イースタン・プロミス(2007)

イースタン・プロミス

原題:Eastern Promises

監督:デヴィッド・クローネンバーグ

脚本:スティーヴ・ナイト

出演:ヴィゴ・モーテンセンナオミ・ワッツヴァンサン・カッセル

   アーミン・ミュラー=スタール、イエジー・スコリモフスキー、シニード・キューザック

撮影:ピーター・サシツキー

編集:ロナルド・サンダース

音楽:ハワード・ショア

 

 クリスマスが迫る夜のロンドン、病院で働く助産師のアンナ(ナオミ・ワッツ)は、運ばれてきた少女タチアナの出産に立ち会う。腕に複数の注射痕、大量の出血、すでに衰弱していたタチアナは出産後に命を落としてしまい、生まれてきた赤子は孤児となってしまう。身寄りのなくなった赤子のために、タチアナの親戚を探そうとするアンナ。遺品である日記に挟まってたレストランの名刺を手がかりに、ロシア料理レストランを訪ねる彼女だが、そのレストランのオーナーこそがタチアナの不幸の元凶ロシアンマフィアのボスであった。日記の存在を自ら知らせてしまったことで命を狙われることになるアンナは、レストランの運転手であるニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)から「こちらの世界へ踏み入るな」と忠告されるが・・・。

 

 クローネンバーグの映画では「変容」が物語を支配する。肉体を介して描かれるそれは、時に抽象の「具体化」として、世界の境界を跨ぐための「儀式」として、そして単なる「露悪」として画面上に表出する(本人や作品の哲学的な佇まいにつられて、彼の描く「変容」全てに高尚な意味を見出したくなる気持ちも分かるが、彼自身がカヌクスプロイテーションに出自を持ち、その立ち位置を最大限利用して作品を作ってきたことを見過ごしてはいけない)。

 

 常にせめぎ合う肉体と精神。その闘争は必ず肉体の勝利によって終わる。身体論的な思想と、肉体に対する絶対的な信頼(または興味関心)を持つクローネンバーグは、精神が肉体を超えていくことを許さない。

 

 雨の気配が途切れることのない真冬のロンドン。少女の死と日記をきっかけに繋がれてしまった「こちら側の世界」と「あちら側の世界」。二つの世界の境界線上で選択を迫られる登場人物たち。その結果、必然的に画面上に現れる「肉体の変容」。

 

 これまでの彼の作品の中で最も暴力的(現実に近いという意味で)であり、かつ最も切ない余韻を持つ本作は、どこまでもクローネンバーグ的であり、同時にこれまでとは異なる、非常に素晴らしい仕上がりになっている。

 

(以下、ネタバレ有り)

 

 クローネンバーグは常に境界線を引く。世界や個人の“二重性”を暴くために引かれるそれは、作品ごとに引かれる場所と濃さが異なる(彼の作品が時に難解とされるのは、この線の場所と濃さが極端に曖昧な場合があるからだ)。

 

 本作は暴力を第一言語とする「あちら側の世界」とそうでない「こちら側の世界」との間に線を引く。そしてその線は「視覚的」に観客に提示される(境界線が視覚化されるのもクローネンバーグ映画の特徴だ)。

 

 本作の境界線は「色」で示される(少し分かりやすすぎるが)。本作はあちら側に生きる裏の住人に対し常に「赤」を用意する。レストランの赤いソファ、赤い床と壁、卓上の赤い蝋燭と赤ワイン。悲惨な最後を迎えるのは同じロンドンでもガナーズのサポーターであり、儀式を終えたニコライのネクタイも赤に変化する。

 

 赤の引力は周囲を引き摺り込む。

 

 アンナは赤い日記に導かれてレストランに辿り着き、そこで真っ赤なボルシチを口にしてしまう(線を跨いでしまったことを示す演出だ)。幼い命は赤い薔薇と引き換えにあちら側へと連れ去られる。

 

 血を啜る彼らの前に引かれた「赤い境界線」。そこに注目して本作を観賞すると様々な発見ができる(なにより、この物語の発端と結末の中心にあるのは、あちら側の世界で頂点に立つ男の“赤い血”だ)。

 

 本作は紛うことなき「クローネンバーグ映画」だが、これまでとは少し様子が異なっている(ように感じる)。それは、これまでの作風とは異なり「シンプルな脚本で社会派な犯罪映画を撮った」というジャンル的な変化のことではなく、それによって「大衆性を獲得した」などの意味でもなく、もう少しクローネンバーグ映画の「本質」の部分の話だ。(または、自分がクローネンバーグ映画の本質を見誤っているか)。

 

 先述した通り、クローネンバーグ映画の中心には「変容」がある。そして、それは「抽象の具体化」だ。個人の内部にあり、客観的には視認できないはずのエゴや妬み、憎しみ、怒り、恐怖心、暴力性が具体性を持って肉体を支配し、塗り替えていく。『ザ・フライ』のセスの内側にある果てしない欲望と嫉妬心は彼自身の肉体を変容させることで画面上へと溢れ出し、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』においてトムの内なる暴力性は、他者の肉体を変容させる事で観客の前に晒される。

