第22回全国藩校サミット朝倉大会の準備は進む~福岡県朝倉市、秋月黒田の里(秋月藩)
皆さん、こんにちは!
大変なご無沙汰ぶりですね。。
春にこの全国藩校サミット朝倉大会のことについてご紹介をしてからもう半年もたっているのですね。。時の進みは本当に驚きの早さです。前回お伝えしたのはこの全国藩校サミット朝倉大会開催に至るまでの経緯をお伝えしたかと思います。その後、この11月1日(土)・2日(日)の本サミット開催に向けて、地元では実行委員会も組織され、関係の皆さんとともに準備が進んできています。
全国藩校サミットは、江戸時代に創設された全国の各藩の学校(藩校)の教育内容を現代の視点からあらためて見直し、現代の教育に活かすことを目的に参加藩校関係者を中心に議論、意見交換し、そして発表する機会を設けている、そんなイベントです。
一般社団法人漢字文化振興協会が本イベントを始めたのですが、江戸時代の各藩が持ち回りで開催してきています。本年は第22回として我が秋月藩が朝倉市を中心としてホスト役として開催することになります。
全国藩校サミットではその名前の通り、藩校に関する現在における活動報告や藩校にまつわる歴史的なお話、基調講演などが含まれますが、今年の秋月藩からは稽古館(けいこかん)の活動が中心テーマとなります。ここではその事前の予備知識として、稽古館のことについてご紹介をしていきたいと思います。
稽古館は1775年(安永4年)、秋月藩第7代藩主黒田長堅(ながかた)の時代に「稽古亭」の名で設立されたのがその歴史の始まりです。その後拡張なども行われていますが、本格的には第8代藩主黒田長舒(ながのぶ)の時代に整備が進んだと言われています。
この第8代長舒は第7代長堅が1784年に若くして亡くなった後を継いで、高鍋藩(現在の宮崎県)の藩主秋月種茂(たねしげ)の次男が秋月藩に入った人物ですが、秋月藩の中興の祖として、名君の誉が高い人物と評価されています。その時代の流れの中で藩政を取り巻く厳しい状況の中でその時々に名君、改革を行なう人物が現れるのは歴史上よくあることですが、秋月藩もこの第8代の時代がまさにそのようなタイミングだったと言えるかと思います。
今回はこれくらいにしますが、次回はこの第8代長舒が進めた改革、取り巻く人間関係、稽古館の教育内容についてご紹介したいと思います。それではまた!
黒田官兵衛「水五訓」の実践~第22回全国藩校サミット朝倉大会開催に関して~
皆さん、こんにちは。
そろそろ桜が見ごろな季節となってきましたでしょうか。
東京の方は今日などは都内各所で桜の花見で人が多く出歩いていると聞きました。天気も昨日までと打って変わって気持ちのよい、温かい感じの一日であったと思います。皆さんのところではいかがでしたか?ただ、花粉症に悩まされている方も多いのではないかと思います。かくいう私自身がその一人ではあります。くれぐれも健康第一でお願いします。
さて、前回のこのつぶやきでは、今年の11月に地元福岡県朝倉市甘木・秋月で開催される第22回全国藩校サミット朝倉大会(一般社団法人漢字文化振興協会と福岡県朝倉市等とが準備を進めます)のことを簡単に紹介しました。その際、私の父にあたる先代14代の黒田長榮(ながひで)が開催を望んでいたことをお伝えしたかと思います。
14代当主はもう10年前に亡くなっているのですが、亡くなる前にこの全国藩校サミットを是非地元秋月、朝倉で実施したいという想いを強く持っていました。14代は当時は朝倉市秋月博物館の前身の組織であった財団法人秋月郷土館の理事長をしておりました。昔の時代であればともかく、父であったとしても、今のご時世で一人の人間だけで物事が決まり、進むものでもありません。当たり前のことではありますが、地元のいろんな関係者の意見、意思などが調和して、納得してでないとこういった大きなイベントの実現は難しいものとなります。
