡くなりになったのか、脈を確かめたのかと聞いている」
「愚問だな! 動かなくなったのをこの目で見た! 父上は死んだんだよ!」
ロクサリオが苛立ったように叫ぶ。
私たちは、ただ静かに彼を見つめ返した。
怯えることも、命乞いをすることもなく。
「……なんだ、その目は」
ロクサリオの顔から、余裕が消えていく。
「なぜ……なぜ平然としている!? 僕は今、貴様らを処刑すると言ったんだぞ!?」
彼は玉座から立ち上がり、後ずさった。
理解できないんだろう。
絶対的な権力を持った自分に対し、私たちが恐怖していないことが。
「き、気味が悪い……! おい衛兵! 早く殺せ! こいつらを殺してしまえ!!」
ロクサリオの金切り声が響く。
衛兵たちが、戸惑いながらも剣に手をかけた、その時だった。
「待ってくださいッ!!」
悲痛な叫び声が、広間を切り裂いた。
「ライラ……!? 僕の許可無く勝手に口を開くなッ! お前は置物でいればいいんだ!」
「嘘です……! 殿下は嘘をついています!」
「なっ……貴様、何を……!」
「陛下は病死なんかじゃありません! 殿下が……殿下が殺したのです!!」
「だ、黙れッ! 貴様、何を言っている!?」
ロクサリオの形相が一変する。
けれど、彼女はもう止まらなかった。
彼女は震える手で懐から何かを取り出し、高く掲げた。
「こ……これを見てください!」
それは、王家の紋章が刻まれた短剣だった。
「これは王家に伝わる短剣です! これを……殿下から渡されました!」
「貴様ッ!?」
「『これでヨナを刺せ』と……『殺せ』と命じられました! 私は……ッ。……私はそんなことできませんっ!!」
カランッ。
ライラはその短剣を床に投げ捨て、その場に崩れ落ちた。
広間が静まり返る。
衛兵たちの視線が、ロクサリオに突き刺さる。
王家の短剣は、決定的な証拠だった。
「あ……あぁ……」
ロクサリオの顔が、怒りで赤黒く歪む。
「余計なことを……! この役立たずがぁぁぁ!!」
彼は腰の剣を抜き放ち、うずくまるライラへと振り下ろした。
「売女のくせに!! 拾ってやったのに!!」
「っ……!!」
ガギィッ!!
硬質な音が響き、ロクサリオの剣が虚空で止まった。
「なっ……!?」
彼の剣を受け止めたのは、突然空間に出現した、分厚い氷の壁だった。
「……見苦しいな。ロクサリオ」
リオン様が、冷ややかな視線で彼を射抜く。
剣すら抜いていない。
ただ指先を動かしただけで、ロクサリオの全力の一撃を完全に無効化していた。
「リオンッ! 僕に逆らうな! 僕は王だぞ! この国の支配者だぞ!!」
ロクサリオが氷の壁を叩きながら喚く。
「衛兵! 何をしている! こいつらを殺せ! 王命だぞ!」
衛兵たちは動かない。
王殺しの疑惑がある男の命令になど、従えるはずがなかった。
衛兵たちにとっては、ロクサリオの普段の行いから、その疑惑は『有り得る』と思い至らせるに十分だったから。
「動け! 動けぇぇぇ!!」
孤独な叫びが木霊する。
「……喚くな! 馬鹿者が!」
その時。
重厚な扉が開き、凛とした声が響いた。
ロクサリオの動きが、ピタリと止まる。
ギギギ、と油の切れたブリキ人形のような動きで、彼が振り返る。
そこには。
「ち……父……上……?」
リオン様の父上……王弟、エルドア様と宰相様を従え、威厳ある足取りで歩いてくる、国王陛下の姿があった。
「な、なぜ……どうして……ここに……いや……なぜ……生きて……あなたは……僕が……殺……」
ロクサリオが腰を抜かし、無様に床へ這いつくばる。
幽霊でも見るような目で。
「ロクサリオ」
王の低い声が、ロクサリオの頭上から降ってくる。
「私はお前のその薄汚い顔を、最期まで見ていたぞ」
「ひぃっ……!」
