以前、新聞のコラムで『古代中国 説話と真相』についてのミニ書評が載っていた。“古代中国のいくつかの故事は、実は後世による作り話であり、有名な物語を取り上げてはその虚構性を暴いていく論法は、明晰で愉快だ。”と紹介している。
虚構であることが正しいと思ったから愉快なのか、その明晰な論法自体に愉快を感じたのかは、この記事ではよくわからない。
この書評では、古代中国で政治戦略として大量の寓話を作ったことを文献学的にあきらかにしていく手法を高く評価しているような印象を受ける。最後は、「語る人の思惑によって歪められがちな歴史にどう向き合うべきか。」と結んでいる。
歴史がもし、語られる人に依存して伝わるようなことがあったら、それは大問題である。今の歴史学や考古学では基本的に、文献または物で立証できないと疑わしい、という立場をとるが、それだけだったら、それではその文献は正しいと何が証明するのかと、無限に疑問が続くことになる。
ここからは、古代中国に限らない一般的な話になるが、「古代の故事などの多くが史実ではなく虚構である」という主張は、一面的すぎて正確とは言えない。なぜなら、歴史は多層的な性質をもったものだからだ。どのような層かというと、
・多くの神話や物語には、史実の断片や記憶された自然災害・戦争・王朝の交代などが含まれている場合がある。旧約聖書の一部やエジプト神話などにも、後に考古学的に裏づけが見つかることがある。
・史実でなくとも、人間の精神・倫理・自然との関係を象徴的に描いた「真理」を含むものが多くある。例えば、『イソップ寓話』は史実ではなくても、人間の愚かさや賢さを教える寓意に満ちている。神話に登場する神々や英雄も、「内面的な力」「心理的な段階」「宇宙的原理」の象徴と読めることがある。
・宗教学・比較神話学・文化人類学では、「虚構」として片付けず、文化的・精神的な真実を探っている。記録が残っていないから、それは嘘であると言い切れないのは、自明のことだ。文字がない時代の人々が何を思い、見ていたのかは、「実証」する性質のものではない。
・この著書や書評のことではないが、もしその延長に、「すべて虚構である」と断じる主張があったとしたら、それは唯物論的世界観に偏った見解だ。古代の物語は、史実・象徴・霊的真理・文化的記憶などが重層的に織り込まれたものであり、一刀両断に「虚構」とすることは、真の理解を遠ざけるおそれがある。