結論としては、当時は残念ながら、そういった波長、ハーモニーがうまく奏でるものではなかったということになったと言えます。当時、14代がその結果を静かに受け止めていた姿は今でも脳裏に残っています。
その後のことは15代である私にバトンが渡されたのですが、私以上に地元のまわりの支援をしてくださっていた方々、いちいち個別のお名前などは挙げませんが、その時点から、いつかこの全国藩校サミットを地元で開催させようという旗印のもと、地元内外の関係する多くの皆さまとの協働作業が着々と進められることになったのです。戦略的な発想、準備で物事が進められていったわけです。
細かな活動の軌跡はまたいつか機会をみて皆さんとお酒でも飲みながら振り返る、そんなことをしたいと思いますが、私がここでお伝えしたいこと。それは黒田官兵衛のものとされる「水五訓」の考えがこの地元秋月、朝倉の皆さんにも脈々と受け継がれているのではないかということです。私も黒田塾を始め、機会をみては「水五訓」の紹介をするのですが、その中に次のような訓があります。
一.障害に遭い、激しくその勢力を百倍し得るは、水なり
(障害にぶつかっても立ち向かい、逆にその状況を利用して力を増す)
一度全国藩校サミット大会の地元への招致がうまくいかなかったことの分析、反省にたって、その実現に向けて協力者を増やし、その共感や理解を得る活動をする、そして地元朝倉、秋月の活動を知ってもらう等の活動を地道に、精力的におこなってきたのです。見方を変えれば、10年以上も前の時点でサミットの招致がうまくいっていたら、今ほどの活動の広がり、理解を得て協力をしてくださる方は増えなかったかもしれません。今の状態をみるとそんなことを思わざるを得ません。
とはいえ、サミットの準備はまだまだ続きます。この11月に向けて、あの日の原点に立ち返って、誠心誠意準備を進めていきたいと思います。
14代も上の方から微笑んでいるように思います。
さて、今回はこれくらいにして、次回からは我が秋月藩の藩校に関してのお話に進めていきたいと思います。
「夢」のかなえ方 ー第22回全国藩校サミット朝倉大会、「寺子屋」に近づくー
皆さん、こんにちは。
本当に久しぶりですね。
自分の身の回りで忙しく物事が回っていたこともあり、なかなか筆が進まなかったという「弁解」をしてしまいます。ただ、振り返ると、講演会、勉強会、セミナーなどでのお話の表現活動で満足してしまっていたところがあると感じます。
最近別のところでも書いているのですが、まだまだ皆さんに伝えたいこと、お話したいことがたくさんありますので、これからはもっと発信をしていきたいと思います。
特に今年の11月1日(土)・2日(日)には今回の題に書いた「全国藩校サミット」というイベントが我が地元、福岡県朝倉市甘木、秋月で開催されます。
朝倉市とともに秋月黒田家もその受け入れ準備を始めています。全国の藩校関係者やそのお殿様・藩主が一同に会するため、その受け入れをしっかりと行ないたいと考えています。これから準備が進んでいきますが、随時このブログなどでもお知らせしていきます。
この藩校サミットが今年地元の朝倉市甘木、秋月で開催されるまでには先代14代の長榮(ながひで)の時代からさかのぼってのそれなりに長い歴史があります。「夢」のかなえ方という題で書いていますが、これには少々背景があることですので、次回以降にお伝えしたいと思います。一点先にお伝えするのなら、「一度や二度の失敗は失敗ではなく、夢の実現に向けては、あきらめず、先を見据えて、具体的な目標に落とし込んで準備をしていくこと」ということが大切だということはお伝えしたいと思います。
また、「寺子屋」に近づく、ということに関してです。
これは今から6年ほど前に通っていたコーチングスクールで5年後、10年後にありたい、なっていたい姿を具体的にイメージして周りの仲間の前で発表するということをやっていました。その際、以前から将来したいと考えていた「寺子屋」で子供たちに教え、成長を見守るということを、5年後には何人の子供たちにメッセージを伝えているか、その時にはどんなものや人が見えていて、どんな反応があるかなどをできる限り具体的に言葉にして自分以外の人に発表する、そんなことを何度も、何度もやっていたのです。
