目に見えない光、磁石を動かすだけで生まれる電気、粉末をレーザーで固める技術…これらが何の役に立つか、想像できますか?
実はどれも、私達の日常を支える重要な技術に利用されています。
身体の異常を映し出すレントゲン。野外で電力を生む発電機。精密部品を作り出す3Dプリンター。

あらすじ
周りからバカにされていた虔十(けんじゅう)は、森で過ごす時間を何よりの楽しみとしていました。ある日、家の裏の野原に杉の苗を植えたいと両親に頼みます。
父親の勧めもあり、兄と一緒に杉の苗を植え始めます。
周囲の冷たい視線や嘲笑もありましたが、植えた苗は杉林として成長しました。この林は、近所の子供達の遊び場になります。
その後、虔十は死にますが、村が急速に都市化していく中でも、虔十の林だけは残されます。かつて子供だった大人たちの協力もあり、「虔十公園林」としていつまでも保存されることになりました。
(あらすじ終わり)
本文はこちらをどうぞ。
虔十の性格は、今でいう知的障がいの特徴に似ています。でも、いつまでも残る「町のシンボル」を作ったのですから、世の中、何が賢いかなんて分かりませんね。
実は失敗した虔十の願い
本作の構成は、対称構造になっています。

実は、虔十が杉の苗を植え始めたのは、林を作りたかったからではありません。自分の見た素晴らしい森林を裏庭に再現したかったのです。
しかし、杉が思うように育たなかったので、林になりました。失敗です。周りのみんなの言う通りでして、森を作るなんて最初から無理でした。
だから、彼はスカスカの杉林を見て、気持ちが悪く、胸が痛いように思ったのです。

でも、次の日、彼は自分の林が予想外の価値を生み出していることに気づきます。森という形ではありませんが、地域の子どもたちの「遊び場」になっていました。
「子どもたちが喜んでくれるから良い」と、彼は森の再現にこだわらず、目の前にある現実を受け入れます。自己満足の実現よりも、子供達の幸せを優先したのです。柔軟で優しい心の持ち主ですね。
成長した平二が「木を切れ」と提案した際、虔十が拒否したのもここにありまして、彼は子どもたちの遊び場を奪われることを、直感的に恐れたのです。だから、怖くても、立場が上でも、平二に反抗しました。

人間万事塞翁が馬
平二は、仕事(おそらく地主か金貸し)で富を得た、世間的には優れた人物の象徴です。百姓をこき使えるぐらいですから。
彼の「枝を切れ」という要求は、林を子供達の遊び場にするなら、木材として利用しろという意味です。合理的な考えではあります。しかし、林は切られず、彼は腸チフスによって死にました。亡くなった後は、畑や田んぼが潰れて家が立ったり、製糸場が建設されたりするなど、急速に都市化していきました。
これらの描写から、彼の目先の利益を追求する生き方が無益に終わったことを示しています。

一方、虔十は周囲からずっと馬鹿にされていました。しかし、無駄な行為と思われていた虔十の林は、村が町になっても潰されずに残りました。それどころか、村の人々の心にずっと残っています。
理想の森を作るという本来の目的とはズレた結果になりましたが、彼は村独自の文化を作ったのです。成長した子どもたちが林を訪れたり、寄付に協力する描写は、林が単なる公園ではなく、彼らの「心の故郷」や「村のシンボル」となっていたことを示しています。
これは、現代の「聖地巡礼」にも通じる現象でして、「クレヨンしんちゃん」を見て、春日部市に興味を持ったり、「ゆるキャン△」を見て、山梨に興味を持ったり、「ぼざろ」を見て、下北沢や江ノ島を連想するのと同じです。

本作の主張はここにありまして、「何が役に立つかなんて誰にも分からない」です。ことわざだと「人間万事塞翁が馬」、「無用の用」でしょうか。この予期せぬ現象を、作中では仏教の十力(仏の持つ十種の知恵・能力)になぞっています。
森を作れなかった虔十でしたが、救いはありました。自分の見た森の景色が林で再現されたのです。本文を引用します。読点加えて、一部仮名遣いを改めました。
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全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、爽やかな匂い、夏の涼しい影、月光色の芝生が、これから何千人の人たちに本当の幸いが何だかを教えるか、数えられませんでした。
そして、林は虔十の居た時の通り、雨が降っては透き通る冷たい雫(しずく)を、短い草にポタリポタリと落とし、お日さまが輝いては、新しいきれいな空気を爽やかに吐き出すのでした。
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冒頭で、虔十は雨の中の青い藪を見て喜んだり、風が吹いてぶなの葉がチラチラ光るのを見て笑います。息を吐き出して誤魔化すほどに。
その虔十の見た景色が、最後の虔十公園林の描写で再現されます。美しい構成です。

社会のカナリア
解説は以上です。ここからは雑談になります。
本作のような障がい者の視点から社会を見ようとする作品を、便宜上「障がい者文学」と呼称します。賢治は、知的障がい者を通じて、知性の限界や未来の不確かさを描きました。
このような作品は、外国文学にもあります。フォークナーの「響きと怒り」です。
知的障がい者であるベンジーの世話に、みんな手を焼くのですが、実は彼の問題が、家族の問題を映し出しています。


家族は南部社会を表していますから、「知的障がい者を巡る問題は、社会の問題を映し出す」という主張が読み取れます。フォークナー的には、知的障がい者が特段優れているというより、社会的弱者という属性だから歪みをモロに受けやすいという認識だと思います。
一時期話題になった「みいちゃんと山田さん」でも、そういう認識で描かれていますね。

ところで、この主張を現代の日本社会に置き換えてみるとどうなるでしょう。
「介護者を巡る問題は、日本社会の問題を映し出す」となります。介護の問題と聞くと「労働量が多いのに、給料が少ない」というのがまず浮かびます。すなわち、経済の問題です。
そして、この問題が最も歪な形で現れたのが、相模原障害者施設殺傷事件だと思っています。「財政危機だから足手まといを殺さなければならない」という理由で犯行に及びましたから。
では、この事件を大衆社会や日本全体に当てはめるとどうなるか。
日本社会最大の問題は「誤った経済認識による殺人が、日常的に行われている」と解釈できます。大衆の場合は「ゾンビ」などの誹謗中傷という形で、国家運営の場合は「効率・生産性至上主義」などの経済政策という形で。
知的障がい者などの介護者は、「社会のカナリア」の役割を果たしていたのですね。この知見は私にもありませんでした。
こういう意味でも、「ロストケア」って超重要作品なのだと感じます。