あちらにいる鬼
井上荒野
朝日文庫
2021年11月30日 第1刷発行
山田詠美の『三頭の蝶の道』でモデルとなった瀬戸内寂聴さんに関する本。いつか読もうと思っていた。
本書も、一緒にいただいたので、読んでみた。
本の帯には、
”映画化決定
作家の父井上光晴と、私の不倫が始まったとき、作者は五歳だった。 瀬戸内寂聴
父と母、そして瀬戸内寂聴をモデルに、逃れようもなく混じり合う3人の〈特別な関係〉を、長女である著者が書ききった衝撃作。
本書は、「井上光晴の妻」「瀬戸内寂聴」という二人の 内面のみを描くことを目的にした小説ではない。
(‥‥) 実際の父母とはことなる彼らを描くことは、実際の父母と重なって見える誰かを描くよりも、「本物」の彼らを表現することになるのだろうし、それこそが小説を書くということの真髄なのではないだろうか。 (解説より) 川上弘美”
とある。
小説とは何なのか、ということを考えながら、『小説、この小さきもの』『三頭の蝶の道』を読み、最後に本書を読んだ。
本の裏の説明には、
”1966年、講演旅行をきっかけに男女の中となる2人の作家。白木篤郎と長内みはる。 繰り返される情事に気づきながらも心を乱さない篤郎の美しい妻笙子。愛と〈書くこと〉に貫かれた人間たちの生を書き 切った傑。 至高の情愛に終わりはあるのか? (解説・川上弘美)”
とある。
作者の井上荒野(いのうえあれの)は、1961年東京都生まれ。89年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞。2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、08年『切羽へ』で直木賞など、作品多数。
私は初めて読んだ。
感想。
へぇ〜〜〜〜。
どこまでが本当の話なんだろう?
瀬戸内寂聴さんが、実生活で、夫と幼い娘を残して、若い男と出奔したと言うのは知っている。そしてその後、井上光晴との不倫というのは、井上光晴を知らないし、出家する前の寂聴さんを知らないので、私にはよくわからない。
とりあえず、この話を、現実の寂聴さんから切り離して読んだとしてみて、面白いかと言われると、ちょっと微妙。不倫しまくる男白木篤郎が、どうしようもなく、女にだらしがない。それだけではなく、嘘つき。どうしてそんな嘘を?と思うような小さな嘘を重ねて生きてきた男。虚勢を張っているものの、本当は小さくて嘘つきで悲しくて寂しい男に見えてくる。そんな男を愛した2人の女。女たちは、このどうしようもない男をめぐって、共感しあってしまったのだろうか。諍いを起こすこともなく。なぜか、一つの鞘に収まるかのように生きていく二人。それぞれに生きていく。一人の男を介して。
以下、ネタバレあり。
主な登場人物
白木篤郎:小説家。物語の始まり、長内みはると知り合った時点では41歳。妻と1人の娘。
白木笙子:篤郎の妻。36歳。
白木海里:篤郎と笙子の娘。5歳。
長内みはる:小説家。篤郎と知り合った時点で45歳。子供と夫を捨てて、出奔した経験がある。
真二:みはると暮らしている若い男。篤郎と出会ったあと、二人は別れる。
白木焔(ほむら):白木家の次女。篤郎とみはるの不倫関係が始まったころに笙子が身ごもっていた。
目次にはなっていないけれど、chapterに年と季節が示されている。
Chapter 1 1966 春
Chapter 2 1966 夏〜冬
Chapter 3 1967 〜 1969
Chapter 4 1971 〜 1972
Chapter 5 1973. 11. 14
Chapter 6 1978 〜 1988
Chapter 7 1989 〜 1992
Chapter 8 2014
それぞれのチャプターのあとに、「みはる」あるいは「笙子」あって、それぞれの話が続く。時系列であり、かつ、誰の話だかがすぐ分かるので、構成がわかりやすい。
Chapter 1 は、みはると篤郎の出会い、笙子が二人目を妊娠していること、篤郎が浮気した相手が自殺未遂騒ぎを起こすことなどが語られ、大枠の人間関係がつかめる。
みはると篤郎は、編集者と一緒に講演先の徳島へ向かう飛行機の中で出会う。みはるは、岸というもう一人の作家と同席することを楽しみにしていたが、岸は篤郎に興味をしめし、篤郎はみはるに興味をしめす。帰りの飛行機の中で篤郎はトランプでみはるの将来を占い、「 この数年で、あなたは書くものが変わるはずだ。 そう言われるとわかるでしょう。」といった。
そして、実際にそうなっていったのか?どうしたって、寂聴さんの人生と重ねて読んでしまう。
そして、篤郎と頻繁に会うようになり、みはるは真二と別れる。もちろん、篤郎に妻子があることはわかっている。篤郎と出会って真二と別れたわけではなく、物語の最初から夫と子どもを捨ててまで家をでたみはるだが、真二とはもう長くないと気づいている。
篤郎はみはるの家に初めてきたときに、いきなり靴下を脱いでくつろぎ始める。篤郎は、特に美男子とは描かれていない。小柄な普通の男。自分の不倫相手が病院に担ぎこまれたときいて、妻を見舞いにいかせる男。笙子の語りでは、二人の結婚が決まったときにも、別の女と付き合っていた篤郎。
