獅子文六と戦争をテーマにしたジンを販売中です

 戦争に突入する時代をテーマにしたジン『認識不足時代 ご時勢の急変と獅子文六』を作りました。BOOTHで販売中です。「あんしんBOOTH パック」(ポストに投函・匿名配送)でお送りします。

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ビリケン商会(青山)・オヨヨ書林新竪町店(金沢)でもおもとめいただけます。

流行語だった「認識不足」と、獅子文六

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 昭和の人気作家・獅子文六といえば『コーヒーと恋愛』(昭和37)。テレビ業界が描かれているので「戦後の作家かな?」と思われるかもしれません。しかし『コーヒーと恋愛』は69歳の時の作品なのです。

 デビューはもっと前、つまり戦前。

ところが獅子文六がユーモア小説家としてブレイクしたとたん、日本は本格的な戦争モードに突入します。( 朝ドラ「エール」の古関裕而も同様のタイミングでしたよね。ブレイク→戦争→軍歌の覇王)

 

 ジン「認識不足時代 ご時勢の急変と、獅子文六 」(2020年発行)は、かつて流行語だった「認識不足」を軸として、昭和11年〜25年の16作品を並べています。戦争の時代を扱っていますが、お茶の時間にサッと読めるように作りました。フェーズが変化するたびにキラキラしたモダン生活が消えるのを感じてください。

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ちくま文庫の「断髪女中 獅子文六短編集 モダンガール編」をセレクトされた山崎まどか様のTwitterより。

ビッグイシュー411号「究極の自由メディア『ZINE』」特集に掲載されました。

「認識不足時代 ご時勢の急変と獅子文六」で引用した 参考画像

ジン「認識不足時代」では、参考画像も紹介しています。

▽これは国際連盟脱退で揺れている頃の漫画。かわいい絵ですが、時代の空気が伝わってきます。(昭和8年2月講談社「キング」小野寺秋風) 

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昭和14年「欧州大戦勃発」の漫画タイトル(昭和14年11月新潮社「日の出」)

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▽49歳ごろの獅子文六。本名の岩田豊雄で『海軍』を書いている時期です。『海軍』は日米開戦の翌年(昭和17)朝日新聞に連載され、敗戦後「私のことを戦犯だといって、人が後指をさす*1」原因になりました。そんな『海軍』から20年後の昭和37年、『コーヒーと恋愛』の新聞連載がスタートします。

昭和17年12月『主婦之友・大東亜戦争一周年記念号』

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ジン「認識不足時代  ご時勢の急変と、獅子文六 」は、画像が多め・字も大きめ。「獅子文六に興味ないなあ」という方もぜひ!時代が急変している今、何かのヒントになりますように。 

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▽このジンを作ったきっかけは、2014年のラジオ(宇多丸さん)でした。

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*1:獅子文六全集14巻「落人の旅」朝日新聞社

基地の街【立川】の“鮮やかな”クリアファイル

鮮やかさで、過去を上書き?

東京・立川市の美術館で開催中の「多摩の空はつながっているか」展で、こんなクリアファイルを買いました。

米軍基地・立川を描いた鮮やかな絵を元にしています。

 このクリアファイルの元になったのは【安西啓明《立川市変貌》1953年、たましん美術館蔵】という絵。

朝鮮戦争の頃の立川です。

これを見たかぎりだと、事情を知らない方は「にぎやかだなあ。立川はよくも悪くも、アメリカの影響受けているバタくさい街だったのだな」と思うかもしれません。

しかし、昭和の立川は「にぎやかだなあ」だけではすまない街でした。

「多摩の空はつながっているか」展の解説がとてもアッサリしていたので、ここで1950年代の立川を扱った新聞記事を紹介しましょう。

「立川また犯罪の街へ 隣接基地の米兵が跳梁」(1957)。米兵が「跳梁」って、すごい見出しですね。

立川市関係新聞記事集 1956年~1957年版-立川市議会史編さん資料』

売春宿は窮地に 明るくなる夜の立川」(1956)