「リオンが駆けつけてくれなければ、私は今頃本当に死んでいただろうな」
王が、隣に立つリオン様に感謝の視線を送る。
「……ロクサリオよ。お前は、自分の野心に酔うあまり、もっとも重要な確認を怠ったな」
「は……?」
「脈だ。お前は余が呼吸を止めたかどうかも確認せず、勝利を確信して部屋を出た。……あそこまで杜撰な暗殺も珍しかろう」
王の侮蔑を含んだ言葉に、ロクサリオの顔が赤く染まる。
「そ、そんな……まさか……」
「お前が部屋を出た直後、私はすぐに陛下を連れ出した」
「ど、どうやってッ! お前は遠く離れたデーテに……」
「……お前はどこまで馬鹿なんだ。私の転移魔法のことを忘れているのか?」
「はっ……」
リオン様が、氷のような冷たい声で追い打ちをかける。
「陛下には、まだ微かに息があったからな。……私は以前からお前の動きを警戒していた。だからこそ、最悪の事態になる直前で間に合ったのだ」
「見張って……いたのか……僕を……ッ!?」
「ああ。そして、瀕死の陛下を救ったのは、他でもない。お前が『澱んだ力』だと蔑んで捨てた、ヨナだ」
リオン様の言葉に、ロクサリオがギギギと首を動かし、私を見た。
「よ、ヨナ……だと……?」
「彼女の懸命な治療がなければ、陛下は助からなかっただろう。……我々が今朝まで姿を現さなかったのは、陛下が最後に、お前に慈悲を与える時間を望んだからだ」
陛下が、悲しげに目を伏せる。
「朝になり、お前が過ちに気づき、青ざめた顔で懺悔していれば……まだ救いようもあったかもしれん。だがお前は、女を侍らせ、笑顔で玉座へ向かおうとした」
「あ……ぅ……」
「その姿を見て、余は決断したのだ。……もはや、余に息子はおらぬと」
突き放すような王の言葉。
それが、トドメだった。
「……ロクサリオ。貴様に改心の意思はない。その可能性もない事がはっきりとわかった。貴様を廃嫡とし、地下牢へ幽閉する。沙汰があるまでそこで震えていろ。処刑は免れんと思え」
衛兵たちが一斉に動き、ロクサリオを取り押さえる。
「は、離せ! 僕は王だぞ! 嘘だ! こんなの嘘だぁぁぁ!」
もはや王子の威厳など欠片もない。ただの駄々っ子のように暴れるロクサリオ。
「待ちたまえ」
リオン様が衛兵を制止し、ロクサリオの前に歩み寄る。
「……なんだよ……まだ何かあるのかよ……」
「貴様は言ったな。ヨナのことを『澱んだ魔力を持つ魔女』だと」
「そうだ! その女は呪われている! 初めはその美貌に目が眩んで婚約を結んだが……そのどす黒く澱んだ魔力が気色悪くて触れることすら躊躇った! そいつは魔女だ!」
最後の悪あがきのように、彼は私を指差して叫んだ。
王が静かに首を横に振る。
「……黒、か。お前の目にはそう映っていたのか」
「は……?」
「余は昨晩、死の淵で見たぞ。彼女の手から溢れる、黄金の光を」
王の言葉に、ロクサリオが呆然とする。
「あの光は、どんな高位の神官の魔法よりも温かく、清らかだった。我が国には古い言い伝えがある。『王家の危機を救い、国に豊穣をもたらす者は、黄金の魔力を持つ』とな。あれこそ、伝説にある『聖女の光』そのものだ」
「せ、聖女……? 馬鹿な、あんな黒い色が……」
「魔力視の才能がないお前には分からなかっただろうな。いや、触れた者にしか分からんのかもしれん」
陛下に続き、リオン様が告げる。
「光があまりに高密度すぎると、視覚的には光が飽和して『黒』く見えることがある。お前が『澱んでいる』と蔑んで捨てたその力は、国を救う最強の光だったということだ。事実、どんな医者も見放した陛下の病を、彼女は一瞬で癒やしてみせたのだからな」
「な……っ……」
「ヨナ」
リオン様に促され、私はそっと彼の手を取った。
私の身体から、溢れんばかりの魔力を解放する。
――カッッッ!!!!
