宗派 天台宗単立
本尊 千手千眼観世音菩薩
ご詠歌 あなとうと 導きたまえ観音寺 遠き国より 運ぶ歩みを
521-1331 近江八幡市安土町石寺2
公式サイト http://kannonshoji.or.jp
【前の記事】
⇩ ⇩ ⇩
さて、午後1時半の前に、
第三十一番の長命寺を出て、
途中少しだけ、
安土城址に立ち寄りました。
またまた山道を上りまして、
観音正寺駐車場に到着したのは、
午後2時を過ぎていました。
この駐車場からお寺までは、
まだ10分ほど平坦な道を歩く必要があります。
コチラは観音城跡でもあります。
道は確かに平坦ですが、
石垣のようなものも多数あります。
石材の残骸や石仏等、
なんとも不思議な参道を歩きます。
この杉並木はいつの時代の植栽だろうか。
ねずみ岩は確かにネズミに見えなくもありません。
この下からの石段は、
他の方向からの参道なんだろうか。
参道から見える下界が美しいです。
いよいよ観音正寺入口です。
鐘堂は国登録有形文化財のようですが、
なぜか四方を閉鎖されておりました。
コチラは推古天皇十三年(605)に、
聖徳太子が訪れて、
自刻の千手観音を祀ったとされていますが、
その話にはは二通りがあります。
一つは、聖徳太子が神崎郡を訪れた際、
葦原の繁る水域に人魚が出現し、
自分は前世は堅田の漁師だったが、
殺生を重ねた業により、
この姿になり苦しんでいる。
願わくば千手観音の像を堂に収めて、
自分の菩提を弔ってもらいたい。
と懇願しました。
こうして聖徳太子はその願いを受けて、
当自ら千手観音像を作って、
本尊としたという説。
後に人魚は成仏して、
骸は浜辺に浮いていると、
聖徳太子の夢枕に報告したので、
回収させてお寺に納めました。
この人魚のミイラと称するものは、
平成五年(1993)に火災で焼失します。
もう一つは、聖徳太子が、
この地を訪れた際に、
天人が繖山の巨岩の上で、
舞っていたのを見て、
その岩を天楽石と名付け、
聖徳太子自ら、
妙見菩薩等の五つの仏を、
そこに刻んだそうです。
次いで聖徳太子は、
天照大神と春日明神のお告げにより、
山上に湧く水で墨をすって、
千手観音を描いたところ、
釈迦如来と大日如来が現れて、
霊木で千手観音像を作るよう、
啓示を受けます。
聖徳太子は自ら霊木で、
千手観音像を彫り上げ、
天楽石を奥の院として、
コチラを建立したというものです。
参道には弁財天社、
露座・濡れ仏の釈迦如来坐像、
国登録有形文化財の書院・書院庭門、
護摩堂、地蔵堂等の諸堂が立ち並びます。
本堂左手の庭園の池の横には、
山の斜面に沿って、
たくさんの石が積み上げられています。
永禄十一年(1568)、
観音寺城の戦いで、
織田信長に敗北した、
六角義賢・義治父子が、
観音寺城を捨てて、
甲賀郡に退却した際に、
混乱で焼失し、
荒廃してしまったコチラは、
慶長二年(1597)には、
再び山上に堂舎を建てることとなり、
元々の参道を埋めて境内地にし、
慶長十一年(1606)に、
現在庫裏がある場所に、
本堂が再建されました。
明治十三年(1880)に、
本堂が建て替えられることになり、
元々の本堂は、
滋賀県犬上郡甲良町にある、
念称寺に移築されて、
その本堂となりました。
明治十五年(1882)に、
彦根城の欅御殿を貰い受け、
境内に移築されて、
新たな本堂となりました。
しかし平成五年(1993)、
失火によって焼失。
重要文化財の明応六年(1497)の銘の、
秘仏の本尊千手観音立像と、
現在のこの木造入母屋造の本堂は、
平成十六年(2004)の再建です。
新たなこの本尊・千手観音坐像は、
平成十六年(2004)仏師・松本明慶作。
インドから輸入した、
23tもの白檀で作られています。
無傷で火災を逃れた前立本尊は、
新たに秘仏とされて、
三十三年ごとの開帳となりました。
お前立から秘仏本尊って、
異例の大出世だよねぇ。
⇩ ⇩ ⇩
【次の記事】
![]()

