その結果。
実際に5年後には、萩の吉田松陰先生の松下村塾で有名な山口県美祢市の教育の場で中学生向けにお話をしたり、討論のお手伝いをさせていただく機会を得たのです。まさに当時コーチングスクールでお話をしていたことが実現したといえるでしょう。
そして地元・秋月の中学校や小学校でも卒業生へのメッセージを伝えるような機会をいただいいたり、中学校の生徒さんたちが修学旅行で東京にいらっしゃる際には講話をしたり、手紙のやり取りをしたりと、お子さんたちとの交流が深まってきています。
夢のかなえ方には人それぞれのやり方があると思いますが、人前で自分の「夢」を話すことで、それは単なる夢ではなくなり、具体的な「目標」となって回りだすものなんだなとあらためて思いました。自分自身にも動くようにもっていく効果もあるように思います。
今回はこれくらいにしますが、藩校サミットのことは継続的に伝えていきたいと思います。
#秋月黒田 #黒田長政 #黒田官兵衛 #全国藩校サミット #第22回全国藩校サミット朝倉大会 #秋月 #福岡県朝倉市 #甘木
秋月黒田と武士道ー武士道⑤「義」ー武士道の礎石
皆さん、こんにちは。
新緑の季節、気持よくお過ごしですか?
。。。と言いながらも、まだ天気がおかしい様子ですね。近年いわれている「気候変動」の影響がやはり強まっているのか、晴れたと思ったら雨が降ったり、と落ち着かないように感じます。
しかし、そんな時こそ、今一緒に考え、学んでいる「武士道」の精神で淡々と向き合って過ごしていきたいものだと思います。
さて、前回は「武士道の源」というお話をしました。仏教や神道との関係や影響などについても話が及んだかと思います。そして欧米、特に欧州の騎士道との比較などもポイントとしてあったと思います。さらには、武士道は、知識だけではなく、むしろ行動を重んじるということも大切な点として紹介しました。
今回は、そんな武士道の教えの中でももっとも厳格な徳目と言われる「義」について、今まで同様、新渡戸稲造氏(新渡戸氏)の『武士道』から抜粋、引用しながら紹介していきたいと思います。「第三章 義ー武士道の礎石」をみていくことになります。
江戸時代の有名な学者、林子平は義について次のように言っています。
「義は自分の身の処し方を道理に従ってためらわずに決断する力である。死すべきときには死に、討つべきときには討つことである」
あるいは、真木和泉守(まきいずみのかみ)という武士は
「武士の重んずるところは節義である。節義とは人の体にたとえれば骨に当たる。骨がなければ首も正しく上に載ってはいられない。手も動かず、足も立たない。だから人は才能や学問があったとしても節義がないと武士ではない。節義さえあれば社交の才など取るに足らないものだ」と言っています。
有名な孟子が「仁は人の良心なり、義は人の道なり」といったとの紹介もあります。
この第三章の注目すべき、考えさせられるポイントは「義」の派生語としての「義理」について展開されている考察です。
「義理は文字通りの意味は『正義の道理』である。だが、次第にそれは世論が果たすべき義務と、世論が期待する義務感を意味するようになってしまった」とあります。
「義理」というものは人間社会がつくりあげた産物だ、そういった環境の中では義理を果たすためには「愛」といった特別な動機があったが、人間自身が作った社会的な習慣などによって人間関係も変化が見られるようになり、時を経るごとに曖昧になり、堕落した、としています。
「『義理』は『正義の道理』として出発したにもかかわらず、しばしば詭弁のために用いられ、非難されることを怖れる臆病にまで堕ちてしまったのだ」と。
ただ、ここで「武士道」が果たした役割が説明されるのです。