立川市関係新聞記事集 1956年~1957年版-立川市議会史編さん資料』

 ……といった調子で、昭和の立川には、このテの新聞記事が山ほどあったわけです。(立川に限らず、日本は朝鮮戦争の休憩所として賑わっていました)

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ちなみに現在の立川は過去をすっかり消している街。キレイな大通りにIKEAがあるばかりで、過去を感じさせるものは残っていません。

▽ちなみに立川に隣接する国立(くにたち)は、立川からの悪影響を防ぐため、大急ぎで「文教地区」になりました。こちらの過去ログもあわせてごらんください。

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リゾート?それとも戦場?【太平洋のビフォーアフター】

 

 先日、SNSでこんな画像が流れてきました。《世代によって、ハワイのイメージが違う》という、ドリフのコントらしい。

このコントからわかるように、ハワイや太平洋はかつては戦場でした。まさに太平洋・戦争。今日は、戦場だった頃の太平洋のイメージを紹介しましょう

アメリカから見た太平洋

▽まずは終戦の年、 1945年(昭和20)8月27日『LIFE 』から。一丁上がり…とばかりに、処理済み的なハンコを押される日本。見るからに戦勝国の広告です。「Pacific Ocean」と優美なフォントで書かれているのが、つらい。

▽同じく終戦の年、 1945年(昭和20)8月27日『LIFE 』から電話会社の広告。《我が社のすぐれた通信機器を使って、日本を追い詰めることができたのです》と誇らしげです。太平洋に広がる、おそろしい同心円。これは勝者の“すごろく”ですね。

▽一部拡大。《「TOKYO」を爆撃するときも我が社のデバイスが活躍しました》といった調子の広告です。

日本から見た太平洋

▽一方、日本からみた太平洋はこんなイメージ。これは昭和17年12月の『婦人画報』より「米英の強奪」を描いた地図です。日米開戦一周年ということで、気合の入ったカラーページ。

ゴム・錫・タングステンキニーネ…その他の南方特産ともいうべき戦時必需物資は、米英の「強奪」から救われてアジアを潤すためにのみ活用されねばならない。その時が、今、来たのだ!

婦人画報昭和17年12月号

▽『大東亜写真年報』(昭和18)より、「アキバ徽章」(九段下)の広告。日本が太平洋、アジアをキリっと制するイメージでしょうか。他に巨大企業の広告も掲載されていましたが、最もカラフルなのがアキバ徽章の広告で驚いた。

同盟通信社『大東亜写真年報』2603年版(昭和18)

▽太平洋に危機が迫っているぞ、と警告している図。日米開戦の年(昭和16年2月)に開催された「太平洋報道展」→⬜︎から。★印がアメリカ海軍のパワーを表しています。

これからの太平洋は刻々として有史未曾有の一大戦略的空間となりつつある。東亜民族の共存共栄を妨害せんとするアングロサクソンの執拗な侵略搾取政策は今や大規模なる軍備拡張計画を以て積極的攻勢に転じてきた

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(山名文夫・今泉武治・新井静一郎編/1978年/ダヴィッド社

そして、敗戦。

多くのご遺骨は、今もそのまま太平洋にねむっています。

厚生労働省のサイトより「地域別戦没者遺骨収容見取り図」


1978年のレコード「PACIFIC」(山下達郎細野晴臣鈴木茂

で、最後にもうひとつ。

私が近頃、不思議に思っているのが、1978年の「パシフィック」というレコードです。(細野晴臣鈴木茂山下達郎

 1978年といえば敗戦から33年経過しています。戦争の記憶も薄れつつあるでしょう。しかしこのレコードを手がけたミュージシャンの父親たちは、パシフィック=激戦地だったことをカラダで知っている世代。その子どもたちが、わざわざパシフィックをテーマにして、(公式サイトがいうところの)「浮遊感溢れる」「シエスタ・ミュージック」を作りあげるというのは一体どういう心情なのか…。このレコードに限らず、矢沢永吉が「あ〜パシフィック」と歌う『時間よとまれ』も、同じく1978年だったりするしなあ。