 

 本作もこれまでの作品と同様、登場人物には肉体の「変容」が待ち受けている。それを担うのは肉体に刻まれる「刺青」だ。

 

 あちら側の“規律”の頂点にいる“泥棒”たちに見下ろされながら、ニコライの体は変容を遂げる(彼の肉体を変容させる機械は“赤い”線に繋がれている)。組織への忠誠、仲間への敬意、公権力への反発、法への挑戦、暴力への信頼、目には映らないあちら側の精神性は肉体を介して視覚化される。ニコライは変容という「儀式」を経て、境界線を跨ぎあちら側へと正式に迎えられる。そして世界の二重性がより鮮明な形で観客の前に姿を現す。

 

 と、一見するとここまでは、これまでのクローネンバーグ映画で繰り返されてきた事と同じように思えるが、本作はここから、脚本上のツイストによって「変容」の在り方(または扱い)が大きく異なってしまっている。

 

 これまでの作品で、クローネンバーグが描いてきた変容は「不可抗力的」であり「不可逆的」であった(はずだ)。しかし、本作は違う。ニコライの変容は、彼自身が主体的に選択している。もちろん、実際に彼に変容を促したのは彼より上の存在達であり、そういった意味では選択の余地が無かったと言えなくはない。しかし、後半明かされるのは、彼が「更に大きな暴力装置の一員であった」ということだ(つまり彼は自身の変容をコントロールすることが可能な立場だったわけだ)。確かに彼は内なる暴力性に徐々に蝕まれている様に見える。しかし、少なくとも本作の中では、彼の「変容」には確かな「逃げ道」が用意されている(後戻りが可能になっている)。また、この設定により、世界の二重性を暴くはずの「変容」は、これまでの作品のようには機能しなくなっている。なぜなら変容を遂げ世界の二重性を暴くはずのニコライ自身が、その二重性を体現する存在だったからだ(変容する前から、彼自身が誰よりも世界の二重性を認識できている)。

 

 結局、彼自身は本質的には「変容」していない(つまり、今作では本質的な「変容」を描いていない)。おそらくこの部分が、本作がこれまでのクローネンバーグ作品とは異なる印象を与える大きな要因な気がする(度々話題になる本作の第二部は、この部分を補完するのではと思っている)。

 

 クローネンバーグは映画と相性が良いと思う。彼の試みを「抽象の具体化」だと説明したが、本来、映画という芸術形式においてそれは特別なことでもなんでもない。なぜなら、本来映画を物語るのは、セリフでもナレーションでもなく、アクションだからだ。クローネンバーグ作品に限らず、映画はこれまでも「抽象の具体化」を繰り返してきた。美しい女の二重性は化粧台の鏡の「分割された反射」で顕になり、その女を殺めてしまった人間の内なる罪悪感は、寂れた宿の「点滅する光源」で示される。登場人物の悲しみは「雨」に置き換わり、長い人生は「一本道とそこを走る車」で表現される。クローネンバーグが、精神(抽象)が肉体(具体)を超えていくことを許さないように、映画もまた、セリフやナレーション(抽象)がアクション(具体)を超えて物語を進める事を許さない(まあ、個人的に「それが映画であって欲しい」って思っているだけなのかもしれないが)。

 彼の映画で「具体化」をより強く感じるのは「具体化しにくい事柄まで力づくで具体化させてしまう」からだ(だから彼の作品は「難解」になる)。クローネンバーグの「映画はどこまで抽象を具体化できるのか」という試みは必然的に映画の表現の可能性と直結していく(そういった意味で相性が良い)。

 

 それと同時に感じるのが、クローネンバーグが「自身の欲求のために映画を利用しているのではないか」ということだ。彼の映画は時折、「合法的に人体を解剖する」ことを目的に作られているように感じることがある(露悪やサービスとしての解剖ではなく)。特に本作を鑑賞後それを強く感じたのだが、例えば死体を処理するシーン。ニコライの前に横たわる肉体は「死(+冷凍)」という形で既に「変容」を遂げている。にも関わらず、カメラは肉体が処理されるアクションを非常に適切なカット割りとアップで丁寧に「観察」する。または、サウナ(正確にはトルコ風呂?のような気もするが)での映画史に残る乱闘シーン。風呂場の奥へと案内されるニコライ。カメラはカットを割ることなく、彼の動線を丁寧にたどり、その肉体を観察し続ける。そして始まる乱闘。最小限のカット割とカメラワークは、映画の娯楽性ではなく、肉体が欠損していく過程とそれが周囲に与える影響を収めることを優先している様に見える(アクションを観客に「提示」するのではなく、人体が欠損していく様子をクローネンバーグが「観察」しているようにも見える)。