「もし武士道が明確な正しい勇気と、敢然と耐えうる精神力を持っていなかったとすれば、義理は即座に卑怯者の詭弁となっていたであろう」と。
武士道があったからこそ、「義理」というものが我々日本社会において、もともとの意味のものとして維持される力が残っていた、ということかと思います。
今回のお話、「義」と「義理」についてはすこし難しい内容が続いたかもしれません。でも、少なくともある時期までは強く我々日本人が大切にしていた価値観であり続けたものでしたし、今でもそのフレーバーが残っているように感じます。
我が秋月黒田も、その家臣団も、「義」に生きるということを実践していたと思いますし、時代が下った幕末・明治の新時代に入ってからの「最後の仇討ち」とされる「臼井六郎の仇討ち」なども「義」に生きる人物のドラマの一つではないかと思います。
翻って、黒田官兵衛が豊臣秀吉に仕え続けた関係性、さらには官兵衛の父・黒田職降(もとたか)が当時の君主・小寺氏に仕え続けたこと等も、黒田家の「義」に生きることを大切にしてきた家系だったことを示すものではないでしょうか。
現代の世にあっても大切にしたい価値観の一つです。
コトバの玉手箱~奥深い日本語!~②「やばい」
皆さん、こんにちは。
前回から、ブログの新シリーズとして始めたものですが、2弾目の今回は「やばい」!です。
最近の「やばい」の使われ方と、一定の年齢層から上の方々の使う「やばい」は内容が異なるようです。最近はこの「やばい」の新しい使い方にひっぱられて、案外、この新「やばい」の活用が広がってきているようにも見えます。
「大谷選手、『やばい』よね!」というような言い方ですね。
「黒田官兵衛、『やばい』よね」という言い方の場合は、もしかしたら有岡城の幽閉で命の危険にさらされていることをさしたり、「官兵衛、秀吉の逆鱗に触れて、『やばい』よね」というように、なんらかの危険にさらされている、ピンチの状況をさしたりというのが以前からの意味のように思います。
さて、前置きはともかく、ここではこの「やばい」について、簡単にことばの元々の意味などを紹介したいと思います。
「やばい」
「日本国語大辞典」をみてみると、次のように書いてあります。
「『やば・い』(「やば」の形容詞化)
危険や不都合が予測されるさまである。危ない。
もと、てきや・盗人などが官憲の追及がきびしくて身辺が危うい意に用いたものが一般化した語」
とあります。
ちなみに、ここである「てきや」とは、お祭りや縁日、市などが催される境内、門前町、盛り場など人通りの多いところで屋台や露店を食べ物や玩具などを出す業者さんのことをさしますね。
一方で「現代用語の基礎知識」をみてみると、次のようにも説明されています。
「あぶない・最悪な状態にも、すごくいいとき・最高の状態にも使う。意味は文脈によって決まる。「マジやばい」」
冒頭で挙げた大谷選手の例などはここで説明されている意味で使われることが多いですね。
でも、よくよく考えてみると、確かに文脈によっては、大谷選手の場合も「あぶない」「あまりよくない状態」でも使われるのかもしれません。
大谷選手の専属通訳として有名だった水原一平氏の違法賭博への関与や銀行詐欺などの件はメディアを騒がしている例ですが、そんな中での大谷選手の状況は、「やばい」ということばが使えるかもしれません。それでも、大谷選手の活躍は毎日のように報道されています。「やばい」状況を跳ね返すすばらしい力があるのでしょう。
黒田官兵衛についても、先に「秀吉の逆鱗に触れて『やばい』」と書きましたが、そんな中、官兵衛が取った迅速な対応は危機管理の面でも一つの危険回避策であったと思われます。
自分や黒田家にとって危険や不都合を察知し感じ取った官兵衛はすぐさま秀吉に隠居を申し出て、長政に家督を譲ると願い出たという場面がありました。秀吉は官兵衛を失うことをよしとせずに隠居を認めなかったと言われています。
官兵衛は「やばい」状況を察知して、「やばい」やり方で危機を回避した、と言えるのかもしれません。
日本語って奥が深いですね!
