ひとはみんなうんこをする

旧「光朗(ミツルー)の読書日記」。谷川俊太郎さんのエッセイでみた一節がかっこよくて変えました。窓際社員の読書日記です。感想と日々の日記が混ざります。

伊豆キャン

新年は伊豆にキャンプに行ってきた。

二泊三日。

 

夜は寒いが、寝袋を二重にして、一重目と二重目の間にホッカイロをいくつか入れ、首筋のところを別の布で閉じ、なんなら顔も閉じちゃうと温かい。

 

服も厚めに着込んで服と服の間のホッカイロを入れておくといい。それで2℃くらいまではなんとか持ちこたえられる。

 

ただ、2日の夕方に雪が降る予想にはシビレタ。毎年冬タイヤにするのに、今年はしなかった。かつ、いつもは4WDなんだけれども、実家に車で行く頻度が減るだろうと思って2WDにしていた。2つの油断が重なって、ドキドキしていた。

 

なんとか回避されたので良かったけど偶然だろう。三峯神社みたいになっても嫌だし、山陽の自動車道みたいになっても迷惑だ。冬のノーマルタイヤはやっぱり避けようと思って今さらながらタイヤ交換をしたのである。

 

伊豆ではダラダラするつもりだったけど、日中、韮山反射炉に行った。大砲を作るために鉄を溶かせるだけの炉が必要ということで、輻射熱の反射を一点に集めて炉の温度をあげる工夫をしたのが反射炉だそうだ。勉強になる。

 

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鉄を溶かす炉は4基あってその裏には大砲の型を埋める空間が。溶けて流れ出す鉄を型に流し込んで冷やす。今は砂利で固められているけれども。こういう実験的な構造を試したというのは重要だなあということで、今年は頑張って色々試す年にしよう。

 

どうでもいいけど年末に詐欺られたサイトがリニューアルしてまたチェックの網の目をかいくぐっている。名前は「佐藤横浜」。性懲りもなく似たような詐欺サイト作って、ゴミ商品売ってらあ。AIで作られた偽物笑顔と、明らかにアパレルの店内っぽくないイメージには気をつけてくださいね。

恐怖新聞

年始に暇でkindle unlimitedでつのだじろうの『恐怖新聞』を読んだ。ついでに『恐怖新聞II』も読んだ。

 

中学生の鬼形礼の元に深夜いきなり新聞が窓から配達される。そこには未来の予言が書かれている。たいてい悪いこと、不吉なことだ。鬼形は最初信じないが、実際に起こってみると、信じざるを得ない。どうして俺に、と悩む鬼形の前に現れる霊。悪霊だ。恐怖新聞を読むものは100日寿命が縮むという。繰り返される怪異。

 

小学校の時に読んで、衝撃を受けた。『キャプテン翼』よりも『うる星やつら』よりも、『恐怖新聞』だった。あの時期、週刊少年チャンピオンを読んでいるのは小生だけだったかもしれない。薄暗い耳鼻科の階段の上で、積まれていた秋田書店の単行本を貪るように読んだ。あの耳鼻科で何時間待ったのか、よくわからない。そんないい加減な町医者はたくさんあった。

 

恐怖新聞』は鬼形が悪霊へ抵抗するも力及ばず恐怖新聞の配達人になったところで終わる。しかしながら『恐怖新聞II』である。いただけない対決の話になっている。仏が出てくるなら、さっさと出てこいよ、と思った。なぜ鬼形だけなのか。それは前作で、クラスメイト全員がバスで崖下に落ちるという運命を変えた善行で、そうなったみたいだ。現世での善行が大事。そんな線香くさい話になってしまっている。

 

しかも『恐怖新聞II』は、モブキャラをアシスタントが描いているので、なぜか絵柄が同一コマで違ったりする。これが大変に気持ち悪い。小生はつのだじろうの描く霊感美少女が好きだったので、困りものだ。

 