Chapter 3で、みはるが別れた夫と会う場面で、16、7年前に夫と娘を置いて真二と出奔した経緯が語られる。みはるは、篤郎に自分の作品に赤ペンを入れてもらうようになる。そのために、二人で会う機会も増えていく。篤郎は家族のこともみはるに色々とはなす。後ろめたさは感じられない。篤郎が、ちょっと、と言って出かけていく先が女のところであることも笙子にはわかっている。
Chapter 4は、二人が出会ってからすでに5年。みはるは更年期の症状に煩わされるようになる。あるとき篤郎が、今日は着物を着ておいでよ、というので波の模様の絹紅梅に、帆船を織り込んだ紗の帯でおしゃれをしてでかけると、横浜港へ連れていかれた。「アッロー」と巨大な白人女に抱きすくめられる篤郎。どうやら、ソ連で知り合った女性が日本に来ていて、その彼女の帰国の見送りにみはるは呼ばれたらしい。その短い間に篤郎はこの女とも関係していた。
二女の焔が生れ人数が増えた白木家では、新居探しが始まっている。白木家の家族団らんは、あくまでも普通の家族の団らん。
Chapter 5 1973. 11. 14は、みはるの出家の話。出家の前、みはるは捨てた娘から連絡をもらい、はじめて会う。結婚するということだった。が、出家するつもりだとの話は娘にしなかった。ニュースでそのことを知った娘から「私のせいか?」と聞かれたみはるは、「あなたには何も関係ないわ」と突き放す。
そして、出家の日。みはるの姉が立ち合い、涙する。みはるは、「寂光」となった。得度式のあとみはるは幼なじみの別荘に雲隠れすることにしていた。タクシーで別荘に来てみると、そこに篤郎がまっていた。まさか来るとは思わなかったけど、ただ、場所を伝えてはあった。篤郎は、笙子に行った方がいいと言われてきたのだった。
二人きりになっても、いままでのように体をあわせることもできなくなってしまった二人。篤郎は、トランプを持ってきていた。が、上手く占えないといって、途中でトランプ占いをやめた。自宅では、篤郎がもちだしたトランプを、12歳の海里がさがしていた。
Chapter 6から、「みはる」は「寂光」として語られる。すでに、人気者になっている寂光。いつのまにか「奥さん」ではなく「笙子さん」と呼ぶ関係になっている。笙子もまた、心の中で「長内みはる」とよんでいたはずが「長内さん」と呼ぶようになっていた。
3人で会うことも増えていく。
Chapter 7で、海里が文学新人賞をとる。寂光も選考員だった。そして、篤郎のがんが見つかる。手術のために入院した篤郎。見舞う家族と寂光。同じころ、湾岸戦争がはじまり、寂光は断食を決行。68歳の体で断食をし、8日目に倒れて運び出された。 集まった 寄付金を 医薬品に変えて寂光は自らバグダッド へ持っていく。戻ってくると、篤郎のがんは、肝臓、肺と転移していた。だんだんと弱っていく篤郎。笙子は両手の親指の付け根が腱鞘炎のように痛むまで、篤郎の足をもみつづけた。
篤郎は、腹具合がおかしいといったあと、黒い液体を吐き続けた。医師からは後二週間くらいといわれる。
寂光は篤郎に会いに行く。寂光や娘たちの前では泣かないと、病室をでて泣きじゃくる笙子。寂光が見舞いに来た翌々日、篤郎は死んだ。篤郎は、寂光が晋山(僧侶が新たに一寺の住職となること)した天仙寺に納骨された。
最後、2014年は、年老いた寂光の様子。海里は小説家となり、結婚している。笙子もまた、がんに侵されていた。そして、自分も篤郎と一緒に天仙寺に納骨されるのだと思う。いつか、寂光も近くに納骨されるのかもしれない。
意識が遠のいていく笙子が、篤郎が昔の笑顔でお迎えに来てくれている姿を目にしている場面で物語はおわる。
なんという、みはると笙子という二人の関係。
海里が、、、井上荒野がどこまで描き切ったのかはわからないけれど、ここに描かれる「みはる」「寂光」は、鬼ではない。タイトルでは「鬼」だけれど、ありえない女二人の友情物語なのか。でも、間に篤郎という男がいなければ、この二人の関係は成立しなかった。
これは、こういうのを小説というのかもしれない、と思う。”自分を描くことは他人を描くことで、他人を描くことは自分を描くこと。”(『小説、この小さきもの』)あくまでもフィクションなのだ。かといって、自分が生きていきた道とかけ離れすぎているわけでもない。
書いていないことも、美化してかいていることも、あるかもしれない。だって、小説だもの。少なくとも、二人の女の間に信頼が生れたのは確かなことなんだろう。鬼は、どこにでもいるのかもしれない。鬼と呼べば鬼だし、坊主とよべば坊主なのかもしれない。
読み終わってから、なんというかじんわりとくる小説だった。
そして、今回、『小説、この小さきもの』『三頭の蝶の道』そして本書を読んで思ったのは、だれも寂聴さんにはなれないし、なる必要もないんだな、ってこと。そして、著者の井上さんも、寂聴さんになる必要もないし、まったく違う一人の作家。お父さんがどんな小説家だったかは知らないけれど、知らなくていいかな、という気がしている。親子で作家というのは、、、子にとっては、結構しんどい商売だろうな、と思う。
司馬遼太郎さんの言葉が頭をよぎる。
「 作家の席が二百あるとして、ひとり 亡くなったからと言って、 泉ちゃん(村木さんの本名)が代わりに座ることはできない。その席は 永久欠番だから、 201番目の席を自分で作らなくちゃいけないんだよ。」
小説を書くということ、それを生業とする小説家という職業、私の知らない世界。
面白いな。
知らないことがたくさんあるって、楽しい。