空間が、震えた。
限界まで圧縮され、黒く見えていた魔力が一気に解き放たれる。
拡散したその光は本来の輝きを取り戻し、広間全体を目を開けていられないほどの黄金色に染め上げた。
それは温かく、全てを浄化する聖なる輝き。
「ぐあぁぁっ!? 目が、目がぁぁ!!」
ロクサリオが両目を押さえてその場にのたうち回る。
私やリオン様、陛下たちにとっては温かい陽だまりのような光。
けれど、邪な心を持つ彼にとって、その聖なる輝きは網膜を焼く業火そのものだったのだ。
「ひ、ひぃ……あ、あぁ……」
自分が捨てたものが、ただの石ころではなく、国宝級のダイヤモンドだったと知った絶望。
王位も、名誉も、そして最高の聖女も、全て自分の手で捨ててしまったのだという事実に、彼の精神は完全に崩壊した。
「連れて行け」
王の命令と共に、ロクサリオはずるずると引きずられていった。
その目にはもう、何の光も宿っていなかった。
◇◆◇
ロクサリオが退場し、静寂が戻った広間に、啜り泣く声が響いた。
「うぅ……っ……」
「ライラよ。暗殺未遂を知りながら、朝まで沈黙していた罪は重い。昨晩、すぐにでも誰かに伝えることはできたはずだ。……だが、お前もまた、あの愚か者の被害者であったことは、余も知っている」
王の言葉に、ライラが顔を上げる。
「よって死罪は免じる。……だが、貴族としての籍は剥奪する。……修道院へ入り、生涯をかけて罪を償い、心を清めよ」
陛下がリオン様に一瞥を送り、リオン様は軽く頷く。
「……修道院の場所は、デーテ領だ」
「……はい……陛下……。ご慈悲を……ありがとうございます……」
衛兵に連れられ、ライラが歩き出す。
私は思わず、彼女に声をかけた。
「ライラ様」
「ヨナ様……ごめんなさい……私、ずっとあなたが羨ましくて、妬ましくて……あの方の甘い言葉に、縋ってしまいました……」
彼女はボロボロと涙をこぼした。
「……デーテ領の修道院はステンドグラスが綺麗なんです。そこは空気が澄んでいて、心が洗われる場所です」
「え……?」
「いつか、リオン様とクッキーを持って遊びに行きますね。……今度は、友達として」
ライラは目を見開き、そしてくしゃりと顔を歪めて泣いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
彼女の涙は、これまでの罪と恐怖を洗い流す、懺悔の涙だった。
◇◆◇
騒動が落ち着いた後、私たちは国王陛下の私室に招かれていた。
ふかふかのソファに向かい合って座る。
陛下の顔色は、ヨナの治療のおかげですっかり良くなっていたけれど、その表情は沈痛だった。
隣には、王弟であるエルドア様も控えている。
「……リオン、そしてヨナよ。此度のこと、なんと詫びてよいか分からぬ」
陛下が深く頭を下げた。
一国の王が、臣下に対して頭を下げるなど、あってはならないことだ。
「陛下、頭をお上げください」
「いや、私の教育が間違っていたのだ。ロクサリオの歪んだ性根を見抜けず、あのような怪物を育ててしまった。……そのせいで、お前たちには辛い思いをさせた」
陛下は悔しげに拳を握りしめた。
親として、子を断罪しなければならなかった苦しみは、計り知れないだろう。
「リオンよ。ロクサリオは廃嫡とした。……そこで相談なのだが」
陛下が真剣な眼差しを向ける。
「知っての通り、私にはもう子はおらぬ。そこで……次期王位継承者として、お前を指名したいと考えている」
「……」
「お前の実力、人望、そして今回の冷静な判断力。どれをとっても王に相応しい。どうだ、王都に戻り、この国を背負ってはくれぬか? お前を辺境に追いやっておいて都合がいいと思われるかもしれんが……」
辺境伯から、一国の王へ。
誰もが羨む栄達の道。
けれど、リオン様は迷うことなく首を横に振った。
「有難きお言葉ですが、辞退させていただきます」
「な……なぜだ? もはやお前を縛るものは何もないのだぞ」
「デーテにはまだ、私が手を入れたばかりの事業がたくさんあります。それに……」
リオン様が、隣に座る私の手をぎゅっと握りしめた。
その瞳が、とろけるように甘く歪む。
「あそこは、私とヨナの『愛の巣』ですので。邪魔が入る王都での暮らしは、私たちには窮屈すぎます」
「ぶっ……!」
エルドア様が吹き出し、陛下がぽかんと口を開けた。
私も顔から火が出そうだ。
陛下の前で、なんてことを言うのこの人は!