そのへんのナゾがとけたら、また続きを書きたいと思います。

▽ハワイの真珠湾攻撃で亡くなった若者をモデルにした獅子文六の小説「海軍」

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「マガジンハウス80周年」から考えた、デザイナーの戦中・戦後【特攻隊の展示→雑誌『平凡』創刊】

 

マガジンハウス創業時の表紙が可愛いすぎる

今年80周年を迎えたマガジンハウス。

1945年、終戦直後の瓦礫の街・銀座で、雑誌『平凡』は誕生しました。

magazinehouse80th.jp

マガジンハウスは「アンアン」や「ブルータス」でお馴染みの出版社ですが、創業時がどんな様子だったかご存知でしょうか。

なんと敗戦の年末には、もう雑誌『平凡』の創刊号を出していたのです。紙も何もかも不足している時代に、なんとすばやい。

▽右上の白っぽい表紙が創刊号です。敗戦直後とは思えぬ可愛いらしさ。

『大橋正展  暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』図録(2002)

 『平凡』創刊時の可愛い表紙を手がけていたのは、デザイナーの山名文夫と、大橋正です。

今は体裁内容ともまるで変わっているものの、「平凡」が創刊している。創刊当時は、A5判の読み物本位の大衆雑誌で、表紙のイラスト大橋正、題字は私であった。(山名文夫 『体験的デザイン史』1976年版・343ページ)

『大橋正展  暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』図録(2002)に加筆

題字を手がけた「山名文夫」は、資生堂の美女と唐草模様が有名ですが、イラスト担当の「大橋正」は聞き覚えのない方もいらっしゃると思います。ここで大橋正による広告の例をあげてみましょう。たとえば明治チョコレート(1955/昭和30)。すさまじい愛らしさですよね。

『大橋正展  暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』図録(2002)

『平凡』の表紙コンビは、特攻隊の展示も手がけていた

 さて。「平凡」創刊号の表紙をかざった山名文夫と大橋正のコンビは、《戦争が終わってから、はじめて出会った》わけではありません。

実は2人とも敗戦の直前まで、国策宣伝のための集団「報道技術研究会」にいたのです。「報道技術研究会」……なんだか高校生の部活っぽい名称ですが、これは著名なデザイナー、コピーライター、写真家などからなる集団でした。(彼らは戦争で広告の仕事が激減し、国策宣伝に活路を見出していました)

  • 40代の山名文夫は「報道技術研究会」の委員長
  • 20代の大橋正は「報道技術研究会」に憧れて入った青年

つまり「平凡」の表紙コンビは、戦争中から一緒に活躍していたということになります。

▽『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(山名文夫・今泉武治・新井静一郎編/1978年/ダヴィッド社)。山名文夫・大橋正をはじめとした当事者たちによって、国策宣伝の様子が語られている本です。

 先述のとおり『戦争と宣伝技術者』には、『平凡』の表紙イラスト担当の大橋正も寄稿していて、文中には山名文夫が登場します。

 また、“神風特攻隊”の写真で構成した移動展の仕事もした。活字を組む段階で、依頼していた有楽町の活版屋が空襲で目茶苦茶になって、活字組ができず山名さんに筆書きでコピーを入れていただいた。

 その頃、山名さんといえば、朝出勤すると、どこで手に入れたのか、大きなタバコの葉を小刀でコツコツ丁寧に刻んで、パイプに詰めて嬉しそうに一服されている顔を今でも思い出す。(大橋正「憧れの報研*1」『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』96ページ)

……山名文夫と大橋正の『平凡』表紙コンビは、戦時中に特攻隊の展示にも関わっていたのですね*2。どのような展示だったかまでは書かれていないのですが、この2人にかかれば、たとえ「特攻隊」のような無理筋のテーマであっても、センスの良い仕上がりになったことでしょう。

【参考画像】これは特攻隊ではありませんが、大橋正による昭和18年9月の印刷物です。モデルの男性が、強そうなイケメンではなく、ヒョロっとしたタイプなのは、“あえて”なのかもしれません。もう翌月(昭和18年10月)には文部省主催で「出陣学徒壮行会」→⬜︎が行われるのですから。