そんなわけで新年早々何のカタルシスも得られないままはや七日。

ハッピーエンドにしないといけないということなんだろうけれど、

2025年

今日は、施設に入っている義母に会いにいき、すでに認知症も完全に進行しているから、何もわからない、反応しないと思っていたんだけれど、プリンを口に運びながら、妻に藤山一郎の「青い山脈」歌ってといって、歌ってもらったら、義母が一緒にフレーズを口ずさんだ。今まで、無反応だったのに、やっぱり小さい時に聴いた曲は、脳の奥を刺激するんだな、と思った。

 

そんな出来事があったので、一年間がまとまった気がします。

 

じゃあ、よいお年を。

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』~2025年度版・新潮文庫の100冊を読んでいく~71

しばらく、のどの調子が悪かったり、採血で何度もやり直しして、結局その日の採血は中止になったりと、全体的な具合が悪かったために、読書も、あんまり気が乗らずにいた。のどについては、風邪というよりも、何か出来物のようなものができて、つばをのむと引っかかるので、気になっていた。今は、だんだんと治ってきている気がするが、病院で診てもらうことにした。

 

で、そんななかやっと新潮文庫のシリーズを読みだした。食わず嫌いだった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』というタイトルを持つこの書籍は、エッセイであるような、彼女の息子さんの「底辺中学校」でのドキュメンタリーであるような、不思議な内容だったのだけれども、思っていたような読者の疚しさを刺激するようなものではなく、起こる問題を問題として認識していこうとする姿勢で書かれたものだった。

 

誤解していた。

 

アンダークラスの住宅街とされる中にも、格差のようなものが出来、その格差のホントの末端にいるのは白人家庭が多いという事実がある。それゆえ、その状況に対する怒りのはけ口は、移民の子どもに向けられたり、反社会的行動に結びついたりするという。

 

アイデンティティ・ポリティクスと貧困格差という軸が、こんがらがっている、という指摘は納得できた。昔の感じだと、貧しさと移民という存在は比較的結びついていて、貧しさを軸に層が手を取り合うこともできた。

それがある程度、経済状況を好転すると、お金の問題よりも人種間差別や男女間差別、そしてセクシャリティの差別の方の問題がとりあげられる。それがアイデンティティ・ポリティクスを産んだ状況だ。

けれども、移民の中でも階層上昇があったり、移民がそもそもお金をもってたり、男女における経済格差が逆転したり、という中で、再度、かつてそれらの枠の中で経済格差が生じると、その反作用が起こり、ヘイトだったり、フェミサイドだったりという事態に陥る。

そういうのをおそらくは「インターセクショナリティ」というのだろうが、なるほど、実地に理解できたような気がする。

 

そして、より興味深いのは、こうした「底辺中学校」で行われている取り組みだ。演劇をやったり、コンサートしたり、「シディズンシップ・エデュケーション」というプログラムも面白いと思った。テストは簡単そうだけど。

 

途中までしかまだ読み終わってないけど、ざっと目を通すと、非常に満足できる内容だろうと思う。食わず嫌いだった。

 

「何かを伝える私」を見せたいのではなく、「伝えたい何か」を見せようとしている、と思った。エッセイではない、と思えるのはその辺だが、エッセイスト全員が別に「何かを伝える私を見せたい」と思っているわけじゃない。ただ、臭みのあるエッセイはたいてい「何かを伝える私」が前に出すぎている。

 

そういう意味で、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、語り手よりも「伝えたい何か」が際立つ。そこがいい。

 

坂口安吾『堕落論』〜2025年度版・新潮文庫の100冊を読んでいく〜70

今回、新潮文庫の『堕落論』は見つからなくて、ちくまの坂口安吾全集とか集英社の文庫とか、そういうのを持っているものだから今さら新潮文庫の『堕落論』を買った小生は、無駄遣いだと叱られた。いや、これ、持ってなくて…といっても、聞く耳を持たれなかった。

 

