
奈良から走った道路のほとんどが有料高速道だった。
西名阪自動車道から、阪神高速湾岸線を利用するか、それとも近畿道から阪和道に行くか。
岐路に迷いはあったが、湾岸線に決まった。
と、いうのも阪和道の2カ所で渋滞が発生しているから、避けるために選んだ湾岸線。
どちらであっても、結構な時間が要る。
ま、50年前には、ひとつもなかった高速道。
地道しかなかった時代からみれば、よき時代になったものだ。

昼過ぎに家を出て到着した時間は、午後3時45分。
総舞の奉納がはじまる午後5時までは、余裕の時間。

車誘導警備を担当する方に指示を受けた車止め。
かつては、そこが馬止め。
誘導してくれた杜のなかに停めさせてくれた。
まずは、参道に出る。

鳥居をくぐる手前に建つ石灯籠は常夜燈。

いきなり目に入った「元禄十五年(※1702)壬午正月日」。
ついつい見たくなる石灯籠の年代刻印は、もう1基ある。

「寶永八(※1711)辛卯歳孟春」。
また、元禄十五年建之の石灯籠台座にあった村名。
鮮明に判読できた刻印は「石田邑」。

そう、波太(はた)神社の鎮座地(※現在地は大阪府阪南市石田167)を示す村名である。

鳥居を潜ってゆく参道。

参道外れに見た田園風景。
農の景観佇まいにしっとりした。
右手にあった手水に深彫りの刻印がある。

大きな書体の「洗心」。
続いて、「盟漱豈 手口而 巳乎哉 元禄葵未秋(※元禄十六年/1703)」の漢文文字があった。
先にあげた石灯籠建之。
コロナ禍対策のため、前年の令和3年の正月参拝時には、蓋をし、手水禁としていた。
手水近くに高札がある。

阪南ライオンズクラブが立てた波太神社の由来に、片桐且元(かたぎりかつもと)の名がある。
慶長五年(1600)、つまり関ヶ原の戦いのときに片桐且元が寄進したと伝えられる石灯籠が、拝殿正面にあるそうだ。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、戦った戦国武将。
賤ヶ岳の戦い(天正十一年/1583)に七本槍の一人として歴史上に功名をあげた片桐且元。
その且元の弟である片桐貞隆(さだたか)は、兄の且元とともに秀吉に仕え、武功をあげたが、関ヶ原に敗れ、秀吉の死後は、徳川家康の家臣となり、大和の小泉に1万6千石の所領を受けて大和の小泉藩を。
大和郡山で小泉の殿さんと云えば、貞隆の子である片桐貞昌(かたぎりさだまさ)。
間接的な関係であるが、ここ阪南の波太神社と、奈良・大和の小泉藩主の片桐貞昌(※武家茶道流派、石州流祖の宗家片桐石見守石舟/かたぎりいわみのかみせきしゅう)に繋がりがあったとは・・・。
(R4. 7.30 SB805SH 撮影)