2002年『大橋正展  暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』(2002)
1943年(昭和18)9月20日三越』206号

【参考】『戦争と宣伝技術者』より、「報道技術研究会」の戦争末期のお仕事一覧。特攻隊の展示も含まれます。取引先には、大政翼賛会陸軍省川崎製鉄日本鋼管・大日本飛行協会・情報局・大日本婦人会華北電電など、ものものしい組織が並んでいる。

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(山名文夫・今泉武治・新井静一郎編/1978年/ダヴィッド社

 以上、マガジンハウス創刊時の表紙を手がけたデザイナーの戦中・戦後を紹介しました。国策宣伝に、人気デザイナーが関わっていたのがおわかりいただけたと思います。

そして、2025年の日本。今後、おかしな政策が素敵なデザインでラッピングされたらどうなるでしょうか。私は気づかずに歓迎してしまいそう…。気をつけたいです。

▽【参考画像】大橋正が戦時中に手がけたポスターはこちら。「平凡」創刊号の愛らしいイラストとはずいぶん様子が違います。

『大橋正展  暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』図録

山名文夫と「報道技術研究会」についてはこちらを

narasige.hatenablog.com

▽「報道技術研究会」と花森安治の強〜い結びつきについてはこちらを

narasige.hatenablog.com

*1:※「報研」は報道技術研究会の略。

*2:山名文夫は戦時中に「そらゆく少年展」@銀座松屋昭和17年9月)も手がけ、後悔していたようです。「デザイナーにとっては、これは大切な勉強になった。それはそうであるが、ただこのことが、少年たちを、空の戦いに飛び立たせるために、手を貸したというのでなかったなら、と、今は胸が痛んでたまらない。こんな気持ちは、戦争中のことを書き続けるあいだ続くに違いないが、その時にあったこと、行なったことは書いておかねばならない。」(山名文夫 『体験的デザイン史』1976年版・287ページ)

ポン・ジュノ『ミッキー17』と、移民政策【満洲】

食いつめ者が、極寒の植民地へ『ミッキー17』

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アマプラでポン・ジュノ監督の『ミッキー17』はもうご覧になりましたか?

  • 食いつめた青年、ミッキー
  • 極寒の植民地(星)
  • 「使い捨て労働者」で人体実験

……という『ミッキー17』の設定で、私がなんとなく連想したのが、日本から【満洲】に渡った試験移民たちでした。

 以前、『東京満蒙開拓団』(ゆまに学芸選書)いう本を読んだことがあります。(早川タダノリさんのツイートで知りました)

昭和初期、東京・深川の無料宿泊施設「天照園」から、「ルンペン」たちを満洲に送りこんでいたのだとか。

この流れがちょっと『ミッキー17』っぽい。

建国まもない満洲に、「ルンペン」を「試験移民」として送り出す。それは彼らに「自力更生の道」を開くための救済事業……。

とはいえ、当時「ルンペン移民」を視察した人物の記録*1

気の毒ながら、みんな満洲移民のモルモットの覚悟です

という文が出てきたりすると、つい『ミッキー17』を感じてしまいます。いわば深川のミッキーたち。

▽【参考画像】当時の雑誌から、「満洲」の大まかなイメージ図をどうぞ。これは「満洲の農耕地」を皮算用・シュミレーションしているところです。(講談社『キング』1933/昭和8年5月)

日本人総出で開墾に従事しても差し支えない訳である

「ルンペン君」は満洲移民の人柱?

