道徳で「命の大切さ」を教わる時、大きな病気や怪我を乗り越えた話は多い。令和の今もそれのよう。でも、果たしてそれで「命の大切さ」を学べるのかという謎。
私は身近に大きな病気を経験し、入院や退院を乗り越え、定期的に大きな検査をし、という人がいる。身近にそんな人がいると、通院先の大学病院では、道徳の中のエピソードなど、そこら中に転がっているし、現実であり日常であり、少し先の未来だったりする。
そうなると、どうなるか。
道徳でよく見る、大病にかかり、大きな手術(切断とか治療とか)を乗り越え、明るく過ごした、でも転移が見つかり、余命を宣告され、寿命を全うした、みたいな話は、フィクションではなく、少し先の未来、可能性として捉えられ、もう恐怖でしかない。
健康で、何不自由なく生活できている小学生中学生にとっては、そういった話は「命の尊さ」「たったひとつの命」を学ぶには適切な題材なのかもしれない。だけど、だけどだ。
病気を持って生まれ、大きくなるにつれて病気を理解し、自分が周りと違うことに気づき、病気は常にそこにあるけれど、たまに忘れて過ごしているときに、どかんとこの道徳の教材をぶっこまれた時。恐ろしくてたまらなくなるのがおわかりいただけるだろうか。
命の大切さは、親が、家で、日々の暮らしの中で伝えていくものであってほしい。病気や怪我で苦しんでいる人は山ほどいて、家族もいて、その人達は日々の恐怖と戦っているわけで。
そんな中、命の大切さを問う道徳の内容が、最後死で終わることの打ちひしがれ感といったらない。道徳は浅いな、と思う。浅いところで浅い人同士が話し合う場だな、と思えて仕方ない。