人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

情けは、動物の為ならず

動物を愛するテーマのテレビ番組には、保護された犬や猫が、新しい飼い主と家族になっていく様子を追うドキュメンタリーなど、数多くある。

動物愛護(法)の精神は、どうして生まれたのかを調べ、考えてみた。

古代から中世にかけて、多くの文化では動物を「人間に仕えるもの」「食料や労働力」として見ていた。アリストテレスは「自然は人間のために存在する」と述べ、キリスト教的世界観でも「人間は被造物の支配者」とされた。

しかし同時に、仏教の「不殺生」やアッシジのフランチェスコのように、動物への慈悲を説く伝統も存在しており、後の動物愛護思想の源流となっている。

近代では、啓蒙思想により、人間の「理性」だけでなく「感情」や「苦痛を感じる能力」が尊重されるようになった。こんな言葉が残っているそうだ。

「問題は、彼らが理性を持つかどうかではなく、彼らが苦しむかどうかである。」

人智学では、人間の死後、動物が感じた苦しみの世界を通っていく過程を認識している。人間のための動物実験で、人間は、どれだけ動物を苦しめたかを、内面から味わうことになる。脳をむき出しにされた猿の写真を見たことはあるだろうか?

19世紀には、制度としての「動物保護」が打ち立てられるようになる。イギリスで世界初の動物保護法が成立した。これが各国の法制に影響を与え、日本の「動物の愛護及び管理に関する法律(1973年制定)」にもつながった。

20世紀以降、動物愛護の精神は「管理」から「共生」「尊重」へと深化し、科学が進んで、動物にも感情や知能や社会性があることが明らかになる。
現代では「動物を保護する」よりも、「動物も人間とともに生きる主体である」とする考えも出てきているようだ。

人智学の考えでは、人間と動物は進化の段階で分岐した存在とされ、この「分岐」は上下関係ではなく、霊的使命の分担として理解される。人間だけが個として「私は私である」と言えるが、動物は「種全体」で一つの魂を共有している。動物は、個ではないが、集合の自我を持っている。その集合自我は、人間と同じように賢いと考えられている。チンパンジーやゾウやイルカの行動や能力を思い出してほしい。オウムやタコなどもすごい。

動物が人間の行為によって苦しむと、その痛みは動物界全体の魂的構造に波紋を与える。動物を虐げる行為は単なる「倫理違反」ではなく、地球全体の魂界を汚染する行為とさえ言える。

人間の内部にはかつて「動物的」諸段階があった。ライオン的な勇気、牛的な忍耐、鷲的な洞察、それらは、かつて人間の内に統合されていた霊的力の断片といえる。動物は「未熟な存在」ではなく、人間の過去と霊的記憶の鏡像であり、彼らを傷つけることは人間自らの本性の一部を損なうことでもある。

「人間は自我の力を持つゆえに、生命に対して最も大きな破壊力と、同時に最も深い癒しの力を持つ」という認識が人智学にはある。動物愛護とは「共感」ではなく、「創造的責任」なのだ。

動物は利害や打算をもたず、感情的存在として“生きることそのもの”を表現している。なんとけなげなのだろう!人間よりもある意味で純粋だ。

動物が苦しむ場面に立ち会うとき、「自分の中の痛み」が動物の痛みと共鳴することを意識したいものだ。

子どもの頃に飼っていた犬や猫たちは、今ごろ天でどう過ごしているだろう?