 当時の新聞は、深川の「ルンペン移民」が満洲に渡ることを、美談として報じました*2。(先述の『東京満蒙開拓団』より引用)

朝日新聞 1932/昭和7年6月11日

「焼酎酌んで盛宴 ルンペン君の送別会 秦憲兵司令官も激励」

◎読売新聞 1932/昭和7年6月11日

満洲行きルンペン団送別会 『我らは満洲の人柱 成功しても生きて帰らぬ』 秦憲兵司令官が送別の辞」

ああ…「ルンペン君」満洲の人柱」…

「ルンペン移民」が入植した満洲の奥地は、想像以上に過酷な場所で、気候も滅茶苦茶(大洪水&雹)だし、「匪賊」の襲撃もすさまじい。

ところが「死線を越えた」ルンペン移民団は「一種の諦め」から、ひどい環境でも妙に朗らかでした。*3。このあたりを読むと、『ミッキー17』の主役ロバート・パティンソンが、残酷な仕打ちをうけても、なぜかヘラヘラしていたのを思い出します。

『東京満蒙開拓団』は、ルンペン移民団以外にも、様々な移民団(東京発→満洲)が紹介されているので、機会があったら読んでみてください。

▽『ミッキー17』より。植民地(星)の環境を下調べするため、何度も実験台になるミッキー。研究者たちは、気楽にミッキーを殺します。ミッキーはいくらでも再生(コピー)できるから。

▽【参考画像】これは「ルンペン氏」満洲で人生をリセットしてる想像図。1932(昭和7)年8月号の雑誌に出ていた漫画なので、もしかすると「ルンペン移民」の新聞報道(1932年6月)にヒントを得たのかもしれません。それにしても「廃物利用の秘訣」という項目がひどい!

日増しに増えるルンペン氏も新興国満洲へ渡れば、赤い凍土と狼と馬賊を征服する勇士となる

『絵入よろづ秘訣宝典』(新潮社「日の出」創刊号附録・1932/昭和7年8月)

 以上、映画『ミッキー17』と、満洲に渡った「ルンペン移民」を紹介しました。『ミッキー17』を見るときには、かつての日本が《移民を送る側》だったことを思い出してくださいね。

(その後、満洲に向けて大量移民政策が始まります。↓↓引用文は『キメラ 満洲国の肖像』山室信一 中公新書

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*1:東京満蒙開拓団46ページ。全文は『文藝春秋にみる昭和史 1』の「執政に謁するの記」平野嶺夫(平野零児)で読むことができます。

*2:文藝春秋にみる昭和史 1』平野嶺夫(平野 零児)「執政に謁するの記」〈その当時の新聞記事を読んで、人々は「何だい、ルンペンを移民とは馬鹿にしている」と憤慨したものだった。〉

*3:『東京満蒙開拓団』65ページ「満鉄の調査員の目は冷静である。『満鉄報告』の中に次のような著述がある〈団員は所謂死線を越えたるものなれば困窮の生活に堪え、如何なる不況に於いても朗かなりと謂うことである。(略)彼等が朗らかなる所以は、自然的、社会的の迫害を運命的に受け容れたる一種の諦めの上に築かれ居るものにして…〉」

敗戦直前!【お灸のススメ1945】

今週のお題「わたしの体調管理法」

私の健康法は、お灸です。

私は鍼灸の国家資格を持っているので、お灸を(モグサの状態から)ひねることもできるけれど、ふだんは「せんねん灸」を使っています。

ちょっと疲れたとき…

ちょっと痛いとき…

すかさずお灸をします

部屋の片付けと同じで、「すかさず」というのがポイント。不調の芽は、はやめに摘んでおきましょう。

▽今回サムネイルに使った画像。むかしは、お寺で「灸点」をおろしていたようですね。

灸点の方へ 和尚の名が高し

昭和3年『現代漫画大観 第5編. 滑稽文学漫画』画:宮尾しげを

▽1年中、この2種をストックしてます。(左の、火を使わないタイプはダルビッシュ選手も愛用しているとか)

敗戦まで秒読み【お灸のススメ1945】

 さて。身近な健康法「お灸」は、敗戦直前の婦人雑誌でも推奨されていました。

《もう薬はない。医者もいない。だから自分でお灸してガンバレ》というわけです。

▽嘘のようですが、2冊とも同じ『主婦之友』です。たった数年で、このザマよ。

▽上記の『主婦之友』(昭和20年7月)に出ていたお灸コラム。紙質が悪すぎて、字が読めません。湿気の多い防空壕で起こりやすい不調に「お灸がよく効きます」とありますが、もはや問題が「湿気」どころじゃないことは、読者もわかっていたことでしょう。

