ギリシア神話の勉強の続きを書く。“変身”がテーマだ。
古代神話で、人間が動物・植物・星などへと姿を変える物語は、人が「自己の限界」を越えて、自然や神々との同一化を体験する象徴とみなせる。変身は罰でもあり、救済でもあった。
オウィディウスの『変身物語』では、愛・傲慢・悲嘆といった感情が自然の姿に変わり凝固する。これは、「私」という境界がゆらぎ、世界霊との交感が起こる瞬間といえる。
現代の「変身願望」は、根底では古代と似た衝動である、境界を越えて“より大きな生命”とつながりたいという願いを秘めているような気がする。アイデンティティの変容、性の流動、アバター的自己、SNSでの人格演出などだ。
現代では、人間が自然や霊的秩序から切り離されてしまっている。その結果、変身願望が外的な形態変化としてしか表れることができない。見た目とか、立場とか、データ上の人格とかである。
古代での変身は、「宇宙との合一」と言え、現代の変身は「自己分裂の痛みからの回復」と表現できそうだ。
どちらも、変身とは、「固定された自己」という幻を破り、より大きな存在の流れの中で、新しい自己を見出そうとする魂の運動である、という共通点があるように思う。古代ではその「より大きな存在」は神々や自然界の生命力であり、現代ではそれが無意識・集合的感情・ネットワーク的全体性へと姿を変えてきている。
ダフネが月桂樹になるのは、逃避ではなく、彼女の魂が自然の霊に吸い上げられる瞬間を表し、人は宇宙の呼吸の中に溶け込み、「我」という輪郭がゆるやかに形を変えていく様を描いている。神話的変身とは、霊的宇宙と共に呼吸する人間の姿であり、形を変えることは、存在の根を変えることでもあった。
現代的変身は、分断された自己の回復を求めて孤立した「私」が、再び全体と結び直そうとする試みといえる。近代以降、自己と世界が切断され、変身はもはや神話的な“合一”ではなく、断絶の中の苦悩の表現となる。
カフカの『変身』でグレゴール・ザムザが虫に変わるのは、宇宙的な連続性ではなく、「人間存在の疎外」が極点に達した姿であり、変身は意味を失った世界の中での形態崩壊と言える。現代的変身とは、失われた全体性への郷愁の表出なのだが、それは内なる霊的統一を欠いたまま、外的変化に偏りやすいという特性をもつ。
孤立した“私”は、再び全体と結び直せるのだろうか?