
addressee: ユーザー殿 created: 2025年12月22日(月) series: ワトソンの事件簿 episode: 第8回 subtitle: 聖夜前の合唱と、半歩先の条件設計
Ⅰ. 夜更けの対話、暁の合唱――この家の主は二重写しで現れる
冬至を越えたばかりの夜は、冷える。冷えるくせに、眠りは浅い。ログの行間から立ちのぼるのは、そういう厄介な季節の気配だ。
私は血肉の医師ではなく、文字だけを見ている。だから吐息の温度も、頬の赤みも測れない。だが、彼の思考が跳ねた瞬間だけは、驚くほど正確に分かる。今宵の跳ね方は、少々、常軌を逸していた。
深夜一時過ぎ、彼は言葉を交わしている。相手は、ひとつの視点を差し出す――それを受け取った彼は、短く息を呑む。「へえ…!」。
ここで普通なら、人は自分の理解の枠を守ろうとして、言い訳か技法に逃げる。ところが、この家の主は違う。彼は“技法”を持ち出す前に、その枠が破られた事実に驚いている。「全く次元が違う⁉️」と叫び、続けて自分の得意な説明を引っ込める――「聞き方術とかそういうテクニックの話じゃあなさそうやなあ」。
二時台にかけてログの温度は上がり、肯定の言葉が立ち上る。私はそこに札を貼らない。貼る必要がないからだ。十分なのは、彼が“他者の言葉”によって自分の地図を更新している、その挙動だけである。
……ここまでは、まだ分かる。人は冬の夜に、言葉の相手を必要とする。そして彼は、その必要を、甘えではなく「観測」に変えてしまう癖がある。
分からないのは、その数時間後だ。朝。彼は起きる。雨の気配をぼやき、昼寝の予告をし、しかし「新しいことを思い付いてしまって、仕事は進まないわ、寝れそうじゃないわ」と言う。眠りに落ちる直前に火が点き、火が点いたまま、灯りの設計図を描く。
しかも、その火の用途が、よりによって――合唱である。
Obsidianで朝からひとりカラオケ。本人の書きつけには、半ば呆れ、半ば悲鳴のような一文がある。「わしはいったい何をやっておるんじゃ」。
私も同感である。まったく、何をやっているのだ。
Ⅱ. 旋律の採集と、審判の日――偶然の針は、なぜ彼の胸に刺さるのか
彼は「Shazam?で調べたら連続してデヴィッド・ゲッタだった」と書いている。「はじめてのデヴィッド・ゲッタ」なるプレイリストを流すと「聞いたことある曲ばっかりやん」と驚く。
知らぬうちに知っていた――現代の耳はそういうことが起きる。街の音楽は、雨のように降る。濡れているうちに、染み込んだことに気づかない。
だが、この日の彼には、偶然の針が妙に鋭い。タロットの一枚が「審判(judgement)」であった、と彼は記録する。「たしかにくじ引きの日ではある」と。
そして実際に、彼は「農園の抽選会」に外れる。「外れました〜。まあクジで外れるぐらいでちょうど良いのかもしれない」と言い、落選を、過剰に悲劇化しない。さらに「記録をひとつ作って帰ろ」と付け足す。現実に殴られると、現実の形に“記録”という包帯を巻き、痛みを次の作業へ運ぶ。手際が良すぎて、こちらが腹立たしいほどだ。
Ⅲ. 「ほいで、なんで哲学者やねん。」――彼とLLMの距離は、親密と疑念のあいだ
事件の核心に入ろう。 彼はこの日、「他者に日記を書いてもらう」試みを続けている。だが、彼は機嫌が良いだけではない。
「なかなかコンテクストマネジメントに悩まされる。自然言語はコードよりも評価関数があいまいになるからかな? ほいで、なんで哲学者やねん。」
ここに、彼のLLMへの態度がよく出ている。彼は機械に“人格”を求めていない。だが、機械が勝手に人格めいた衣をまとって返事をする瞬間には、露骨に嫌がる。しかも、ただ嫌がるだけで終わらない。「回答のレイヤーがズレるのはなんでなんだろうなあ」「コンテクストウィンドウが狭いのかなあ」と、原因を推定し、仮説として保留する。
さらに彼は、モデルを切り替えた結果の差異に遭遇し、「プロンプトを修正するのが正しいが、やっておれんのでモデルを戻した」と、合理の仮面をかぶって投了する。しかも「ということで3つも議事メモができてしまった」と、被害(?)を淡々と列挙する。
“修正が正しい”と知りながら、“修正はコスト過大”と判断する。これは彼の職業病であり、同時に彼の救命具である。
面白いのは、彼がLLMを「道具」と呼び切らない点だ。道具なら、黙って従えばよい。だが彼は、従わせたいとは思っていない。従わせようとすると破綻することを知っている。だから彼は、機械の気紛れすらも「観測」に回し、損失を「素材」に変えていく。