▽同じく昭和20年7月の『主婦之友』。敗戦まで秒読みなのに「勝ち抜く壕生活」というタイトルがすごい。一面の焼け野原で、どう「自力再起」しろと?防空壕の中で「勝ち抜く」手段の1つとして、お灸が紹介されているけれども。

▽昭和20年8月(!)『主婦の友』より。お灸で胃腸を丈夫にさえしておけば「衣食住」がメチャクチャでも乗りきれる、といった内容ですが、お灸は魔法じゃないんだから…。しかしこういう理屈が、極限状態で心の支えになったのかもしれません。

胃腸さえ丈夫ならばたいていの病気を押し切ってゆけるものですが、近頃は医者や薬の不足に加えて、衣食住の不如意から来る心身の疲れ、不衛生、不消化などを原因して、胃腸病患者が続出しております。胃腸病は特に灸の効き目が顕著ですから、重くならないうちに根気よく灸を据えてください。


 以上、今週の「はてなブログ」のお題が「 わたしの体調管理法 」ということで、お灸にまつわるエピソードを紹介しました。

お灸はいいものですが、お灸に「しか」頼れない時代は、2度と来てほしくないですね。

▽「満蒙開拓少年義勇軍」の訓練所では、少年たちが満洲(過酷な環境)に渡る前に、お灸の知識を教えていました。

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愉快な旅行の舞台裏【帝国と観光「満洲」ツーリズムの近代  高媛】

 

能天気!人気マンガ家の満州旅行

 私は戦前の漫画が好きで集めています。

たとえばこれは人気マンガ家たち(宮尾しげを・池部 鈞など)が描いた満洲旅行記『漫画の満洲』(昭和2年/1927)*1

まるで《天国よいとこ一度はおいで 酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ》(昭和のヒット曲「帰って来たヨッパライ」)のようなメッセージを発している本なのです。

▽『漫画の満洲』から、宴席にはべる女性の頬を、おモチみたいだ…と、つついている男の図。迷惑そうな女性の表情は、どことなく『江古田ちゃん』に似ています。画:宮尾しげを

誰やらが頬っぺたをつついてみて、羽二重餅のように柔らかだという。ちょっと恐る恐るつついてみたら、成程柔かいフワフワだ。ちょっと皆さんにも突つかせたい。

『漫画の満洲』(昭和2年/1927)

▽同じく『漫画の満洲』より、展望車から「支那人」にハンカチをふっているところ。画:池部 鈞(俳優・池部良のお父さん)

我々は車上からハンケチを振って、沿線の支那人に挨拶をする、彼らも嬉々として応答する。彼らは愉快な愛嬌のある国民である

『漫画の満洲』(昭和2年/1927)

▽『漫画の満洲』より大連。「東洋の極楽園」。赤枠内には、この旅行に招待してくれた「満鉄」への褒め言葉が並んでいる。画:池部 鈞

満洲はいいところだ、大連は奇麗な町さ。(略)満洲というドエライ豊かな国の玄関口

『漫画の満洲』(昭和2年/1927)

楽しい旅行の舞台裏:『帝国と観光「満洲」ツーリズムの近代』 

 このように楽しい『漫画の満洲』(昭和2年/1927)ですが、眺めているうちに疑問がわいてきます。

この本に描かれているマンガは、こんなに無邪気でいいのだろうか?

美女の頬をつついたり、「支那人」は「愛嬌のある国民」だと喜んだりしているけれども、大丈夫?

 だって『漫画の満洲』が出たわずか4年後には、満洲事変(1931)ですよ。それなのに、この能天気ぶりは一体、どうしたことだろう?

