
2000回である。二千である。数字の暴力である。
ここまで来ると、もはや「読書が好きです」という清潔な趣味の話ではない。生活の話である。もっと言えば、コンディションの話である。体調である。
結論から言う。読書はだいたい知性ではない。だいたい体調である。
やる気がある日は読める。寝不足の日は読めない。胃が痛い日は文字が滑る。人間関係で心が摩耗している日は、ページをめくるだけで「なぜ私はこんな苦行を?」となる。逆に、なぜか機嫌がいい日には、普段なら投げ出すような難物でもスルスル入ってくる。これが読書である。
つまり読書は、意志の勝利というより、体の余力が文章に変換される現象である。
ここまで言うと「いやいや、読書は精神の営みでしょ」と言いたくなる人もいるだろう。わかる。私もそう思っていた。読書とは知性であり、教養であり、努力の結晶であり、なんなら人格である……そういう“きれいな物語”を信じていた。
しかし2000回、読書日記を書いてしまうと、きれいな物語が剥がれる。残るのは生活である。俗である。眠気である。仕事の疲れである。スマホの誘惑である。金銭事情である。「今日も読めてない」という罪悪感である。
そして、そういう俗が、読書を一番強く支配している。
ここから先の話は、別に「読書なんて大したことない」と言いたいわけではない。むしろ逆である。読書をちゃんと大事にするためには、読書を「立派な形式」に回収しすぎないほうがいい、という話である。私の合言葉はこれである。
形式にとって誤配であれ。
誤配とは、郵便や宅配で言えば「違う家に届いた荷物」である。届いた側は困る。届けた側は焦る。制度としてはミスである。だが人生は、誤配みたいな出来事でできている。
読書も同じである。読書はすぐに「形式」に回収される。形式とは、わかりやすく言えば「こうあるべき」の型である。たとえば――
読書は役に立つべき
読書は理解できるべき
読書は要約できるべき
読書は感想が立派であるべき
読書は教養として語れるべき
読書は冊数で示せるべき
これらは全部、形式である。もちろん、形式には良い面もある。目標ができる。努力が形になる。成果が測れる。
しかし形式は、たいてい人を疲れさせる。特に庶民を疲れさせる。仕事で疲れて帰ってきたところに「さあ、知性として読書をせよ」「理解せよ」「要約せよ」と来るからである。無理である。こっちはまず風呂である。洗濯である。明日の弁当である。
そして疲れた庶民が読書に求めているのは、だいたい救いか、気晴らしか、現実逃避である。そこへ「理解しろ、成果を出せ」と言われると、読書が“第二の仕事”になる。これが一番よくない。
私は2000回、読書日記を書くことで、この「形式の圧」を何度も体験した。最初の頃は、私も形式の信者であった。感想はちゃんとしていなければならない。要約は賢くなければならない。読んだ本は自分を高めなければならない。
だが、だんだん疲れてくる。200回目あたりで「毎回ちゃんと書くのしんどいな」となる。500回目で「書くことがない日」が増える。1000回目で「今日は読めてない。書けてない。罪悪感だけがある」という日が出てくる。
そして、ここで分岐する。
多くの人は、この段階でやめる。やめたくなるのが普通である。読書日記が、形式の牢屋になるからである。
しかし私は、やめずに続けてしまった。なぜか。答えは簡単である。
誤配を許したからである。
「今日は読めてない」を書いていいことにした。
「眠すぎて内容が頭に入らない」を書いていいことにした。
「この本、つまらんかも」を書いていいことにした。
「よくわからん。でも妙に引っかかる」を書いていいことにした。
つまり、読書日記を“立派な成果物”としてではなく、“生活ログ”として扱ったのである。ここで読書日記は急に息をし始める。読書が、知性の舞台から生活の床に降りてくる。床に降りてくると強い。床は散らかっていていいからである。
誤配の効能を、2000回の経験から雑に言う。きれいにまとめると嘘くさいので、あえて雑に言う。
まず、誤配を許すと読書が続く。これは大きい。
読書が続かない理由の多くは「本が難しい」ではない。「形式が厳しい」である。続けるには、形式を緩めるしかない。
次に、誤配を許すと、自分の生活が見える。これも大きい。
読書日記は、本の記録であると同時に、自分の精神状態の記録になる。どんな日に何を読めたか。どんな日に何が読めなかったか。これを積み上げると、人生の癖が出る。
さらに、誤配を許すと、あとから効く。ここが読書の一番いやらしいところである。
読んだ瞬間に「役に立った!」となる本より、「よくわからん」「引っかかる」「気持ち悪い」と感じた本のほうが、半年後に急に出てくることがある。脳内で勝手に発酵する。読書はキムチである。