 とはいえ、そもそもクローネンバーグはアクションを撮るのが上手いタイプの映画監督ではない(どう擁護しようと流石に“上手い”とは言えない)。そのため、彼のアクションの鈍重さに無理やり“意味”を見出そうとしているだけの可能性もある。ただ、それでも、彼の演出するアクションの鈍重さの中には、彼自身の欲求のための“特別な理由”を感じてしまうことがある(そういった意味でも相性が良い)。

 

 気になる部分もある。個人的に思ったのが、世界の二重性を示すのに「ロンドンという街をもう少し利用できなかったのか」ということだ。例えば河だ。本作でも河が登場する。そして、それは「真実を隠すための場所」として利用される。が、この場所がそれ以上の意味で使用されることはない(勿体無い気がする)。例えば、アンナの居場所とレストランの間には河が流れているという明確な地理的説明を付け加え(アクションでもセリフでもいい)、アンナがその線を超えて、あちら側に関わってしまったことを強調する演出ができた気がする(河を境界線として利用できた気がする)。

 

 もう一つ気になったのが、アンナの存在だ。彼女は物語が進むにつれて、徐々にその主体性を失っていく(一見すると彼女は常に主体的に行動しているように見えるが、映画全体でみると、後半に行くにつれて、作り手から与えられたた舞台の上で、ニコライから用意された手続きを踏んでいるだけになってしまっている)。

 個人的に感じているのは「本作で変容を遂げるべきはアンナだったのではないか」ということだ。彼女は世界のルールブックは一つだと信じている。だからこそ、彼女は自分の行動の「事の重大さ」に気づけない。自身の中にある確固たる正義感をもとに進み続ける彼女は、自身のルールがあちら側の世界にも適用されるものだと信じている。その結果、ニコライからは「あちら側にいろ」と注意され、最終的に叔父のステファンは行方不明になってしまう。しかし、この彼女を取り巻く世界の変化は、ニコライの存在によって、“彼女のアクションを介することなく”、元通りになっていく。

 例えば、彼女には「他者の肉体が変容する瞬間を目撃する」というアクションが用意されても良かったのではないか。そして、そのことによって自分のルールが適用されない世界の存在を知る。これまでと同じ様に世界を認識することができなくなったという意味で彼女は「変容」する。しかし、その上で、それでも自身の信念を貫き通す。そうすることで、彼女の意思の強さがより強調され、主体性を失うことなく、彼女をより複雑で奥行きのあるキャラクターにできた気がする(現状の彼女は「母性」ありきの描かれ方にも見えてしまう)。また、これによってクローネンバーグ自身のテーマでもある「変容」もこれまでと同じ様な意味で描けた気がする(描く必要があったかどうかは別として)。

 

 少し文句めいたことも述べたが、それでも本作が傑作中の傑作であることには変わらない。無駄のない脚本の上で繰り広げられる無駄のない演出と美しい美術、美しいカメラワーク、そして圧倒的な演技。全ての水準でレベルが高い本作はまさに「芸術」といった感じのする映画だ(そういう意味でもクローネンバーグっぽくないかも)。

 

 特にラスト、美しい横顔から発せられる「あなたは誰なの」という言葉。通常のロマンス映画では始まりの合図として語られる言葉が、本作では終わりの言葉として使われる(これは映画評論家の岡本敦史が指摘していたことで、思わず「なるほど」と膝を打ってしまった)。暴力が支配する世界の中で、それでも変わらずに人は恋に落ちる(てか、クローネンバーグは混沌の中でロマンスを描くことが多い気がするな)。これまでの彼の映画で最もロマンチックな本作は、変容が支配する世界の中でも、その支配が及ばない「不変」があることを証明して終わる(人が恋をすることが不変の心理だとは思わないが)。傑作。

 

※本文中には書ききれなかったが、本作は脇のキャラクターまで血の通った素晴しい造形になっている。例えば、イエジー・スコリモフスキー演じるアンナの叔父のステファンだ。彼はKGB出身(完全に自称だが)だが、アンナが日記を持ち帰ったことを良く思わない。これはおそらく、アンナの行動がナチスのそれと同じだからだ(だから彼は遺体を複数形で表現する)。彼はアンナと違い、あちら側の暴力の力学を理解している。また非常に人種差別的であり、性差別的でもある(そしてそれを「正しい」と思っている)。そしてこれら設定すべてに説得力がある演出がつけられている。または、ボスの息子であるヴァンサン・カッセル演じるキリルだ。あちら側の「純血」であるにも関わらず、あちら側の人間になりきれない彼もまた、確かな演出により強い説得力を持っている。決して多くはない登場時間の中で、登場人物の背後を想像させる演出を積み重ねるクローネンバーグの手腕はさすがとしか言いようがない(とは言え、女性陣の描き方にはあまり奥行きを感じられないが)。

※バイクは結局あまり活かされなかった気がする。

※とりあえずヴィゴ・モーテンセンはカッコ良すぎる。