エッセイスト・小島慶子さんが11年ぶりの夫婦同居の日々を綴ります。
5メートル先に、次男くんがいる。いつもは赤道を挟んで8000キロ離れているのに、手の届くところに寝転んで柿ピーを齧っている。ピーナツだけ残して、父親にあげている。渡り鳥母さんを引退して日本に定住するようになった私と、11年に及ぶ海外育児を終えてオーストラリアから帰国した夫の元に、昨冬からは息子たちが真夏の南半球から渡ってくるようになった。今年は、まずは大学が休みに入った次男が飛来した。
普段は二人暮らしの夫婦の部屋に、大きな居候が寝起きしている。私は嬉しくて仕方がない。久々に日本のパンを食べた次男くんが「これメロンパンだっけ」というので私は「そうだよ。ちなみにメロンパンに手足が生えるとカメパンだけど、カメの味はしない。メロンパンそっくりな、手足を引っ込めたおやすみカメパンというのもある」と答える。20歳になった息子はもう私の作り話に騙されないし、大人なので平常心で聞き流している。私はそれでも楽しい。何をしていても息子は可愛い。存在自体が奇跡だ。
夫との生活は穏やかなのだが、もし夫がメロンパンを食べていても私はそんな気持ちにはならない。この違いは何だろう。息子は可愛いが、夫は可愛くないのだ。憎たらしいという意味ではなく、夫に対しては可愛さ・愛おしさを感じない。出会った時から一度もそう思ったことがない。
私はうんと幼い頃から、わかりやすく可愛く作られているものが好きではなかった。子ども向けの人形を持たせても散歩中にベビーカーから崖下にぶん投げていたそうだ。でもディック・ブルーナの絵本は大好きだった。ミッフィーは無表情で些か虚無感を漂わせている。そういう方が、つまり解釈の余地のあるものの方が好きだ。
子どもが可愛いのは、命が可愛いからだ。見た目や仕草よりもまず、命自体が可愛い。命は当然他者の目を気にしていない。緻密なメカニズムを働かせて、ひたすら生命維持活動をするだけだ。20年前の胎児の超音波画像は白い細胞の塊や小さな骸骨がぼんやりと闇に浮かぶ心霊写真じみたものだったが、息子たちはもうその段階から可愛かった。今も私には世界中で彼らだけが8Kクオリティで輝いて見える。ダイレクトに彼らの生命を見ているのだ。
夫と初めて出会った時に、骨密度が高そうなのがいいと思った。レントゲン写真を撮ったら歪みなく組み上がった太い骨がくっきり写っていそうで、好感が持てた。髪は抜ける、肌は枯れる。でも骨は焼いても残るものだ。だから骨を見た。のちに、見るべきはそこではなかった脳みその中身だったと後悔したが、今はまた骨を再評価している。脳みその中身は学習によって変わる。変われない人もいるが、夫は変われることが実証された。でも骨は最後まで変わらない。だからやっぱり、丈夫な骨格は財産だ。
出会った当時の夫には、まだ周囲から可愛がられて育った少年の人格が強く残存しており、私が最も苦手とする部類の人物だった。いい子でなくてはならない場面になると人が変わったように上擦った甘え声で喋り、小学生のような幼い仕草をする。気味が悪かった。私はその後20年以上かけて夫の「可愛い僕ちゃん人格」を殺しにかかったのだが、殲滅に至っていない。今でもたまに出てくる。かつてはそれをたいそう喜んで可愛がった人々がいたのだろう。私はひたすら黙殺である。「60歳の男性が子どものような自意識で振る舞うのは気持ち悪い」と明確に伝えることもある。夫は自身ではあまり認識できていないようだ。もしかしたら彼の精神はみんなのいい子ちゃんをしていればよかった10歳程度で成長が止まっているのかもしれない。だからといって母親がわりなんてまっぴらごめんだ。私は、いい子ちゃんには興味がない。
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