……と、モヤモヤしていました。

そんな時に出会ったのが『帝国と観光「満洲」ツーリズムの近代』 (高媛著 岩波書店)です。この本を読んで、満洲観光の裏には強力な仕掛け人(満鉄など)が存在していたことを知りました。

 ご存知の通り、満洲はいろいろな意味でピリついた場所ですが、観光の仕掛け人たちは、あの手この手でステキな満洲を演出していたのですねえ。
▽イメチェンする満洲「荒涼たる未開の地」から「心に響く文化的な風景」へ

著名人のパワーで、「憧れ」を醸成

 『帝国と観光』は、「満鉄」が有名な文化人(夏目漱石与謝野晶子など)の力を借りて、満洲への「憧れ」を作り出していく過程が特に興味深かったです。

 「匪賊」が出没する満洲を、有名人のパワー(「名士招待」)で強引にイメージアップしていたとは。

つい《東京湾岸の荒涼とした埋立地に立つマンションを、天下のリチャード・ギアを使って宣伝した事例》*2を連想してしまいます。

 そして、今回紹介した旅行記『漫画の満洲』も、満鉄が手がけた「名士招待」の一例にすぎなかったようです。YouTubeにたとえるなら【プロモーションを含みます】の表示が出るような感じ?

だとすると『漫画の満洲』が能天気なのも、うなずける。満鉄に招待された人気マンガ家たちは、たとえ満洲の“暗部”に気づいたとしてもそこには触れず、あえて愉快なエッセンスだけを描いてみせたのかもしれません。

▽『漫画の満洲』より、「満鉄」社長の図。人気マンガ家たちを満洲に呼び寄せた張本人です。画:宮尾しげを

満鉄の本社へ参じて社長の安広伴一郎氏に敬意を表する。伴さん、いいご機嫌とみえて鼻の穴をぴくつかせる

『漫画の満洲』(昭和2年/1927)

▽追記:なんと、Twitterで著者の高媛先生からコメントをいただきました!ありがとうございます。


 以上、戦前の旅行記『漫画の満洲』と、『帝国と観光「満洲」ツーリズムの近代 』(2025)を紹介しました。その後、敗戦とともに満洲は地獄と化すわけですが、その件はまたいずれ。

【参考】満洲引揚接待係」サザエさんと、危険を避けて男装している母親(『サザエさん第1巻』)

きけんだったので だんそうしてきました

▽漂白された満洲・朝鮮の地図を集めました。ぜひご覧ください。

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*1:『漫画の満洲』の前書きには「満洲は日本にとって物資の宝庫であるから、日支両国の共存共栄のために、将来ますます開発に力めなければならない。したがって、満洲の人情風俗を知悉することは、両国民の親善を増す所以であるから、和気藹々たる八笑人の率直無邪気な報道は、蓋し家的有意義なんて少々大げさだが、確かに有益なことであろう」とありました。「八笑人」とは、この満洲旅行に参加した8人のマンガ家を指しています

*2:『マンションポエム東京論』(大山顕2025)「 リチャード・ギアを起用した「ザ・トーキョー・タワーズ」(2008年築)も埋立地の勝どきに建っている(略)そのマンションポエムは「アイラブ・ニュー・トーキョー」だ。「ニューヨーカーがニューヨークを愛するように、東京を愛してるって照れずに言えたら、東京は変わりはじめる。きっと。」というもの。吹きっさらしの空き地を目の前に、こともあろうにニューヨークを目標に据えて「東京は変わり始める」と謳った。その意気や良し」…私自身、まさに「埋立地の勝どき」で育ったので、リチャード・ギアの起用に無理があったことは、よくわかります笑

シティポップと焼け野原(その3)【大貫妙子の父親の本『特攻隊振武寮──証言:帰還兵は地獄を見た』】

大貫妙子の父親は、元特攻隊員

 当ブログでは、《シティポップと「焼け野原」は意外と近い》ということを、たびたび力説してきました。

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 今日紹介するのは、敗戦とシティポップの「近さ」を最も感じられる本。それは、大貫妙子のお父さん・大貫健一郎氏の『特攻隊振武寮──証言:帰還兵は地獄を見た』です。
大貫妙子『都会』(1977)