(参考)「やばい」がつく本を探ってみたら、やはり「やばい」ほど出てきます。
深すぎてヤバい 宇宙の図鑑 宇宙のふしぎ、おもしろすぎて眠れない!
(黒田官兵衛を中心に扱った司馬遼太郎氏の歴史小説。(1)から(4)巻まで)
秋月黒田と武士道ー「武士道」④武士道の源とは
皆さん、こんにちは。
早速、前回からの続きとして、今回は「武士道」の源について確認していきたいと思います。少しお勉強的な要素が強いかもしれませんが、お付き合いください(笑)。
皆さん、「武士道」はどこから生まれてきたかわかりますか?
新渡戸稲造氏の『武士道』の冒頭には「日本の象徴である桜と同じように、日本の国土に咲く固有の華」というようなものだとあります。
この『武士道』の第二章にはこの武士道の源についての紹介、説明が続きます。
そこでの内容は日本の歴史や文化の成り立ちの理解にとってもとても参考になると思います。
まずは「仏教」との関係から説明がなされています。そして「禅」にも触れられます。武士道に仏教が与えられなかったものが「神道」によって補われたと説明されています。
この章では海外での生活や経験が豊富でキリスト教信者の新渡戸氏ならではのキリスト教との比較、古代ギリシャの教え、ローマ人の宗教観などとの相違なども織り交ぜてあり、とても説得的な解説がされています。
「武士道は、道徳的な教義に関しては、孔子の教えがもっとも豊かな源泉となった」とあり、「君臣、親子、夫婦、長幼、朋友」などといった今の社会にも残る(ただし、以前よりは影響が薄くなってきている、変化している)関係のあり方についても守るべき考え方、ルールのようなことが武士道を通じて示唆されます。そして、孔子に加えて孟子の教えも、武士道に「大いなる権威をもたらした」とされています。このように「孔子と孟子の著作は、若者にとっては主要な人生の教科書となり、大人の間では議論のときの最高の権威となった」とあります。
中には我々の勉強のあり方の戒め、気を付けるべき点もあります。次のような文章は特に私自身も頷けることと思いました。
「知識というものは、これを学ぶ者が心に同化させ、その人の品性に表れて初めて真の知識となる」「だから、知的専門家は単なる機械だとみられた。要するに知性は行動として表れる道徳的行為に従属するものと考えられたのである」。また「武士道におけるあらゆる知識は、人生における具体的な日々の行動と合致しなければならないものと考えられた」とあります。
今の世の中で、人の振る舞いが回りへの配慮を欠いたものであったり、自己中心主義などが強まっているのであれば、それはこれらの言葉をよく噛みしめ、戒めにするのがよいと思います。さらには「AIか人間か」というような対立した設定で議論がされる時も、そこでの人間にはここで言われる「知性」を伴った人間であることが望まれるように思います。
今回の回の最後に神道と仏教についての説明で興味深い点がありますので、それらを紹介したいと思います。
神道に関しては「神道の自然崇拝は、われわれに心の底から国土を慕わせ、祖先崇拝はそれをたどっていくことで皇室を国民全体の祖としたのである」とあり、神道の教義に「愛国心」と「忠誠心」という二つの大きな特徴が含まれるといっています。これらについては、現れ方に違いがあるにせよ、英国やその他の国でも多かれ少なかれ現れうる特徴でもあると思います。
仏教に関しては「武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心をあたえた。それは危難や惨禍に際して、常に心を平静に保つことであり、生に執着せず、死と親しむことであった」とあります。最後の「死と親しむ」というくだりは別の機会にもう少し考えてみたいと思いますが、「運命を穏やかに受け入れる」や「運命に静かに従う心」、「危難や惨禍に際して、常に心を平静に保つ」というあたりは、黒田官兵衛が有岡城で幽閉された時のこと、またその際、織田信長に官兵衛が寝返ったのではないかと疑われ、その子長政(当時「松寿(しょうじゅ)」)を殺害せよと命ぜられた時のことなどを思うと、現実問題、こういった「心を平静に保つ」という姿勢や向き合い方を持たねばならなかったのではないかと思います。
そして、関ケ原の合戦の間、官兵衛が九州地方を軒並み平定してまわったが、子の長政の「活躍」のおかげで予想よりも短期間で関ケ原の合戦が終わってしまったということがありました。そこで徳川家康から官兵衛に九州での進軍を止めるようにと指示があった時に、実は天下取りの野望を持っていたのではないかとされる官兵衛の心境、心持はいかばかりのものであったか。それを思うと、「運命に静かに従う(心)」というものを官兵衛は強く感じていたのではないかと思わざるを得ないです。
これらの出来事をみてみても、「武士道」というものが行動やふるまいの端々に表れているように思います。今回はこれくらいにします。次回も続いていきます。
(新シリーズ)コトバの玉手箱ー日本語に敏感になろう!まずは「しかと」!?