そして最後に、誤配を許すと、読書がちょっと倫理になる。
「わからないものをわからないまま置いておく」「決着しない問いを抱えたまま生活する」――これは、SNSの即断即決とは逆の態度である。誤配を抱える態度である。ここに読書の倫理が宿る。
とはいえ、誤配にも副作用はある。2000回やって、失ったものもある。これを書かないと信用されないので書く。庶民派は、綺麗事だけで伸びない。
失ったものベスト3。
第一に、時間である。これは本当に失った。読書日記は、やればやるほど時間を吸う。書き始めると、なぜか余計なことまで書きたくなる。余計なことのほうが本質だったりするから困る。
第二に、目と肩である。身体的な意味である。スマホやPCで文章を書くと、目が乾く。肩が固まる。読書が健康にいいというイメージは、半分は嘘である。姿勢が悪い読書は、普通に体を壊す。
第三に、比較の平穏である。これは地味に痛い。
読書日記を公開するということは、他人の読書とも接触する。すると冊数マウント、要約マウント、教養マウント、人生改善マウントが視界に入る。自分の読書が急に不安になる。「私の読書は薄いのでは?」と。
ここでもう一度、誤配が必要になる。他人の形式に合わせると死ぬ。自分の生活の床に戻らないと続かない。
さて、ここからが実用パートである。
「誤配であれ」と言われても、何をどうすればいいのか。結局、庶民が欲しいのは“再現可能なやり方”である。そこで、2000回の中で特に効いた、誤配の作り方テンプレを三つ出す。立派な文章でなくていい。むしろ立派にしないことがコツである。
テンプレ①:一文だけ日記
本の感想を一文だけ書く。気の利いたことを言おうとしない。「眠い」「ムカつく」「なぜか笑った」「この一行だけ刺さった」。一文で終わらせる。
一文でいいと決めると、書ける日が増える。書ける日が増えると、読書も戻ってくる。読書日記は、読書の結果ではなく、読書の呼び水になる。
テンプレ②:目次だけ日記
本文を読めない日は目次だけ写す。気になる章に丸をつける。以上。
これ、ばかにできない。目次は本の地図である。地図だけ眺める日があっていい。旅行だって、移動だけの日がある。読書だけ「常に到達しろ」は無理である。
テンプレ③:体調→読書の順で書く
普通は「本の感想→自分の感情」で書く。しかし逆にする。
「今日は寝不足」「上司に削られた」「財布が寒い」「孤独が強い」――まず体調を書く。その次に「だからこの本は入ってきた/入ってこなかった」と書く。
これをやると、読書が生活の中で位置づく。読書が自分を裁く道具にならない。「読めなかった」を責めなくなる。
ここまでが“続ける技術”である。
だが私は、もう少し意地悪なことも言いたい。読書日記が続かない人の多くは、能力がないのではない。環境が悪いのでもない。もちろんそれもある。しかし、もっと単純な敵がいる。
「ちゃんとしなきゃ教」の内面化である。
読書は、なぜか「ちゃんとしている人の趣味」になりがちである。
読書ができる=頭がいい、意識が高い、人生をちゃんとやっている。
この連想があるせいで、読書が“自己評価の道具”になりやすい。
だから読めないと落ち込む。だから続かない。だからやめる。
しかし、読書は自己評価の道具にすると壊れる。これは2000回の経験則である。読書はもっと雑でいい。もっと不純でいい。もっと俗でいい。読書は、人生の品評会ではない。
ここで改めて言う。
形式にとって誤配であれ。
これは「いい加減でいろ」という話ではない。むしろ逆である。
形式に従うことだけが誠実ではない。形式からはみ出すことにも誠実がある。
役に立つかどうか分からない一行に、なぜか救われることがある。
理解できないのに、なぜか忘れられない文章がある。
それを「わからないからダメ」と切り捨てない。
「わからないまま置いておく」という態度を守る。
この“守る”が、私は誠実だと思う。誤配を誤配のまま抱える誠実である。
そして最後に、2000回書いた人間の、いちばん身もフタもない提案を置いて終わる。
読書日記は、上手く書こうとすると続かない。
読書日記は、立派なことを書こうとすると死ぬ。
読書日記は、「今日の自分の雑さ」を引き受けたときにだけ続く。
だから、読書日記を“作品”にしない。読書日記を“生活”にする。
生活とは、散らかりである。散らかりを許すことが、庶民派の強さである。
読書が続かない人に言いたい。読書は才能ではない。
読書はだいたい体調である。
そして体調は、日によって変わる。
変わるものに「いつも同じ形式」を押し付けると壊れる。
だから形式を緩める。誤配を許す。
誤配を許した読書は、案外しぶとい。
しぶとい読書だけが、人生の途中であなたを助ける。
さて、あなたは自分の読書を、どんな「形式」に回収しようとして疲れているのだろうか?