『特攻隊振武寮──証言:帰還兵は地獄を見た』(2009)大貫健一

特攻隊振武寮──証言:帰還兵は地獄を見た──

新橋の闇市で、警官にタックル

 『特攻隊振武寮──証言:帰還兵は地獄を見た』で特に印象的だったのは、敗戦直後の回想です。

特攻隊員だった大貫妙子のお父さんは、復員後、なんと新橋の闇市で「関東松田組」に雇われ、警官にタックルしていたのだとか。まるで『仁義なき戦い』の世界…
しかし、特攻隊時代の残酷な体験から順に読んでいくと、警官へのタックルが、《簡単なお仕事》に見えてくるから不思議です。(※悲惨な回想が多い本なので、体調が良い時に読むことをおすすめします)

▽「新橋の闇市」を検索していたら、港区のサイトにズバリ「関東松田組」の看板がありました。この雑踏の中に、大貫妙子のお父さんもいたのですね。(『新橋駅西口の闇市の看板」引用元:デジタル版 港区のあゆみ

出典:デジタル版 港区のあゆみ

▽新橋の闇市をを引きで見たところ。ここに大貫パパが…。1946年(昭和21年) 引用元:昭和館デジタルアーカイブ

 ところで、なぜ大貫妙子のお父さんが、新橋でワイルドな仕事(警官にタックル)に従事していたのか、不思議に思われるかもしれません。戦争が終わったのだから、とりあえず故郷に帰るなりして、少しはユックリしてほしいじゃないですか。

しかし、そうはいかない事情がありました。大貫パパは日本生まれで、日本統治下の台湾育ち。このような方たちは、敗戦と同時に「帰る先」が消えたのです。つまり、大日本帝国終了。

樺太、旧満州、朝鮮、台湾に家族のある者には帰る先がありません。私もそのひとりで、家族の消息などの情報もなく途方に暮れていました。(『特攻隊振武寮──証言:帰還兵は地獄を見た』)

その結果「ビルの軒先や駅の構内で夜露をしのぐ」はめに。生きのびるためなら、どんな仕事もやむをえない…みたいな状況になったのだとか。(外地で育った青年といえば、哲学者・木田 元は満洲育ち。『闇屋になりそこねた哲学者』には、焼け跡でテキ屋の手先になっていた経験が綴られています)

高度経済成長を担う元・特攻隊員

 その後、大貫パパは建設関係の会社をおこし、精力的に働きました。そう、シティポップの舞台となる「シティ」を作っていくわけです。

 昭和30年、トヨタをやめて、弟とともに都内で建設機械を取り扱う会社を興しました。仕事はすこぶるつきの順調で「高度経済成長の一端を担う仕事をやろう」と、昭和36年には土木建築も手がけることになりました。

社員は18名と少ないながらも、下請け会社を使った箱根のターンパイク、代々木のオリンピック道路、新幹線の路肩建設工事など、事業は高度経済成長の波に乗って順調に拡張していったのです。

 自分が特攻隊員であったことや、振武寮での屈辱的な生活のことは、記憶の奥にしまい込んでいましたし、思い出す余裕もなく時が過ぎていきました。

 シティポップの根幹をなす「シティ」の基礎は、焼け野原からわずか一世代で築かれた……そんな背景がうががえる文章です。
ニューヨークのように、“昔から摩天楼があって…”というわけにはいかないのだなあ、やはり。
 しかし、私はここまで読んでもなお、【焼け野原からのスピード復興】と【シティポップ】が連続しているとは感じられません。どうしても時間の感覚がバグってしまうのです。

【参考】昭和22年(1947)、新橋の「第一ホテル」で整地ローラーをひく男たち*1戦勝国のツヤツヤした車と、敗戦国民の対比が哀しい。ローラーの彼らに「30年後、シティポップの時代がきますよ。今は信じられないだろうけれど」と語りかけたい。(引用元:メリーランド大学図書館デジタルコレクション


 以上、大貫妙子の父親の本『特攻隊振武寮』を紹介しました。今後、シティポップ(や、ジンジャー・ルート)を聴く際の参考になればと思います。

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*1:元からカラー写真。明るさのみ調整しています

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