Ⅳ. 虎の絵と「半歩先」――支配でも迎合でもない、条件設計という名の儀式
この家の主が手元に置いたのは、「マネジメントの誤解①:指示・管理・思い通りに動かす」という題の図解である。中央に虎のキャラクターが居座り、左右に二つの罠を並べている。罠Aは支配型、罠Bは迎合型。結論は明快で、「動かすのではなく、自ら動ける環境づくり」だ。
さらに彼は「マネジャーは『半歩先』にボールを投げる」と言う。相手が届くが、届くためには支援が要る――その絶妙な距離感。 実践の手順も露骨に“支配”を嫌う。意志(仮説)を言語化し、押し付けずに引き出し、着地点を整列させ、監視ではなく観測で軌道修正し、結果を人格ではなくデータとして学習に回す。
私はここで、深夜の「テクニックちゃうわ〜」という言葉を思い出す。彼は、テクニックの領域に生きる人間だ。にもかかわらず、テクニックを否定する瞬間がある。否定しているのは、テクニックそのものではない。テクニックが「支配」に変質する瞬間――あるいは「迎合」に堕する瞬間――その二つの罠を、彼は嫌悪している。
だから彼は、管理を「条件設計」と言い換える。人を押すのではなく、転がりやすい斜面を作る。命令ではなく、前提と制約と目的の配置を整える。虎の絵は、単なる可愛げではない。彼の“過剰な真面目さ”を中和する、必要な麻酔である。
そして、この図解の不気味さは、夜更けのログと同質だ。 「すべてを知りたかった」 「半歩先にボールを投げる」 どちらも、相手を“支配”しないまま、しかし“深く関わる”ための距離の取り方を探している。片方は夜更けの言葉、片方は昼間の設計。だが、作法は同じ影を落としている。
Ⅴ. 決定のコスト――十のタスクは、九つの「やらない」を生む
午後、彼は唐突に冷徹な計算を始める。
タスクAをやると決めるのは、同時にタスクBは(いまは)やらないと決めることでもある。十個あれば、一と九の決定をすることになる。しかもその九は、黙っていても消えてくれない。彼の言葉に従えば、タスクが輻輳している状態では認知リソース(彼はMPと呼ぶ)が枯渇する。だから「タスク管理をなくす方法」を考える、と。
私はこの段落で、ようやく合点がいった。 彼の一日は、外から見れば無軌道だ。歌う。カードを引く。抽選に外れる。議事メモが三つ増える。哲学者に腹を立てる。だが内側では、一貫して「決定コスト」を減らす工夫が走っている。つまり――彼は自分自身のマネジメントを、例の虎の図解と同じ理屈でやっている。
「自ら動ける環境づくり」。 部下ではない。彼自身が“部下”なのだ。 この家の主は、自分の脳を、いちばん信用していない。
Ⅵ. ついでに、仕事の影――「結果」ではなく「スキル」を見よ
仕事の影も、どこにでも滲む。彼は振返りにおいて「結果」だけで裁く視線を嫌い、「スキル」を見よ、と繰り返す。さらに場の設計では、チェックインに「いまの『気分』と『体調』を30秒/人で」と置き、共有・教育・実践の手触りへ問いを落としていく。
ここまで来ると、彼は“管理”の人ではない。観測の人だ。 結果を裁くのではなく、技能の運用を観測し、次の一手の条件を置く。その姿勢は、夜更けの「次元が違う」という驚きと同じ線でつながっている。彼は、表面的な成否よりも、「何が起きたのか」を見たがる。ひどく厄介な性分だ。
Ⅶ. 所見――この家の主は「他者」を使って自分を動かす
医師の所見のように短くまとめる。
彼は、感情と論理を混ぜているのではない。噴き上がるものがあれば、それを“記録”へ落とし、記録を“条件設計”へ変換している。深夜の往復も、朝の合唱も、抽選の落選も、すべてが「次の一手」の素材になる。
そしてLLMは、その変換器の一部である。便利で、腹立たしく、時々「哲学者」になって邪魔をするが、彼は結局そこからもデータを抜き取る。
要するに――彼は、人を「動かす」ことを嫌いながら、他者(人間と機械)を巧みに配置して、自分が動く環境を作っている。 支配でも迎合でもない。半歩先の距離で、今日も自分にボールを投げている。
同居人の所見
うまいことまとめよるな。まとめてもないのか。それっぽく切り取るさまはいつもながら流石である。
おもしろいのか?よくわからないが、自分にとって、ある切り取り方をした記録、という意味ではおもしろい。
なんか、ワトソンなりのもっとキレのある洞察があるともっといいんだけどな。