それはそれとして、新潮文庫の『堕落論』のチョイスはいい。時代順に配列してあって、作品論、作家論、そして文化論、歴史論と関心を移していく安吾の動きを明確に追えている。「追えている」というのは、なんだか偉そうだけれども、歴史論なら歴史論、人物評なら人物評で、ジャンルごとに分ける傾向のある編集方針とは少し違う編集方針が面白かった。

 

堕落し切ったところが人間の実相だとして、落ち切るところまで落ち切って出発することが必要なのだ、と言い切る論。戦争は人間の進歩に寄与していると言い切りながら、核だけはそのスケールを超えてしまったとする戦争論、特攻隊を軍部の操り人形とみなすことはせず、その精神について認めなければならないとする特攻隊論など、今読むとギリギリのところを攻めていて面白い。

 

また太宰治の心中については、ボロカスに言っておきながら、そのボロカスに言うところに愛情が明らかにある太宰治論、先輩の小林秀雄をボロカスに言いながら、そこには尊敬の念が湧いている「教祖の文学」。生きながらにして教祖の目を持ってしまった小林秀雄に、もっと生きるのだとカツを入れる。逆に、そこで対比的に登場するのは、死にかかっている時に、生きている目を持っていた宮沢賢治。その死にゆく時に詠じた詩「疾中」。

 

だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらがもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな

もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。
宮沢賢治 「疾中」]

 

これを安吾は引用して、小林秀雄を叱咤する。

この「青ぞら」こそ、生の目だと。

よくわからないけど、いい詩だよね。

そんな境地になりたいな。

 

安吾の史論は、ちょっとよくわからないけれど、タウンゼント・ハリスについて、ヒュースケンが斬られて他国がブチ切れているときに、他国と日本をうまく納めた力量などを取り上げてみせる着眼は面白いし、本能寺の変の記述の比較から、日本人の記録の書き方の特徴を囃し立ててみせたりとか、面白い。

 

そんな感じで、本当はもっとたくさん引用したかっただけど、これ以上叱られるのは嫌なので、とりあえず拾えたものだけ。

菜穂子

堀辰雄の『菜穂子』の古ぼけた文庫本を読み通した。難しかった。フランス文学的、という形容が合ってるかどうか分からないけれども、ぼんやりとした内容で、最後まで話が何なのか分からなかった。

 

自分自身が『菜穂子』を読む態勢に入れていなかったことにもあるかもしれない。だから、つまらなかったとは言わない。ただ、無理に面白いとも言いづらい、そんな感じがする。

 

この文庫本、まずは「菜穂子」という中編がある。これはある母娘の娘の方を主人公にしている。

 

次に「楡の家」という二部構成の作品がある。それは菜穂子の母の日記を菜穂子が読んでいるという体裁になっている。

 

最後に「ふるさとびと」という短編があって、これは菜穂子ら三村母娘の近所の家族が視点人物となっている。

 

堀辰雄はモーリヤックのような理知的な小説を書きたいと思いつつも、トルストイの『アンナ・カレーニナ』のような矛盾をはらんだ人物を書きたいとも思っている。

 

その矛盾をはらんだ人物としての菜穂子は、それなりに描けていたように思える。結核を病みつつ、急に東京に出てきちゃったりとか、そういう不思議な感じはなるほどとも思えた。

 

ただ、それと菜穂子母を題材にした「楡の家」は、より不可思議で、モーリヤックというかジッドの方を思わせた。あんまり、この辺の作家の作品を読んでないからなんとも言えないけど。せっかくだから『アンナ・カレーニナ』読んでみようかな。

 

宮崎駿監督が、この菜穂子が好き、という部分がやっぱり全く分からない。性的な媚みたいなものが消えているという雰囲気はあるけれども、それだけというわけでもなさそう。現実感がない、生活感がないというのもあるけど、原作には多少、書き込まれていて、それはそれで逆にそこは興味深かった。

 

正直、堀辰雄という作家は、小生と最も遠い存在なのだけれども、そんな遠い存在を取り込むことこそ、自分のテーマだと思いたい。