皆さん、こんにちは。
このブログでは、つれずれなるままに、でもテーマを設定して、歴史を軸にしつつも、それが今の社会や世界にどんな影響があるのか、どんな良い影響を及ぼせるのかを考えて発信し、皆さんに紹介していこうとしています。
それとは別に、最近、なんとはなしに「我々の日本語の美しさや音の響き、そして漢字や平仮名の形を大切にしたい」と思うようになり、日本語をもっと知りたいと思うようになっています。
そんな私が日常で偶然を含めて出会ったコトバに焦点を当てて、なんとはなしにざっくばらんに語っていきたいと思っています。それがこの「コトバの玉手箱」を発信したいと思ったきっかけです。どんな風に流れていくのか、自分でもよくわかりませんが、こうご期待!
という1回目に相応しいかどうか微妙ですが(笑)、今回は「しかと」。
「しかと」?
たまたまとある所で立って何かを待っていた時に、横を通った女性の2人組の声が聞こえてきたのです。「いや、それってしかとじゃない?」「そうかしら」「そうよ、そうよ」
何故かこの「しかと」という言葉にピンときてしまったのです(笑)。なぜなんでしょう?そういえば、何故「しかと」という言葉なんだろうか。どこからきた言葉だろうか。
モトさん(私のことです)が調べたところ、以下のようなことがわかりました(但し、真偽不明)。Wikipediaからです。
「特定の対象(主に人)を無視すること、つまり冷遇することや存在しないものとして扱うことを指すことば。元々はヤクザ(暴力団)の隠語だったが、一般の間でも使用されている。」
へえ、そうなんですね!?ヤクザの隠語から一般でも使われるようになったとのことですが、最初に使った一般人は一体だれで、どんな経緯で知ることになったんでしょうね。(笑)日本語の奥深さを思い知ることとなりました。
さらに「語源」まで見てしました。
「はな札で10月(紅葉)の10点札が、そっぽを向いた鹿の絵柄であることから転じて、博徒の間で無視の隠語となった。」
へえへえ、そうなんですね。
確かにみてみたら、鹿がこんな風になっていました。そうだったんですね。

しかしながら(注、ここの「しかしながら」は「しか」とは関係がありません。。。)、古来、鹿の遠音を愛でるのは文化人、風流人の嗜み(たしなみ)だったとのことで、そんなことを前提にした逸話が残っているという。
ある秋の夜、鹿の遠音を楽しむため、酒席を設けられ、数人の男性が集まった。そこでの話題は暗い話題ばかり、大の男が集まって、身の上話で、挙句の果てには、男性が涙を流して話をする始末。
そこで、ある男性が「鹿が泣きませんね。どうしたんだろう」と障子を開けると、庭に大鹿がいて、「人間がなくのを聞いておりました」と。
「しかと」はせずに、話を聞いて、聞いて、そして一言でもいいので返してあげましょう!
日本語は面白く、奥が深いものですね。