「……はぁ。お前らしいな。昔からお前は、権力欲だけは皆無だった。ロクサリオではなく……お前が息子だったらと……何度思ったことか」
陛下は苦笑し、肩の力を抜いた。
「分かった。無理強いはせぬ。デーテの地は、引き続きお前に任せよう」
「感謝いたします」
そして、陛下は私に向き直った。
「ヨナ・フォン・ハプスブルグ」
「は、はい!」
「ハプスブルグ家に課せられた不当な処分は、全て直ちに撤回する。公爵の地位も、没収された財産も、利子をつけて全て返還すると約束しよう」
「……っ、ありがとうございます……!」
私の目から、安堵の涙が溢れ出した。
よかった。
お父様、お母様、みんな……本当によかった。
「それと……」
陛下は、厳格な表情を崩し、父親のような柔らかな眼差しを向けた。
「命を救ってくれたこと、心から感謝する。……この国の聖女よ。どうか、我が甥のことを頼んだぞ」
「えっ……」
隣を見ると、リオン様が少しバツが悪そうに視線を逸らしている。
私は涙を拭い、満面の笑みで深く頭を下げた。
「はい……! 謹んで……!」
◇◆◇
季節が巡り、デーテ領に遅い春が訪れていた。
王都では、国を守る「聖女」を不当に扱い、辺境へ追いやってしまったことへの後悔と動揺が広がっているらしい。
多くの貴族がデーテ領へ詫びの品を送ってきているようだが、リオン様は「今更遅い」と全て送り返しているそうだ。
「ん……リオン様……もう、起きないと……」
「……あと五分……いや、十分……」
朝の光が差し込む寝室。
私はベッドの中で、リオン様に抱きすくめられて身動きが取れずにいた。
王都での決闘の時の、あの冷徹な「氷の辺境伯」の面影はどこにもない。
今の彼は、ただの甘えん坊な男だ。
「今日は領内の視察に行く予定でしょう? 皆さん待っていますよ」
「待たせればいい。私は、今君とのひと時を楽しんでる」
リオン様が私の頬を愛おしげに撫でる
「君の瞳に吸い込まれそうになる」
「私もです。いつも、そう思ってます」
引力で惹かれ合うように、私たちはお互いの瞳から視線をそらすことができない。
どこまでも深く、吸い込まれそうになる。
一生だって見ていられる。美しさを通り越して、ただただ、愛おしい。
私が微笑むと、リオン様はとろんとした瞳で私を見つめ、チュッと頬にキスを落とした。
扉の向こう側から、いつものメイドの声が響く。
「お取り込み中のところ申し訳ありませんが、そろそろ出発のお時間です」
「ほら、もういかないと」
「キスをしてくれ。そうしたら動けそうな気がする」
「……今したじゃないですか」
「もっとだ」
私は彼の唇にキスをした。
深く、濃密な。
「……ん。……君と一緒なら、地獄の果てでもピクニック気分だ」
「なんですか? それ。大げさですね?」
リオン様が身体を起こし、大きな伸びをする。
窓の外には、のどかなデーテの風景が広がっている。
かつては魔獣の脅威に怯えていたこの土地も、今では彼の守護と、私の浄化の力によって、花々が咲き乱れる美しい楽園へと変わりつつある。
修道院にいるライラからも、先日手紙が届いた。
辛い修行の日々だが、子供たちに勉強を教えたりして、充実した日々を送っていると書かれていた。
今度、リオン様と一緒にクッキーを持って会いに行く予定だ。
「ヨナ」
名前を呼ばれ、振り返る。
逆光の中、リオン様がこの上なく愛おしそうな表情で手を差し伸べていた。
「愛している。これからもずっと、私の傍にいてくれるか?」
私はその大きな手に、自分の手を重ねた。
温かい。
凍えていた私の人生を溶かしてくれた、太陽のような温もり。
「はい。……貴方が、私を離さない限り」
「離すものか。一生、いや、来世まで君を縛り付けてやる」
「ふふっ、それはちょっと重すぎます」
「重いくらいが丁度いい」
リオン様が私の腰を引き寄せ、抱きしめる。
再び重なる唇。
甘く、とろけるような口付けが、今日も私たちの一日を始める合図。
不安に押しつぶされるだけだった悪役令嬢はもういない。
ここにいるのは、世界で一番重たい愛に包まれた、幸せな二人だけ。
これからもずっと、この幸せな日々は続いていく。
私の心を溶かしてくれた氷の辺境伯様と。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
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★毎日短編投稿してます!時間は12時頃を予定しております!(今日は夕方頃にも1本投稿予定です)ゲリラ的に2本投稿する日もございますので、興味のある方は作者マイページよりお気に入り登録していただくか、チラチラと確認していただけると、見逃さずにお読みいただけるかなと思います!
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【スカッとしたい方へ】
『その聖水、ただの麻薬ですよね?』
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【笑ってキュンとしたい方へ】
『冷徹公爵様の心の声 (テロップ)がピンク色で大暴走している件について』
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【とろとろに甘やかされたい方へ】
『触れるもの全てを殺す『死神公爵』様、なぜか私だけ触れても平気なようです』
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他にも投稿済みの短編がございますので、作者マイページからお好みのものを見つけてご覧いただけると幸いです。




